蜂蜜を食べる者
熊にあたるロシア語はメドヴェーチェである。
どういう意味か。
直訳すると、「蜂蜜を食べる者」。
どうして、あの姿や獰猛さを表現しないのか。
熊を直接呼んでしまうと、熊がやってきて、人々を食べてしまうからである。おとぎ話のようだが、そのせいで、ロシア語で熊に当たる言葉があったが、忘れられてしまい、「蜂蜜を食べる者」という言葉だけが残ったというのだ。
ハリーポッターの「例のあの人」のようなものである。
日本でも、結婚式で切れるや、別れるという言葉を使うことはタブー視されるし、葬儀でも各地でその手のタブーがある。
中国最後の王朝清朝で、愛新覚羅溥儀が即位する際に、幼少の溥儀が退屈してぐずった際、侍女がこう言った。
「もうすぐ終わりますよ」
かくして、彼の即位の四年後。辛亥革命によって、清朝は滅びる。
不幸なことを考えたり、言葉にすると、災いがやってくる。不幸を口にすること自体が、不幸を招くことになるという、古代からの呪術である。これが科学的であるかどうかという以前に、身を律するために用いられていたものであり、文化として軽視すべきではないだろう。
ただし、他人を断罪したり、同調圧力のために用いられるのだとしたら、それは近代人とはいえない。橋を建てるために、処女を生き埋めにしていたような文化は、現代科学とは相いれないし、そんな文化は過去の記録だけで十分である。
何より、人間の言葉にそれほどの力があるのなら、教会であれほど、祝福を口にされているのに、このザマなのは説明がつかない。口にした言葉と共に、行動が伴わなければ、経済的な成功すらもありえない。
つまり不幸を口にすることと、不幸になることとに、直接的な因果関係はない。文化的にタブーが存在する、という程度でいい。
品行方正な有権者
無知は蒙昧である。
野党の中でも、国民に呼びかけて、デモを行うような政党がある。
それに対して、したり顔で批判する人のポストを見る。実に嫌な気分になる。
「社会不安を煽るようなデモ行為を助長して、勢力を拡大しようとしている」
そんな批判であった。
こういう、シニカルな態度こそ、無関心と無知の象徴といえるだろう。
社会不安を煽っているのではなく、実際には、社会問題が存在しているのだ。その存在に目を背けてさえいれば、平和に暮らせるというのだ。それこそ、太るまでは生かしてもらえるという、豚の自由ではないか。
問題を指摘しなければ、問題が存在しないというのは、ただの現実逃避でしかない。選挙で破れても、選挙に不正であったと駄駄を捏ねるようなものだ。いくらでも、自分に都合のいい真実を作り出せるが、それは現実からかけ離れた妄想であり、それに固執すればするほど、現実から見捨てられることになる。
お行儀よくすることは、日本人の美徳である。
だが、社会に問題がないふりをして、他人に犠牲を強いているのなら、他人に無関心で自分だけの無事だけを願っているのだとしたら、あまりに臆病であり、残酷というべきだろう。いや、偽善というべきだろう。
我々人類は木を下りる前から、群れを形成して生き残ってきた。群れの仲間が脅かされることに、鈍感なものは、本能に鈍感なものであり、そんな奴は滅びてしまう。
デモを冷ややかに見て、したり顔で批判する者こそ、厄介な、群れを破滅に導く者なのだ。