オウム事件の後に何が変わったのか。

宗教法人法の改正というが、一般には馴染みがない。せいぜい、地下鉄のゴミ箱がなくなったくらいだ。

宗教文化について、どういうものかを教育で取り上げるべきではないかという議論が起こっていたのに、最終的に決まったことは「面倒くさそうなので何もしない」ということだ。

そして、キリスト教系の新興宗教によって、家庭を崩壊させられた男が、元首相を殺害した。まるで明治か大正の頃のように。

結局、何も変わっていなかったのだ。

オウム事件の直後には、宗教に詳しいという評論家どもが、アホみたいに本を量産していたのに。

 

このことに対しては、行政も、国民も、報道も、無責任極まりない。無関心で、何もなかったことにすれば、これからも何も起こらないだろうという、幼稚な呪術にとりすがっているのが現実である。

それが文明人のすることか。

利害のためだけではなく、有益な情報をシェアするのが、ブログというシステムの最大の利点なのではないか。

専門家ではない者が、専門的に踏み込まないまでも、正確な情報を開示していくことで、無責任な連中に頼ることなく、自衛手段をシェアできるのではないか。

 

キリスト教について、学んだことを書いておくべきだと確信している。

洗礼すら受けていないし、福音書を精読しているわけではない。

しかし本質的なことの説明に触れることができた。そのことから、”キリスト教”と、”キリスト教的な別物”の違いを見分けることができるようになった。

この知見をシェアしないで、芸能ニュースしか読まないというほど、我々日本人はバカではない。

日曜日だけに、テーマはキリスト教である。

 

キリスト教のメインテーマ

もしキリスト教のことを語り、勧誘めいたことを口にする人に遭遇すれば、率直に質問すればいい。

「放蕩息子のたとえについて、あなたの考えを教えてもらえますか?」

これに対して、回答が曖昧だったり、説明に熱意が感じられなかったら、それは偽物である。できれば、額に赤いマジックで書いてやるべきだ。”パチモン”と。

キリスト教とは、愛だとか、天国とか、ややこしいことは抜きにして、放蕩息子のたとえ話を知っているかどうかだ。知っていて、深く感銘を受けているのがキリスト教であるし、それはさておきと話題を替えたがるのが、別物。

イエスという、有名どころの話はメインではない。

彼のことを話したがるのは、ジョン・レノンを語るが、ビートルズの曲を知らないと言っているようなものだ。

彼らのエピソードではなく、彼らが何を主張したかだ。

その中心テーマが「放蕩息子のたとえ」なのだ。

 

放蕩息子のたとえ

なんじゃそりゃ、と言いたくなるような例え話である。

砂漠の国で、父親が二人の息子に、金を与えた。これで商売をして、生活していくようになりなさいと。

兄はラクダに乗って、いろんな人に会い、苦労して、商売を成功させ、そこそこ金持ちになって、父親に会いに戻ってきた。

父親は喜んで歓迎してくれた。

そこに弟が帰ってきた。

彼は衣服がボロボロになっており、父が与えた金を全て失い、飲まず食わずで息も絶え絶えになって帰ってきた。

父親はそれを温かく迎え、ねぎらい、また金を与えて、送り出した。

するとしばらくして、弟が帰ってきた。

衣服はボロボロになり、父が与えた金を全て失い、飲まず食わずで息も絶え絶えになっで帰ってきたのである。

父親はそれを温かく迎え、、、。

兄が怒った。

「なんで、弟にそんなに構うの。こいつはバカなんですよ。次に送り出しても、また失敗するに決まってるのに」

すると、父親は応えた。

「助けを求めて、私のところに来たのだ」

そして、また弟をねぎらい、金を与えて、送り出すのだった。

これが放蕩息子のたとえである。

はあー? なんじゃ、そりゃ。

ここで表現されているのは、神が無条件に弟(人類)を愛しているということである。無条件である。信じる者は救われるのではなく、神は最初から助けてといえば、ウェルカムなのだ。

兄の主張はよく分かる。どうせ、ダメなやつはダメというか、そもそも弟にやる気あんのかと言いたくなる。

だが、この例え話は違う。

父とそもそも取引などできないのだ。

神はただただ人間を愛し、人はただ愛されるだけである。そもそも取引ができる相手ではないのだ。

金を払おうが払うまいが、神にとって人間ごときの金など、どうでもいいのだ。彼のテーマは愛することだけなのだ。

神の名を語りながら、金銭問題をちらつかせるものは、最初から兄と同じことを言っており、神の言葉を信じていないのだ。そんなものはそもそも、キリスト教ではない。

実際、イエスは神殿で商売をした連中にガチギレしている。神を商売道具にすんなと、屋台を破壊(マタイによる福音書21:12-17)し、そのせいで最終的に処刑されている。つまりキリスト教の本質的なテーマでもあったのだ。

神とは取引ができない。これが放蕩息子のたとえの核心なのだ。

だめ人間が居直るのでもない。

 

神の役割は経済でも道徳でもない

精一杯がんばって、それでもダメな結果になった時こそ、神は喜んでそれを労ってくれるだろう。結果など、どうでもいいのだ。傷ついて、くたびれた時に、助けてとさえいえば、そこに神がいて、慰めてくれるのだ。くたびれた弟のように、全員を暖かく迎え、労ってくれる。

もっと端的なことをいうと、神はそれだけの存在である。何か金品を要求しても、叶えられない。そもそも、そんなものを保証したことは、一度もない。

東アジアの多神教の神は、そうしたことを確約する。

もちろん、実際に願えば叶えられるかどうかは、もう主観の世界のことである。

GODのことを、神と訳したのは、明治時代からで、もともとは絶対者という意味で日本人に馴染みのある、「大日(如来)」と称されていた。

このために、密教の現世利益を期待された側面もある。

しかし、出典は大日経ではなく、福音書だったのだ。

得られるものは、当然ことなった。

明治になって、神(尊いもの、上にあるもの)と翻訳されたが、やはり正確な翻訳ではないと言われているのも、納得がいく。決して、道徳や経済を司っていないのだ。