
今日の一曲!Mr.Children「ALIVE」
レビュー対象:「ALIVE」(1997)

今回取り上げる楽曲は、ご存知国民的バンドの…と書くのも若い人には通用しなくなっている気がするMr.Childrenの「ALIVE」です。ミセスのバンド名にミスターが使われなかった理由のひとつ(CREAリンク)ですよと、ティーン向けに遠回しな接点を作っておきます。
アルバム曲であり且つ表題曲でもないけれどタイトル候補ではあったためかMVが存在し、唯一の収録先である『music clips ALIVE』(1997)がVHSとLDでしかリリースされてない上に当然ながら廃盤となっているので長らく視聴が難しい状況にあったものの、現在ではこうしてYouTube上でいつでも観られるので有難いです。
収録先:『BOLERO』(1997)
本曲の収録先は6thアルバム『BOLERO』で、衝撃の問題作である5th『深海』(1996)から一年経たずしての新作ということもあって連作の向きが強くあります。実際当時の音楽雑誌にはそのような言及が認められまして例えば『月刊カドカワ』(1997, vol.15, no.4, p.142)では、中川さんによる「『深海』と対比してた部分は、絶対あったと思う」および「『深海』というアルバムは〝1曲〟にすぎない。『アトミック・ハート』以降の集大成が、『BOLERO』である」や、桜井さんの「本来は、『BOLERO』の中に、『深海』もある」がその一端です。
この意識はシングル曲の通例とは逆転した特殊な振り分け方からも窺え、発表年の遅い10~12thが『深海』に、早い6~9thと飛んで13thが『BOLERO』に収められています。一見すると複雑ですが両名の言う通り、『深海』でひとまとまりの一曲であるとの前提に立てば途端にシンプルですね。事実に反した仮定を持ち出して、コンセプトアルバムをナンバリングに含めない発想と同じと考えれば据りが好いでしょう。なお、事実に沿った余談としてミスチルはミニアルバムだろうとライブ盤だろうとc/w集だろうとナンバリングに含める挑戦的なバンドです。
僕がリアルタイムでミスチルを追い始めたのは2001年からなので90年代のナラティブは後追いでしか知らないけれど、それ以前から親の影響で過去作にどハマりしており当該の二作品も家にあったため何方にも深い思い入れがあります。そんな小学生の時分でさえ『深海』は例外的に暗いアルバムだなと、そして『BOLERO』はジャケットの印象も相俟って明るさを取り戻したアルバムだなと、何とはなしに連続したストーリー性を感じ取っていました。
歌詞(作詞:桜井和寿)
別けても暗然たる幕開けの本曲は『深海』の流れを汲んでいることが非常に解り易いです。"この感情は何だろう 無性に腹立つんだよ/自分を押し殺したはずなのに"の内観が、"馬鹿げた仕事を終え 環状線で家路を辿る車の中で"と嫌に肉付けされます。"全部おりたい 寝転んでたい/そうぼやきながら 今日が行き過ぎる"に鬱の気を感じ、その「厭世観」は社会や世界の不条理にも向かい始め、"手を汚さず奪うんだよ 傷つけずに殴んだよ/それがうまく生きる秘訣で"は、元来の哲学用語としての意味合い「悪は善に勝り苦は楽より支配的」のまさに一形態です。
目下寸善尺魔の世界情勢に悪化の一途を辿る体感治安に照らすと今尚突き刺さる、"人類は醜くても 人生は儚くても/愛し合える時を待つのかい/無駄なんじゃない 大人気ない"にも、残念ながらその通りだと首肯するほかありません。…と、ここで終わっていたなら『深海』行きは免れないでしょうが、"知っちゃいながら"の逆接に微かな希望を察し、"さぁ 行こう"を合図に感情は俄に上向き始めます。"夢はなくとも 希望はなくとも"の惨状はそのままに"目の前の遥かな道を"と広大無辺さそれ自体に未来を見れば、"やがて何処かで 光は射すだろう"といつの間にか余裕が生じて"その日まで魂は燃え"と人生を全うする気概が湧いてくるという、見事な回復曲線の描き方に感動の至りです。
再び『月刊カドカワ』(p.139)から引用しまして、桜井さんが『深海』を「すべてから〝飛び下りる〟には絶好」と表現したのに続いて「でも、逆に僕は、肉体は殺さず、こうして次への生への活力をみつけた」として挙げたのがこの「ALIVE」なので、飛び下り先が地面ではなく水面だったことの幸いが文字通り生きていると繋げられます。この明るい展望に対する観点で興味深かった記述は田原さんの「僕は不愉快でしょうがなかった」の言で、ずばり「〝『深海』ボケ〟」と称して「まだあの世界から抜けきれてなかった」らしく、新作のレコーディング時にも前作の影響下にあったがゆえの意見ですね。これを受けて鈴木さんが「明るいところに抜けてはいかん、という(笑)」と平易にまとめてくれています。
而して実際は明るいところへ抜けつつあり、"意味はなくとも 歩は遅くとも"に"報いはなくとも 救いはなくとも"と無常を物ともせず、"いつかポッカリ 答えが出るかも"と泰然自若に構えていられたら怖いものなしです。最後に個人的な視点を外れてメタ的な読み解きを加えますと、"やがて荒野に 花は咲くだろう/あらゆる国境線を越え"の結びは、『BOLERO』のジャケットがウクライナで撮影されたものであること(penリンク)を踏まえると一層響くと思います。
メロディ(作曲:桜井和寿)
本曲の制作過程が詞先か曲先かは知りませんが、歌詞の展開に忠実な音運びです。倦んだ日常と病んだ世界が織り成す嫌な再帰性が繰り返す旋律のAメロに反映され、それに対しての本音が漏れ出る一度目のBメロではそのネガティブな指向性を感じ取ってかダウナーな変化が見られます。再度Aに戻った後の二度目のBはサビの展開に備えて典型的なブリッジの役割を果たし、"さぁ 行こう"でポジティブに移行するためサビメロの動きは最もダイナミックです。とはいえそこまでA/Bから逸脱した極端な対比ではなく、それらを下敷きに反転させたといった感じの儚く強かなラインに心を打たれます。
アレンジ(編曲:小林武史 & Mr.Children)
イントロから1番終わりまでは打ち込みの聴こえが優勢で、ダークなパッドに渇いたドラムループに物哀しいベースラインとバンドの楽曲らしからぬ音像です。しかし2番から徐々に有機的なサウンドが目覚めていき、無機質からの脱却を以て「生」を取り戻していく道程が演奏に表れています。としつつもラスサビ前の間奏部では打ち込みが完全に排されたわけではないことに意識が向き、これはつまり憂いや迷いが依然として通奏低音にあることの示唆でしょう。だとしてもそれを上書きするほどの生音で目立たなくしてしまえば人間らしさの回復は可能で、とりわけラスサビ~アウトロのギターは生を謳歌するように掻き鳴らされていて大好きです。
(偶々家にあった)参考文献
本レビューは寧ろこの音楽誌の所持を理由に執筆したもので、古い文章に埋もれているアーティスト自身による言葉を紹介したい思いに基いています。写真ページやライブレポに田原さんの連載も含めると22ページに亘る充実の特集で(pp.125-146)、インタビュアーを交えて『BOLERO』をメンバー全員で試聴する座談会がメインです。セルフ全曲解説と言っても相違ない内容ですので、興味のある方は一読をお勧めします。
余談ですが読者コーナーの伝言版(原文ママ)には時代を感じました。「いついつの音楽番組を録画した方でダビングさせてくれる方は連絡ください!」というお願い自体も然ることながら、それが住所と名前付きで掲載されているのですから。