ダイヤモンドってのは、
「どんな私でも、ここにいていい」と思えてることだ。
「夕飯パエリアじゃないとダメ!!」って言い張ってる人を便宜上、
「非ダイヤ」ってことにしてるが、
非ダイヤの正体って、だいたいが「不安なダイヤ」だ。
「不安なダイヤ」になる理由の一つに、母親との関係がある。
母親が、
「夕飯は一汁三菜じゃないとダメ、ぜったい。」って言い張ってて、
「部活は続けなきゃダメ、ぜったい。」って言い張ってて、
「人に優しくしなきゃダメ、ぜったい。」って言い張ってて、
『子どもの存在をありのままに受け入れる心の余裕』がないと、
子どもは、いつのまにか、
「勉強が出来なきゃダメ」
「運動が出来なきゃダメ」
「人の役に立たなきゃダメ」
って周りの兄弟に、そして次はまわりの友達に言い張る子どもになって、
思春期を過ぎた頃からは、わざわざ言わないけど他人と自分を監視するようになって。
いつのまにか『不安なダイヤ』になって、
気づいたら、自分もあの時の母親みたいになってる。
って、だけ。笑
じゃあ逆に、「天然ダイヤ」は「不安なダイヤ」とは何が違うのか。
って言ったら、
母親が、
『子どもの存在をありのままに受け入れる心の余裕』をたまたま持ってた。
って、だけだ。笑
これを、『親ガチャ』という。
だから、「天然ダイヤ」と「非天然ダイヤ」の違いってのは、
『親ガチャの当選結果』でしかない。
非ダイヤは、親ガチャ当たりの天然ダイヤをみて、
「なぜそんなに好きなことをやれるのか?」
「なぜそんなに人に好かれるのか?」
「なぜ目標に向かって挑戦できるのか?」
って思うだろうが、
それって容姿ガチャ当たりの人が、
「なぜ私が可愛いのか」がわからないように、
理由なんてなく。
単に「あれしなきゃダメ」、
「これしなきゃダメ」って育ってきてないから、
気づいたら好きに生きてた。
ってだけだ。
ダイヤモンドの話をしていて気づくのが、
『天然ダイヤじゃないコンプレックス』という症状があることだ。
大事なことだが、これは『不安なダイヤ』とはまた別の症状だと思う。
例えば、貧乏な家庭で育った人でも、
「貧乏にコンプレックス」がある人と、
「貧乏にコンプレックス」がない人、
がいて、当然、前者の方がその後の人生は辛い。
コンプレックスってのは、
「そうじゃなきゃダメ」
「こうじゃダメ」
って無駄にハードルを設定したり気にすることだから。
『天然ダイヤじゃないコンプレックス』は、
天然ダイヤじゃなきゃダイヤじゃないって思うことで、
そうじゃない自分を責めるってことだ。
『不安なダイヤ』がやるべきなのは、
不安を小さくしていくことなのに、
また関係ない「こうじゃダメ」を作って自分責めるってのは、完全に無駄だと思う。
『不安なダイヤ』が、『天然ダイヤじゃないコンプレックス』を理由に、
向き合うべきことから逃げてるんだとしたら、
それって容姿ガチャ外れを死ぬまでひきづってるのと基本的には一緒だ。
だから進歩しない。
ガチャ外れで凹むのは普通だ。それは問題ない。
ガチャ外れでムカついて、暴れたり、キレたり、物に当たったりするのも、別にそんなもんだ。
ガチャ外れで精神病んで、病院通いになる。それも別に当然だと思う。問題ない。
ただ、
『天然ダイヤじゃないコンプレックス』を理由に、
『私は普通だ』って自分や周りに思わせたいのだとしたら、
上に書いたことはダラダラ続くだろう。
ガチャ外れて何年経っても、何十年経ってもグダグダ言ってるのは、
どっかで『私は普通だ』って自分や周りに思わせたくてムカついてるの我慢してるから、
何十年経ってもグダグダ言ってるのかもしれない。
『天然ダイヤじゃないコンプレックス』ってのをまず無くしたい。
それは無駄だから。笑
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