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さて、本日 すなわち 10月17日(火)の「靖國神社・秋季例大祭(平成5年)・続報」のブログ そして 去る9月4日(月)の「靖國神社・秋季例大祭(平成5年)」のブログなどを記させて頂きました。
ときに、その 靖國神社に祀られている英霊の話であります。
すなわち、日本男児、藤井一の誇り
藤井一は 茨城県の農家の長男として 生まれ、親は 農家を継がせたかったが、本人が 陸軍軍人を志願します。歩兵として 入隊しますが、優秀だった藤井は 陸軍航空士官学校に入校します。 卒業後は 熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として 少年飛行兵に訓育を行います。藤井はパイロットでは なかったので、生徒に教えたのは 精神訓話でした。藤井が パイロットを志願しなかったのは 歩兵科機関銃隊だった頃、支那戦線で 迫撃砲の破片を左手に負負い、操縦桿が 握れなくなったからでした。
当時の精神訓話といえば 軍人精神を叩き込むことも 大きな狙いであり、軍人勅諭に沿った 厳しい鍛錬が ありました。藤井は 特攻攻撃が実施される前から 口癖のように「事あらば敵陣、或いは敵艦に自爆せよ、中隊長も かならず行く」と繰り返し言っていました。忠誠心が強く 熱血漢の藤井は、本来心根は 優しくても教育は厳しかったと言います。・・・・・・
我が国の特攻作戦が実施されるようになると、大切な可愛い教え子を 自分の手で 死地へ送り込むことになります。藤井は 苦しみ、自責の念にも 駆られます。「俺もかならず後から行く」と言って 生徒を行かせておきながら、自分は ただ座して教育するだけだ。藤井の性格からすると、その繰り返しに耐えられなくなっていました。
「このままでは 自分は 教え子との約束を果たすことは出来ない」他の教官たちは 何の疑問も 矛盾も 抱かずに やっていることでしたが、自分に 厳しい藤井には そういう自分が許せませんでした。 「自分の教えを守って、次々と将来ある純粋な教え子たちが 毎日、敵艦に突っ込んで行く。あいつも、あいつも・・・。 俺は いつまでこんなことをしているのか」 藤井は ついに特攻を志願します。しかし、既に 二人の子どもが居る 年長の将校は 受け入れられませんでした。更には 学校を仕切っている重要な任務を離れられては 困るからでした。「自分の立場での責任を果たせ」という軍の言い分は 当然でしたが、藤井は どうしても 生徒だけを死なせることが出来ませんでした。
生徒 と 教師の間の命をかけた誓い、その男の誓いを藤井は どうしても 破るわけには いかなかったのです。断られても 藤井は 特攻を志願します。 藤井の妻 福子は高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育ちました。戦争中は 野戦看護婦として 活躍していました。支那で 負傷した藤井の世話をしたのが 福子でした。これがきっかけで結婚します。
藤井は 妻の福子と 三歳になる一子、生後四ヶ月の千恵子の四人で 暮らしていました。福子は 夫が 特攻を志願していることを知り 驚きます。学生たちとの約束の為に、妻 と 二人の子供を見捨てて、軍人なのだから 戦場に行けば 戦死することは覚悟していますが、特攻の許可が出ない立場の人間が、何度も 特攻志願をするというのは、死ぬ為に行こうとしているとしか 思えませんでした。
二人の子を持つ母として 特攻志願することに納得できず、夫を説得します。しかし、藤井の性格を 誰よりも わかっている福子は 藤井が 一度 決意すると 最後まで変わらないことも わかっていました。
そして、昭和19年12月15日の朝、藤井の家の近くを流れる荒川に、二人の子供を紐で結びつけた母子三人の痛ましい溺死体が浮かびました。晴れ着を着せた1歳の次女千恵子を おんぶし、3歳の長女一子の手と 自分の手を紐で結んだ3人の痛ましい姿でした。 直ぐに 熊谷飛行学校に連絡されました。知らせを受けた藤井中尉は 鳴田准尉と一緒に 現場に駆けつけました。師走の荒川は 凍てついた風が 吹きつけ 物凄い寒さでした。流れの中を 一昼夜も 漂っていた母子三人の遺体は、三人一緒に紐で結ばれたまま そこに並んでいました。
うめくような声で 藤井が言います。「俺は、今日は 涙を流すかも知れない。今日だけは 勘弁してくれ。わかってくれ」藤井は涙を隠すように、三人の前にうずくまって、やさしく こするように 白い肌についていた砂を手で払います。
いつも 豪快な藤井が うめくように泣く・・・。嶋田は 藤井の深い悲しみが 伝わって 声も出ません。遺書は二枚の便箋に書かれていました。「私たちが 居たのでは 後顧の憂いになり、存分の活躍が出来ないことでしょう。お先に行って待っています」藤井の妻らしい気丈な遺書でした。
葬式は 軍の幹部と 家族と 隣り組だけで 藤井の教え子たちの姿は ありませんでした。それは 参列することを禁じられていたからです。この事件には 新聞記者も飛びついてきましたが、記事は 一切新聞や ラジオにも出ません。軍 と 政府の通告によって正式に報道することを差し止められたからです。
藤井は葬式が 終わった夜、死んでいった一子に手紙を書きました。
「冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。母と共に 殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に 父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母と共に消え去った命が いとほしい。父も 近く お前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに 今度は 父の暖かい懐で、だっこして ねんねしようね。それまで 泣かずに待っていて下さい。千恵子ちゃんが 泣いたら、よくお守りしなさい。では しばらく左様なら。父ちゃんは 戦地で立派な手柄を立てて お土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それ迄 待ってて頂戴」
けっして 読まれることのない、死んだ娘への手紙です。・・・・・・
すでに誰もが、藤井には 死しかないと 理解出来ました。藤井は 自らの小指を切って 血書嘆願による 3度目の特攻志願を行います。
今度は軍も 志願を受理しました。藤井中尉を特攻隊員として 異例の任命をします。 藤井中尉は 熊谷飛行学校で 生徒達に 大変人気がありました。教えは 厳しいが 熱血漢で 情に厚いということで、生徒達は 藤井中尉を信頼し、尊敬し、あこがれを持っていました。
藤井が 熊谷を去る時は 中隊長室に 生徒を一人一人呼び、家族のことや 思い出話を聞きました。そして、最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励ましました。 藤井中尉の送別会では 学校の幹部 や 生徒達で 集めた お金で 軍刀を贈りました。藤井中尉は 大変喜んでいたといいます。しかし、あの事件のことは 公になっていないので 誰も口にしません。ただ、生徒達は 噂で既に知っていました。別れを惜しんで流す涙は 更に辛いものでした。 ・・・・・・
昭和二十年五月二十七日 藤井中尉は陸軍特別攻撃隊 第四十五振武隊快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。
五月二十八日早朝 第九次総攻撃に加わり、隊員10名と共に 沖縄へ出撃。
「われ突入する」の電信を最後に、還らぬ人となりました。 藤井一 29歳。
ときに、この話を 昨年の6月に 初めて知ったときには、誠に 慙愧の念に堪えませんでした。暫く 身動きすることが適わず、慟哭していました。
すなわち、去る 8年前の5月18日(月)の「一大事とは」のブログの上段に、
「(前略)この三島由紀夫や去る2月14日(土)の『絵本の影響』のブログの中段やや上に記させて頂きました 吉田松陰などのように、誠に有り難いことに、国の為に死に場所を得ることが出来れば、という思いが御座います。(後略)」と記させて頂きました。
なお、誠に有り難い教訓と致しましては、家族という存在があると、後顧の憂いになり、存分の活躍が出来ないのでありますね。 因 みに、去る 9年前の10月8日(水)の「親の受診に付き添っていること・1」のブログ そして 去る 9年前の11月9日(日)の「親の受診に付き添っていること ・2」のブログのそれぞれ 共に中段やや上、更に、去る 8年前の2月23日(月)の「天皇陛下行幸の君恩に浴して」のブログの中段に記させて頂きました 某・ボランティア(英語:volunteer)のサークル(英語:circle)の関係の男性の先輩の方々には 昔から 伝えてきたことであります。すなわち、未婚であるのは、上記のように 「後顧の憂いなく」の為でも あります。序で乍ら、この話を 家政婦に伝えましたら、誠に有り難いことに、頷いて 納得してくれました。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)