「森鷗外」を旧仮名遣いで書くと、「もりおうぐわい」であり、「もりあうぐわい」ではないということを、いくつかの本などから引用しました。そして、「日本語を作った男ー上田万年とその時代」の誤りを指摘したのですが、その正しい使い方を書いた池澤直樹の「書評」の一部を引用し、続く部分がよく分からないことを書き留めて、このブログの読み手にご教示願いたいと思って書いています。
ーここより引用ー(2016・5・8 毎日新聞 池澤直樹「日本語を作った男ー上田万年とその時代」書評)
(前部分略)結局、この時は政治的な駆け引きのあげく、新仮名遣いは採用されなかった。これが実現したのは戦争が終わった一九四六年(昭和二十一年)のことだ。矛盾と妥協に反発する意見も多かったが(表音に徹すればここでぼくは「ぼくわ」と書いていたはずだ)、言葉というのは使われれば定着する。
和語を書く仮名遣いと漢字の読みを書く字音を分けなければならない。中国語の発音を反映させて「鴎外」に「おうぐわい」と振り仮名することに意味はない。「おーがい」で充分。実際には「おうがい」に落ち着いたけれど。
それはそれとして、和語の表記は表音主義も不徹底で混乱に満ちたものだった。本来「問ふ」の語尾変化はは(、)行に収まっていた。現代仮名遣いではあ(、)行とわ(、)行が混じる。慣れてしまえばそれでいいのだが、どこか釈然としない。その一方で「保育園落ちたの私だ」の強烈な表現は現代仮名遣いに間違いなく乗っている。(以下略)
ーここまで引用ー
この最後のセンテンス、「その一方で『保育園落ちたの私だ』の強烈な表現は現代仮名遣いに間違いなく乗っている。」の意味がよくわからないわけです。
この「保育園落ちたの私だ」の言葉は、どうも「保育園」の増設を要求するデモ隊のプラカードの文章のようですが、これが「現代仮名遣い」に「乗っている」というのはどういう意味でしょうか。
一つの答えとして、「『現代仮名遣い』では、助詞『は』は表音の『わ』」ではなく、『は』と書く」というルール」に従わず、表音そのままに書くと、「保育園落ちたのわたしだ」、そしてそれは、「保育園落ちたのわ、他氏だ」という意味にもなり、これではスローガンにもならない、すなわち、「現代仮名遣い」に従うと「保育園落ちたの、わたしだ」=「保育園落ちたの私だ」としか読めないということでしょうか。これが「現代仮名遣いに間違いなく乗っている」という言葉の意味でしょうか。
一応ここまでたどり着きましたが、「誤っているかな」というのが率直な感想です。どなたかご教示をお願いいたします。