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◎10月9日のこと。

京都行きでは「2並び」があった。22、222キロだ。帰りのR21、関が原あたりで、昼頃だった。

写真4枚目はその場所。「近交運輸倉庫」という看板がある前だった。キロ以下が「2」を過ぎたのがちょっとアレかな。



以前、リード90では、やはりゾロメで、55,555キロが出た。この数字が出たのが平成15年9月25日、午後(ゴゴ=55)5時55分。そしてなんとスーパーの「オリンピック(五輪)」の前であったのだ。

PS:写真3枚追加します。昼にラーメンを食った店「国界(くにさかい?)」の看板、「新宿」の文字が見えた標識などです。

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●2CHから転載

【三国史記新羅本記】より
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。 私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」と聞いた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、 不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、 かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。

:2008/05/04(日) 19:01:59 ID:inu/QaUQ
【三国史記新羅本記】より
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を侵す。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を侵した。
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。
802年 冬十二月、均貞に大阿ン食の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。


7 2008/05/04(日) 19:02:39 ID:inu/QaUQ
【歴代百済王】
■近肖古 在位345~375
姓は余。名は句。日本書紀では速古。日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を献上。
■近仇首 在位375~384
姓は余。名は須。日本書紀には貴首と表記される。近肖古の息子。
■枕流 在位384~385
姓は余。近仇首の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。
■辰斯 在位385~392
姓は余。名は暉。しんしおう。近仇首の息子。日本書紀には、「(辰斯が)仁徳天皇に対し無礼な振る舞いがあったので、
紀角宿禰らを遣わし譴責した。百済国は、辰斯を殺して謝罪した。紀角宿禰らは阿花(阿華)を王位につけて帰国した」とある。
■阿華 在位392~405
姓は余。名は阿芳。枕流王の息子。国情安定のため日本へ助力を求め息子(のちの腆支)を人質として献上。
■腆支 在位405~420
姓は余。名は腆。阿華の息子。直支とも。人質として日本で生活。日本の援軍を得て高句麗との戦争中阿華が死去。帰国して即位。
■久爾辛 在位420~427
腆支の息子。日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。
■斐有 在位427~455
姓は余。名は斐。久爾辛の息子。眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。
■蓋鹵 在位455~475
姓は余。名は慶。斐有の息子。近蓋鹵ともいう。人質として弟・昆支を日本へ献上。高句麗により百済は一時滅亡。
■文周 在位475~477
姓は余。名は牟都。あるいは都。蓋鹵の息子。百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛殺害されていた。
やむなく木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。重臣・昆支の死後、解仇により殺害された。
■三斤 在位477~479
姓は余。名は壬乞。文周の息子。父を殺した解仇の傀儡として即位した。反乱をおこした解仇を倒す。


8 008/05/04(日) 19:05:51 ID:inu/QaUQ
【歴代百済王】
■東城 在位479~501
姓は余。名は牟大。昆支の息子。日本生まれとされる。日本書紀では末多と記述。幼少時より優秀で雄略天皇に寵愛される。
三斤急死により、日本から帰国し即位。中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。臣下の恨みを買い、暗殺された。
■武寧 在位501~523
姓は余。名は隆。東城の息子。日本生まれのため斯麻(しま)王と大和言葉の号で呼ばれる。日本書紀では蓋鹵の息子。
また「嶋王」と表記。東城を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇との関係を維持。高句麗と戦う。
■聖 在位523~554
姓は余。名は明。聖明ともいう。武寧の息子。日本の支援を得て高句麗からの攻撃を撃退。
一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。
■威徳 在位554~598
姓は余。名は昌。聖の息子。戦死した聖のあとをうけ即位。王子(恵)を日本に人質として献上。
■恵 在位598~599
姓は余。名は季。聖の息子。554年、聖が戦死。555年、人質として日本へ渡る。556年、帰国(562年日本は高句麗へ出兵)。
■法 在位599~600
姓は余。名は宣。孝順ともいう。恵の息子。
■武 在位600~641
姓は余。名は璋。法の息子。隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。
■義慈 在位641~660
武王の息子。唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。
この時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅に両面攻撃を受け滅亡。王族のほとんどが唐に連れ去られた。
■豊璋 在位***~***
姓は余。名は豊璋。義慈の子。唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ。以後30年間日本で生活。
660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈は捕虜となる。亡国の王子となった彼は亡命政府の主となるが、
白村江の戦いで敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。

※ 善光
義慈の息子。豊璋の弟。百済滅亡後日本にて大和朝廷に臣従。
持統天皇より従五位下の下級貴族として「百済王(クダラノコニキシ)」の姓を賜る。

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◎11月25日・社保庁に書類届いた

●外出から帰ったら社保庁から封書が来ていた。もう来たってことは「即、却下」じゃん。しかも、封筒には全然厚みがない。こりゃだめだ。

●だが、ただの書類受領の通知だった。しかも、担当は書類発行を依頼した同じ担当者だった。

●少し注意書きのようなことが書いてあるだけだ。ひとまず安心。でもダメモトだからね。期待しないで待ってます。

◎いまさらだけど、この申請書を書くのに何で2ヶ月もかかったのか。以下のような理由。

1・・・相談した社労士の回答が「可動域が「著しい障害」に当てはまらないので申請はムダ。」ということだったので、とりあえずやる気を失った。

2・・・提出の期限がないのでけじめがつかなくなった。

3・・・そもそも「ダメ」と言われているので、なにをどうかいたらいいかカイモクケントウツカン。絶望感だよ。

4・・・自分の症状だからその通り書けばいいようなもんだけど、それが書きにくいんだよね、つまりケガの状態と、ソレによってどんな手術をされたかということを説明したいんだよね、それでDRが説明したことを根拠にすることになるけど、DRはほとんど説明してくれなかった。無論、専門的なことなんか書ける訳でもないし、書いてもでたらめだと思われるだろう。書きにくかったホント。

◎そして出してもだめならやめておくか、と何回も自問自答したが、結論はいつも、とにかく出すだけ出そう、ということだった。理由は以下の通り。

1・・・こういうものは「請求主義」(自称)で、請求しないと向こうからは「差し上げましょう」とは絶対言ってこない。(税金のようなものは向こうからいやでも言ってくるが)

2・・・労災8級という「新証拠」が請求の根拠になる。これは大きい。実際、ネットで見たら、「他の事例を示したり、新たに証拠となること」を見つけないと「審査請求」の意味はない。というのもあった。「事例を示す」にはまいった。そんなことできるの?。そんなことやった奴いるの?うそだろ?絶対できっこないよ。そういう意味で「労災8級」は立派な「新証拠」になると思う。

3・・・「労災の7級が厚生年金の3級」と社保庁の担当が言ってたが、それは「労災の8級は手当金クラス」じゃないかという傍証にならないか。

4・・・時間に期限がないのだからじっくり考えて好きなことを書けばいい。ダメモトだ。

・・・そういうわけね。

★追記・・・この前もどこかに書いたと思うけど、「障害手当金」の請求ってあんまりないっていうのをどこかのサイトで見た。不思議に思う。なぜなのか。そんなものいらねえやって、普通は思うものなのか。申請が大抵断られるっていうならわかるが申請そのものがないって言うのが全然わからん。こういうのってやっぱり軽傷が相対的には多くて、重症になるにしたがって少ないんじゃないのかね。だから申請も認可も障害手当金のクラスが一番多いだろう。それが全然ないってどういうことなんだろうか。ワシのやったことってバカ?

★★追記の追記・・・バカかもしれない。なぜかって、「審査」をするのは別に裁判所じゃない。第三者が調査するわけでもない。審査の結果却下だとしても多くの場合は反論など意味がない。「却下し放題」、却下するのがあたりまえの状態ではないのか。そう思う。

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◎11月21日・社保庁の件

社保庁に審査請求書類を送付した。請求書の用紙をもらってから2ヶ月だ。期限については大丈夫と思うがチョット心配になる。

請求書をもらってから下書きを1回した。清書をする前にももらった見本に一回下書き。清書は1時間くらいで終ったかな。これだけのことで2ヶ月も必要だったのだ。

ただその間に京都に20日間行ってた、あとの1ヵ月半はココロの準備だ。それに予備知識のためにネットでソレらしいところを見た。

添付書類として労災の障害認定の通知書類と厚生年金の方の不支給通知がある。それらの全部のコピーをとるために近くのコンビニに行った。それから一度戻って封筒に詰めてやっと投函。出した後、ちゃんと書類はそろっていたか心配になった。でももう直し様がない。

はたしてどうなのか。即、却下か。そうなる可能性もある。オールオアナッシング。そこがダメモトなんだ。







京都から帰ってから最初にやったのがネットで社労使のサイトに無料相談したこと。その回答は意外にも可動範囲を問題にしていた。これにはちょっと驚いた。たしかに可動範囲が障害程度の判定で問題になることは知っている。だがそれは労災や損保のなんかで出る問題だと思っていた。たとえそうでないにしても社保庁から届いた不支給通知についてきた規定表?には角度なんかは全然出ていない。

もし実際にそれが問題なら、もともとだめだ。だがワシに言わせれば「社保庁は可動範囲なんていってないじゃん」ってわけ。だからネットの回答は意外に思った。

しいて言えば、ウラじゃそういわれていることはプロなら知っていると言うことなのだろうか。ワカラン。だが、規定には表立ってはないということは確かだ。

だからそこに「突っ込む」余地はあるんじゃないかと、希望的観測をするのだ。

今回は労災の「8級認定」というお墨付きがあるのだ。これがなければ請求もしない。なにより社保庁の担当者は「労災の7級は厚生年金の3級」と言ったことがもっとも心強い「根拠」だ。

じゃあ労災の8級は厚生年金の「手当金」級でしょうというわけね。

社保庁の皆さん、穏便なるご配慮お願いしますね。

写真は左から1枚目が今回提出の請求書の自筆の「理由」欄。2枚目は社保庁からの当初の「不支給通知」についていた「規定表」。大きいのは今回提出した書類一式。

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19日間も旅に出てるなんて人生で初めてだった。帰ってからしばらく虚脱状態だった。ホント。

神社仏閣だけでなく嵐電のようなところも含めると46ヶ所に行った。京都には正味14日だから1日あたり3.5箇所。他に「通り」が4箇所だ。雨の日に出られなかったのが痛い。

人に話すとずいぶん行ったように思われるが京都全体を見れば1~2%かそれ以下と言ったところじゃないかな、そう思う。

安心した。まだまだ大丈夫。次回は来年の春頃だ。今度は1ヶ月と考えている。往復は新幹線か列車の乗り継ぎでより道をしながら行く、むこうでの移動はレンタバイク。

単に名所と言うのではなく行ってみたいところがある。太秦の撮影所で「ふすま」を見たいと言うのもある。数十年前から現在に至るまで、太秦で撮影された時代劇はフスマの模様が決まっているのは周知の事実と思うが、実物を見たい。

それにこれから「情報」が入れば行きたくなる所も増えるだろう。

ワシは西には姫路から向こうへは行ったことがないので、できれば本州の端っこまで行ってみたい。

写真は今回の旅行でもらったパンフである。


★食事処まとめ
(店名、だいたいの場所、カテゴリ、頼んだメニュー、インプレ)

店名記録なし、
平等院近く:食堂:他人丼800円。
観光地風。
店名記録なし、
平等院近く:みやげ物屋:ソフトクリーム抹茶250円。
ボッタクリだろう
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/41697094.html

奥の院
渡月橋近く:食堂:京極ざるそば御膳1575円
観光地風、やや大型店。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/41876863.html

つち福
千本通り:食堂:ランチ760円、
町の食堂、かざらず家庭的。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/41927100.html

おめん
銀閣寺近く:和食:つけうどんと鯖寿司セット:1700円。
小店舗ながら老舗風、メニューやや高だが良質。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42031750.html

キンカーオ
七条大橋そば:タイ料理:ランチ880円、
店は2階、珍メニュー、一度行けば充分か。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42143057.html

唐子
東大路通り・二条通り交差点近く:ラーメン店:ランチ750円、
町のラーメン屋
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42218073.html

天下一品
広隆寺そば:中華:ランチ800円、
チェーン店、わり高な印象。もうちょっとサービスできるやろ。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42251943.html

天竜
大徳寺近く堀川通り:ラーメン店:ラーメン600円、
町のラーメン屋。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42302049.html

なかじま食堂
今出川通り、河原町通り交差点近く:食堂:ランチ720円、
家庭的なメニュー。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42490765.html

青葉(チンエイ)
寺町通り。御池通り交差点近く:台湾料理:Bランチ850円、
中華というよりエスニック。割高な印象。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42749887.html

風景
錦市場・高倉通り:食堂:ソースカツ丼ざるそばセット880円、
メニュー豊富。
http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/42866061.html

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◎ついに我が家。

R361は伊那をぬけて高遠に入る。それにしても町なかに全然人影がない。サビシイイイ。市内でR152・杖突街道に入って、これは北上。

茅野市でついにR20・甲州街道にとりついた。甲州街道と聞けばもう帰ってきたと感じられる。道を選ぶ心配もなくなる。

2時近く、「ドライブイン」とある「国界」(くにさかい?)という店に入って遅い昼食。ラーメン。

富士山が見え始める。関東に入ったと実感する。

道は比較的単調。韮崎、甲府、勝沼、大月。関東平野に入りつつあるんだと実感する。

大垂水峠、ここはかなりの渋滞。懐かしいがローリングどころじゃない、路肩を延々と行く。

八王子に入るともう夜だ。府中、調布、高井戸。ここからが長い。新宿に着いてやっと来たかと思う。靖国通りを行ってR6に.

帰宅は8時過ぎであった。長い旅は終った。

本日走行375キロ。

◎今日のルートは
★恵那ーR19・中山道-中津川ー木曽村・R361・権兵衛街道ー伊那ー高遠・R152-茅野・R20・甲州街道ー甲府ー大垂水ー八王子ー調布ー新宿ー靖国通りーR6-R14-松戸・我が家。

◎京都からは計595キロ。1泊2日。

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◎恵那から伊那へ

朝食で大広間に行ったが昨日見たワカモノ2人はいなかった。広いところで1人で朝食をとった。

写真で真ん中に写っている干物は、ワシは初めて見るものだった。ムナビレが妙に長くてチョット気味悪い感じだった。一見トビウオかなと思ったがそれにしては小さい。帰ってから偶然TVでそれらしい魚のことを紹介しているのを見たが、やはりトビウオらしい。地方によっては「アゴ」と言うようだ。

民宿・籐五郎。料金6300円。あの料理でこの値段は今回ベストだ。階段が急だけど。

昨日は200キロ走ったわけだから今日はどう見ても350キロは走る計算だ。10時間以上だろう。しかし今日は時間には縛られないから気が楽だ。ひたすら帰ることだけ考えればいい。

県道からR19・中山道に入って松本方向に走る。方角としては北東だが関西と関東との間は中央山地のためにどうしてもジグザグに行くことになる。

「木曽路はすべて山の中にある・・・」中津川を過ぎると街道は木曽川沿いを行く。

R19は道は良い。山間地を行くと高速道を行くような感じだ」。タンクローリーのような大型車を追い越させるので注意が必要だ。

3時間ほど走って日義(ひよし)木曽駒高原という道の駅で休憩。この道の駅の前後数キロに渡って工事をしていてこんな山中で渋滞をしているのだ。それでトイレ休憩した。

道の駅を出て少し走って山吹トンネルに入る手前でR361・権兵衛街道(笑)に右折。これはR152、ひいてはR20に行くためのショートカットなのだ。まっすぐ行ったのでは塩尻や松本に行ってしまう。ここは茅野に入りたいのだ。

R361は東西に走っているので安心感がある。東へ行きたいってのにいつまでも北方向に走ってると焦燥感がある。

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◎京都発、恵那峡民宿まで

ついに京都ともおさらばだ。ゴミが多くなるのが心配だったがゴミ箱についていたビニール袋にギュウギュウに押し込んでなんとか一袋で間に合った。

忘れ物はないかあちこち確認。備品類を壊すこともなかった、一度TVのリモコンの電池切れで電池交換してもらっただけだ。

フロントに鍵を返したときにはホッとした。ついにスタート。

まず四条通りの銀行に行って今日の宿代やガソリン代にカネを下ろした。ルートは遠回りしていこうかとも思ったがこの期に及んでトラブルもいやなのでおとなしく最短ルートで行くことにした。

山科あたりのコンビニで一休みと簡単な朝食。サンドウィッチにミルク。

R1東海道を行く。来るときは一度も通らなかった。琵琶湖を東側に回りこんで栗東でR8中山道になる。ここらへんから新幹線が付かず離れずと言った感じでそばを行き交う。

こういうのってまずいと思う。幹線道ということになるから面白味はないし、交通量も多くなるって事だからだ。国道で一桁番号だから当然だが。

R8は米原の西円寺という分岐点を間違わずR21に入る。これでひたすら東進。音に名高い関が原。新幹線で京都に行くときは関が原と聞くともう京都かと思う。

関が原あたりで昼食。ランチメニュー、ラーメンと天津飯のセットで680円。これは安いよ。店員のオネエチャンは中国人らしい。こんなところにも来てるのかと思う。

大垣、各務原。この各務原はあのゼロ戦の初飛行の地だ。ここのどこらへんだろうとムダに考える。崩れかけていたが土蔵が珍しくて写真を撮ったりした。

犬山、美濃太田と来て、日がかたむいてきた。大きいモールがあったのでトイレ休憩と民宿探しをする。ケータイの出番だ。民宿ガイドを見ると近いところでは恵那市だ。

犬山、米原、関が原、美濃太田、地名の感じがいい。歴史を実感する。

ガイドでは恵那市役所の観光振興課が出ている。TELすると民宿の案内所に聞いてくれと言う。これは当然。ガイドのほうがおかしいのだが編集の問題だろう。

案内所にTELすると1軒教えてくれた。早速TEL。OKの返事。うまくいった。しかし店内の騒音でよく聞き取れない。民宿の名も「チョータロー」と聞こえたが奇妙だ。

近くに行ったらまたTELすることにした。見込みでは距離にして20キロくらいだからあと1時間で行けると話した。ちょっと楽観的かとは思った。

実際は1時間半で到着。30キロくらいあった。民宿の名は「籐太郎」(トータロー)であった。場所は恵那市内から少しはずれたあたり。こぎれいで旅館風。今回はじめて宿帳を記入。

部屋は傾斜が急な階段の2階。大変と言うより危険。

風呂に入ってから夕食。大広間に行くと先客が居た。若い男2名。宿のおかみさんと気安い話し方をしていて親戚と言った感じ。

彼等がいるのでおかげでこっちも泊まれるわけだ。・・・と思った。一人だとめんどくさがられるからね。

食事は良かった。値段の割に。ちょっと旅館風だ。TVはよく映っていた。

◎本日の走行220キロ。(31)

◎ルートは
★京都・東山ーR1東海道ー栗東・R8中山道ー米原・西円寺・R21-関が原ー大垣ー各務原ー美濃太田ー土岐・R19-恵那ー県道401-民宿・籐太郎

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◎錦小路・新町通り・付録一条戻橋

新京極通りから錦小路通りに入った。昼食のつもりだ。錦市場は相変わらずの混雑だった。一軒一軒の店を見て歩けば人の波にのっていける。

高倉通りとの十字路まで行ったらそこを右折してすぐのビルの2階に食堂「風景」がある。夜は居酒屋になるらしい。遅い昼食をとることにする。

店先にメニューのチラシがごちゃごちゃとある。人は知らないが、ワシはこういうのは嫌いじゃない、こういうのはたいてい割安なものが多いと思うし、「売らんかな」という熱心さも伝わってくる。

ソースカツ丼とざるそばのセット定食、880円。内容と値段がマッチしている。
(写真ピンボケだったが)

時間は帰るには早いし、どこか決まったところに行くには遅い。で、どこかの通りを行けるところまで行ってみるかと考えた。

適当に行けるところまでと言っても、ワシとしては以前住んでいた新町通りに思い入れがあるんで、御池通りに出て西進して新町通りに入った。

それをひたすら北上。京都府庁や府警本部の建物も京都モノのミステリー関連で見たかったこともある。音川音次郎ね。

造り酒屋だろうか保存指定のある町屋などを見た。映画のセットのようだ。屋根の鐘馗さんの像も見た。

結局,賀茂川沿いの道まで走った。そろそろ日も落ちてきたしガソリンもなくなってきた。明日のこともあるので適当なところで引き返した。

堀川通りとか、大きい通りはやめてなるべく裏道のような通りを下がればいいと思ってでたらめに走った。

そして、ある適当な角を曲がったら、どうも見たような見ないような場所に出た。

なんと、そこは一条戻橋であった!。橋の向こうが堀川通りだ。はじめ来たのと逆の方に出たことになる。これって戻橋の因縁なの?コワイヨオ。戻ってきちゃったヨオオ。

一番下の写真がその時の写真だ。知らない人が見たら何でもない写真だ。

しかし戻橋の恐怖はこれだけではなかったのだよアケチクン。

京都から帰ってデジカメの2千枚ほどの写真を修正したり削除したりした。一日分が2~3時間かかる。

その作業を一日目からやっていったのだが、ある時、飽きてきたのででたらめな日の写真を1枚選んでみた。そしたら、なんと、あの戻橋の写真がいきなり出たんだだよおお。こわいよおお。(32)

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◎新京極 http://www.shinkyogoku.or.jp/

晴明神社を出たが昼を過ぎていた。この時間では中途半端なので寺町や新京極あたりに行くことにした。

御池通りから寺町通りに入る。本能寺があり、矢田寺、誓願寺、和泉式部寺と言われる誠心院。と見て歩く。

永福寺と額が出ている寺の前に床机があったのでひと休みさせてもらう。諸願祈祷の受付がある。見ていると参拝者が慣れている感じで祈願の申込み書を書いている。しょっちゅう来ているのかなと思う。

この永福寺であったか矢田寺であったか、尼さんの読経の声と太鼓を打つリズムが合わさってしばし聞き入ってしまった。

錦天満宮は鳥居を見たかった。鳥居の横木?が隣接する建物に食い込んでいるのだ。きれいに処理されているので一見そうとは気づかない。

この新京極や河原町通り、四条通りは以前京都に住んでいたときは毎週のように来ていた。よく東京に住んでいる(東京生まれではない)田舎出身の人は騒々しいのは嫌いだというような言い方をする人がいるが、ワシは全然そんなことはない。

むしろ田舎の無人の風景を見るとぞっとする。NHKがいけないんだろう、田舎の両親のスミカの悪口は言えず、ただ理屈無しに誉めそやして祭り上げて、そのくせ後はほったらかしに放置するのだ。まったく罪深い所業と思う。

なわけで、ワシは東京を思い出させる新京極は好きだ。一日アチコチの店をひやかして歩いてあきることがない。