今は昔。コロナが世界的に猛威を振るい、戦争どころではなく、世界中が怯えていた頃のこと。

東京駅での、大阪では梅田駅での、人の出入りがどれだけ増減しているのかをスマートフォンの情報から、「個人を特定せずに」と断った上で計測した。先週に比べて、どれくらい人が減った、増えたという報道がなされ、油断しないようにと呼びかけられた。

「スマホを持っているだけで、その動きが読まれているなんて、怖いねぇ」

テレビでそんなことを言う人があった。割と身近にもそういうことを感じる人もいた。本気か?

スマホを使って、駅前から目的地までの地図を見たり、星がたくさんついている飲食店のレビューを見たり、ポイントが付与されるからとフランチャイズ店のアプリをインストールしたり、ましてや買い物をしたことがない人などいるだろうか。

全て、情報は取られている。

もちろん、個人名や個人の住所は抜かれていない。逆にいうと、それにあまり価値はない。

年齢層、性別、居住地域、収入。それらの方が重要なのだ。

もっと簡単に言おう。

Xで子猫の動画や、ワンちゃんの腕白動画を配信している人がいたとする。そういう人ばかりをフォローしつづけたら、どうなるか。

現れる広告表示が変わっていく。ペットフードならまだしも、化粧品やブランド品が格安で販売しているサイトの広告が入ってくる。

動物の愛らしい動画を見て癒されたい=二十代、三十代の女性が多い=彼女たちをターゲットにした広告を自動的に表示する。

当たり前だが、その方が確率が圧倒的に上がるからだ。

スマホは逆にいうと、そうした持って歩く広告媒体であるし、そうした技術によって成立したビジネスのお金で動かされている。

だからこそ、わざわざ「個人を特定せずに」と断って報道で使ったのだ。

駅前で立ち止まり、地図情報を見ている段階で、年齢層、収入、性別、どんな嗜好で、何時ごろ検索しているのかは分析されている。お店を経営している人にしてみれば、喉から手が出るほど欲しい情報だ。それを教えず、分析して把握できる方法を、大手の検索サイトは売りにしている。

個人情報を流出させるのは、ちゃんとした犯罪である。

だが、属性だけ(居住エリア、性別、年齢層、嗜好)を取り出すのは犯罪ではない。ましてや、類似した商品や同等でもっと安い商品を紹介されることに、我々ユーザーは利便性を感じている。事実、属性を推し量ってくれることで、得しているのだ。

個人情報というキーワードだけで、まるで自分が監視されていると錯覚するのは、非常に危険だ。住民基本台帳の時でも、国家が国民を統制するのだと恐怖を煽る人がいたが、あれはデマだった。

同様にスマホで個人を管理するなど、簡単だが、その見返りがあまりにもしょぼい。それより全体の消費行動を分析した方が、圧倒的に金になる。

スマホは個人情報を抜かないとは限らない。ウィルスによって、そうした被害は出る。

だが、最初から個人情報が全て抜かれるとか、犯罪組織に流出しているとか、陰謀説に酔うのは危険である。ノイローゼになる。

スマホでポチったくせに? 地図で調べたり、お店のレビューを読んだことがあるのに? となってしまう。自分から情報を差し出しておいて、情報を奪われたというのは、支離滅裂というべきだ。

情報はすでにダダ漏れなのだ。では、どこまで入力していいのか。それ以上は入力してはならないというボーダーを意識すること。自分で調べたり、意識を高めていくしかない。人任せにして、人のせいにできるほど、世の中は甘くない。

1983年に日本にディズニーランドができた。


のちに”バブル”と呼ばれるくらいの、泡銭にみんな踊り、好景気真っ最中であったから、アメリカのアトラクションが日本人を相手にしてくれるなんて日本も来るとこまで来たもんだと思われていた。
 

パックス・ジャポニカ(日本の時代)などと、臆面なく政財界で言われていた時代である。
 

アメリカより日本の方がすごいと。(冷静に考えれば、アメリカ以外の価値観が地球上には存在しないと思っていないと、成り立たない発想だが)。
 

そのあと、どうなったかは、惨憺たる現状を見れば十分ではないか。もはや、フィリピンより物価が安いと外国人に言われているのに、我々日本人は高額な納税と、社会保険にむしり取られて息も絶え絶え。
 

訪日外国人はたくさんいるが、彼らの本音ははっきりしている。
 

「遊びに来るのはいいが、住むのとかありえないし」
 

日本の惨状を語ると、なぜかそれが反日であると批判されることがよくある。
 

七十六年前に「非国民だ」と糾弾されたのと同じ文脈である。
 

事実はどうあれ、日本を批判するものは非国民なのだ。竹槍でB-29を突き落とせないのは、気合が足りないのだ。
 

それはさておき、東京ディズニーランドはどうなっているのか。
 

実はアトラクションの待ち時間が、格段に下がっている。
 

ディズニーランド側に、何の問題もないのに、待ち時間が短くなっていたり、すぐにアトラクションに入れるような状況が続いている。
 

なぜか。
 

簡単なことだ。
 

ディズニーランドは変わらない。変わったのは、日本人である。ディズニーランドに飽きたのか? もしくはディズニーランドにいく金がなくなったのかだ。
 

(やっぱり非国民の誹りは逃れられないか)
 

おそらくこのまま、経済が低迷していると、ディズニーランドは日本から無くなる。日本人観光客から採算が取れないからだ。日本に来た観光客が、”Tokyo”と称されたからといって、わざわざ千葉県までいくのだろうか。
 

そして一部のマイナーなメディアは、こういう。
 

アメリカなどいなくても、日本には日本の文化があると。この間まで、日本人監督作品がアカデミー賞を受賞したことを、自分の手柄のように自慢していたくせに。
 

情けない話だが、日本人は貧乏になっている。
 

そういう意味で、共産革命に追い立てられる素地を、自民党は一生懸命提供している。彼らはアカなのか?
 

夢の国が、今や悪夢への分岐点に差し掛かっているのだ。
外国人観光客に花の首飾りを、子供たちが売らないといけない未来が、だんだん見えてきている。
子供の日に興醒めな話だが。

定期券ゲットなう

大阪梅田の地下鉄で行列ができていた。

なんと定期券購入窓口への行列で、警備員が出て列を正していたのだ。

では、どうして定期券は行列ができるほど人気なのか? #定期券 とか、#定期券ゲット で検索してみたが、全然ピンとこない。なぜだ?

定期券は自動販売機で購入できる。常用漢字を用いた表示なので、中学を卒業していれば、読める。(いや、それをいうなら、定期券の申し込み書類はみんな書いている)

考えてみた。

高齢者は自動販売機という、機械に頼るのではなく、人と人とが、優しく微笑んでやりとりしたいから、窓口に並ぶのか。いや、二十代や三十代、性別も関係なく並んでいる。

自動販売機で買えることを知らないのか? いや、駅でアナウンスが流れている。日本語を難解に感じる外国人なのか? (申込書は書いて手にしていた)。

やはり人と会話をして、確実に受け取りたいのか。いや、そんなに人と接したいと思うのなら、行列の前後で仲良くなっているはずなのに、誰一人会話をしていない。私語厳禁で並ばされているのだろうか。いや、それを警告している警備員はいなかった。むしろみんなむすっとした顔で疲労困憊していた。

自動販売機を信用していないのか。いや、だとしたら、窓口でお金をくすねようとしたら、見破れるという自信はどこからくるのだろうか。

何か特典がつくのだろうか。窓口で受け取ると、定期券の利用期間が少し長くなるとか。いや、だとしたらそれを告知せず、自動販売機でも発行しているということを宣伝しているのは不公平である。というか、そんなことするなら、窓口増やせ。

結局、分からない。どうして並んでいるのだろうか。

警備員に尋ねても、わからないだろう。

いや、並んでいる当人たちに聞いても、わからないのだ。つまり理由もなく、並んでいるのだ。なぜなら、考えていないから。

セルフレジもATMも
書店やスーパーでも、セルフレジがある。

21世紀の現代では新人のレジ係のもたつきに、イライラすることは減ったのだ。

商品に漏れなく添付されている、バーコード(黒と白の線の太さや隙間で構成され、特殊な機械にかざすと13桁の番号を瞬時に読み取ることのできるもの)をかざして、表示された金額が、店内で見ていた金額と一致したなら、その額を機械に入れるだけで、精算できるのだ。持って帰っても、刑事告訴されないのだ。まあ、窓口で人間がしているのと、同じなんだけど。

これがやはり怖いらしい。長い行列を作って、人間にレジ打ちをさせることに行列ができる。

バーコード読み取り機の赤い光が、自分の網膜を損傷させるという都市伝説でもあるのだろうか。店員がサングラスをかけているのを、見たことがあるとでもいうのだろうか。

誤操作で店員に迷惑をかけたくないという配慮なら、失笑ものである。行列を作ることで、十分店員に迷惑をかけているし、セルフレジでヘマしても、数秒で復旧する。

日本人の人件費の安売り
窓口になぜ並ぶのか。合理的なことをどうして嫌うのだろうか。

その謎を考えようとしたが、そもそも問いが間違いであった。

合理的かどうかなのではない。自分がどうして働かないといけないのかだ。

金を払っているのは、自分である。だったら、そのために誰かが働けと。そう考えると、納得ができる。自分の金に見合うだけ、もしくはそれ以上に誰かが働いてくれているのなら、金を出しただけのかいがあると。

定期券売り場の人間やレジ係が働いている姿を見ていると、その報酬を支払ってやっている気分になれるのだ。

だが、肝心なことが一つ抜けている。

彼らを働かせるために、自分は長い行列の最後尾に並ばないといけないし、精算されるまでの時間はスマホを眺めて過ごさないといけない。この時間は自分の持ち出しで、誰も補填してくれない。

自分の限りある人生の中で、対価を生み出すことが最も難しい、「時間」は大盤振る舞いなのだ。他人を働かせるために、人生を無駄に過ごしていることに、無自覚なのだ。

本当は、行列に並ばないと、満足に定期券や書籍ばかりか、食い物にもありつけないという現実を受け入れないといけない。それが嫌な人間だけが、人が多いと、警備員に怒鳴りつけることができるが、本質的な解決ではない。ただの八つ当たりでしかない。

解決する方法は、自動販売機やセルフレジというテクノロジーがとっくに提案されているのに。

自分が対価を支払う=他人が犠牲になるべきという、奴隷制のような発想から解放されない限り、自分が行列の奴隷からは解放されないだろう。

そうだ。奴隷なのはどっちなのか。窓口やレジ係をこき使っているようで、行列に縛り付けられているのは?

心豊かに過ごすということは、何も晴れた広い公園にヨガマットを持っていくことではない。人間がお互いを思いやれる世界を目指して努力を積み重ねていくほど、遠くはない。

他人に犠牲を求めず、自分の時間は有限だと考えて、柔軟になればいいのだ。

それでも、他人がサービスするのが資本主義だというのなら、それは間違っている。日本の物価は今や、フィリピンより安い。(だから、外国人は観光に来るし、平気で汚して帰る。日本の文化をあんまりリスペクトしていない証拠だ。)

どんどん安くなり続けているのは、他人が犠牲になるべきだという、歪んだ利権意識のせいだろう。

合理的に合戦に勝つことを美徳としていたサムライたちの末裔が、貴族なみに他人に依存しているのだ。

他人が犠牲になったところで、成果物が自動化されたものより、品質が劣っていたらどうだ? 人間は万能ではない。だからこそ、機械を用いて精度を上げてきた。それらの努力を全否定するのが、他人という人間に依存する考え方だ。

人間は失敗をやらかす。それを責めるのすら、エネルギーがいる。そのリスクを負ってでも行列に並ぶ。

行列に並ぶこと自体、すでに失敗をやらかしていると思えば、馬鹿馬鹿しくて、自動販売機やレルフレジを選ぶ気にはなれないだろうか。

実現しなかったWEB辞書構想

ひょっとしたら、ありえたかもしれない世界の話。

 

そもそもインターネットという技術自体、軍事目的で開発されたものではない。学術研究を目的としていた。研究者の論文を印刷を待たずに発表でき、それが共有された。それによって、自分の発見が本当に独自性のものなのかを確認できるようにするのが目的であったのだ。

 

当然、たくさんの文字情報が掲載することができるし、一箇所にアクセスするだけではなく、複数箇所にデータが存在するため、バックアップは万全であった。

 

そこである会社が考えた。

 

もしこれを辞書として使えたらどうだろうかと。会員制のweb辞書構想である。

 

ブラウザの画面に検索したいキーワードを入力すると、その言葉の意味や用法をたくさん知ることができるのだ。そうすると、図書館の開館時間に縛られることなく、必要な情報を取得することができるではないかと。しかも内容は辞書を直接引用すると、権利費用が発生するので、ユーザーが記入し、ユーザー同士で正確に更新していくのだ。

 

その開発のための費用が計算され、利用者に負担してもらうことで、それが実現すると思われた。ユーザーのためにもなるし、会社は会費から利益を得ることができる。

 

ユーザーは一定料金さえ払えば、好きなだけ知的好奇心を満たしてくれる辞書を使い続けることができるし、ずっと成長していくことができる。

 

その計画がいよいよ本格化し、設計のプログラムが整備されようとし始めた。

 

その時である。

 

ウェブ上に辞書が公開された。それも無料で読み書きできるものが。

 

wikipediaである。

 

誰もお金を払わず、インターネットが使えさえすれば、自由に閲覧ができ、ユーザー同士が相互に校閲して、記事の精度を上げていくことができるというのだ。

 

某社はそこで開発を中断し、wikipediaに構想の道を譲ることになった。

 

逆にいうと、ウェブで調べ物ができるという自由を、人類は無料で先に手に入れることで、費用を取られずに、調べ物ができるようになったのだ。人類を幸福にするのは、資本主義だけだとは限らないことの証明なのかもしれない。

 

我々日本人にはショックなことに、プログラムの知識がある人々が、一円にもならないwikipediaのために、結構な人数が協力しているのだ。2023年の集まった人たちの様子がコレだ。彼女のいないオタクが集まって、マウント取り合いながら、何とか運営しているようなものではない。たくさんの女性も参加している(子供を連れた女性までいるではないか)。

 

つまり利益追求だけが世界の全てではないのだ。というか、そういう発想自体が二十世紀の帝国主義でしかないのだ。世界はとっくに別の価値観にシフトしているのかもしれない。我々は「黒船待ちなう」なのだろうか。

 

wordpressというプログラム

ブログを作るといえば、世界の7割近くが使用しているwordpressというプログラム。

 

名前だけからして、某社のワープロソフトを連想してしまうが、全くの別物である。このプログラムはフリー素材で、誰でも使うことができる。自分でサーバーを借りれば、好きなように加工することができる。

 

利益を取られていないのに、安全なものへと、どんどん開発されている。どうしてか?

 

やはりwikipediaと同じく、有志が集まって、よりよくしていこうとしているのだ。デジタルの世界では、こうした利益を求めない勢力と、利益を求める勢力とが常に、対立関係にあるのだ。

 

もっというと、某社のワープロソフトや、表計算ソフトを買っていないのに、一切お金を払わずに、それらのファイルを見たり、編集することができる。LibreOfficeだ。無料で使っても、何の違法性もない。変なウィルスにかかることもない。

 

こうした情報はなぜ、日本では普及しないのか。

 

一つの仮説である。

 

「お金取られないなんて、なんか不安」

 

という心情なのではないか。

 

何をするのにも、お金がかかる。そう思うならいいが、(所詮、全ては金次第)としか思っていないのなら、社会への認識を改める必要がある。なぜなら、彼女・彼氏の愛も金で買えてしまうことになるからだ。それは恋愛ではなく、売春でしかないから、道徳以前に、違法なのだ。

 

残念なことに、全てに金がかかると思っているから、こうした情報は普及しないし、誤った認識(LibreOffceはデザインこそ綺麗なサイトだが、実はヨーロッパか中国の悪質業者がウィルスをばら撒くために、無料でオフィスソフトを配っているに違いないとか)を持ってしまう。

 

開発者が傷つくだろうが、そうした誤解を持つことは仕方がないのだ。書類ひとつ作るにも、某社にお金を払うのが当たり前だと思っているのだから。

 

本当に我々は自由なのだろうか。便利になっているのだろうか。

人類の偉業
ウィンストン・チャーチルはこう言った。


「新聞を読む時に、私はスポーツ欄から読む。そこには人類の偉業が描かれているからだ」
 

実にいい言葉だ。前人未到の新記録に到達したという瞬間に立ち会えるなど、誇らしいことである。
 

だが、本当に日本でも、そうだろうか。
 

国際大会でしばしば取り上げられるのは、日本人選手の活躍である。
 

新記録を樹立した選手が、どこの国で、どんな人なのか。その偉業を称えるということは、日本の報道ではあまりなされない。
 

日本人選手がいくつメダルを取ったのか。どれだけの投資(実際には声を張り上げて応援した程度)をして、いくらメダルという形で戻ってきたのか。収支報告みたいな、ケチくさい感覚で、選手を見ていないか。東京オリンピックなど、その傾向が顕著であったものはない。
 

日本がいかに世界を驚嘆せしめたかと、自画自賛したくて仕方がなかった。記録映画と題されたものがそれを如実に語っていた。(ナチス政権下のドイツか)
 

スポーツ報道は、こと日本に限っていえば、かなりやばい。胡散臭いという意味だ。全然、すごくない。

スポーツの力という呪術
読売巨人軍のオーナーだった人がこう言った。
 

「日本を元気にするためには、巨人軍が優勝することである。日本経済のため、日本の発展のために、巨人軍は必要なのだ」
 

わお、おまじない。
 

どこかの球団が毎年、優勝している。
 

その地域では、一瞬バブルになっているだろう。だが、それによって日本が長い不況のトンネルから出たことが一度でもあったのか? 巨人が優勝したから、日本が経済不況を脱するというのは、はっきりいって妄想のレベルである。
 

だが、こうした呪術がしばしば罷り通る。


元気になれば、経済が明るくなり、なぜか社会が良くなるというのだ。どんな問題があっても、問題を直視せず、ただ気力があれば、いつの間にか解決しているというのだ。
 

なんか、童貞のアレみたいな、独りよがりな妄想臭くないか?
 

元より、景気がよくなったところで、全てが解決するのであれば、バブルの頃に社会問題はなかったことになる。経済至上主義者は忘れっぽくていけない。
 

スポーツが社会に与える影響は大きいが、それで社会の問題が解決されると信じているのだとしたら、やはり原因と結果を正確に認識できていない。お札を燃やしたから、雨が降ってきたと信じるようなものだ。

シャープ兄弟VS力道山
悪役レスラーのシャープ兄弟を、力道山は空手チョップで倒した。
 

その試合中継をみんなが見て、興奮した。敗戦国のコンプレックスを跳ね飛ばすきっかけになったという。
 

戦後史の美談である。
 

ただ、シャープ兄弟はアメリカ人ではなく、カナダ人であったこと。
 

弟子のジャイアント馬場やアントニオ猪木が、後年、一切口にしていないことから分かるように、力道山は興行師として有能であったが、我々が期待する「スポーツで人格を育成する」ような人柄ではなかったこと。
 

これらは現実には語られにくいが、事実である。
 

日本中が熱狂したというのは、いい話である。だが、何一つ解決していないことから、目を背けてはならない。

社会問題から目を背ける
大谷翔平の活躍について、報道が加熱していることに対して、違和感を感じる人は少なくないだろう。
 

いい話を作ることに関しては、報道機関は類稀な能力を発揮する。真実? そんなもので飯が食えるか。日本を元気にできるか、だ。
 

大谷をみろ、アメリカであんなに評価されているではないかというのなら、分かる。

 

だが、だからといって、世界が日本に驚嘆しているという結論からは程遠い。
 

世界で最も競技人口が多いのは、インドのクリケットであるし、その次はサッカーである。
 

野球自体が世界ではマイナースポーツなのだ。
 

アメリカで評価されていることに対して、極端にしがみつくのは、やはりシャープ兄弟を倒した空手チョップを、いまだに夢見ているのではないか。むき出しのアメリカコンプレックスである。
 

ゴジラ-1.0がアカデミー賞を受賞したが、その発表時には、タイトルとともに、「kyoto」「shibuya」などと関係ない地名が呼ばれる。昨年2023年のキー・ホイ・クァンがシカトされる。驚くほど黄色人種に対する差別があるのに。我々は喜んで、それらを無視して、トロフィーを受け取り、賛辞に酔う。ウィル・スミスなら殴っていただろうに。
 

まだ進駐軍に、チョコレートやガムを投げて欲しいのだろうか。

スポーツ報道の前科
思い出して調べてみた。
 

ハンカチ王子こと斎藤佑樹選手(2006年)。
 

ハニカミ王子こと石川遼選手(2007年)。
 

第一次安倍内閣がまさに2006年から2007年である。
 

美しい国日本とか、グレート・アメリカ・アゲインみたいなことを先に言っていた割に、お友達内閣と揶揄されていた。小泉内閣では訪朝を実現し、拉致事件解決を推し進めると期待されたのに、何一つ解決されなかった(現代も未解決である)。
 

2007年の衆院選で敗北し、体調不良を理由に辞任している。
 

政局が不安定な時に、メディアがこぞって、(お節介にも)日本人を鼓舞しようとする時に、簡単に使えるのがスポーツなのだ。
 

北朝鮮のミサイルよりは安全だが、スポーツが国威発揚に使われ、現実問題から目を背けるために用いられているのだとしたら、当のアスリートも心外だろう。
 

人類の偉業とは程遠い、スポーツ報道には気をつけるべきだ。

蜂蜜を食べる者

熊にあたるロシア語はメドヴェーチェである。

どういう意味か。

直訳すると、「蜂蜜を食べる者」。

どうして、あの姿や獰猛さを表現しないのか。

熊を直接呼んでしまうと、熊がやってきて、人々を食べてしまうからである。おとぎ話のようだが、そのせいで、ロシア語で熊に当たる言葉があったが、忘れられてしまい、「蜂蜜を食べる者」という言葉だけが残ったというのだ。

ハリーポッターの「例のあの人」のようなものである。

日本でも、結婚式で切れるや、別れるという言葉を使うことはタブー視されるし、葬儀でも各地でその手のタブーがある。

中国最後の王朝清朝で、愛新覚羅溥儀が即位する際に、幼少の溥儀が退屈してぐずった際、侍女がこう言った。

「もうすぐ終わりますよ」

かくして、彼の即位の四年後。辛亥革命によって、清朝は滅びる。

不幸なことを考えたり、言葉にすると、災いがやってくる。不幸を口にすること自体が、不幸を招くことになるという、古代からの呪術である。これが科学的であるかどうかという以前に、身を律するために用いられていたものであり、文化として軽視すべきではないだろう。

ただし、他人を断罪したり、同調圧力のために用いられるのだとしたら、それは近代人とはいえない。橋を建てるために、処女を生き埋めにしていたような文化は、現代科学とは相いれないし、そんな文化は過去の記録だけで十分である。

何より、人間の言葉にそれほどの力があるのなら、教会であれほど、祝福を口にされているのに、このザマなのは説明がつかない。口にした言葉と共に、行動が伴わなければ、経済的な成功すらもありえない。

つまり不幸を口にすることと、不幸になることとに、直接的な因果関係はない。文化的にタブーが存在する、という程度でいい。

品行方正な有権者

無知は蒙昧である。

野党の中でも、国民に呼びかけて、デモを行うような政党がある。

それに対して、したり顔で批判する人のポストを見る。実に嫌な気分になる。

「社会不安を煽るようなデモ行為を助長して、勢力を拡大しようとしている」

そんな批判であった。

こういう、シニカルな態度こそ、無関心と無知の象徴といえるだろう。

社会不安を煽っているのではなく、実際には、社会問題が存在しているのだ。その存在に目を背けてさえいれば、平和に暮らせるというのだ。それこそ、太るまでは生かしてもらえるという、豚の自由ではないか。

問題を指摘しなければ、問題が存在しないというのは、ただの現実逃避でしかない。選挙で破れても、選挙に不正であったと駄駄を捏ねるようなものだ。いくらでも、自分に都合のいい真実を作り出せるが、それは現実からかけ離れた妄想であり、それに固執すればするほど、現実から見捨てられることになる。

お行儀よくすることは、日本人の美徳である。

だが、社会に問題がないふりをして、他人に犠牲を強いているのなら、他人に無関心で自分だけの無事だけを願っているのだとしたら、あまりに臆病であり、残酷というべきだろう。いや、偽善というべきだろう。

我々人類は木を下りる前から、群れを形成して生き残ってきた。群れの仲間が脅かされることに、鈍感なものは、本能に鈍感なものであり、そんな奴は滅びてしまう。

デモを冷ややかに見て、したり顔で批判する者こそ、厄介な、群れを破滅に導く者なのだ。

オウム事件の後に何が変わったのか。

宗教法人法の改正というが、一般には馴染みがない。せいぜい、地下鉄のゴミ箱がなくなったくらいだ。

宗教文化について、どういうものかを教育で取り上げるべきではないかという議論が起こっていたのに、最終的に決まったことは「面倒くさそうなので何もしない」ということだ。

そして、キリスト教系の新興宗教によって、家庭を崩壊させられた男が、元首相を殺害した。まるで明治か大正の頃のように。

結局、何も変わっていなかったのだ。

オウム事件の直後には、宗教に詳しいという評論家どもが、アホみたいに本を量産していたのに。

 

このことに対しては、行政も、国民も、報道も、無責任極まりない。無関心で、何もなかったことにすれば、これからも何も起こらないだろうという、幼稚な呪術にとりすがっているのが現実である。

それが文明人のすることか。

利害のためだけではなく、有益な情報をシェアするのが、ブログというシステムの最大の利点なのではないか。

専門家ではない者が、専門的に踏み込まないまでも、正確な情報を開示していくことで、無責任な連中に頼ることなく、自衛手段をシェアできるのではないか。

 

キリスト教について、学んだことを書いておくべきだと確信している。

洗礼すら受けていないし、福音書を精読しているわけではない。

しかし本質的なことの説明に触れることができた。そのことから、”キリスト教”と、”キリスト教的な別物”の違いを見分けることができるようになった。

この知見をシェアしないで、芸能ニュースしか読まないというほど、我々日本人はバカではない。

日曜日だけに、テーマはキリスト教である。

 

キリスト教のメインテーマ

もしキリスト教のことを語り、勧誘めいたことを口にする人に遭遇すれば、率直に質問すればいい。

「放蕩息子のたとえについて、あなたの考えを教えてもらえますか?」

これに対して、回答が曖昧だったり、説明に熱意が感じられなかったら、それは偽物である。できれば、額に赤いマジックで書いてやるべきだ。”パチモン”と。

キリスト教とは、愛だとか、天国とか、ややこしいことは抜きにして、放蕩息子のたとえ話を知っているかどうかだ。知っていて、深く感銘を受けているのがキリスト教であるし、それはさておきと話題を替えたがるのが、別物。

イエスという、有名どころの話はメインではない。

彼のことを話したがるのは、ジョン・レノンを語るが、ビートルズの曲を知らないと言っているようなものだ。

彼らのエピソードではなく、彼らが何を主張したかだ。

その中心テーマが「放蕩息子のたとえ」なのだ。

 

放蕩息子のたとえ

なんじゃそりゃ、と言いたくなるような例え話である。

砂漠の国で、父親が二人の息子に、金を与えた。これで商売をして、生活していくようになりなさいと。

兄はラクダに乗って、いろんな人に会い、苦労して、商売を成功させ、そこそこ金持ちになって、父親に会いに戻ってきた。

父親は喜んで歓迎してくれた。

そこに弟が帰ってきた。

彼は衣服がボロボロになっており、父が与えた金を全て失い、飲まず食わずで息も絶え絶えになって帰ってきた。

父親はそれを温かく迎え、ねぎらい、また金を与えて、送り出した。

するとしばらくして、弟が帰ってきた。

衣服はボロボロになり、父が与えた金を全て失い、飲まず食わずで息も絶え絶えになっで帰ってきたのである。

父親はそれを温かく迎え、、、。

兄が怒った。

「なんで、弟にそんなに構うの。こいつはバカなんですよ。次に送り出しても、また失敗するに決まってるのに」

すると、父親は応えた。

「助けを求めて、私のところに来たのだ」

そして、また弟をねぎらい、金を与えて、送り出すのだった。

これが放蕩息子のたとえである。

はあー? なんじゃ、そりゃ。

ここで表現されているのは、神が無条件に弟(人類)を愛しているということである。無条件である。信じる者は救われるのではなく、神は最初から助けてといえば、ウェルカムなのだ。

兄の主張はよく分かる。どうせ、ダメなやつはダメというか、そもそも弟にやる気あんのかと言いたくなる。

だが、この例え話は違う。

父とそもそも取引などできないのだ。

神はただただ人間を愛し、人はただ愛されるだけである。そもそも取引ができる相手ではないのだ。

金を払おうが払うまいが、神にとって人間ごときの金など、どうでもいいのだ。彼のテーマは愛することだけなのだ。

神の名を語りながら、金銭問題をちらつかせるものは、最初から兄と同じことを言っており、神の言葉を信じていないのだ。そんなものはそもそも、キリスト教ではない。

実際、イエスは神殿で商売をした連中にガチギレしている。神を商売道具にすんなと、屋台を破壊(マタイによる福音書21:12-17)し、そのせいで最終的に処刑されている。つまりキリスト教の本質的なテーマでもあったのだ。

神とは取引ができない。これが放蕩息子のたとえの核心なのだ。

だめ人間が居直るのでもない。

 

神の役割は経済でも道徳でもない

精一杯がんばって、それでもダメな結果になった時こそ、神は喜んでそれを労ってくれるだろう。結果など、どうでもいいのだ。傷ついて、くたびれた時に、助けてとさえいえば、そこに神がいて、慰めてくれるのだ。くたびれた弟のように、全員を暖かく迎え、労ってくれる。

もっと端的なことをいうと、神はそれだけの存在である。何か金品を要求しても、叶えられない。そもそも、そんなものを保証したことは、一度もない。

東アジアの多神教の神は、そうしたことを確約する。

もちろん、実際に願えば叶えられるかどうかは、もう主観の世界のことである。

GODのことを、神と訳したのは、明治時代からで、もともとは絶対者という意味で日本人に馴染みのある、「大日(如来)」と称されていた。

このために、密教の現世利益を期待された側面もある。

しかし、出典は大日経ではなく、福音書だったのだ。

得られるものは、当然ことなった。

明治になって、神(尊いもの、上にあるもの)と翻訳されたが、やはり正確な翻訳ではないと言われているのも、納得がいく。決して、道徳や経済を司っていないのだ。

どうして選挙にいかないのか。
どこか地方選挙であるたびに、「投票率は前回に比べて、何ポイントダウンでした(だから、民意を反映したとは言えないのかもね)」と報道される。報道のアホ丸出しである。
実際の議会制民主主義のルールはシンプル。
「投票した意見だけを反映する」
そのための投票なのだ。期日前投票を含めて、投票しなかった者の意思など反映しない。
まだマシである。
本来であれば、敵対勢力があれば、仲間に呼びかけて、武器を揃え、寝込みを襲い、根絶やしにするのが人間の性である。
根絶やしにしたつもりが、うっかり何人かを殺し損ねたり、仲間内に反対意見があれば、最悪だ。次は自分が命を狙われる羽目になる。
この殺し合いの連鎖が不毛で、効率が悪すぎる。そこで、相手を殺さず、賛同者の数で決着をつけることにした。これが選挙の本質である。
三百年前まで、我々日本人は利害目的で殺し合っていたのだ。礼儀正しく、お互いを思いやるなんて、幕藩体制と寺子屋教育のおかげである。
殺さず、殺されもしない、安全なシステムとして選挙があるのに、どうして投票にいかないのか。
選挙にいこうと呼びかけるのではない。
選挙に行かない理由を推測してみる。
ここでの目的は一つ。
選挙に行くべきだと思っている人が、選挙に行かない人に遭遇した時に、相手を理解するのに、参考になるのではないか。
不幸を前に、不幸から身を捩って逃げるのではなく、不幸とは何なのかを正面から考える。
投票に行かない人の気持ちを察したり、推測してみる。結果はどうあれ、それだけでも、意味のあることだと思う。

1.賛同できる候補者がいない
圧倒的に多い理由はこれではないか。
地域経済を復興するとか、生き生きとできる社会とか、抽象的な能書きを、飲まずにマイクで口にしている連中を見ていると、小ゲロがこみ上げてくるのも分かる。
そういう候補者は大抵、親が金持ちで不労所得が多く、政党の要請を受けて、彼らの勢力拡大のために立候補しているだけである。政治など、何も知らない。
しかも当日の八時に分かるのは、現職の再選である。わざわざ選挙祭りをする意味があるのかと思ってしまう。当然だ。
そもそも、その選挙イベント自体、我々から取り上げた金で行われているのだから、腹が立つ。見たくもない。
だが、「投票した意見だけを反映する」という原則は変わらない。
小ゲロが出そうなら、少し水分を控えて、投票所にいくしかない。
考えるのが苦手なビギナーは、ポスターのうち、見栄えのいい人を選べばいい。そもそも身なりに気を使えない候補者が、有権者に気を使うことはない。清潔感があり、まっすぐカメラを見ている候補者は、いくらかマシである。
そうした候補者がいない場合は、一番悪そうな候補者を見つけ、その敵対者に投票すればいい。
消去法だが、少なくとも、権利を行使した。

2.勝つ方に便乗したい
驚いたことに、自分の一票が強い方の後押しになりたいという人間が存在する。
弱気より、自分は強い方を応援したことで、先見の明があると思いたいのだ。行きずりで、足を開いただけなのに。
与党が圧勝なのは、大抵これである。
つまり勝つ方に味方すれば、自分は睨まれない。権力者から見逃してもらえると信じているのだ。
そんなことはなく、社会保障費は値上がりし、勝手に外国に宣戦布告され、銃を手渡されるのに。
積極的に勝つ方につくのは自由だ。しかし与党が批判された後の選挙に行くと、権力に睨まれるのではないかと怯えるのは、ある種の疾患である。
(日本国政府に国民を監視する能力があるのなら、コロナワクチンをもっと早く普及させることができた)。

3.選挙に行っても変わらない
これもポップな意見である。いや、古典的な意見である。
そういじけるなよ。
実際は逆。選挙に行っても変わらなかったのではなく、行かなかったから、変わらなかった。
民主党政権が誕生したのも、国民が投票したからである。
そして、選挙に行かなかったから、組織票を持つ与党が勝利したし、し続けている。
逆に組織より、たくさんの反対票が集まれば、当然、状況はひっくり返る。
選挙に行っても変わらないという確信は結構だが、たかだか4、5回(それ以下かも)投票しただけで、世の中悟った顔をするなんて。
というか、与党の狙い通りすぎである。それに歯向かう気力がないなんて、どれだけ甘やかされて生きてきたのか。

4.選挙に行かないのも自由だ
当然である。自宅から追い出されて、投票所に銃口で脅されながら歩くなんて、独裁政権のものである。
選挙に行かないのは自由だ。
問題は、本当に確信ある自由なのか?
選挙にだけはどうしても行きたくない。あの日、息絶える直前に父親が最後の力を振り絞って、選挙にだけは行くなと言われたとか。
投票のことを考えるだけで、憂鬱になるのか。顔見知り程度の候補者のうち、誰かを選ばないといけない責任に押し潰されそうになるのか。
そこまでの理由があるのなら、自由である。
だが、そうでもなく、なんとなく行かない自由を謳歌したいというのなら、それもいい。
原則さえ忘れなければ。
つまり、「お前の意見だけは無視する」と言われても、文句は言えない。それが棄権の自由である。

5.日本の文化に馴染まない
かなり強引な主張だ。日本文化の何かを知っているかのような。
しかし鎌倉幕府は合議制であったし、さかのぼれば、聖徳太子が「和を以て尊しとなす(闘争ではなく、話し合いで解決する和解こそが、尊い)」と言っている。
確かにイギリスやフランスのように、議会制民主主義は明治以来のものであるから、新しい。
だが、本質は日本人の文化にすでにベースがあった。外国の輸入品だが、あんぱんのように、日本人好みに改良するのは、いつだって我々の得意分野ではないか。拒否してどうする?
ましてや、明治天皇が認めたのが議会制民主主義である。徳川幕府が結んだ不平等条約改正のためには、議会(国民の意志を反映する社会システム)の設置が欠かせなかったからだ。
日本人が民主主義を受け入れられないのだとしたら、百年以上恨んでいることになる。ハンバーガーやコーラはあんなに簡単に受け入れても、民主主義だけは勘弁してくれというのは、本気か?

6.権利という考え方がそもそもキリスト教
「法の下に平等」という表現が、聖書っぽいから、誤解されがち。
「(神の与えたもうた)権利」という誤読が、憲法に対しても行われる。
キリスト教徒ではないから、権利を理解できないというのは、相当に無理がないか?
欧米の植民地になっていた東南アジアの国々では、我々より権利を理解していることになる。

逆に、清朝から大日本帝国と宗主国が変わった台湾には、権利が理解されておらず、選挙が活発でないはずである。総統選挙の報道はその逆である。

現実を見れば、矛盾する意見と言わざるを得ない。宗教文化を引き合いに出すのなら、我々はかなり独自の文化をもった閉鎖的な島国であり、排他的な文明の中でしか生きられないことになる。
日本は日本で独自の文化があり、外国には理解されないというのか。
そうだとしたら、ハリウッドで表彰されたり、国産のアニメや漫画が売れることは説明できない。
独自の文化があり、海外のものを受け入れにくいと思いたいために、作られた屁理屈でしかない。
明治の文明開花で、先人たちがどれほど翻訳に努力したことか。

7.道徳の問題と誤解している
選挙に行くのは意識が高く、怠け者は選挙に行かないという誤解。
確かに寝過ごした日曜日に、テレビを消して、ズボンを履いて出かけないといけないかと思うと、怠け者には至難の技である。
しかし道徳とは無関係である。
逆にいうと、投票に行ったからといって、ワルとしてダサくない。
むしろ与党に刃向かって、野党に投票するなんて、なんて反社会的なのか。パンクそのものではないか。
投票所を焼かない限り、道徳的に何の問題もない。
道徳はもっと内面の話である。日曜日の洗濯を怠けたことの呵責が道徳で、履くズボンがあるのなら、投票所へどうぞというのが権利である。
もっというなら、顔立ちのいい、自分好みの候補者に投票することだって許される。しかも異性、同性関係なくだ。

8.見張られてると誤解している
投票所の立会人を、監視員だと思っているのなら、独裁政権の報道を見過ぎ。
立会人が武装していないのは、我が国がまだそこまで末期ではないことの証明である。
さらに投票箱が透明でないこと、記入用の立ち机に囲いがあることも考えてみるといい。投票用紙は誰も覗いていけないことになっているし、実際覗けない。
候補者名の代わりに偉大な魔法使いの名前を書こうが、女性器を意味する卑猥なマークを書こうが、全部許されている(実証済みである)。
見張られていない。
最初に氏名や生年月日を問われるから、個人情報を扱われているようで不快であるのも分かる。これは二重投票を予防するための方法である。
これが改善されると、安心してみんなが投票するようになる。当然、投票率が上がって、与党の得票数が減る。だから、永劫改善されることはない。
それでも、見張られているのではないかと不安に感じるのなら、そもそもスマホを解約すべきである。改札口を出てからGoogle mapをみたり、ましてや買い物などしていれば、とっくに個人情報はダダ漏れである。
ましてや自分が国家レベルで監視が必要な機密情報を持っている確信があるのだとしたら、一度、遅い時間まで診療してくれる精神内科を受診した方がいい。

9.選挙自体がよく理解できていない。
これをカミングアウトするのには、勇気がいる。
最後に選挙について学んだのが、小学生の頃だ。選挙という漢字が読めただけでも、目覚ましい進歩ではないか。
個人が直接、生活や治安に関して、ルールを決定することができない。
それを専門にできる”優秀な”人に頼むしかない。我こそはと名乗り上げているのが、「候補者」である。
複数人の候補者のうち、もっとも優秀そうな人の名前を、みんなが書いて、最終的に多かった人を代表として任命する。
その人が自分たちの代わりに、ルールを決定してくれることになる。
これが選挙だ。
だから、候補者はちゃんと当選後どうするかを説明すべきだし、説明できずに名前を連呼するのなら、そいつはナシだ。

10.漢字がかけない。
ひらがな、カタカナでもいい。その混在でもいい。
支持したい候補者名だけを書けばいい。記入用の立ち机には、ちゃんとふりがな付きで、候補者名が一覧になっているから、うろ覚えでも安心である。
書き順は特に問われないから、安心して書こう。

11.現実を生きていない。
三食と排泄はリアルにあるが、それ以外は興味がない。
それも自由である。
真夏に水分が足りなくて、うつらうつらしているようなものだ。
問題はそれが年中許されて、何もしなくても、社会が良くなっていくという希望的観測に立っていることだ。
間違いなく、隣人は生活に追われ、税金は上がる。
現実から逃げてくれている間に、連中が徴収した税金を、あの手この手で自分の懐に入れている。
現実に興味がないとは、隣人の不幸から目を背け、自分が次の番であることから、目を背けているだけで、戦う前からひざまずいているようなものである。

12.無関心がカッコイイ。
無知なのは自由である。学ばない自由もある。
社会問題を知らないでいる自由もある。
将来を考えない自由もある。
全て自由であるが、あくまでも内面のものである。
そして、その内面の自由といっておきながら、実態は太るまでは殺されないでいられるという自由だとするなら、それは人間の自由とは呼べない。豚の自由でしかない。

大原則は変わらない
棄権するのは自由だが、大原則を忘れてはならない。
 

「投票した意見だけを反映する」
 

投票されなかった意見など、存在しなかったことになる。
 

だから、投票しなかったのなら、世の中に不平を抱いてはならない。不満を持つ自由はそこにはない。(今の世の中全部大好きとは、なんとお気楽な)

有権者の半分が投票にいけば、とっくに現状は回復されていた。国民の所得が増え、景気が回復し、子供たちの福祉も、将来の年金も充実するのに。
 

それができないのは、タスクをメモに書き出さず、テレビのリモコンを握りしめて、テレビ番組が終われば、問題が全て片付いていますようにと願っているようなものである。
 

選挙に行かない理由があるのは自由だが、本当に共感できるような意見は、一度も聞いたことがない。残念なことに、大抵は怠け者の屁理屈である。
 

自分は選挙にいくのが面倒で怠けているくせに、社会が悪いとか、景気が悪いとか、国会議員が悪いとか、どうして言えるのか。
 

仮説をいくつか立ててみて、やっぱり分からなかった。

「食べて応援」にいっぱい食わされた

2011年の東日本大震災の甚大な被害は、今でも多くの爪痕を残している。

その直後、サイトでこんな広告が出回った。

「食べて応援。東日本復興キャンペーン」

岩手や宮城、福島の牛肉や水産物を紹介したものであった。

日本中が注目している中で、サイトの開設は福音であり、たくさんの販売が行われた。しかし、問題があった。

復興支援に、それほど大きな効果はなかった。十三年経った今でも、販売業者以外は廃業の危機にあったり、追い討ちをかけるように、福島第一原子力発電所の処理水放出による風評被害が大きい。

報道されないだけで、存在しないわけではない。国民が忘れっぽいから、表現の自由を持つ報道機関が、伝えないといけないのだが、彼らもスポーツニュースに夢中でうっかりしているのだ。

結局、食べて美味しい思いをしたのは、消費者と、販売業者だけだった。

つまり他人の死亡と、生活破綻を、特産品を売るための広告に活用したのだ。

限界集落を救えない国防

今年2024年のよりにもよって、元旦に能登半島沖でM6.9の地震が起こったが、もっと状況はひどくなっている。

限界集落であるという理由で、助けられないのではないかという情けない意見まで出ている。(中国に攻められるのは、ダメだが、貧困で見捨てるのが愛国だというのか?)

また同じような観光産業支援策として、「北陸応援割」などと、与党は悪ふざけをしている。被災者を直接救うつもりはないのだ。

水を与えるか、井戸の掘り方かという例えでいうなら、現地からかけ離れた場所で井戸の掘り方を教えているようなものである。

経済を回して、みんなが豊かになるというファンタジーを夢見すぎていないか。行き倒れそうな人間に、働けば、寝床を提供してやると札束で頬を打つような、貧乏くさいことをしていないか。

そんなに大切な経済とは、一体何なのか。

経世済民「世を経(おさめ)、民を済(すく)う」ではなく、単なる拝金主義だったのか。

田舎の祖父母を助けてくれたから、自分は生活保護をして、できるだけ国から金を搾取して楽して生きよう。日本人の道徳観念のうち、そうした考え方が認められるだろうか。勤労を美徳としてきたのではないのか。

裏金を作ったり、エッフェル塔を観光したり、外国人と不倫したり、公費で女性ダンサーの下着に札を挟むのが、勤労を美徳としてきた、我々日本人の代表だというのか。

困っている人がいれば助ける。そこにどうして、面倒な”エビデンス”や、人名より優先される経済政策などが必要なのだ。

紐付きで支援しないといけないのだとしたら、経済社会とはいかに脆弱なことか。

だから、国際競争で負け続けているのだ。

 

 

見たいものしか見ていない
アメリカ製のジョークがある。


マリリン・モンローがアインシュタインを、こうやって口説こうとした。
 

「私たちが結婚したら、私の美貌とあなたの知性を持った子供が生まれるとは思わない?」
 

それに対して、アインシュタインは応えた。
 

「私の美貌と、あなたの知性を持った子供が生まれるかもしれませんね?」
 

天才科学者アインシュタインと、映画女優マリリン・モンローという設定で作られたものである。もちろん、完全なフィクションだ。
 

これを理解するには、二つ条件がある。
 

1.アインシュタインは相対性理論を発表するなど、二十世紀を代表する知識人であったこと。
 

2.マリリン・モンローは常にお口を半ば開いた、ブロンドのおバカだと、誤解しておくこと。
 

1.は疑いようもないことだろう。
 

だが、問題は2.だ。
 

実際のマリリン・モンローこと、ノーマ・ジーンは読書家で、知識欲は旺盛であった。しかし、世間がそんな実像を求めていなかったし、報道されなかった。だから、アインシュタインにやり込められる、おバカとして設定されるのだ。
 

美人で頭が良く、哲学書も読みこなして、教養ある女性。
 

美人で陽気で、時々とぼけた回答をして、周囲を笑わせる女性。
 

どちらが大衆受けするのか。特に男性中心の社会であれば、どららが優先されるのか明白であろう。
 

彼女自身が秘匿していたわけではないが、彼女自身が生涯「マリリン・モンロー」をカメラがないところでも演じ続けないといけなかったことは事実である。
 

それだけ、大衆は狭量だし、自分の見たいようにしか、世界を認識しない。
 

人間とは、そういう生き物である。

アジアの奴隷を解放する
第二次世界大戦という呼称は、日本がポツダム宣言を受諾してから、World War 2の翻訳として日本で呼称されるようになったものである。
 

それまでは大東亜戦争という呼称であった。大規模な東アジア決戦ともいうべきだろう。
 

世界大戦ではなく、アジアの戦いという認識が日本人にはあった。実際、同盟国のドイツやイタリアが敗戦すると、大日本帝国は孤軍奮闘せざるを得なかった。
 

そこにアジアという呼称が、鼓舞されるきっかけとなる。
 

大航海時代のあと、アジアにも侵略してきたヨーロッパとアメリカ勢力を、アジア人である日本が追い払う。アジア人をアジア人の手によって救出するのが大義名分だったのだ。
 

敗戦後も、日本に戻らず、現地に止まった日本の軍人が、現地の独立戦争に協力したことは事実である。それを東南アジアでは感謝していると思いがちだが、必ずしもそうではない。日本が来る前から、フィリピンではアメリカから独立を認められており、日本がこなければスムーズに独立国になっていた。
 

それでも、アジアの平和のためにという大義に、日本人が多く駆り出され、戦場で華々しく戦死した。
 

これもそうではない。
 

七割以上の日本兵が、現地で餓死している。補給線が確保されないほど、無計画に戦線を拡大したためであり、弾丸や爆弾の裂傷ではなく、ひもじくて死んでいるのだ。靖国神社で食べ歩きをしたら、確実に祟られるだろう。
 

戦争をした日本が悪いか、悪くないのか、ではない。
 

日本がいいことをしたか、しなかった、でもない。
 

戦争が素人仕事であったのだ。南方に限らず、中国東北部でも、関東軍の大半が軽武装でソ連の機関銃に撃たれて死傷している。それも真珠湾攻撃より前に。
 

つまり日本軍は強いというイメージは、日清日露戦争で出来上がった幻想であった。
 

そしてそれを、当時の帝国臣民が疑うことなく受け入れ、今なお日本人男性は強いのだと根拠なく盲信していたし、それに軍部も、世論もまんまと便乗した。それに反する事実を見ようとしなかったのだ。
 

理由は簡単である。
 

「敗戦思想につながるから」
 

といわれていた。
 

とても、思想などとはいえないが、日本人は弱いかもなどと思うから、日本人は弱くなるのだという、呪術めいた論理が世論を形成していた。メディアも共犯なのだ。
 

敗戦思想にはつながらないように努めたが、結果的には、敗戦を認めるか、日本列島が島ごとで別々の国になってでもゲリラ戦で抗戦するかの選択に迫られたのである。(現代のポジティブ心理学なども、この延長にあるから、どれだけ熱心にポジティブに現実を受け止めようとしても、認知の歪みを醸成させるだけである。)
 

兵は詭道なり(戦争では、平和時の手段など通じない)というのが孫子の言葉である。
 

アジアを代表したつもりでありながら、大日本帝国は孫子を十分に読んでいたとはいえない。孫子に精通していれば、ハルノートが突きつけられる前から、もっとアメリカ世論をぐらぐらにし、議会と大統領を反目させ、連合国の国同士を疑心暗鬼にさせて、宣戦布告し、戦闘は短期に終結していただろう。
 

現実はさておき、見たいものだけを見ようとした結果である。

見たいものしか見えないのではない
見たいと思うものしか見えないのであれば、現実は認識できないだろう。
 

りんごが木から落ちたなんて、太陽の周りを地球が回っているなんて、大地がそもそも球体であるなんて、到底、理解できるものではない。
 

だが、初等教育でそれらは誰でも理解できている。
 

人類は神様が七日目に作ったカップルをルーツにして、数えると三千年程度しか経っていない。しかし、それよりはるかに長い時間をかけて、アフリカから木を降りて果物を食べ始めた。
 

小難しいという意味ではない。
 

誰がなぞっても、その方が納得できるというのだ。
 

だから、これが間違いない真実と思うことは、決して人を幸せにしない。
 

情熱的な大恋愛を果たした後に結婚するのか、冷静に計算して見合いで結婚するのかが問題なのではない。この二元論とは別にある。
 

結婚後も、朝には挨拶をし、家事を協力したり、会話を絶やさかったり、互いの意思を尊重することこそが、結婚生活を継続する秘訣なのだ。
 

見たいものしか見ていない。だから、見てないものが存在していると思って、情報に触れていないといけないのだ。
 

関東軍も無敵と言われた。みんなが信じた。どれだけ信じようが、それ以外の情報に触れてみない限り、代償を払うはめになるのは、いつも庶民なのだ。
 

自分が庶民ではないという人間がいるなら、そいつはただの「思い上がった庶民」だ。