そして、文底顕本というのは五百塵点劫をさらに遡る事復倍上数・久々遠々の年数を遡った時の久遠元初の成道をもって本地の自行と名づけ、この久遠元初の本果を顕わすのを文底顕本というのであります。
ゆえに「我實成仏以来、無量無辺、百千万億、那由佗劫」という経文の言葉は同じであっても意味が変わってくるんです。
五百塵点劫の時に成道した釈尊なのか、久遠元初において初めて誰も知らない時にただ一人の聖人が久遠元初の自受用身の成道をもって我實成仏というのかどうか。
その事の天地の差が経文が同じであっても義が異なるのであります。
ですからもし久遠五百塵点劫の本果の成道を我實成仏と説くといえば文上顕本となり、これが釈迦仏の脱益の仏法となる。
もし久遠元初の成道を我實成仏と説くといえば文底顕本となる。これこそ、日蓮大聖人の下種仏法なんです。
文上顕本というのは文の表面に顕われているから経文を読めばそのまま分かる。
だが、文底顕本は文の底に秘し沈められているからこれは深義であり、凡夫には到底分からない。
これを知り給うたのは御本仏日蓮大聖人と唯仏與仏の御境界たる日興上人のみであられる。
そこで、富士大石寺以外の不相伝の身延・中山・池上、あるいは京都の要法寺(これは、日目上人の最後の天奏にお供した日尊が京都に残って開いた寺ですが、大石寺と距離が離れるに従ってだんだんと釈迦仏法になってしまって、釈迦仏を本尊とするに至ったんですね)。
この要法寺の日辰を相手に日寛上人は『末法総時抄』をもって破折しておられるわけでありまするが、そのように、要法寺といえども釈迦仏法についてしまった。
いかにいわんや身延・中山・池上、そして今の新興宗教の立正佼成会とかが大聖人様の仏法を何も分からずに釈迦仏法のまねをしているわけであります。
そこで、不相伝の日蓮宗などは皆五百塵点劫の昔に成道した本果の釈尊こそ根源の本仏で、それ以前に仏などは全く存在しないと思い込んでおる。
ところが、寿量品を見てごらんなさい。経文の上でも、釈迦仏が五百塵点劫の成道以前に仏になるために長い年月をかけて菩薩の修行をした事が明かされておりましょう。
これは、成仏のための原因の修行であるから本かに対して「本因」というんです。「本因妙」ともいいます。
どの経文がそれに当たるかというと
「我本行菩薩道、所成壽命、今猶未盡、復倍上数
(我本より菩薩の道を行じて、成ぜし所の壽命、今猶未だ盡きず、復た上の数に倍せり)」
と説かれているんです。
これは、わずか28文字でありまするが、これを釈迦仏の本因妙、すなわち、仏になるための原因の修行が説かれているんです。これが本因妙という事です。
このように釈迦仏は、五百塵点劫の本果の成道以前に菩薩として本因の修行をしている。
しかし、この時の菩薩としての修行の位は五十二位の中では初住の位であって、菩薩の最高位の等覚や無上の仏果である妙覚の位には及びはつかないけれども、凡夫と比べれば高い位であります。
従って、本因妙といっても久遠元初の名字の凡身の本因妙時ではなくて「本因初住」というんですね。
初住という位に登って本果の位に至るその原因の修行をしたから「本因初住」というんです。
(平成30年 10月13日 御大会式 浅井先生指導)