同情の終わらせ方について。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはおれ自身がそうだったってのもあるんだけど。

 

 

 

人に同情する人ってのは、

自分が人から同情されたい人なのね。

 

 

 

で、自分が人から同情されたいってのは、

イメージ的には、泣くフリして母親に「こっち見ろ」ってやってる子どもみたいな感じだ。

 

 

 

つまり、泣くフリして泣いてない。

泣くことよりも、母親に「こっち見ろ」ってやることが優先されちゃってて。

 

 

 

 

 

こういう人は、

感情が「母親にこっちを向かせる」という目的化された元子どもだ。

 

 

感情は確かに何らかの目的があって備わった生物的機能だと思うけど。

 

 

 

感情が完全に目的化してしまった人は、

 

 

 

・目的がなければ悲しまない。

・目的がなければ怒らない。

・目的がなければ喜ばない。

 

 

 

感情をただの道具としてみなし始める。

 

 

 

 

 

しかも、もし母親の母親的能力が低くて、

子どもが泣いてもこっち見ない母親だった場合はどうなるかというと。

 

 

 

「泣いても意味がない。」

と、

感情(悲しみ)を、

「使えない道具」だと思って使うのをやめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが、

感情を捨てた大人になる仕組みで、

感情を捨ててるから、

 

・日常に耐えるのが当たり前で

・人生が何をしても楽しくなくて

・味のないご飯を食べてるような感じ

 

になる。

 

 

 

 

 

 

 

でも違う。

 

 

 

感情は目的があるからってだけじゃなくて、

感情があるから人生は楽しい。

 

 

 

おれは自分が「笑ってない」って気づいた時、

マジでそんな自分がムカついたし、

そんな自分が生まれた子どもの父親でい続けることが嫌過ぎた。

 

 

 

けど同時に、

「笑い方」なんてわからないと思った。

 

 

 

 

 

 

今はわかるけど。

「笑う」以前に、自分がいろんな感情を封じ込めてきたんだよな。

だから感情の出し方が分からなくなってただけだ。

 

 

 

 

 

・熱い

・寒い

・悲しい

・寂しい

・辛い

・逃げたい

・心細い

・怖い

 

 

 

 

 

 

目的が果たせるかどうかじゃなくて、

そう感じたならまずそう自分にしっかり感じさせてあげるべきだったんだ。

 

 

 

「熱い」のに「熱い」って言えない自分なんだって気づいた時。

おれが始めたのはまずノートにネガティブなことをかける自分になろうってことで。

毎日自分に「できるよ。がんばれるよ。お前はやれるよ。」ってエセポジティブな励ましとか根性論とか書いてたのを一切やめた。

 

 

 

そこから少しずつ人の悪口をかけるようになったり、

いろんなネガティブな気持ちを書けるようになったりして、

ある時から自分の感情レベルが徐々にあがっていった。

 

 

 

映画を見て悲しい気持ちになって止めどなく泣くとか。

そういう、『悲しいをただ感じれる自分』になってるって、気づいた。

それがおれは嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

おれは悲しめる自分を思い出した時に、

自分の心にしなりが生まれたってすごい思ってる。

 

 

 

 

同情の終わらせ方ってのは。

 

 

 

『しっかりと悲しめる自分になること』だと思う。

しっかりと悲しめる人は、人に同情してほしいとは思わない。おれも思わなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それに、

しっかり悲しめる人は、

悲しいがいつか薄れて、また笑える日の手前のとある1日であることを知っているし、

たとえ今同情が欲しい人が目の前にいても、

過去に同情が欲しかった自分のことを思い出して、

「大丈夫」と思えるので、同情をしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「同情」は、まず自分がしっかりと悲しめるようになると終わるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※コメント、リブログうれしいです。( ´∀`)

 

 

 

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