今日の一曲!フジファブリック「マリアとアマゾネス」 | A Flood of Music

今日の一曲!フジファブリック「マリアとアマゾネス」

 今回の「今日の一曲!」は、フジファブリックの「マリアとアマゾネス」(2005)です。メジャー2ndアルバム『FAB FOX』収録曲。

FAB FOXFAB FOX
1,546円
Amazon


 前回の記事でフジの名前を出す機会があり、そういえば当ブログではしばらく取り上げていないなと顧みての選曲になります。「今日の一曲!」の対象にするのは都合4回目ですが、1回目は「今日は何の日?」に由来して、2回目はサイコロの出目によって、3回目は時節柄のものをテーマにした影響と、いずれも偶然性が絡んでいたので、純粋な好みだけでレビュー楽曲を決めたのは実は初めてです。というわけで、聴き始めの頃からのフェイバリットである「マリアとアマゾネス」を紹介します。


 フジの音楽は表現の幅が広いため、同バンドに対して抱く代表的なサウンドイメージもファン毎に区々でしょうが、個人的に「これぞ!」と思うファクターは、【① おどけたようなメロディライン|② 男性目線の気持ち悪さが(良い意味で)滲む歌詞|③ 印象的なキーボードプレイ】の三点で、これらが含まれていると好感触に傾く場合が多いです。要するに、ポップさと奇妙さが共存しているタイプの楽曲がとりわけ好みだといったフェチ開示になります。これとは異なる面として、シンプルに格好良くロックしているチューンも、J-POP的なセンスと爽やかさでキャッチーに決めているナンバーも、それぞれ大好きですけどね。ともかく、上にリストアップした各要素がそのまま本曲のツボを端的に述べたものとなるので、以下に一点ずつ詳細に語っていきます。

 ①はボーカルがなぞるライン、即ち主旋律についての言及です。感覚に委ねる話で恐縮ですが、終始ちょっと間の抜けたメロディが耳に残りますよね。Aメロにはかっちりとした演奏に何とか歩調を合わせようと努めた結果らしいたどたどしさが窺え、"はい"しかないBメロには何処か投げ遣りな様子が垣間見え、サビメロには歌詞の"がむしゃらなジャズピアノ"が象徴する通りの脱力感(勢いの良さに笑ってしまう感覚)があり、どのセクションもあまりスタイリッシュではありません。勿論これは音程が取れていないとか歌が下手だとかといったディスではなくて、敢えて少し調子外れのアウトプットにしたものであると考えています。なぜなら、わざと相手をおちょくってでも"君"の本性を暴いてみたい欲求;これを本曲の歌詞内容の肝としたならば、その目的遂行のためにはクールに振る舞ってしまってはいけないからです。


 これを踏まえて、②の解説に入ります。誉め言葉として用いた「男性目線の気持ち悪さが滲む歌詞」というのは、わかりやすく言えば意中の相手を「好きだからこそいじめたい、或いは逆にいじめられたい」といった、加虐ないし被虐を希求する心理が顕な部分を指しています。肯定文脈に嗜虐に纏わるワードを用いるのは不愉快だという方は、もっと砕いて「好きならダークサイドにもふれてみたい」と換言しても結構です。また、男性の手に成る歌詞なうえに筆者たる僕も男なので便宜上「男性目線」を前提にしていますが、女性にもこのような心理は当然存在するでしょう。つまり本来は普遍的と扱っても構わないものの、僕が経験則から述べる「程度の問題」として、男性のほうがこの手の心理を爆発的に発露させがちであるとの認識ゆえ、ジェンダーに一家言ある読者の方はひとまずこの説明で納得していただけたら幸いです。尤も、"君"の比喩に表題の「マリアとアマゾネス」が使われている以上、本曲は男性の主観で理解するべきだとは思いますけどね(後述)。

 話を戻して、本曲の歌詞には嗜虐の両面が描かれていると読み解けます。詳しい経緯は不明ながら、"なんだなんだ シビれる声だ ああ怒っているのか?/笑うな とぼけるなと その口が言ってる"と、"君"が怒りを露にしている場面からの幕開けです。ここで直ぐに"僕"が謝罪に転じれば事態は取り敢えず収束に向かうでしょうが、これを受ける歌詞はところがどっこい、"たまらんな 止まらないな ああ それ待っていたんだ/騒ぐな うかれるなと その口で言ってよ"で、まさかの歓迎に意表を突かれます。そして「何は無くとも認めておけ」の常套的な精神に根差しているのであろう聞き流しの"はいはいはいはい"が、更に"君"の神経を逆撫ですることは想像に難くありません。しかし、"僕"は更に煽りの姿勢を見せ、"そうさそうさ そしたらホラ 試しにちょっとぶってよ?/構うな おののくな さあ その手を汚してよ"と、自ら進んで罰を受けたがるのです。

 このフレーズがまさにアンビバレントで、前半がストレートにマゾヒスティックな解釈が取れる一方、そのために"君"も泥をかぶってくれと願う後半は非常にサディスティックに映ります。SとMが表裏一体であること(SはMの気持ちに明るく、逆もまた然り)はよく語られる切り口なので、わざわざ講釈せずとも実感として覚えのある方も多いのではないでしょうか。この根底には、どちらの立場に置かれた"君"も好きだ、或いはどちらの立場が"君"の本性でも構わないといった愛があり、この二面性を喩えたものが表題を含む一節、"例えて言えば君はマリア?それとも何か?アマゾネス?"なのだと思います。両者とも学術的な正確を期そうとするならばキリのない用語ですが、ここではごく一般的な理解で「聖母と女戦士」に置き換えて、処女懐胎を果たした究極の純潔は、なればこそ汚したくなるのが男性的な加虐心である、反対に女性優位の社会で男性が卑下される状況では、せめてもの誉れとして部族繁栄の糧となれたことに希望を見出すのが男性的な被虐心である、との理解でいかがでしょうか。


 最後に③に関してですが、これは単純に間奏のキーボードソロが素敵だとの主張です。具体的には1番のサビ終わりに出現する部分を指し、①で説明したサビメロの妙味をそのまま受け継ぐような、コミカルなラインを気に入っています。そもそも音作りの点からして巧くて、前半(2:31~2:44)は良い意味で全く抜けがないのに(ADSRのうち時間長に寄与する値が全て低い感じ?)、後半(2:45~2:59)は同じ音でノビが生まれているというギャップが好みです。

 以上、個人的にツボなポイントの具体的な解説でした。なお、本曲にはこれらとはまた別のユニークな要素として、僕の懐にアナマリア 歌いましょうアガジベベ"という、実に独創的な歌詞があります。後者はAntônio Carlos Jobimの「Água De Beber」(1963)のことで、日本では邦題の「おいしい水」で有名なナンバーです。前者は長らくの間、マリアの母であるアンナを登場させたのかな程度に考えていたのですが、好い機会なので改めて調べてみたところ、UNICORNのアルバム『SPRINGMAN』(1993)収録の同曲を指すとの見解を披露している方がいらっしゃって、もしかしたら公的なソースがあるのかもしれませんが、なるほどと発見でした。文脈的にも、楽曲で纏めたほうが据りのいい一節ですしね。