広布の大熱気に包まれた本日の総幹部会もまことに素晴らしいです。
一人一人の気魄に満ちた登壇には大感動を覚えました。
先程の登壇でも教学を学んだ感激の発表がありましたが、この1月に実施された登用・五級・四級試験の受験者の合計は昨年を上回る実に三万人になんなんとし、今教学を学んだ大感動が全顕正会に渦巻いております。
ことに、登用試験においては過去最高の約二万人もの人達が受験したという事であります。
末法濁悪の世の中において、日蓮大聖人の甚深の仏法をこれほど大勢の人達が真剣に学んでいる団体は顕正会以外には断じてありません。
浅井先生は教学を学ぶ意義について次のように御指導下さいました。
「顕正会の教学は物知りになるためのものでもなければ名利のために学ぶのではない。
その目的はただ一つ。大聖人様を恋慕渇仰する信心を深めるためである。
この信心が深まれば自然と一生成仏も叶い、広宣流布の決意も湧いてくる」と。
まさしく、仏様を恋慕する事が信心の究極の姿であり、我等凡夫が成仏させて頂く唯一の道なのであります。
この事は顕正会の中にいると当たり前に思うかもしれませんが、学会や宗門における教学はただ知識を学ぶだけで、そこには『お慕わしい』『有難い』という恋慕渇仰の思いは絶対に湧いてきません。
なぜか、大聖人様を忘れ奉った者に御本仏を恋慕渇仰する思いなど湧くはずがないからであります。
例えば、宗門には「日蓮正宗教学研鑽所」なる組織があります。
そこに所属する宗門僧侶は、邪宗日蓮宗の身延等が主催する学術大会で謗法の坊主と肩を並べて教学研究論文なるものを発表しております。
身延等の学者への対抗心か知りませんが、こんな物は一生成仏と広宣流布とは全く関係がなく、ただ知識をひけらかして悦に入るだけのくだらない物であります。
大聖人様は
「有解無信とて法門をば悟りて信心なき者は更に成仏すべからず。
有信無解とて解はなくとも信心有る者は成仏すべし」
と仰せ給うておられます。
有解無信とは解があって信がない。
少々仏法の理屈は分かっても、信心がない者は成仏すべからず。
有信無解とは信があって解がない。
たとえ教学はなくとも、信心のある者は成仏するのである。
要は、成仏させて頂けるか否か智恵のあるなしではなく、恋慕渇仰の信心の有無によるのであります。
先生は、大聖人様が佐渡の千日尼御前・国府尼御前の二人に身延の山から送られたお手紙の中で下さった
「日蓮をこひしくをはせば、常に出る日、夕べに出る月を拝ませ給へ」
との御文についてこう仰せになっておられます。
「この御文を今広布前夜の私達の立場で拝すれば『大聖人様を恋しく思うならば富士大石寺にまします戒壇の大御本尊様を遥拝し奉れ』という事になる。
千日尼御前を始めとして御在世の方々は皆理屈抜きに大聖人様を恋慕渇仰し奉っていた。だから、一生成仏が叶ったのである。
この恋慕渇仰の信心を一言で表わせば、まさしく『お慕わしい』『有難い』になる。
だから私は『お慕わしい』『有難い』との思いをもって大聖人様の御名を南無妙法蓮華経と唱え奉れというのである。この恋慕渇仰が成仏につながるのである」と。
また、大聖人門下の女性としてただ一人御流罪の地佐渡にまします大聖人様の御許に参詣を遂げた日妙殿は「もし大聖人様が空しくなるならばこの世で信じる何がある。大聖人様は絶対の仏様である」と強く信じまいらせ、佐渡にまします大聖人様を見奉らんと命かけての求道心を起こし、大聖人様より「日妙聖人」との名を賜わっております。
幼子を連れて、鎌倉からはるばる千里の道を踏み分けて佐渡の島に渡って大聖人様にお目通りした。
この時大聖人様は日妙殿に賜わったお手紙に「ごんじちは知りがたし」「御法門の事は、権実相対のさばきも分からないであろう」とおしたためになられ、追而書に
「今は法華経を知らせ給うて、仏にならせ給うべき女人なり」
とおっしゃっておられます。
「今は法華経を知った身である。必ず仏になられる女性である」と権実相対も分からないのに法華経を分かる立場になられたという事はどういう事かといえば、大聖人様こそ生きておられる下種の法華経であられるから、日蓮大聖人を信じ切れば難しい法門のさばきは分からずとも、大聖人様と一体とならせて頂く事ができるという事なのであります。
一方、熱原の大法難の時に退転叛逆して不慮の死を遂げた三位房は教学はできたが信心が薄っぺらで、大聖人様に南無し奉る信心がなかったのです。
ただ大聖人様の口真似をして法門知りたげに、あたかも自分が悟った顔をして語っていた。
大聖人様はこの三位房の心を見抜かれてこうお𠮟りになっておられます。
「此の法門は汝等が如き者は人毎に、座毎に、日毎に断ずべくんば三世諸仏の御罰を蒙るべきなり。
『日蓮己証なり』と常に申せし之なり」と。
大聖人ただ御一人のお悟りをあたかも自分が悟ったような顔をして偉そうに言うその慢心と名利を厳しくお𠮟りになっておられるのです。
また、三位房は京都にいた時、朝廷に仕える高位の人の前で法門を論ずる事ができた事を誇り、その事を「面目」などと書いて大聖人様に御報告しているのです。
その際大聖人様はこうお𠮟りになっておられます。
「面目なんど申すは、方々詮ずる所日蓮を卑しみて書けるか」と。
名利の心が強い三位房は相手に諂い、大聖人を下げ、法を下げ、ただ「朝廷に仕える高位の人が話を聞いてくれた」と自慢するような態度だったのです。
だが、御本仏の御境界からこれを見ればどうなるか。
御本仏は梵天・帝釈・日月・四天といった諸天を従え、申し付けられる御境界であられます。
大梵天王などは三千大千世界を領していると言われております。
その三千大千世界に比べれば、地球の中の小さな日本国は芥子粒のような存在であります。
ゆえに、大聖人様はこの日本国の主を仏法の上から「わづかの小島の主」「但島の長なるべし」と仰せになっておられます。
その長に仕える者に召し出だされたに過ぎないのに、その者を「上」などと書いた上「面目」などと言ってきたから大聖人様は「日蓮を卑しみて書けるか」とお𠮟りになられた。
まさに、我が名利のために世間に諂い、大聖人を下げるその信心の薄さをお𠮟りになっておられるのであります。
このように、たとえ教学の智識があっても信心がなければ成仏は叶わず、恋慕渇仰の信心さえあれば成仏につながるのであります。
今全顕正会には上野殿・熱原の方々・千日尼御前・日妙殿のような御在世と全く同じ恋慕渇仰の信心がみなぎっております。
これひとえに『基礎教学書 日蓮大聖人の仏法』を始め先生が何度も何度も情感を込めて大聖人様の大慈大悲・絶大威徳を私達顕正会員に懇切に御指導下さったゆえであれば、師恩報謝の念が込み上げてまいります。
されば、教学試験を通してますます深めた恋慕渇仰の信心で、いよいよスケールを変えた大前進を展開せんと決意いたします。
令和6年 1月24日 1月度 総幹部会 浅井会長指導