今日の一曲!CHiCO with HoneyWorks「乙女どもよ。」 | A Flood of Music

今日の一曲!CHiCO with HoneyWorks「乙女どもよ。」

 【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:2019年のアニソンを振り返る】の第七弾です。【追記ここまで】


 今回の「今日の一曲!」は、CHiCO with HoneyWorksの「乙女どもよ。」(2019)です。TVアニメ『荒ぶる季節の乙女どもよ。』OP曲。


 当ブログでチコハニの楽曲を取り立てるのは、【2018年のアニソンを振り返るシリーズの冬アニメ・切ない系編】の中で「ノスタルジックレインフォール」(2018)を紹介して以来、ハニワ名義且つ単独の記事としてはHoneyWorks meets TrySailの「センパイ。」(2016)をレビューして以来です。前者はちょっとした言及程度の内容なのでともかく、がっつりふれた後者には意外にもコンスタントなアクセスがあって少し戸惑っています。というのも、10代の女子を中心に人気を博しているようなユニットの音楽を三十路男性である自分が熱く語ったところで、あまり的を射たことは書けていないだろうとの認識であったからです。笑


 同記事は「アーティスト名+曲名」だけで検索を行っても2ページ目に、更に「感想」を付すと2番目(「レビュー」を付すと4番目)にと、そこそこの上位に表示されています。ただ、声優ユニットであるトライセイルもアーティスト名に含まれているため、各人への需要も考慮すれば特段ティーンのガールズのみにオンデマンドというわけではなくなるでしょう。しかし、TV番組「Rの法則」のチコハニ出演回で「10代女子のあるあるが詰まった歌詞」の制作秘話に話題が及んだ際に、Gomさんが「男2人で向き合いながら真顔で書いてますね」と打ち明けていた通り、年齢と性別を超越したクリエイター側の頑張りに近い世代の同性として賛辞を贈りたいのも事実なので、意外と年齢層が高めの男性ファンも居るのではないか(それもアクセス増の一因である)と考えています。

 公的なソースは探せなかったゆえに半信半疑ながら、ネット上の情報が正しければGomさんは現在アラフォーですし(shitoさんは元より生年非公表?)、僕より少し上の世代の手に成る世界観が結果として10代女子にウケているならば、それは限りなくリアルを映したものだったとして差し支えないと思うため、素直に凄いと評したくなるわけです。




 ここまでの流れを受けてアニメ語りに入りますと、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』という作品もまた、特に10代女子の機微にふれる類のセンシティブなテーマ性を含んでいたので、そのOP曲にチコハニを起用したのは名采配と言えるでしょう。ちなみにですが、ED曲の「ユメシンデレラ」(2019)もハニワが手掛けたナンバーで、歌っているのは前出したトライセイルのメンバーでもある麻倉ももさんです。

 個人的な(ティーンの目線ではない)評価としても『荒乙』はかなり意義深いアニメだったとの認識で、とかく「性」から逃げていないところが好印象でした。勿論、物語的な起伏がないと面白みに欠けてしまうため、キャラクターの設定や展開にはフィクションの色味が濃い部分もありましたし、コメディタッチの台詞回しや演出も散見されたのですが、それでも決して「性」をふざけて描こうとしているわけではないことには充分に得心がいく、明確に定められた作品像には称賛を送りたく思います。全く性的なもの(下手したら異性の存在すら)排してしまう無菌室の如き作品よりはよっぽど真面目ですし、反対に下ネタに寄せた性の描き方しか出来ない精神的な幼さが臭う作品よりはよっぽどリアルです。

 偏見もあるかもしれませんが、二次元創作の界隈では後者の「性をネタにして多く放り込む路線」のほうが、『「性」から逃げていない』(リアリティがある)と解される文脈が多い気がしています。ここで認識の摺合せをしておきますと、人によっては『荒乙』こそ下ネタのオンパレード作品じゃないかとの反論が予想される中で、僕は本作のことを全くそのようには捉えていないのだという立脚地が前提です。一応「僕は」と予防線は張っておいたものの、本作を鑑賞して出てくる感想が『「性」に対する「おふざけ」や「ネタ」』に帰結する(もしくはそう誤解して途中で視聴を切った)のであれば、何がとは言いませんが「正しいステップを踏んで来れなかった人かな?」と邪推してしまいます。

 本記事をご覧になる方は、本曲延いては本作に好意的であると推察される人;先の婉曲表現を継続させれば、「正しいステップを踏んで来れた人(若年層なら踏もうとしているだけでも可)」であるとお見受けするので、普段アニソンレビューを求めて当ブログに訪れるような層に対してはやや挑戦的な表現になろうとも、その特定層が本記事を読むことはそもそもないだろうと攻めてみました。このように、本作に対する視聴者のリアクション(主にネガティブなもの)に物申したい気持ちがあるのは否定しませんが、唐突に毒づき出して何が言いたいんだとお思いの方に向けて説明を続けますと、上述した「正しいステップ」なるワードは実は歌詞解釈に入る際の布石として用意したものであるため、事前に提示しておく必要があったというだけの話なのです。その点さえ押さえていただければ、この文字サイズが小さいパラグラフで展開されている主張が意味不明のままでも、以降の文章の理解に子細はありません。





 さて、本曲に於けるストーリーのプロットを端的に表しますと、「"一冊の本"に擬えられた自身の一生に、"“恋”を知るページ"を現出させるまでのプロセスを描くもの」と纏められます。従って、歌詞の方向性は自ずと「その目標を達成するには、どのような心構えで居れば良いのかを指南するもの」となるわけです。これは要するに、本曲が「正しいステップを踏むためのハウツー本」としても機能することを示唆しており、この観点を浮き彫りにしたいがために、わざわざ上記の前置きを用意したのだと言えます。よりわかりやすく換言すれば、本曲の歌詞内容を若い頃に;即ち「荒ぶる季節」にしっかりと心に刻んでおけば、大人になってから覚束ないステップを踏む羽目にならなくて済むよといった、非常に含蓄のあるメッセージが込められているのです。以下、具体的にフレーズを例示しながら見ていくとしましょう。


 まず幕開けの一節ですが、これがある意味では最も感動的な歌詞であると主張します。なぜなら、"愛から生まれた一冊の本には/まだ書かれていない“恋”という一文字"と紡ぐだけで、前出した「プロセス」のゴール地点に存在するものが"愛"であることが、実に堂々としかしさり気無く明かされているからです。本の比喩を人間に戻せば、この一文によって自身の両親が過去に同じ「プロセス」を経ていたことが窺え、人は無から生まれるわけではないという当たり前の事実に、改めて意識を向けさせられる技巧的な立ち上がりとなっています。加えて、これに続くのが"退屈な 15 ページだった"と俄に淡白である点も上手くて、未だ"愛"は疎か"恋"にすら意識が及んでいないことが顕となる対比は、大人と子供との間に見えない隔たりが隠れていることの見せ方として完璧です。

 しかし、程無くして本曲に於ける主格存在("乙女たち")は、両者の境界面へと足を踏み入れます。本で表せば16ページ目での出来事で、"次をめくると息が詰まり溺れた/文字にできないこの感情に/今日も理不尽に打ちのめされた"と、この段階では正体不明の感情に翻弄されるばかりです。ご存知の通り、日本に於いて女性が結婚可能になる年齢は16歳であるので(2022年には18歳に引き上げられますが)、具体的に危ういページでもあるんですよね。"潔癖だった知りたくなかった/この苦しさの正体とか"と継がれて不安が増大していく一方で、"だけど"の逆接に確かな希望を匂わせつつ、そのままサビへと雪崩れ込みます。

 ここからは、まさに「正しいステップを踏むためのハウツー」が説かれるセクションです。その枢機は至ってシンプル、"キズついても 読むことをやめない"の一点に収束します。以降はその言い換えで、"キレイじゃいられない/君を知るページ/荒ぶれ乙女たち 抗え乙女たち/痛みを知ってゆけ/栞はいらない"と、傷付きながらも前進することが正道であると諭されているわけです。ただし、この段階では"この感情"が"恋"であるとは断定されておらず、"君を知るページ"に止まっていることに留意してください。


 分割で表示したとはいえ、ここまでに1番の歌詞を全て引用してしまったので、2番以降は濫りな引用を自重する意味合いで最低限の言及とします。流れとしては2番も基本的には1番を踏襲しており、Aメロ部に"恋"ないし"“異性”に振り回されてる"情景の描写が入り、Bメロ部に"それでも"と逆接をマーカーとする未来志向の展望が来て、サビでは自身に起こる"変化を恐れない"姿勢が歌われるといったシークエンスです。間奏を挟んで三度目のBメロを経て落ちサビに入って漸く、サビ始まり以来の"恋"が登場します。しかし、ここでは"今日も乙女たちは恋に落ちてゆく"と概説的な表現がなされているため、自分の外の世界も自分が得た気付きと同じように回っているという、言わば「真理を得たセクション」とするのが自然でしょう。

 プロットの終点に位置付けた「"“恋”を知るページ"が現出する場面」は、満を持してラスサビで描かれます。ここでは1番サビで"君"であった部分だけが"“恋”"に置き換えられたことで、「君に恋をしている(正確には1番の段階から恋をしていた)」という事実が確定的となる、高度な作詞上の技法が披露されています。他の部分を変えずに伏線回収が行われているところがミソなわけですが、もう一つの例外となるラストの一行"さあ次のページへ"もこれまた機能的で、傷付きながらも最終的には"愛"へと辿り着く「プロセス」の偉大さを、少しずつでも理解していくことが「正しいステップ」であると解せる結び方に、大いに共感を覚えた次第です。


 歌詞以外にもふれておかないと音楽レビューをしたという気がしないので、最後に簡単にですがメロディ面について語ります。本曲の旋律の美麗さは2019年のアニソンの中でも一二を争うほどの出色の出来栄えだと評価していて、Aメロのアンニュイさから窺える不安定な心模様も、Bメロのセンチメンタルさから醸される真剣な懊悩も、サビメロの次第に勇敢さを獲得していくような音符の並びに支えられた不屈の闘志も、全てが「荒ぶる季節の乙女ども」のサウンドスケープであると大絶賛です。「自分は10代でも女子でもない」という現実すら思わず忘れて、"恋"を現実的な手段でどう処理していいかわからずに悶々としていた頃の甘くほろ苦い記憶が、鮮明に眼前に蘇って来そうな気分に浸れるタイムリープ的な効能をして、僕は本曲に名曲の認定を与えます。



 いつまで公開されているかわかりませんが、AbemaTV アニメの公式チャンネルで第1話がフルで視聴可能なので、是非ともOP映像とあわせて本曲の素晴らしさを噛み締めていただけたら幸いです。小ネタ的なツボを紹介しますと、動画をご覧になればおわかりになる通り、アニメのOPではAメロ前に主要キャラクターのモノローグが挿入される演出があったため、音源ではこの口上がない点を物足りなく感じてしまいます。笑



 ついでに関係のある宣伝を勝手にしておきますと、本日はハニワのニューアルバム『好きすぎてやばい。~告白実行委員会キャラクターソング集~』(2020)の発売日です。本記事はこのリリースを好機としてアップしたものでもあったのですが、同盤にチコハニ名義の楽曲は収録されていないので、その点にはお気をつけください。