今日の一曲!平沢進「スケルトン・コースト公園」【平成元年の楽曲】
【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:平成の楽曲を振り返る】の第一弾です。【追記ここまで】
平成元年分の「今日の一曲!」は平沢進の「スケルトン・コースト公園」(1989)です。P-MODELが凍結状態となった後、ソロ名義でリリースされた1stアルバム『時空の水』の収録曲で、同盤の中で最も気に入っているナンバーであるため、代表させてレビューします。
当ブログで初めて平沢進を取り上げた『Ash Crow』(2016)の記事にも記してありますが、僕が氏の音楽の虜になったのは2012年頃からのことなので、本曲についても当然ながら後から好きになったパターンです。発表時僕は0歳ですから、仮にリアルタイムで好いていたとしたら相当の傑物でしょう。笑
本曲に於いて特徴的なのはやはり中盤の民謡調のセクションで、感想や考察を求めている人のニーズもここに集中している気がするため、変則的ですがまずはここから掘り下げていきます。変則とした最たる理由は、ゲストボーカルとして原田ヒロシさんがメインに据えられたパートであることです。
民謡と形容するのが通りが良さそうだったので僕もそれに倣いましたが、原田さんによる独特の節回しというか、こぶしを効かせたメロディラインには、確かに積年の民族的アイデンティティを想起させる部分があると感じます。当ブログ的にはこれらの要素を総合して「謡(うたい)のようだ」と表現したい(用語の解説はこの記事の3.2.6を参照)仕上がりですが、歌詞内容にまで目を向けると、演歌のエッセンスが滲んでいるとも解釈可能です。
当該セクションに限らず歌詞の全般に言えることですが、「海」と「鳥」が象徴的に描写されているため、そこに演歌らしさを見出しました。"舟を打つ波に/抜き身の白刃をかざす/飛ぶ鳥に目をやれば/円陣の羽 陽に茹だり"や、"磯は竜巻きゃ 命をさらう/鳥の食む餌を 雲間に投げてよ"に、"小波大波 数える鳥も/暮れりゃ西へと/群れ飛ぶ謎よ"と、強固なコロケーションが披露されています。
中でもとりわけ好みなのは、最後に例示した歌詞から続く"ミクロ マクロの/仕掛けの中で"です。ここも原田さんの歌唱パートですが、前述した謡調の歌声から飛び出す横文字の意外性に驚かされますよね。"遥か一なるもの"というフレーズも頻出しますが、様相が変化する海も群れ行く鳥も「循環」に寄与するファクターとして提示されているとの理解ゆえ、この世界の何処に目を遣っても(=ミクロ視点でもマクロ視点でも)、実は共通の仕組みの上に成り立っているという、不変の理屈を謡っているのかなと捉えています。"ここは故郷の/階段なれば"も、先に出した民族的アイデンティティに絡めれば、DNAの二重螺旋構造のことかなと。
続いては作編曲の妙味についてあわせて言及します。どっしりとしたキックと鍵盤打楽器系のサウンドによるトライバルなビートメイキングの上を、メロディアスなファイフ(笛系の音を便宜的に総称しての語彙選択)が通り抜けていくという雄大なアレンジは、これまで確実に繰り返されてきた自然の営みの履歴を思わせます。
しかし決して派手なアウトプットにはなっていないのがまた巧くて、文字通り「ただ自然に」寄り添った聴き易さを誇っている点に、平沢さんの表現力が冴え渡っていると絶賛したいです。自然ひいては世を統べるシステムを過度に礼賛するでも畏怖するでもなく、ただそこにあるものとして処理していると言いましょうか、それこそミクロとマクロを等価で扱ったような音解釈だと僕には聴こえました。
この感覚は主旋律にも活きていると解していて、中盤の民謡パートを一種のピークとしながらも、何処がAメロでサビだとかいったJ-POP的な楽曲構成には当て嵌められない、淡々と進行していくラインを維持していますよね。勿論敢えてメロを区分しようとすれば如何様にも出来ますが、それをするのは粋じゃないだろうとでも言いたげな、旋律と言葉の強い結び付きが心地好いです。
このようなこだわりを無視して、単純に好きなメロディラインを通時的に挙げるならば、"円陣の羽 陽に茹だり"でやや熱量を増す箇所や、2回目の"遥か一なるものの/鼓動の調べは降りて"の変化、うねる節回しの中に突如として放り込まれる"鼓動の調べは降りて"の勢いの良さ(更に言えば原田さんと平沢さんの性質の異なるボーカルが織り成す空間演出)などが、それぞれ魅力的に響いてきます。
最後は「スケルトン・コースト公園」という曲名について。もしかしたら何処かできちんとネタ元として明示されているのかもしれませんが、ナミブ砂漠の沿岸にこう呼称される場所があるそうで、「国立」を挟みますが Skeleton Coast National Park も実在します。海上の濃霧によって難破した船の残骸や動物の死骸によって、非常に荒涼とした風景が広がっているようです。納得の地名。
この知識をここまでの歌詞解釈に当て嵌めるのであれば、「循環の終わり/始まりの地」として、潮流や死生観と絡めた理解が可能なのではないかと、わかったようなことを書いて〆とします。このように言葉の意味をそのままに捉えた表面的な受け取り方も出来る一方で、その実全くの別方向から描かれた内容である可能性も捨てきれないのが、平沢進の歌詞世界の奥深さですからね。
平成元年分の「今日の一曲!」は平沢進の「スケルトン・コースト公園」(1989)です。P-MODELが凍結状態となった後、ソロ名義でリリースされた1stアルバム『時空の水』の収録曲で、同盤の中で最も気に入っているナンバーであるため、代表させてレビューします。
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当ブログで初めて平沢進を取り上げた『Ash Crow』(2016)の記事にも記してありますが、僕が氏の音楽の虜になったのは2012年頃からのことなので、本曲についても当然ながら後から好きになったパターンです。発表時僕は0歳ですから、仮にリアルタイムで好いていたとしたら相当の傑物でしょう。笑
本曲に於いて特徴的なのはやはり中盤の民謡調のセクションで、感想や考察を求めている人のニーズもここに集中している気がするため、変則的ですがまずはここから掘り下げていきます。変則とした最たる理由は、ゲストボーカルとして原田ヒロシさんがメインに据えられたパートであることです。
民謡と形容するのが通りが良さそうだったので僕もそれに倣いましたが、原田さんによる独特の節回しというか、こぶしを効かせたメロディラインには、確かに積年の民族的アイデンティティを想起させる部分があると感じます。当ブログ的にはこれらの要素を総合して「謡(うたい)のようだ」と表現したい(用語の解説はこの記事の3.2.6を参照)仕上がりですが、歌詞内容にまで目を向けると、演歌のエッセンスが滲んでいるとも解釈可能です。
当該セクションに限らず歌詞の全般に言えることですが、「海」と「鳥」が象徴的に描写されているため、そこに演歌らしさを見出しました。"舟を打つ波に/抜き身の白刃をかざす/飛ぶ鳥に目をやれば/円陣の羽 陽に茹だり"や、"磯は竜巻きゃ 命をさらう/鳥の食む餌を 雲間に投げてよ"に、"小波大波 数える鳥も/暮れりゃ西へと/群れ飛ぶ謎よ"と、強固なコロケーションが披露されています。
中でもとりわけ好みなのは、最後に例示した歌詞から続く"ミクロ マクロの/仕掛けの中で"です。ここも原田さんの歌唱パートですが、前述した謡調の歌声から飛び出す横文字の意外性に驚かされますよね。"遥か一なるもの"というフレーズも頻出しますが、様相が変化する海も群れ行く鳥も「循環」に寄与するファクターとして提示されているとの理解ゆえ、この世界の何処に目を遣っても(=ミクロ視点でもマクロ視点でも)、実は共通の仕組みの上に成り立っているという、不変の理屈を謡っているのかなと捉えています。"ここは故郷の/階段なれば"も、先に出した民族的アイデンティティに絡めれば、DNAの二重螺旋構造のことかなと。
続いては作編曲の妙味についてあわせて言及します。どっしりとしたキックと鍵盤打楽器系のサウンドによるトライバルなビートメイキングの上を、メロディアスなファイフ(笛系の音を便宜的に総称しての語彙選択)が通り抜けていくという雄大なアレンジは、これまで確実に繰り返されてきた自然の営みの履歴を思わせます。
しかし決して派手なアウトプットにはなっていないのがまた巧くて、文字通り「ただ自然に」寄り添った聴き易さを誇っている点に、平沢さんの表現力が冴え渡っていると絶賛したいです。自然ひいては世を統べるシステムを過度に礼賛するでも畏怖するでもなく、ただそこにあるものとして処理していると言いましょうか、それこそミクロとマクロを等価で扱ったような音解釈だと僕には聴こえました。
この感覚は主旋律にも活きていると解していて、中盤の民謡パートを一種のピークとしながらも、何処がAメロでサビだとかいったJ-POP的な楽曲構成には当て嵌められない、淡々と進行していくラインを維持していますよね。勿論敢えてメロを区分しようとすれば如何様にも出来ますが、それをするのは粋じゃないだろうとでも言いたげな、旋律と言葉の強い結び付きが心地好いです。
このようなこだわりを無視して、単純に好きなメロディラインを通時的に挙げるならば、"円陣の羽 陽に茹だり"でやや熱量を増す箇所や、2回目の"遥か一なるものの/鼓動の調べは降りて"の変化、うねる節回しの中に突如として放り込まれる"鼓動の調べは降りて"の勢いの良さ(更に言えば原田さんと平沢さんの性質の異なるボーカルが織り成す空間演出)などが、それぞれ魅力的に響いてきます。
最後は「スケルトン・コースト公園」という曲名について。もしかしたら何処かできちんとネタ元として明示されているのかもしれませんが、ナミブ砂漠の沿岸にこう呼称される場所があるそうで、「国立」を挟みますが Skeleton Coast National Park も実在します。海上の濃霧によって難破した船の残骸や動物の死骸によって、非常に荒涼とした風景が広がっているようです。納得の地名。
この知識をここまでの歌詞解釈に当て嵌めるのであれば、「循環の終わり/始まりの地」として、潮流や死生観と絡めた理解が可能なのではないかと、わかったようなことを書いて〆とします。このように言葉の意味をそのままに捉えた表面的な受け取り方も出来る一方で、その実全くの別方向から描かれた内容である可能性も捨てきれないのが、平沢進の歌詞世界の奥深さですからね。