2011年紀伊半島大水害から13年。薄れゆく記憶。
最近、地元のも含めて新聞は一切読んでないので、9月4日の大水害のこと今日の昼まで忘れてた。 仕事の終わりがけ、紀宝町の職場にある水害の跡を残す写真を撮った。 右にある柱にかかる白い時計。地上から約2メートルの高さ。 時計の針は、この13年間9時15分で止まってる。その時間にここまで水が上がってきたという証拠。このあともっと水位は上がり、屋根に達する。 2011年9月3日の午後4時頃だった。川の水位が堤防を越えたという知らせとともに、道路の上を水が走ってきた。その水が周辺の田畑や住宅の敷地にも音もなく広がっていった。その時、俺と社長は木材が流されないように、『あば』と呼ぶ、囲いを作っていた。こういうの↓ か細いものだが、効果は絶大で、これで水に浮いた木材や丸太の流失を食い止める。結局、作業が終わったときには辺り一面、膝の高さまで水位が来ていて、もうどこにも車での移動はかなわなかった。事務所にも同じように水が入っていて、少しでも書類を救おうと社長と二人で書類を2階に上げた。が、水位が上がるスピードが早くて、胸下くらいの水位になり作業を諦めて2階に避難する事になった。 一度、少し離れた控室においてある携帯や財布を取りに行こうと、事務所を出て泳ぎだしたんだけど、周りから浮遊物の木材が体を圧迫してきて動けなくなり、これはこのまま進んだら溺れて死ぬなと思い、諦めて事務所に戻った。 2階に避難したのは8時過ぎだったかな。もう停電してて暗かった。それから時間とともに水が階段を1段1段登ってきた。夜中の12時くらいにとうとう2階の床まで水がきた。そのとき、たまたままだ携帯が使えて、社長が消防に救助を頼んだ。そして12時半頃、真っ暗な水面の上に明かりが見えて、俺達は2階の窓からボートに乗り移った。他にも救助された人が乗ってた。そして少し高台の避難所の寺に行ったわけだが、水位はとまらず、その寺も水没し、俺達被災者は大雨の中、裏山の山道を登った。お年寄りもいたけど、せまりくる水の恐怖を感じてたからか、みんな弱音を吐くことなく細い山道をかなり歩いた。そして最終的に水道の水源施設に避難した。全身、汚水も混じってるだろう水にずぶ濡れのまま、朝まで一睡もせず狭い場所で過ごした。 思い出してみると、記憶がたくさん蘇ってくる。 4日の朝、雨が小ぶりになった10時ころ、水がだいぶ引いて道が歩いてなら通れるという情報を聞き、社長と二人、避難所を出て紀宝町から熊野大橋を歩いてわたり新宮市の自宅に向かった。俺は実家に。実家は床下浸水だけだった。確かその時はなぜかまだ水道が使えたように思う。シャワー浴びて着替えて、また社長と合流してスーパーに買い出しにむかった。 俺達は新宮市内に自宅があるので家はほぼ無事だったが、紀宝町の仕事場の周辺住民のお宅は2階まで浸水してる。たぶん、しばらく避難所にとどまる人もいるだろうと思ったので、俺が社長に声をかけて両手に持てるだけの水やおにぎり、ティッシュに歯ブラシなど買い込んで、また紀宝町の避難所まで歩いて持っていった。避難所で担当の人に差し入れを渡すと泣いて喜んでくれた。今思うともっと住民の手伝いとかしたかったんだけど、自分の会社が壊滅状態で凄いことになっていたので、これだけしかできなかった。 それから1ヶ月過ぎるまでは車もなく、自転車で会社に通って片付けた。 ようやく自分の会社の片付けのめどがたち、それから新宮市の災害ボランティアセンターに行くようになった。ほどなくしてボラセンがしまり、ボランティアは終わったつもりだった。 年が明けて2012年2月か3月に那智勝浦町で一斉災害ボランティア募集の新聞記事を読み、またボランティアに応募した。そこから1年くらい那智勝浦町ボランティアベース和(なごみ)で災害ボランティアを続け、その中で初めて手話通訳者の人と出会い、手話に興味を持つようになり、10月ころに初めて新宮市の手話サークル虹に入会した。 よく考えたら手話と出会ってもう12年になるんだな。なのにまだ堂々と初心者のまま。一度、ろう者に怒られたけど、全然身につかないんだよ。誰か俺を鍛えたい人いませんか。ケーキ持って参上しますが……。 ということで、とりとめのないこと書きました。 現在、高齢の両親がふたりとも介護ベッドで寝てる状態なので、介護等で災害ボランティアや手話イベント等に行けてませんが、また、行ける状態になったら行きまっせ。少し前に三重県の手話イベントに行った手話サークルオレンジのナベさんから聞いたけど、盲ろう友の会きらりの会さんが覚えてくれてたって。もう10年くらい前にブログで紹介させてもらったんだよね。きらりの会さんはみんな優しくてすごく雰囲気よかった印象がある。皆様、お元気でしょうか。 ではまたです♫ 関東の麦わら坊主さんも元気かな。(独り言)