「ダイヤモンド思い出したいです。」って思うと思う。

 

 

 

ただ結論から言うと。( ^ω^ )

 

 

 

ダイヤは思い出せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「この世にはダイヤしかいない。」

 

 

 

それがそもそもダイヤモンド論。

 

 

 

大体の人は、大人になる過程でダイヤモンド忘れただけ。

だから、ダイヤモンドはなるものじゃなくて、思い出すもの。

 

 

 

という理屈は半分正しい。(・∀・)

 

 

 

半分ってのは、一定数は「まじでほんとに勘違いだった。笑」というエセ非ダイヤも含まれていて、

 

 

 

社会に出た後の不満で過去を改竄してたけど、

今の目の前のことに勇気出すことで現実が変わり、

過去の改竄が意味なかったと気づいたり、

 

 

 

母親と向き合う過程で自分が記憶をねじ曲げていただけで、

実は自分はめっちゃ愛されてたし母親もダイヤだったことを「思い出した」ってことは、まああるから。( ´∀`)

 

 

 

 

 

 

 

ただ、中には自分の記憶が微かに残ってる限りの、

物心ついた以降の過去をすべてを洗い出しても、

どっからどう見ても「非ダイヤ」な世界で生きてきたという人もいるだろう。

 

 

 

つまり思い出すもなにも、

物心ついた時には世界は「非ダイヤ」で、

『思い出すダイヤがない』という場合がある。

 

 

 

思い出すも何も覚えてないのだから。

思い出せるはずはない。

 

 

 

だから、ダイヤを「思い出す」よりも大事なことは、

 

 

 

 

圧倒的に、『理解』だ。

 

 

 

 

ダイヤの「理解」だ。

 

 

 

自分が非ダイヤな世界で生き続けてきたなら、

ダイヤが思い出せない、

ダイヤが理解できないのは、

当たり前なのだと、まずは理解することだ。( ^ω^ )

 

 

 

そのためにまずは自分の見てる世界だけが世界じゃないと知ることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それに、「過去を遡ったらダイヤを思い出せました」って人だって、

これも単に「思い出せた」ってよりは、

過去の事実と向き合う過程で、

自分の曖昧な記憶が現実的なものに落ち着いていくという、

 

『考え方の変化』、

『解釈の変容』

 

があるわけで、

 

 

 

これだって「思い出した」ってより、

 

 

正しくは、『理解』だ。

 

 

自分が曖昧な記憶の中で理解できていなかったことを、

理解したってことだ。( ´∀`)

 

 

 

だから、「ダイヤモンドは思い出すもの」じゃなく、

やっぱ「ダイヤモンドは理解するもの」だ。

(理解したらそれに慣れていくって、続いていくが。)

 

 

 

 

 

 

こういうふうに定義しておけば、

 

 

 

「ダイヤモンドを思い出せません。」って輩には正々堂々と往復ビンタを喰らわすことができる。

 

 

 

「それは単に理解が浅いだけですよね?ヽ(・∀・)」と言えるから。笑

 

 

 

これを厳しいと捉えるか、希望と捉えるのかは自由だ。

 

 

 

おれは、「思いだせない」という絶望に注目するより、

「理解できるかもしれない」という希望に注目した方がいいと思っている。

だって性格がいいから。( ^ω^ )

 

 

 

 

 

 

 

 

ダイヤは思い出せない。

 

 

 

これからはこれでいく。( ´∀`)

 
 
 
だから「ダイヤモンド思い出せません」ってのは、
正しくは、「ダイヤモンドの理解が浅いです。」だ。
 
 
 
浅いのは普通だ。

だれだって何かの初心者だ。

 

 

 

セロリだってしっかり浸かるには時間がかかる。

 

 

 

 

 

 

 

だから焦る必要などないし、

失敗などあり得ない。

 

 

 

 

もし思い出せないくらい非ダイヤな世界に浸かってたなら、

もともともう人生終わってるところからスタートしてるわけで、

失敗したってどうせ終わってたわけだから。( ´∀`)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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