今日の一曲!CooRie「いろは」 | A Flood of Music

今日の一曲!CooRie「いろは」

 【追記:2021.1.4】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:春|卒業/別離】の第十弾です。【追記ここまで】

 「今日の一曲!」はCooRie(クーリエ)の「いろは」(2006)です。TVアニメ『びんちょうタン』のOP曲。

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 CooRieは僕が第一次アニヲタ期(2004年~2007年)に好きだったアーティストの一組です。アルバムを全て網羅しているほどではありませんが、他にも「流れ星☆」(2003)や「クロス*ハート」(2007)などのお気に入り楽曲があります。

 第二次アニヲタ期の始まりが2015年~というのもあって、10年代では殆どお名前を聞かなくなったなと思っていましたが、『田中くんはいつもけだるげ』のED曲「BON-BON」(2016)で久々に楽曲にふれたことで、僕の中に再度プチブームを巻き起こしている存在です。今回紹介する「いろは」で僕はCooRieのことを知ったと記憶しているので、思い出深いナンバーでもあります。

 リリース時期的には「流れ星☆」のほうが早いのですが、【CooRieを知る → (因果関係なしに)『成恵の世界』の原作ファンになる → アニメの主題歌を担当していたと知る】という時系列なので、後追いで好きになったタイプです。『京四郎と永遠の空』は観た記憶がないので、「クロス~」は楽曲だけ気に入ったのだと思います。『田中~』は本放送時に1話切りしたものの、なぜか気になって再放送でドハマリするという珍しいケースで、「BON~」の良さも最近になって知りました。つまり以前は1話切りどころか、EDに辿り着く前に切っていたんでしょうね。笑



 思い出話はこのくらいにして、「いろは」の魅力に迫っていきましょう。テーマ「春」に纏わる歌詞がちょうど表題にもなっているのですが、"何度でも始められるように/色葉に舞う春のように"という前向きなフレーズに春が登場します。

 そう、この曲はひたすらにポジティブなのです。歌詞だけでなくメロディやアレンジも非常に優しい仕上がりになっていて、そこには『びんちょうタン』の作風(記事の最後に補足します)も反映されているのかもしれませんが、春の持つあたたかなイメージを素直に解釈したアウトプットだと思っています。

 「素直に解釈」という表現と矛盾しますが、この観点を意識すると意外とこういうタイプの楽曲は変化球なのでは?という気がするので、以下この点をJ-POPシーンに切り込みつつ補足させてください。事実誤認や矛盾した言及もあるかもしれませんが、好き勝手に書きます。


 これまでにテーマ「春」で紹介してきた9曲をひとまずの比較対象としてほしいのですが、それぞれ異なる角度から春を切り取ってはいるものの、その根底には「別れ」や「切なさ」が存在していると感じられます。僕がセンチな曲を優遇しているのは否定しませんが、とても未来志向の楽曲を紹介した第四弾でさえ、描かれているのは別離です。

 比較対象をもっと一般に浸透しているヒットソングにまで押し広げても傾向としては同じで、やれ「春と言えば桜だ卒業だ別れの季節だ」のと、判で押したように切なさ一辺倒になってしまう節があると思っています。ここで僕が「そういうのは嫌いだ」と言ってしまうと嘘になりますし、これまでに紹介した楽曲の立場もなくなるのでそこまでは踏み込みませんが、お手軽に春のセンチメンタルに酔えるような楽曲;所謂「春の定番曲」程度の紹介なら、キュレーションサイトにでも任せておけばいいと思っているぐらいには、一定の距離を置いていると理解していただければ幸い。

 以上が僕の「春の歌に対する一考」で、正確には「どういうものが王道、直球、スタンダードとして見做されているのか」という副題を沿えるべきものでしょう。ではそうでないもの、つまりここで言う「変化球」とは何なんだ?と問われれば、「季節としての春の訪れ(とその喜び)を描写しているもの」だと主張します。一見こちらのほうが王道に思えるでしょうが、先に書いた通りJ-POPに関しては「そこから派生した感情や行事」を優先させるのがスタンダードになっているため、立場が逆転しているという分析です。これは何も春に限った話ではないかもしれませんね。

 たとえば松任谷由実の「春よ、来い」(1994)は、春そのものに対する描写が多くを占めていると感じられる歌詞内容なので、変化球の好例だと思います。これが超有名なヒットソングだということから導き出せますが、こういう素直な楽曲が胸に響くセンスをきちんと日本人は持ち合わせているんですよね。もっと遡れば瀧廉太郎の「花」(1900)に行き着く気がしますが、昔はもっと季節自体に対する描写に重きが置かれていたのではないでしょうか。従って、変化球の好例として紹介したこれら2曲も、時代を考慮すれば直球だったのだろうと思います。




 話を「いろは」に戻すと、リリース時のゼロ年代には既にスタンダードが入れ替わっているという認識なので、そんな中では「変化球」タイプになるのかなという理解です。歌詞内容が「季節としての春の訪れ(とその喜び)を描写している」という定義を満たすものであるので。

 とはいえ、実は春に言及しているのは先に引用した"何度でも始められるように/色葉に舞う春のように"という部分のみ、しかも"ように"と比喩的に出てきているだけなので、歌詞全体で見ると特定の季節を選ぶものではないという気もします。この歌を夏や冬に聴いたとて、前向きな励ましソングとしての機能は春のそれと遜色ないであろうからです。

 ここに来て盤をひっくり返すようなことを言って申し訳ありませんが、少なくとも当該の歌詞の部分は「変化球」の定義に当てはまりますし、「何も春に限った話ではない」とも書いた通り、「季節そのものを第一義的に描写している」ならば、春夏秋冬のどれであろうと主張に揺らぎはないことを補足しておきます。

 補足ついでに言わせてもらえば、この曲のやわらかな仕上がりは春の表現に思えますし、楽曲提供先のアニメ『びんちょうタン』の本放送が2月~3月(全話放送は3月~4月)で、放送業界的には冬アニメになるものの、第五弾で書いたように二十四節気に従えばモロに春にあたる期間と言えるので、そういった外部要因まで考慮すれば、「いろは」を春の曲とすることに納得していただけるのではないでしょうか。



 ここまでの記述が全て前置きという回りくどさですが、以上を踏まえた上で「いろは」の何が魅力的かと申しますと、「春の訪れによって何かを得た人」にフォーカスされている点です。歌詞の中で"私"は様々な発見をします。それは"大切な場所"であったり"自分らしさへと続く道"であったりするのですが、いずれにせよ"私"にとってポジティブな要素ばかりが、期待と共に込められているのです。

 前置きでも書いたように、「春の定番曲」とされるような直球ソングには、「卒業 → 別れ」や「桜 → 切なさ/儚さ」などの要素が多分に含まれていますが、「春は出逢いの季節」という言葉もあるように、春を描くのに「何かを捨て行くような表現をしなければならない」という決まりはないんですよね。歌詞に"大人になることは「こだわり」を捨てる事/そんな事じゃない"という一節が出てきますが、これは春のネガティブイメージへのアンチテーゼとしても響くと思います。

 考えてみれば身近な話です。たとえば受験を頑張ったがゆえに春から志望校に通える学生、受験に成功することを「サクラサク」とも言いますよね。たとえば仕事が評価されて年度初めから重要なポストに就くことになった社会人、昇進祝いに胡蝶蘭*を贈られたのではありませんか?*春の花ではないと思いますが、慶事=春のイメージということでご容赦ください。要するに、春から一層の輝きを放つ人というのもたくさん存在するわけで、そういう人達を鼓舞するような類の春の歌がもっともあってもいいのになと思うのです。

 励ます形ではなく、或いは別れとセットにするのでもなく、一定の頑張りを見せた人を、春の訪れに絡めてただ単に褒めてあげるような内容の歌、これが隙間産業になっているような気がするのはなんだかなぁと。儚いもの好きの日本人らしいと言えばその通りなんですけどね。参考情報ですが、最近の曲だとUNISON SQUARE GARDENの「春が来てぼくら」(2018)は、季節描写の点でも讃歌としての面でも納得の出来でした。




 再び「いろは」の話に戻ります。歌詞には"君"(=他者)も登場しますし、"大切な場所がここにある だから行くよ"というのは別離の解釈も出来る表現だと思うので、そういう意味では「いろは」も切なさを宿したナンバーだと言えるでしょう。

 それなら直球タイプじゃないか!と反論が来そうですが、歌詞全体で見ていくと何処までも主体的であると言いましょうか、「頑張る(頑張った)のは私自身だ」といった主張が感じられるので、春の訪れと共に自らを開花させていくような内容という意味で、やっぱり僕にとっては変化球タイプなのです。…ここまで説明を重ねても、このニュアンスは他人に伝わるようなものなのか正直よくわからなくなってきました。笑

 歌詞に"私"が登場する箇所を全て引用すると、"私 ここにいたい"、"私は歩いて行ける"、"私は笑顔でいるよ"、"私は優しくなりたい"となりますが、これらのフレーズに自分自身を重ねられたならば、それはもう変化球解釈が出来ていると言っていいと思います。誰かからの励ましで終わらずに、それを受け自己完結しているのが特徴ですかね。


 最後に歌詞以外に言及します。メロディの綺麗さ(特にAメロ)も素晴らしいのですが、それを的確に彩る大久保薫さんのアレンジ力も流石です。

 とりわけ2番後の間奏でいきなりコード感が希薄になるというか、環境音楽(BGM)のような控えめな転身を見せる作りになっているところは冒険心があるなと評価しています。『びんちょうタン』は可愛らしいキャラクターデザインを有していますが、冷静に観てしまうと強い影を感じることが出来る作風であった(漫画版のほうが顕著)ため、このパートにはそういった不安な要素が抽出されているとの理解です。

 アウトロの盛り上がりも聴き処で、ストリングの畳み掛けからのフェードアウトには芸術性を感じます。