男前? ダンディー?
一昨年だったでしょうか、NHKドラマで「白洲次郎」さんのドラマが放映されてました。 伊勢谷友介さんの洗練された演技もさることながら、先日御亡くなりになった原田芳雄さんの吉田茂役、中谷美紀さんの白洲正子の配役など、白洲次郎を知らない方でも十分楽しめるドラマでした。 今回は終戦後の日本復興に尽力をした一人、白洲次郎さんのお話を簡単に・・・。(最近、毎回話が長くなり、申し訳ないです・・・。) 1902年2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市精道町)で、神戸で白洲商店を営む白洲文平(ふみひら)の次男が生まれ、次郎となずけられました。 白洲家は代々三田藩のお抱え儒学者の家系でしたが、父文平は綿花貿易の輸入で財を成した実業家でした。 この文平の趣味は自分で家を建てることでしたが、しばらくして川辺郡伊丹町に4万坪の敷地を購入し広大な邸宅を建てました。敷地4万坪といいますと甲子園球場の3つ分にあたりますが、現在の伊丹市春日丘4丁目は、ほとんど白洲家の敷地だったようです。敷地内にはミレーやコロー、マチィスといった印象派画家の名品を集めた美術館があったり、ボタン園があったりと、贅沢を極めたものであったそうです。 1919年、白洲次郎は旧制神戸一中(現在の神戸高校)に入学しましたが、サッカー部や野球部に属し、手のつけられない乱暴者として知られるようになりました。成績は中の下で成績表には「やや傲慢」とか「怠惰」と書かれていたそうです。旧制中学生の身でありながら、当時から高級外車を乗り回し、また宝塚歌劇団の10歳年上の学生と付き合ったりもしていたそうです。 神戸一中を卒業後、父の勧めで英国のケンブリッジ大学に入学し西洋史を学びましたが、ここでもベントレーを乗り回し、イギリス人貴族とも付き合うようになりました。 しかしケンブリッジ大を卒業した、1928年(昭和3年)父の経営の白洲商店が恐慌で倒産し、急遽帰国することになりました。帰国した1年後、神戸にあった英字新聞の会社に就職し記者となりました。まだこの頃は伊丹の邸宅は売却される前でしたが、そのころ樺山伯爵の次女正子と知り合い結婚し伊丹の邸宅に住むことになりました。 しばらくしてこの邸宅も他人に売却されることになりましたが、個人資産は多く残すことができたため、白洲商店倒産後も、英国などを中心に頻繁に海外に行くことが多く、そのうち英国の日本大使館の大使であった吉田茂と知り合い、英国に行った際には、日本大使館が定宿になりました。 この頃の 日本の状況は、1936年の「2・26事件」を契機に、軍部の独走が始まり、戦争への道をひた走る暗い時代となってきました。白洲次郎は「戦争にでもなったら食糧難になる」と予測し、1940年東京の南多摩郡鶴川村(現在の町田市)に古い農家を購入し疎開しました。当時、38歳になっていた次郎でしたが、特権階級の徴兵忌避を利用し、農業を営む毎日でした。 一方で英国で知り合った吉田茂は、欧米に多くの知人を持っており、先進知識人として欧米との戦争は反対するという反戦思想を持っていましたが、吉田の意向で次郎もこの反戦グループに加えられ、軍部からは「ヨハンセングループ」(ヨは吉田のヨ、その反戦グループ)として目をつけられ、行動を監視される事となりました。 結局日本は、その後、太平洋戦争に突入し1945年8月に敗戦し、その直後組閣された公家の東久邇宮内閣では、吉田茂は外務大臣に指名され、その吉田の要請で白洲次郎も終戦連絡中央事務局参与に就任し、進駐してきたGHQとの交渉役となりました。 次郎はケンブリッジで覚えた英語でGHQにも主張すべきところは頑強に主張し、GHQ内部でも「従順ならざる唯一の日本人」と言われました。特に昭和天皇からのマッカーサーへのクリスマスプレゼントを持参した際、マッカーサーが「その辺に置いといてくれ」といった言葉に激怒し、「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か」と怒鳴り、持ち帰ろうとして逆にマッカーサーがわび、その場は収まったそうです。 1948年初代貿易庁長官に任命され、通商産業省を設立させました。また同年、当時日本最新鋭の新日鉄広畑製鉄所を英国企業に買収される話を積極的に推進しましたが、社長の永野重雄が「将来の日本経済のため製鉄業を外国資本に任せられるか」と大反対し頓挫しました。 後日偶然2人は銀座のクラブで出会い、取っ組み合いの大喧嘩となり、永野が次郎の顔をテーブルに押さえつけたことがあったそうです。 1951年サンフランシスコ講和会議に吉田茂が全権大使顧問として渡米した際、白洲次郎は随行首班としてアメリカに随行しました。 その飛行機での機内では、ジーンズをはき滞在中はラッパズボンをはくようなおしゃれな人物でした(70歳過ぎて、三宅一生のモデルでもありました)サンフランシスコ講和会議では、外務省が用意した吉田の受諾演説の草稿がGHQへの美辞麗句ばかりで、しかも英文で書かれていたため激怒し、急遽随行員を総動員させ和紙を長さ30Mにつなぎ合わせさせ、毛筆の日本語で書き直させました。 海外メディアではこれを皮肉って、「吉田のトイレットペーパー」と報道したそうです。サンフランシスコ講和会議から帰国した頃、電気公社の分割民営化が始まり、白洲次郎はそのうちの東北電力会長に就任し、結局8年もの長きにわたり会長職をまっとうしました後は、しばらくゆうゆう自適の生活を送っていましたが、1982年2月名門軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長に就任することになりました。 理事長になってからの次郎はキャディーやフロント従業員にも気を配り、気楽に話しかけ慶弔時には祝いや香典を贈っていた一方、倶楽部会員のマナーには大変厳しかったそうです。そんなある日、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった田中角栄の秘書が訪れ、「田中がプレーしますのでよろしくお願いします」と言ってきたことがありました。その時、応対した次郎は「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中さんですか」と返したところ、その秘書は「総理の田中です」と答えたそうです。 次郎は「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでなければ帰りなさい」と追い返したそうです。またある日、車の運転手にシューズの紐を結ばせている会員がいるのを目撃した次郎は、その場にいき「おい、お前には手がないのか」と一喝し、プレーさせなかったこともあったそうです。 結局80歳まで軽井沢ゴルフ倶楽部に理事長を勤め、1985年内臓疾患で死亡、享年83歳でした。墓所は三田の心月院にありますが、遺言で葬式無用・戒名不用とあったため墓には戒名は記されていないそうです。晩年、白洲次郎を世に有名にしたサンフランシスコ講和条約前後のGHQとの交渉についてこう語っています。「占領下の日本でGHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすればただ2人、1人は吉田茂であり、もう1人はこの僕だ。吉田さんはそのことが国民の人気を得ることなり、ずっと表街道を歩いてきたが、 もう1人の僕は別に国民に認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。 けれども1人ぐらいこういう人間がいてもいいとおもい、別に不平不満を感じたこともないし、いまさら感じる年でもないとおもっている」 雑誌にも、白洲正子、白洲次郎の生き方の特集など、亡くなってからの何と人を魅了し話題になります。京都にもお二人それぞれがバラバラに行きつけのお店を持つなど、ご縁のあるお店や場所が多くあるようです。 新潮社より出版されいる「おそめ」という文庫本はご存知でしょうか。京都の人気芸子の生涯のお話ですがこの方が、祇園、銀座に出されていたお店にも白洲次郎はよくお越になっていたそうです。 白洲次郎さんの生き方についても、人それぞれと言ってしまえばそれまでですが、戦後の日本人でアメリカに対して数少ない「ノーといえる日本人」のお一人だったのかと、思います。