変人かな? いえいえ。人ぞれぞれです。
今日は本当に熱い一日でした。関西も昨日で梅雨明けしましたが、これだけ熱いと食欲も減退しそうになります。 熱中症予防には香辛料を使った食事が効果的ともいいます。エスニック料理ではなく、日本の山椒やししとう、わさびや和芥子、らっきょうや梅干しといったような古くからの食べ物の言い伝えも「熱さ負け」対策にいいといわれていますよね。話はがらっと変わります。 1910年6月22日鮎川義介が、叔父井上馨の援助を得て、福岡に戸畑 鋳物株式会社を創 設しました。 前回の安田善次郎氏のようにインパクトにある人物、日産自動車、日立製作所、日立造船、日立金属、日産化学、日産火災等 の創始者鮎川 義介の数奇に満ちた人生をお話しです。1880年(明治13年)11月6日、旧長州藩(山口県)の上士(上級武士) だった鮎川家に1人の男の 子が生まれました。母は、明治の元勲で内務大臣や総理大臣を勤めた井上馨の姉 でした。 この男児 は義介と名づけられました。その後旧制山口高校(井上馨が創設)を経て、井上 馨の自宅に寄宿しな がら、東京帝国大学工学部機械科を卒業しました。普通であれば、この後大企業 に勤めるか、あるい は叔父井上馨のツテで政治家になるかが当時のエリートの歩む道でした。 が、鮎川はこの道を選ばず、身分を隠し日給48銭(現在の5千円ぐら い)の工員として芝浦製 作所に勤めるようになりました。 この後も職を転々として職工としての技術を磨 いていきました。そして 先進の技術を得ようと1905年、25歳のときアメリカに単身渡り、アメリカ の工場に職を得ました。しか しそこでも薄給にあえぎ、教会で無料の食事をもらい、ケガや病気をしても病院 にもいけないような貧 しい生活をおくりました。 結局29歳までの4年間をアメリカで暮らし、190 9年に帰国しました。 アメリカでは「日本人は労働能率では西洋人には少しも劣らない。 日本の 国土は狭く、天然資源も ない中で欧米列強に比するには加工技術を高め、工業で立国しなければならない 」と学びました。 帰国した翌年の1910年6月22日、鮎川は叔父井上馨の援助を得て、戸畑鋳 物株式会社という鋳物 工場を福岡に設立しました。しかし当時の日本では鋳物の需要はあまりなく、す ぐに倒産の危機に陥りま すが、大阪の藤田財閥が手を差し伸べてくれ、何とかその危機は回避できました 。 そしてその後、第一 次大戦での軍需物資需要もあり事業は順調に進みました。 そして1927年(昭和3年)親戚の久原という人から金の鉱物資源の会社「久 原鉱業」という会社を譲り 受け、社名を日本産業、略して日産と改称しました。 ラッキーなことにその後、日本は金本位制を放棄し、金輸出を禁止したことから 国内の金の需要が高ま り、金産出を扱っていた日産は、大儲けをすることになります。 鮎川は、その儲 けたお金で、造船、化学、 自動車、鉱業、電気等の企業を次々と買収し77社の企業からなる日産コンツエ ルンを作り上げたのでし た。この買収した電気会社は日立製作所、造船会社は日立造船、化学会社は日 産化学、鉱業会社は 日本鉱業、自動車会社は日産自動車、金属会社は日立金属、損保会社は日産火災 とそれぞれ社名を 変更したのでした。 事業欲の強い鮎川は更なる野望を実現すべく、次に満州に進出したので した。満州では積極的 に外国資本、特にユダヤ資本を満州に呼び込むことを計画しました。 そして1934年(昭和9年)鮎川は「ドイツ系ユダヤ人5万人満州移住計画」 という論文を発表しました。 以前高橋是清について記したときに、日露戦争で日本が勝利したのは、高橋是清 とロンドンで知り合った クーンローブ商会(後のリーマンブラザーズ)社長ドイツ系ユダヤ人ヤコブシフ が日本の戦費の半分もの 莫大な戦費を出資してくれたからとお話したことがありました。ヤコブシフをはじめ当時のユダヤ人大資本家は、ナチスドイツよりもずっと以前 の中世の帝政ロシアの時 代から帝政ロシアで行われたいたボグロムというユダヤ人虐殺(1回に数百人~ 数万人の規模でおこ なわれてきた異教徒ユダヤ人の虐殺、)をやめさせるべく、さまざまな手段で帝 政ロシアの打倒を目指し ていました。 そんな折、たまたまロシアと戦争準備を進めていたのが日本で、そ の日本に500万ポンド (現在の5000億円以上)という天文学的戦費を日本に出資したのでした。( ヤコブシフ自身が、日露戦争 で日本に出資したのは、高橋是清にほれ込んだのではなく、ロシアのボグロムを やめさせたかったから と後に証言しています) また一方でヤコブシフ達ユダヤ人資本家は、帝政ロシア打倒に別の手をうってい ました。それは、 ロシアで行われていた帝政打倒運動(ボルシュベキ)に多大なお金を出資してい たのでした。 ではボル シュベキとは一体なんだったのでしょうか? ボルシュベキとは、ドイツ系ユダヤ人であったカールマルクス(代々ユダヤ教の 牧師にあたるラビの家系) の書いた著書「資本論」を信奉するユダヤ人グループ(レーニン、トロツキー等 )が行っていた共産主義 運動でありました。特に共産主義では、宗教否定(つまり欧州ではキリスト教否 定)をテーゼとしていました。このボルシュベキもヤコブシフの多大な援助により1917年のロシア革命で帝 政ロシアを打倒し、ソビエト 連邦を成立させたのですが、そのソ連共産党指導部の政治局員21名のうち、な んと17名はユダヤ人が 占めました。(レーニンだけは8分の1のユダヤ人の血統に過ぎませんでしたが 、残りは純粋なユダヤ人) それゆえ、ロシア革命は別名ユダヤ人革命とも呼ばれています。 当時、後に英国首相となるチャーチルは、アメリカのトリビューン紙に、「ユダ ヤ資本家が自分達の望み のために画策している行為が世界の歴史を変える」と大批判しています。 日露戦争でユダヤ人の援助を得た経験が日本の大政治家にもユダヤ資本の強大さ を実感させました。 鮎川も井上馨からそう聞いていたのかもしれません。鮎川の書いた「ドイツ系ユ ダヤ人5万人満州移住 計画」は、その後「ふぐ計画」(食べるとおいしいが、いつ毒に当たるかもしれ ないという意味でつけられ た)として日本の正式な政策として立案、実行されることになります。 具体的なふぐ計画とは「満州にユダヤ人国家を作れば、共産主義ソビエトも恩を 感じて満州には攻めて こない。一方アメリカのユダヤ資本を呼び込み日本―ユダヤ資本で繁栄した国家 をつくることができる。 そうすればアメリカも攻めてこない」という計画でした。 1936年鮎川は関東軍(日本の占領軍)の後援をえて、「満州重工業開発株式 会社」を設立し、ふぐ計 画を実行にうつします。1937年には満州のハルピンで極東ユダヤ人大会が開 かれ1000人ちかいユ ダヤ人が集まり、その後2回にわたり同様の会議が開催されました。 そして、その頃には8000人ものユダヤ人がハルピンに定住するようになりま した。そしてこのふぐ計 画には外務大臣松岡洋右も参加するようになりました。 しかし、その後、日本は三国防共協定を通じ、ナチスドイツと同盟を結ぶよう になりました。そしてナチス ドイツからたびたびのユダヤ人擁護策をとらないようにとの説得に屈し、このふ ぐ計画は頓挫していくこと になります。 一方、欧州ではナチスドイツが、ユダヤ人をとらえアウシュビッツ等の強制収容 所に送り、結局300万 人近いユダヤ人が虐殺されました。 しかしながらユダヤ人への寛容政策は、日露 戦争でのヤコブシフ への恩義から日本政府には脈々と流れていました。丁度そのころ、リトアニアで 日本の外交官杉原ちう ねが発行した「命のビザ」を持った6000名ものユダヤ人達が、日本政府の黙 認のもと、シベリア経由 でやすやすと日本を通過し、上海やアメリカに逃れることができました。(1966年 ごろ、新任イスラエル大使が昭和天皇に新任挨拶に伺った際、昭和天皇は「わが 国は、その昔ユダヤ 人のヤコブシフ氏に大変お世話になりました」とご挨拶されたそうです) さて第2次世界大戦後の1945年(昭和20年)12月、鮎川はフグ計画立案 と実行により戦犯として 捕らえられ巣鴨プリズンに20ケ月にわたり収監されました。 財閥解体に より全資産を没収され 資本家としての命をたたれました。そして67歳で出所し、しばらく仕事もなく 苦労しましたが、1952年 72歳のとき、旧日産人脈の援助もあり、中小企業助成会の創設に参加し会長に 就任、翌1953年に は帝国石油社長就任し、また参議院議員に当選し完全復活を果たしました。1967年、胆のう炎手術を受けましたが、予後が悪く亡くなりました。享年8 6歳でした。 晩年鮎川義介は、栄華を極めた昔を想い、次のような言葉を残しました。「努力だけで過去の事業が成功してきたかというとそうではない。 やはりこれに 運がプラスされている。 しかし、努力のないところに絶対に幸運はこない。」 ※ふぐ というと、冬の鍋のイメージがありますが、「ごまふぐ」は今が旬のようです。関西では富山湾から水揚げされた「ごまふぐ」が売られていいますが、この「ごまふぐ」の唐揚げ、絶品とのことです。お酒のみの方は「ごまふぐ」の白子も焼いていただくとおいしいとか・・・。