せんせいは「戒壇かいだんだいほんぞんしゅっほんがいとする文証もんしょうはない」とか「だい聖人しょうにんが顕わされたほんぞんはどれも同じ」などという馬鹿げた愚論について次のごとく痛烈に破折しておられます。

 「『しゅっせのほんがいじょうじゅしょ』を拝せば天日てんじつのごとく明らかではないか。
 『ぬるけんちょうねんがつじゅうはちにちないほうもんもうはじめていまじゅうしちねんこうあんねんなり。
 ほとけじゅうねんてんだいだいさんじゅうねんでんぎょうだいじゅうねんしゅっほんがいたまう。なかだいなんもうばかりなし、さきざきもうすがごとし。
 じゅうしちねんなり、かんだいなんおのおのかつろしめせり』
おおせあそばす。顕正会員ならこのもんを耳にするだけではっきりわかる。
 このもんの冒頭に、建長5年の立宗よりいまじゅうしちねんこうあんねんなり』おおせられ、この年の重大さをまず表示されている。
 次に、釈尊しゃくそんじゅうねん、天台大師はさんじゅうねん、伝教大師はじゅうねんとそれぞれがしゅっほんがいを遂げられた年数をげられた後、これと対比してじゅうしちねんなり』おおせられている。
 このじゅうしちねんなり』の御意はまさしく『は立宗より27年の弘安2年にしゅっほんがいげたり』との重大なる御宣言なること一点のうたがいの余地もない。
 この太陽のごとく明らかなもんを見ても、例えばどっじんにゅうにして怨嫉の心強き身延派の坊主などはこれをしゅっほんがい成就じょうじゅおおせとは見ない。彼らは『日蓮にちれん上人しょうにん遺文辞典』の中でこうっている。
 『本抄にじゅうしちねんとあるのは、日蓮にちれんきょう弘通開始以来27年間、その間の大難は門下一同周知の通りであり、今度熱原あつわらの者達はしゃくしんみょう強信ごうしんをもって弾圧に耐えているが、退転の心無くほうなんに勝ち抜けと強盛ごうじょうの信を勧めたものである』と。
 つまりじゅうしちねんなり』とは『だい聖人しょうにんが大難を受けてきた年数に過ぎない』とっているのである。
 これでは、だい聖人しょうにんさまは大難だけを受けて、しゅっほんがいをおげになっていないということになる。しゅっほんがいをおげにならない仏様ほとけさまがどこにあるのか。
 もっとも彼らはだい聖人しょうにんさまおん元初がんじょじゅ用身ゆうじん末法まっぽうしゅほんぶつとは到底拝せない。
 また、戒壇かいだんだいほんぞん大怨嫉だいおんしつを抱いている。
 よって、しゅっほんがい成就じょうじゅを否定するのである。
 しかし、おどろいたことには、今がっかいはこの身延派と同じことうようになってしまった。天魔が身にはいれば皆同じようになると見える。
 では、本抄におおせのしゅっほんがい成就じょうじゅとは何を指し給うのか。
 それは、だい聖人しょうにん究極の大願たる広宣こうせん流布るふあかつきこんりゅうされるほんもん戒壇かいだんに安置したてまつだいほんぞんこんりゅうそのものであられる。
 そして、そのだいほんぞんは実に弘安2年10月12日にけんあそばされている。
 今つつしんでこのだいほんぞんを拝したてまつるに、中央の下部にだい聖人しょうにんさまの大いなる判形はんぎょうがまします。
 そして、その判形はんぎょうの真下にほんもん戒壇かいだんなりの五文字が厳然としたためられている。
 このゆえにこのだいほんぞんを『ほんもん戒壇かいだんだいほんぞん』と富士大石寺では七百年来申し上げているのである。
 だい聖人しょうにん真筆しんぴつほんぞんあまましますといえどもほんもん戒壇かいだんなりとおしたためあそばされたほんぞんが日本国のどこにあろうか。
 ただ富士大石寺に七百年来秘蔵したてまつほんもん戒壇かいだんだいほんぞんのみである。
 今身延の真似をして『文証もんしょうがない』などとうそぶく池田大作一党よ『しゅっせのほんがいじょうじゅしょ』の聖文せいもんと、弘安二年のだいほんぞんほんもん戒壇かいだんなり金文こんもんこそまさにまごことなき重大なる文証もんしょうではないか。
 これがしんじられないのは師敵対のぎゃく、第六天の魔王の眷属けんぞくう以外にはない」と。

 かかるせんせいおおせを全がっかいいんは深刻に受け止めるべきであります。


令和6年 1月24日 1月度 総幹部会 浅井会長指導

令和6年 1月26日 1月度 男子部班長会 行成総男子部長指導