どうして選挙にいかないのか。
どこか地方選挙であるたびに、「投票率は前回に比べて、何ポイントダウンでした(だから、民意を反映したとは言えないのかもね)」と報道される。報道のアホ丸出しである。
実際の議会制民主主義のルールはシンプル。
「投票した意見だけを反映する」
そのための投票なのだ。期日前投票を含めて、投票しなかった者の意思など反映しない。
まだマシである。
本来であれば、敵対勢力があれば、仲間に呼びかけて、武器を揃え、寝込みを襲い、根絶やしにするのが人間の性である。
根絶やしにしたつもりが、うっかり何人かを殺し損ねたり、仲間内に反対意見があれば、最悪だ。次は自分が命を狙われる羽目になる。
この殺し合いの連鎖が不毛で、効率が悪すぎる。そこで、相手を殺さず、賛同者の数で決着をつけることにした。これが選挙の本質である。
三百年前まで、我々日本人は利害目的で殺し合っていたのだ。礼儀正しく、お互いを思いやるなんて、幕藩体制と寺子屋教育のおかげである。
殺さず、殺されもしない、安全なシステムとして選挙があるのに、どうして投票にいかないのか。
選挙にいこうと呼びかけるのではない。
選挙に行かない理由を推測してみる。
ここでの目的は一つ。
選挙に行くべきだと思っている人が、選挙に行かない人に遭遇した時に、相手を理解するのに、参考になるのではないか。
不幸を前に、不幸から身を捩って逃げるのではなく、不幸とは何なのかを正面から考える。
投票に行かない人の気持ちを察したり、推測してみる。結果はどうあれ、それだけでも、意味のあることだと思う。

1.賛同できる候補者がいない
圧倒的に多い理由はこれではないか。
地域経済を復興するとか、生き生きとできる社会とか、抽象的な能書きを、飲まずにマイクで口にしている連中を見ていると、小ゲロがこみ上げてくるのも分かる。
そういう候補者は大抵、親が金持ちで不労所得が多く、政党の要請を受けて、彼らの勢力拡大のために立候補しているだけである。政治など、何も知らない。
しかも当日の八時に分かるのは、現職の再選である。わざわざ選挙祭りをする意味があるのかと思ってしまう。当然だ。
そもそも、その選挙イベント自体、我々から取り上げた金で行われているのだから、腹が立つ。見たくもない。
だが、「投票した意見だけを反映する」という原則は変わらない。
小ゲロが出そうなら、少し水分を控えて、投票所にいくしかない。
考えるのが苦手なビギナーは、ポスターのうち、見栄えのいい人を選べばいい。そもそも身なりに気を使えない候補者が、有権者に気を使うことはない。清潔感があり、まっすぐカメラを見ている候補者は、いくらかマシである。
そうした候補者がいない場合は、一番悪そうな候補者を見つけ、その敵対者に投票すればいい。
消去法だが、少なくとも、権利を行使した。

2.勝つ方に便乗したい
驚いたことに、自分の一票が強い方の後押しになりたいという人間が存在する。
弱気より、自分は強い方を応援したことで、先見の明があると思いたいのだ。行きずりで、足を開いただけなのに。
与党が圧勝なのは、大抵これである。
つまり勝つ方に味方すれば、自分は睨まれない。権力者から見逃してもらえると信じているのだ。
そんなことはなく、社会保障費は値上がりし、勝手に外国に宣戦布告され、銃を手渡されるのに。
積極的に勝つ方につくのは自由だ。しかし与党が批判された後の選挙に行くと、権力に睨まれるのではないかと怯えるのは、ある種の疾患である。
(日本国政府に国民を監視する能力があるのなら、コロナワクチンをもっと早く普及させることができた)。

3.選挙に行っても変わらない
これもポップな意見である。いや、古典的な意見である。
そういじけるなよ。
実際は逆。選挙に行っても変わらなかったのではなく、行かなかったから、変わらなかった。
民主党政権が誕生したのも、国民が投票したからである。
そして、選挙に行かなかったから、組織票を持つ与党が勝利したし、し続けている。
逆に組織より、たくさんの反対票が集まれば、当然、状況はひっくり返る。
選挙に行っても変わらないという確信は結構だが、たかだか4、5回(それ以下かも)投票しただけで、世の中悟った顔をするなんて。
というか、与党の狙い通りすぎである。それに歯向かう気力がないなんて、どれだけ甘やかされて生きてきたのか。

4.選挙に行かないのも自由だ
当然である。自宅から追い出されて、投票所に銃口で脅されながら歩くなんて、独裁政権のものである。
選挙に行かないのは自由だ。
問題は、本当に確信ある自由なのか?
選挙にだけはどうしても行きたくない。あの日、息絶える直前に父親が最後の力を振り絞って、選挙にだけは行くなと言われたとか。
投票のことを考えるだけで、憂鬱になるのか。顔見知り程度の候補者のうち、誰かを選ばないといけない責任に押し潰されそうになるのか。
そこまでの理由があるのなら、自由である。
だが、そうでもなく、なんとなく行かない自由を謳歌したいというのなら、それもいい。
原則さえ忘れなければ。
つまり、「お前の意見だけは無視する」と言われても、文句は言えない。それが棄権の自由である。

5.日本の文化に馴染まない
かなり強引な主張だ。日本文化の何かを知っているかのような。
しかし鎌倉幕府は合議制であったし、さかのぼれば、聖徳太子が「和を以て尊しとなす(闘争ではなく、話し合いで解決する和解こそが、尊い)」と言っている。
確かにイギリスやフランスのように、議会制民主主義は明治以来のものであるから、新しい。
だが、本質は日本人の文化にすでにベースがあった。外国の輸入品だが、あんぱんのように、日本人好みに改良するのは、いつだって我々の得意分野ではないか。拒否してどうする?
ましてや、明治天皇が認めたのが議会制民主主義である。徳川幕府が結んだ不平等条約改正のためには、議会(国民の意志を反映する社会システム)の設置が欠かせなかったからだ。
日本人が民主主義を受け入れられないのだとしたら、百年以上恨んでいることになる。ハンバーガーやコーラはあんなに簡単に受け入れても、民主主義だけは勘弁してくれというのは、本気か?

6.権利という考え方がそもそもキリスト教
「法の下に平等」という表現が、聖書っぽいから、誤解されがち。
「(神の与えたもうた)権利」という誤読が、憲法に対しても行われる。
キリスト教徒ではないから、権利を理解できないというのは、相当に無理がないか?
欧米の植民地になっていた東南アジアの国々では、我々より権利を理解していることになる。

逆に、清朝から大日本帝国と宗主国が変わった台湾には、権利が理解されておらず、選挙が活発でないはずである。総統選挙の報道はその逆である。

現実を見れば、矛盾する意見と言わざるを得ない。宗教文化を引き合いに出すのなら、我々はかなり独自の文化をもった閉鎖的な島国であり、排他的な文明の中でしか生きられないことになる。
日本は日本で独自の文化があり、外国には理解されないというのか。
そうだとしたら、ハリウッドで表彰されたり、国産のアニメや漫画が売れることは説明できない。
独自の文化があり、海外のものを受け入れにくいと思いたいために、作られた屁理屈でしかない。
明治の文明開花で、先人たちがどれほど翻訳に努力したことか。

7.道徳の問題と誤解している
選挙に行くのは意識が高く、怠け者は選挙に行かないという誤解。
確かに寝過ごした日曜日に、テレビを消して、ズボンを履いて出かけないといけないかと思うと、怠け者には至難の技である。
しかし道徳とは無関係である。
逆にいうと、投票に行ったからといって、ワルとしてダサくない。
むしろ与党に刃向かって、野党に投票するなんて、なんて反社会的なのか。パンクそのものではないか。
投票所を焼かない限り、道徳的に何の問題もない。
道徳はもっと内面の話である。日曜日の洗濯を怠けたことの呵責が道徳で、履くズボンがあるのなら、投票所へどうぞというのが権利である。
もっというなら、顔立ちのいい、自分好みの候補者に投票することだって許される。しかも異性、同性関係なくだ。

8.見張られてると誤解している
投票所の立会人を、監視員だと思っているのなら、独裁政権の報道を見過ぎ。
立会人が武装していないのは、我が国がまだそこまで末期ではないことの証明である。
さらに投票箱が透明でないこと、記入用の立ち机に囲いがあることも考えてみるといい。投票用紙は誰も覗いていけないことになっているし、実際覗けない。
候補者名の代わりに偉大な魔法使いの名前を書こうが、女性器を意味する卑猥なマークを書こうが、全部許されている(実証済みである)。
見張られていない。
最初に氏名や生年月日を問われるから、個人情報を扱われているようで不快であるのも分かる。これは二重投票を予防するための方法である。
これが改善されると、安心してみんなが投票するようになる。当然、投票率が上がって、与党の得票数が減る。だから、永劫改善されることはない。
それでも、見張られているのではないかと不安に感じるのなら、そもそもスマホを解約すべきである。改札口を出てからGoogle mapをみたり、ましてや買い物などしていれば、とっくに個人情報はダダ漏れである。
ましてや自分が国家レベルで監視が必要な機密情報を持っている確信があるのだとしたら、一度、遅い時間まで診療してくれる精神内科を受診した方がいい。

9.選挙自体がよく理解できていない。
これをカミングアウトするのには、勇気がいる。
最後に選挙について学んだのが、小学生の頃だ。選挙という漢字が読めただけでも、目覚ましい進歩ではないか。
個人が直接、生活や治安に関して、ルールを決定することができない。
それを専門にできる”優秀な”人に頼むしかない。我こそはと名乗り上げているのが、「候補者」である。
複数人の候補者のうち、もっとも優秀そうな人の名前を、みんなが書いて、最終的に多かった人を代表として任命する。
その人が自分たちの代わりに、ルールを決定してくれることになる。
これが選挙だ。
だから、候補者はちゃんと当選後どうするかを説明すべきだし、説明できずに名前を連呼するのなら、そいつはナシだ。

10.漢字がかけない。
ひらがな、カタカナでもいい。その混在でもいい。
支持したい候補者名だけを書けばいい。記入用の立ち机には、ちゃんとふりがな付きで、候補者名が一覧になっているから、うろ覚えでも安心である。
書き順は特に問われないから、安心して書こう。

11.現実を生きていない。
三食と排泄はリアルにあるが、それ以外は興味がない。
それも自由である。
真夏に水分が足りなくて、うつらうつらしているようなものだ。
問題はそれが年中許されて、何もしなくても、社会が良くなっていくという希望的観測に立っていることだ。
間違いなく、隣人は生活に追われ、税金は上がる。
現実から逃げてくれている間に、連中が徴収した税金を、あの手この手で自分の懐に入れている。
現実に興味がないとは、隣人の不幸から目を背け、自分が次の番であることから、目を背けているだけで、戦う前からひざまずいているようなものである。

12.無関心がカッコイイ。
無知なのは自由である。学ばない自由もある。
社会問題を知らないでいる自由もある。
将来を考えない自由もある。
全て自由であるが、あくまでも内面のものである。
そして、その内面の自由といっておきながら、実態は太るまでは殺されないでいられるという自由だとするなら、それは人間の自由とは呼べない。豚の自由でしかない。

大原則は変わらない
棄権するのは自由だが、大原則を忘れてはならない。
 

「投票した意見だけを反映する」
 

投票されなかった意見など、存在しなかったことになる。
 

だから、投票しなかったのなら、世の中に不平を抱いてはならない。不満を持つ自由はそこにはない。(今の世の中全部大好きとは、なんとお気楽な)

有権者の半分が投票にいけば、とっくに現状は回復されていた。国民の所得が増え、景気が回復し、子供たちの福祉も、将来の年金も充実するのに。
 

それができないのは、タスクをメモに書き出さず、テレビのリモコンを握りしめて、テレビ番組が終われば、問題が全て片付いていますようにと願っているようなものである。
 

選挙に行かない理由があるのは自由だが、本当に共感できるような意見は、一度も聞いたことがない。残念なことに、大抵は怠け者の屁理屈である。
 

自分は選挙にいくのが面倒で怠けているくせに、社会が悪いとか、景気が悪いとか、国会議員が悪いとか、どうして言えるのか。
 

仮説をいくつか立ててみて、やっぱり分からなかった。