最後の本は、仏教の中の唯識学(ゆいしきがく)の本です。
『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』 太田久紀(きゅうき) 大法輪閣 昭和60年
(お寺にいくと、『回光返照(えこうへんしょう)』という文字に出会う。
外に向けられた光を内に向けるということであるが、光を内に回(めぐ)らせば、おのずから〔慚〕(ざん)〔愧〕(き)の思いが沸きあがってくるはずだ。)
この中の、慚と愧というのは、”恥”のことです。
恥ずかしいと思う心。
〔慚〕は内面的な”はじ”の自覚で、自分の良心や真理、正義に照らして自分を恥じること。
〔愧〕は、世間に恥じること。世間の評判や、他人の眼、世間体を気にして、それによってはずかしいと思う”はじ”。
自分はこの、恥ずかしい思いに長年苦しんできましたが、この恥ずかしい思いが大切な事だったのです。
と、唯識では言っています。
自分探しが難しいのは、この自分を見つめると出てくる”恥ずかしさ”に堪えられなくなって、途中でくじけてしまうからなのです。
悩むということは、実に大切な事なのではないか。
そして、”恥ずかしい”という思いが出てきてから、ほんとの自分との会話ができるようになるのです。
〔慚〕と〔愧〕は、唯識学では人が人として成長する上で必要な条件の中に数えられているんです。
自分は”恥ずかしい”思いを無くそう、無くそうと、反対の方向ばかり目指していたのです。
それでは長い間読んでくださいまして、ほんとうにありがとうございます。
また、考えが変わったら始めます(笑)