名古屋片山能 巻絹 西行桜 | 翡翠のブログ

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今日は、「第29回 名古屋片山能」を観に名古屋能楽堂へ。



能「巻絹」

 シテ 巫 女:片山伸吾

 ツレ 都の男:片山 峻佑

能「西行桜」

 シテ 桜の精:片山九郎右衛門

 

【巻絹】

都から熊野へ巻絹を奉納する男が、着いてまず音無天神に参詣し、咲き香る冬梅に和歌を心の中で読み、天神に手向ける。巻絹を納めに行くと期限より遅れたことで勅使(ワキ)に叱られ縛られてしまう。そこへ天神ののりうつった巫女(シテ)が登場し、和歌の嘉納を喜び、縄を解くように命ずる。神託を疑う勅使に、巫女は男が天神に捧げた和歌を語り、和歌の徳を説き、祝詞をあげ、神楽を舞う。

 

「巻絹」は以前に人間国宝の梅若玄祥(梅若実)さんで拝見したことがあります。その際にも、とっても奇麗とは思いながら、少し舞部分でウトウトもしてしまったものが、今回は謡を予習し、謡本を観ながらだったこともあって、和歌の徳について聴きながら最後までじっくり観られました。

 

今回、特に印象的だったのは、ツレの都の男を演じた片山 峻佑さん。シテの片山伸吾さんの息子さんで19歳の方だそう。若い男性だからと注目しては、色々なハラスメントになってしまいそうですが、普段、目にする舞台ではお年を召した能楽師の方が多いので、若い方ががんばってくださっていると、これからも能が安泰な気がして嬉しい応援する気持ちになります。

 

巻絹は、音無天神に咲き誇る梅を読んだ和歌

「音無にかつ咲き初むる梅の花 匂はざりせば誰か知るべき」 

(この音無の地にひっそりと、咲いたばかりの梅の花よ この香りがなかったならば誰がそれと気付くだろう)

が登場する物語なので、早春のこの季節にぴったりの演目。先日観た三室戸寺のしだれ梅や、石山寺の梅を思い浮かべて観ました。

ただ、チラシの舞台写真では替えの演出で梅の枝(梅の造花に、布の御幣を付けたもの)を持っていて一層梅をイメージしやすいのですが、今日の舞台は通常の御幣を持っている演出だったようでした。

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【西行桜】

西行法師の庵に咲く桜を見物に来られることを迷惑に思い、西行が「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」と詠んだことに対して、その夜の夢に桜の精の老人が現れ咎とされたことに不満を述べる。一方で西行に会えたことを喜び、桜を讃えて舞を舞い、やがて夜が明けると消える。

 

巻絹が梅なのに対して、こちらの西行桜は桜を取り上げ、どちらも春の花尽くしのプログラム。能楽堂の周りには桜はまだ咲いていなかったですが、もうすぐ咲く桜を思い浮かべながら観ました。

藤沢周「世阿弥最後の花」を読んで、世阿弥が見つけた老木の花、「西行桜」を観たいと思って観られないでいたのですが、ここ最近で続けて観る機会がありました。

 

「能楽手帳」によれば見どころとして、「桜花の華やかさと老木の渋味という相反する両極端を合わせ持つ」「華やかな美しさのうちに、はかない淋しさといった味わい」「太鼓が入り、老木の強さと桜の陽性とが加わり」「閑寂幽玄の趣に、華麗典雅の風情を添えた大局」「老体だからと、ただひたすらに静かに、翁さびていればいいというのでなく、『少年の春』を惜しむ若やぎの気分がほしい」とあり、桜がきれい・・・とだけでなく、深いなあ、演じる方にも観る方にも。そこまでは、まだ今日、味わい気が付けたとは全然思えないのですが、それを念頭に置きながら拝見しました。

 

毎年、片山能、名古屋に来てくださってありがたい。しかし、今年は、ついに先日、京都に能を観に行ってしまったし、味を占めてまた観に行こうとも思っているのでした。