今日の一曲!大森靖子「夢幻クライマックス かもめ教室編」【平成29年の楽曲】
【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:平成の楽曲を振り返る】の第二十九弾です。【追記ここまで】
平成29年分の「今日の一曲!」は大森靖子の「夢幻クライマックス かもめ教室編」(2017)です。アルバム『kitixxxgaia』収録曲で、この前年に℃-uteへ提供された「夢幻クライマックス」(2016)のセルフカバーとなります。
当ブログでは初登場となる超歌手・大森靖子ですが、過去にもお名前を出したことだけはあるので、ブログ内検索をするといくつかの記事がヒットするはずです。前回の第二十八弾でアイドルソングを取り上げたのが実は伏線でして、本人がアイドル文化にとても造詣が深くある点と、本曲のようにアイドルへの楽曲提供も実際に多い点から、ピックアップするタイミングとしては悪くないだろうと判断しました。
『kitixxxgaia』にはずばり「IDOL SONG」と題されたナンバーも収められているくらいで、そちらもレビュー対象として魅力的ではあったものの、今回は同盤の中で最大のお気に入りである「夢幻クライマックス かもめ教室編」にフォーカスします。好きな楽曲が多いアルバムゆえ選曲に迷いましたが、奇しくも平成29年は℃-uteが解散した年でもあったため、より振り返り的に価値が出そうな点を重視した次第です。
そもそもの話として、2017年分の「今日の一曲!」はチョイスが困難でした。なぜなら、当ブログが更新を再開させた第三期(用語の詳細はこの記事を参照)に入ってからは、一昨年が最も「新譜レビュー」に力を入れていた時期にあたり、好きな音楽は基本的に全て紹介済みとなっていたからです。大森靖子の存在は、アニメ『食戟のソーマ』第1期の2nd ED曲「さっちゃんのセクシーカレー」(2015)で知ったので、当時でも聴き始めてから既に2年は経っていたと言えますが、ある理由によって彼女の記事を作成するのは今まで自重していました。
端的に言えば、下手なことを書けないからというある種の委縮です。僕の勝手な忖度ではありますが、たとえ誉め言葉だけで構成されていたとしても、アーティスト像を勝手に規定されることを快く思わない方だと見受けられたため、時には妄想に近い考察を音楽に付してしまいがちな僕が扱うには、荷が勝ち過ぎると思っていました。お察しの通り、この忖度自体が既にひとつの規定であるので、最早手遅れの感は否めませんが、今でもこの遠慮のスタンスを維持したいのは本音です。しかし、唯一無二の音楽性と芸術性を両立させている才媛をスルーし続けるのもまた、良質な音楽をシェアしたい自身のポリシーを裏切ることになってしまい、このジレンマに愈々耐えられなくなったので、ええいままよと筆を執ることにしました。
「かもめ教室編」が公式に聴ける動画はYouTube上に探せなかったため、代わりに埋め込むのが原曲(以降「無印」と表記します)のMVとなることをご容赦ください。こちらは編曲者が大久保薫さんで、当ブログでもアニソン関連で幾度か言及をしたことのある方ですが、例えばこの記事にはハロー!プロジェクト系のワークスが多くある経歴についても記してあったので、間接的ではありますが本記事でこの点を紹介出来て良かったです。
「無印」のアレンジは、ピアノとシンセ(キーボード+プログラミング)という質の違う鍵盤同士のぶつかり合いがひたすらに格好良いもので、アイドルソングの域を優に超えてくるクラシック&エレクトロニックな音作りが印象に残ります。一方の「かもめ教室編」では、編曲をピアノのみに絞る引き算が披露されていますが、それによって楽曲が落ち着きをみせるどころか、却って激情が際立つような迫真の変貌を遂げているのが驚きで、改めて鍵盤の恐ろしさを思い知らされた気分です。アレンジャーにはsugarbeansと末永華子さんの二名がクレジットされており、前者はツアーで大森さんが率いているバンド・シンガイアズのKey.担当の方でもありますね。
また、ショパンの「革命のエチュード」(1831)とベートーベンの「月光」(1801)をそれぞれ彷彿させるような、もしくはそのまま引用されていると言っていい旋律が登場する技巧性に関しては、詳細に語っている他のブログが既に存在するため、深掘りしたい方はそちらをご覧いただいたほうが有益でしょう。なお、先に「無印」のサウンドを「クラシック&エレクトロニック」と形容したのは、19世紀のメロディと21世紀のトラックメイキングを激突させていることを意識したものです。
これを受けて、ではピアノ一本となった「かもめ教室編」を単にクラシックで片付けられるのか?…と言うとそうでもなく、曲の骨子たる作曲と作詞を担った当人が歌唱している点が;即ち現代を生きる超歌手・大森靖子が中心に据えられている点が、本曲をきちんと2017年の当時代性を備えたものとして成立させていると考えます(後述)。
加えて、記事冒頭の説明では単にセルフカバーと書きましたが、実は歌詞の内容も「無印」とは殆ど別物となっており、歌詞の違いが楽曲に与える印象の差も、比較の際には考慮に入れるべき点でしょう。℃-uteには明るくないゆえに調べて知った情報で恐縮ですが、「無印」には各メンバーの名前が忍ばせてあるようですね。また、実際に書き上がった時系列としては「かもめ教室編」のほうが前らしく、「無印」は後から℃-ute用に手直しした(+解散すると知って更に改訂した)そうです。詳しくはUtaTenにあるインタビューをご覧ください。
「無印」の歌詞を事実通りに、じきに解散するアイドルが歌い上げるものと見れば、曲名の「夢幻クライマックス」もストレートな受け取り方が可能です。歌詞での"夢幻クライマックス 最後の夜/エンドレスを刻め 斬新に/抱きしめても壊れないくらい/強くなりすぎたから"という区切りが近いことを示す使われ方も、"だから ディスティニー 時を越えて/同じ地球踏んでいられるわ/魂だけ側においてね/強く生きて行こうね"という自らとファンを同時に勇気付ける一節も、共に説得力のある言葉繰りとなっています。
今ここに二つのフレーズを掲載しましたが、「かもめ教室編」ではこれらが掛け合わされたような形で現れ、"夢幻クライマックス 時を越えて/同じ地球踏んでいられるわ/魂だけ側においたら/このピアノの心臓"と、元のエッセンスはどちらかと言えば後者にあったのではと窺える内容が印象的です。クラシックからの引用が含まれている点を考慮すると、"時を越えて"はまさにその通りで、音楽がこの世に残り続けることの力強さを説いているのだと解釈すれば、「無印」も「かもめ教室編」も根本は同じである気がします。
アレンジがピアノだけになったことよる新たな魅力の創生については、先に「却って激情が際立つような迫真の変貌を遂げているのが驚き」と述べたのが、僕の感想を一言でまとめたものです。しかし、サビの結びにくる"ピアノの心臓"が象徴しているように、そもそもの歌詞は「ピアノ」を重要なモチーフとする内容であったと把握してから聴くと、寧ろピアノ以外の音を挟む余地が何処にあるだろうかと、納得の編曲だと言わざるを得なくなります。ショパンとベートーベンが登場するのも、ピアニストに纏わる歌だとすれば至極当然です。
立ち上がりの"あの子 この教室のピアノじゃつまらない/この街の優しさじゃ 弾けない曲があるの"で、この場を捨て置いて行った"あの子"の存在が示されますが、その"面影"を追い求め続ける"僕"の歌であるというのが、全体の流れだと分析出来ます。続く"僕の前の授業 廊下できく旋律/カルマも 生き癖も/僕だけが知っていた"は、物理的な隔たりとピアノを通してという二重の間接的な描き方がなされているのにも拘らず、"あの子"に執心していたのが明白な言葉選びでお気に入りです。
"あの子"が現実に"この街"を去ってしまったと明らかになってからは、描写がより直截的となっていき、"盗んだ制服 あの子を纏って"、"あの子になりたい ピアノに溶けたい"、"あのピアノを重ね生きる面影"、"僕のターンさ/音楽になれたら 消えてしまうかしら/寂しい"、"魂だけ側においてね/このピアノの心臓"等々、同一化を熱望するほどの執着の深さが見られるフレーズのオンパレードですが、それを"この街"で成し遂げようとしているところに、より一層の悲哀と無力感が感じられます。
その自覚はきちんと"僕"にもあるであろうことは、"まどろみ越し僕はいつも以上に/いつも通りいつもを続けるだろう"や、"先生 僕はもっとマシな僕になりたい"に表れていて、ピアノに対するトラウマ的なものが伝わってくるほどです。この"僕"を安易に大森さんのこととするのはいかがなものかと自覚した上で主張しますが、最新アルバム『クソカワPARTY』(2018)のDisc2『LIVE from 「超歌手大森靖子 MUTEKI弾語りツアー ファイナル」』でも聞けるMCの中に、「ピアノはちょっとコンプレックスがある」との発言があって、本曲の歌詞を思い出したことを補足しておきます。
正しいかはともかく、このように歌詞から背景を読み解いていくと、ピアノが主役だと言えるアレンジの妙味も、その激情から自然と生まれ落ちたかのような緩急のあるメロディラインも、狂気的な熱量を宿して魂に訴えかけてくる大森さんの歌声も、全てが絡み合って"かもめ教室"の情景を描き出していると言え、楽器と人の融合を意味するものとして、「人器一体」という言葉が思い浮かびました。
検索すればわかりますが、考え方としてはそこそこの普遍性があるからか、他にも楽器に対してこの形容を用いている方は認められます。ただ、当ブログでは初めて使用した言葉ですし、それはつまり本曲がここまでの称賛を導き出せる出色の出来栄えであることの証明にほかならないので、この賛辞を以て最高の評価だと捉えていただければ幸いです。
大森靖子の弾き語りと言えば、ギターによる圧巻のパフォーマンスを連想する文脈が多いかと思いますが、ピアノによるものもまた素晴らしく、コンプレックスだとしても好きにまで昇華させて今日までピアノを弾き続けている現実を意識すれば、先に「本曲をきちんと2017年の当時代性を備えたものとして成立させている」と述べたことにも、共感をいただけるのではないかと思っています。
平成29年分の「今日の一曲!」は大森靖子の「夢幻クライマックス かもめ教室編」(2017)です。アルバム『kitixxxgaia』収録曲で、この前年に℃-uteへ提供された「夢幻クライマックス」(2016)のセルフカバーとなります。
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当ブログでは初登場となる超歌手・大森靖子ですが、過去にもお名前を出したことだけはあるので、ブログ内検索をするといくつかの記事がヒットするはずです。前回の第二十八弾でアイドルソングを取り上げたのが実は伏線でして、本人がアイドル文化にとても造詣が深くある点と、本曲のようにアイドルへの楽曲提供も実際に多い点から、ピックアップするタイミングとしては悪くないだろうと判断しました。
『kitixxxgaia』にはずばり「IDOL SONG」と題されたナンバーも収められているくらいで、そちらもレビュー対象として魅力的ではあったものの、今回は同盤の中で最大のお気に入りである「夢幻クライマックス かもめ教室編」にフォーカスします。好きな楽曲が多いアルバムゆえ選曲に迷いましたが、奇しくも平成29年は℃-uteが解散した年でもあったため、より振り返り的に価値が出そうな点を重視した次第です。
そもそもの話として、2017年分の「今日の一曲!」はチョイスが困難でした。なぜなら、当ブログが更新を再開させた第三期(用語の詳細はこの記事を参照)に入ってからは、一昨年が最も「新譜レビュー」に力を入れていた時期にあたり、好きな音楽は基本的に全て紹介済みとなっていたからです。大森靖子の存在は、アニメ『食戟のソーマ』第1期の2nd ED曲「さっちゃんのセクシーカレー」(2015)で知ったので、当時でも聴き始めてから既に2年は経っていたと言えますが、ある理由によって彼女の記事を作成するのは今まで自重していました。
端的に言えば、下手なことを書けないからというある種の委縮です。僕の勝手な忖度ではありますが、たとえ誉め言葉だけで構成されていたとしても、アーティスト像を勝手に規定されることを快く思わない方だと見受けられたため、時には妄想に近い考察を音楽に付してしまいがちな僕が扱うには、荷が勝ち過ぎると思っていました。お察しの通り、この忖度自体が既にひとつの規定であるので、最早手遅れの感は否めませんが、今でもこの遠慮のスタンスを維持したいのは本音です。しかし、唯一無二の音楽性と芸術性を両立させている才媛をスルーし続けるのもまた、良質な音楽をシェアしたい自身のポリシーを裏切ることになってしまい、このジレンマに愈々耐えられなくなったので、ええいままよと筆を執ることにしました。
「かもめ教室編」が公式に聴ける動画はYouTube上に探せなかったため、代わりに埋め込むのが原曲(以降「無印」と表記します)のMVとなることをご容赦ください。こちらは編曲者が大久保薫さんで、当ブログでもアニソン関連で幾度か言及をしたことのある方ですが、例えばこの記事にはハロー!プロジェクト系のワークスが多くある経歴についても記してあったので、間接的ではありますが本記事でこの点を紹介出来て良かったです。
「無印」のアレンジは、ピアノとシンセ(キーボード+プログラミング)という質の違う鍵盤同士のぶつかり合いがひたすらに格好良いもので、アイドルソングの域を優に超えてくるクラシック&エレクトロニックな音作りが印象に残ります。一方の「かもめ教室編」では、編曲をピアノのみに絞る引き算が披露されていますが、それによって楽曲が落ち着きをみせるどころか、却って激情が際立つような迫真の変貌を遂げているのが驚きで、改めて鍵盤の恐ろしさを思い知らされた気分です。アレンジャーにはsugarbeansと末永華子さんの二名がクレジットされており、前者はツアーで大森さんが率いているバンド・シンガイアズのKey.担当の方でもありますね。
また、ショパンの「革命のエチュード」(1831)とベートーベンの「月光」(1801)をそれぞれ彷彿させるような、もしくはそのまま引用されていると言っていい旋律が登場する技巧性に関しては、詳細に語っている他のブログが既に存在するため、深掘りしたい方はそちらをご覧いただいたほうが有益でしょう。なお、先に「無印」のサウンドを「クラシック&エレクトロニック」と形容したのは、19世紀のメロディと21世紀のトラックメイキングを激突させていることを意識したものです。
これを受けて、ではピアノ一本となった「かもめ教室編」を単にクラシックで片付けられるのか?…と言うとそうでもなく、曲の骨子たる作曲と作詞を担った当人が歌唱している点が;即ち現代を生きる超歌手・大森靖子が中心に据えられている点が、本曲をきちんと2017年の当時代性を備えたものとして成立させていると考えます(後述)。
加えて、記事冒頭の説明では単にセルフカバーと書きましたが、実は歌詞の内容も「無印」とは殆ど別物となっており、歌詞の違いが楽曲に与える印象の差も、比較の際には考慮に入れるべき点でしょう。℃-uteには明るくないゆえに調べて知った情報で恐縮ですが、「無印」には各メンバーの名前が忍ばせてあるようですね。また、実際に書き上がった時系列としては「かもめ教室編」のほうが前らしく、「無印」は後から℃-ute用に手直しした(+解散すると知って更に改訂した)そうです。詳しくはUtaTenにあるインタビューをご覧ください。
「無印」の歌詞を事実通りに、じきに解散するアイドルが歌い上げるものと見れば、曲名の「夢幻クライマックス」もストレートな受け取り方が可能です。歌詞での"夢幻クライマックス 最後の夜/エンドレスを刻め 斬新に/抱きしめても壊れないくらい/強くなりすぎたから"という区切りが近いことを示す使われ方も、"だから ディスティニー 時を越えて/同じ地球踏んでいられるわ/魂だけ側においてね/強く生きて行こうね"という自らとファンを同時に勇気付ける一節も、共に説得力のある言葉繰りとなっています。
今ここに二つのフレーズを掲載しましたが、「かもめ教室編」ではこれらが掛け合わされたような形で現れ、"夢幻クライマックス 時を越えて/同じ地球踏んでいられるわ/魂だけ側においたら/このピアノの心臓"と、元のエッセンスはどちらかと言えば後者にあったのではと窺える内容が印象的です。クラシックからの引用が含まれている点を考慮すると、"時を越えて"はまさにその通りで、音楽がこの世に残り続けることの力強さを説いているのだと解釈すれば、「無印」も「かもめ教室編」も根本は同じである気がします。
アレンジがピアノだけになったことよる新たな魅力の創生については、先に「却って激情が際立つような迫真の変貌を遂げているのが驚き」と述べたのが、僕の感想を一言でまとめたものです。しかし、サビの結びにくる"ピアノの心臓"が象徴しているように、そもそもの歌詞は「ピアノ」を重要なモチーフとする内容であったと把握してから聴くと、寧ろピアノ以外の音を挟む余地が何処にあるだろうかと、納得の編曲だと言わざるを得なくなります。ショパンとベートーベンが登場するのも、ピアニストに纏わる歌だとすれば至極当然です。
立ち上がりの"あの子 この教室のピアノじゃつまらない/この街の優しさじゃ 弾けない曲があるの"で、この場を捨て置いて行った"あの子"の存在が示されますが、その"面影"を追い求め続ける"僕"の歌であるというのが、全体の流れだと分析出来ます。続く"僕の前の授業 廊下できく旋律/カルマも 生き癖も/僕だけが知っていた"は、物理的な隔たりとピアノを通してという二重の間接的な描き方がなされているのにも拘らず、"あの子"に執心していたのが明白な言葉選びでお気に入りです。
"あの子"が現実に"この街"を去ってしまったと明らかになってからは、描写がより直截的となっていき、"盗んだ制服 あの子を纏って"、"あの子になりたい ピアノに溶けたい"、"あのピアノを重ね生きる面影"、"僕のターンさ/音楽になれたら 消えてしまうかしら/寂しい"、"魂だけ側においてね/このピアノの心臓"等々、同一化を熱望するほどの執着の深さが見られるフレーズのオンパレードですが、それを"この街"で成し遂げようとしているところに、より一層の悲哀と無力感が感じられます。
その自覚はきちんと"僕"にもあるであろうことは、"まどろみ越し僕はいつも以上に/いつも通りいつもを続けるだろう"や、"先生 僕はもっとマシな僕になりたい"に表れていて、ピアノに対するトラウマ的なものが伝わってくるほどです。この"僕"を安易に大森さんのこととするのはいかがなものかと自覚した上で主張しますが、最新アルバム『クソカワPARTY』(2018)のDisc2『LIVE from 「超歌手大森靖子 MUTEKI弾語りツアー ファイナル」』でも聞けるMCの中に、「ピアノはちょっとコンプレックスがある」との発言があって、本曲の歌詞を思い出したことを補足しておきます。
正しいかはともかく、このように歌詞から背景を読み解いていくと、ピアノが主役だと言えるアレンジの妙味も、その激情から自然と生まれ落ちたかのような緩急のあるメロディラインも、狂気的な熱量を宿して魂に訴えかけてくる大森さんの歌声も、全てが絡み合って"かもめ教室"の情景を描き出していると言え、楽器と人の融合を意味するものとして、「人器一体」という言葉が思い浮かびました。
検索すればわかりますが、考え方としてはそこそこの普遍性があるからか、他にも楽器に対してこの形容を用いている方は認められます。ただ、当ブログでは初めて使用した言葉ですし、それはつまり本曲がここまでの称賛を導き出せる出色の出来栄えであることの証明にほかならないので、この賛辞を以て最高の評価だと捉えていただければ幸いです。
大森靖子の弾き語りと言えば、ギターによる圧巻のパフォーマンスを連想する文脈が多いかと思いますが、ピアノによるものもまた素晴らしく、コンプレックスだとしても好きにまで昇華させて今日までピアノを弾き続けている現実を意識すれば、先に「本曲をきちんと2017年の当時代性を備えたものとして成立させている」と述べたことにも、共感をいただけるのではないかと思っています。