
【三国史記新羅本記】より
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。 私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」と聞いた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、 不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、 かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。
:2008/05/04(日) 19:01:59 ID:inu/QaUQ
【三国史記新羅本記】より
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を侵す。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を侵した。
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。
802年 冬十二月、均貞に大阿ン食の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
7 2008/05/04(日) 19:02:39 ID:inu/QaUQ
【歴代百済王】
■近肖古 在位345~375
姓は余。名は句。日本書紀では速古。日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を献上。
■近仇首 在位375~384
姓は余。名は須。日本書紀には貴首と表記される。近肖古の息子。
■枕流 在位384~385
姓は余。近仇首の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。
■辰斯 在位385~392
姓は余。名は暉。しんしおう。近仇首の息子。日本書紀には、「(辰斯が)仁徳天皇に対し無礼な振る舞いがあったので、
紀角宿禰らを遣わし譴責した。百済国は、辰斯を殺して謝罪した。紀角宿禰らは阿花(阿華)を王位につけて帰国した」とある。
■阿華 在位392~405
姓は余。名は阿芳。枕流王の息子。国情安定のため日本へ助力を求め息子(のちの腆支)を人質として献上。
■腆支 在位405~420
姓は余。名は腆。阿華の息子。直支とも。人質として日本で生活。日本の援軍を得て高句麗との戦争中阿華が死去。帰国して即位。
■久爾辛 在位420~427
腆支の息子。日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。
■斐有 在位427~455
姓は余。名は斐。久爾辛の息子。眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。
■蓋鹵 在位455~475
姓は余。名は慶。斐有の息子。近蓋鹵ともいう。人質として弟・昆支を日本へ献上。高句麗により百済は一時滅亡。
■文周 在位475~477
姓は余。名は牟都。あるいは都。蓋鹵の息子。百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛殺害されていた。
やむなく木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。重臣・昆支の死後、解仇により殺害された。
■三斤 在位477~479
姓は余。名は壬乞。文周の息子。父を殺した解仇の傀儡として即位した。反乱をおこした解仇を倒す。
8 008/05/04(日) 19:05:51 ID:inu/QaUQ
【歴代百済王】
■東城 在位479~501
姓は余。名は牟大。昆支の息子。日本生まれとされる。日本書紀では末多と記述。幼少時より優秀で雄略天皇に寵愛される。
三斤急死により、日本から帰国し即位。中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。臣下の恨みを買い、暗殺された。
■武寧 在位501~523
姓は余。名は隆。東城の息子。日本生まれのため斯麻(しま)王と大和言葉の号で呼ばれる。日本書紀では蓋鹵の息子。
また「嶋王」と表記。東城を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇との関係を維持。高句麗と戦う。
■聖 在位523~554
姓は余。名は明。聖明ともいう。武寧の息子。日本の支援を得て高句麗からの攻撃を撃退。
一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。
■威徳 在位554~598
姓は余。名は昌。聖の息子。戦死した聖のあとをうけ即位。王子(恵)を日本に人質として献上。
■恵 在位598~599
姓は余。名は季。聖の息子。554年、聖が戦死。555年、人質として日本へ渡る。556年、帰国(562年日本は高句麗へ出兵)。
■法 在位599~600
姓は余。名は宣。孝順ともいう。恵の息子。
■武 在位600~641
姓は余。名は璋。法の息子。隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。
■義慈 在位641~660
武王の息子。唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。
この時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅に両面攻撃を受け滅亡。王族のほとんどが唐に連れ去られた。
■豊璋 在位***~***
姓は余。名は豊璋。義慈の子。唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ。以後30年間日本で生活。
660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈は捕虜となる。亡国の王子となった彼は亡命政府の主となるが、
白村江の戦いで敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。
※ 善光
義慈の息子。豊璋の弟。百済滅亡後日本にて大和朝廷に臣従。
持統天皇より従五位下の下級貴族として「百済王(クダラノコニキシ)」の姓を賜る。