名古屋華舞台 大般若 巻絹 | 翡翠のブログ

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今日はお能と狂言を観に名古屋能楽堂へ行きました。毎年、能と狂言を中心に伝統芸能を公演している「名古屋華舞台」、今年も人間国宝の能楽師・梅若玄祥さん、狂言師・野村又三郎さんらが出演されました。そういえば私の初能楽堂も、「名古屋華舞台 人間国宝対談と至芸」で梅若玄祥さんでした。

 

 

<狂言 「大般若(だいはんにゃ)」:

シテ/僧 野村又三郎
アド/神子 奥津健太郎  施主 松田髙義
<あらすじ>
信者の家で、神楽をあげにきた神子(みこ)と祈祷(きとう)をしにきた僧が鉢合わせをし、僧の経は神楽の調子に引き込まれてしまう。
神子の舞う三番叟を模した神楽に僧が引き込まれ舞を始めるところが一曲の山場。笛と小鼓のアシライが入る賑々しい演目、出家狂言のひとつ。

 

<能 「巻絹(まきぎぬ)」出端之伝 彩色之伝 惣神楽:
シテ/巫女 梅若 玄祥
ツレ/巻絹奉幣の使者 川口 晃平   ワキ/下人 高安 勝久   間/臣下の従者 野村 又三郎
笛/藤田 六郎兵衛  小鼓/後藤 嘉津幸  大鼓/河村 眞之介  太鼓/加藤 洋輝
後見/赤瀬 雅則 小田切 康陽
地謡/山崎 正道  角当 直隆  味方 團  井上 和幸  田茂井 廣道  内藤 幸雄 小田切 亮磨  山崎 友正
働キ/井上 貴美子  伶以野 陽子
<あらすじ>
熊野へ巻絹を奉納する男が、途中の音無天神に参詣して遅くなったため、監督の勅使(ワキ)に縛られてしまう。
天神ののりうつった巫女(シテ)が登場し、縄を解くように命ずる。
神託を疑う勅使に、巫女は、男が天神に捧げた和歌を語って、和歌の徳を説き、激しい神がかりの状態のなかで熊野権現の神威を示す。
祝詞をあげ、神楽を舞う、中世の時代相を舞台に映した能。

 

男が天神に捧げた和歌は神前の冬梅をみて詠んだ歌で、「音無にかつ咲きそむる梅の花 匂わざりせば誰か知るべき」。

あらすじを、いつも能観覧時にお世話になっているthe能ドットコムの演目辞典と、シテの梅若玄祥さんの梅若能楽学院会館の曲解説で予習してから行きました。

 

狂言の前に演目解説ということで、ツレ/巻絹奉幣の使者の川口晃平さんが、能の巻絹について解説をしてくださいました。あらすじ自体は予習をしてから行っていて知っていましたが、天神が和歌を捧げられたことを喜んだ理由についてお話してくださり興味深かったです。能のできたころは、仏教が力を付け、日本に元からあった神道をしのぐほど権勢があった。その結果、日本古来の神は仏の一つで、かつ仏と違いまだ悟りを得ていない下位の存在とされるようになった。悟りを得た仏と異なり、神は苦しみから逃れられないでいる。そこで和歌を奉じられると、和歌は古い力のある詞であるため、神の苦しみを消すことができるとされていたのだそうです。なるほど。

こうやって、一度お顔を拝見したり話しを聞いていると、後の能で登場されたときに、「おお、先ほどの方だ」と、何だか親しみが出ます。

 

狂言と能のどちらにも巫女が出ていながら、その雰囲気が全然異なるところが面白かった。狂言「大般若の」の僧は、あらすじでは「神楽の調子に引き込まれてしまう」とあり、確かに当初は神楽の踊りや奏楽につい調子がつられる話かなと思って面白がっていたのですが。この僧、どう見ても生臭、エロ坊主(失礼)ではないでしょうか。踊っている巫女(の足?)に嬉しそうに見とれ、ついには抱きついてしまうのですから。実際にいたでしょう、世俗の欲にまみれた生臭坊主を笑っているのでしょうか。たくましそうでもありました。

 

能「巻絹」の方は、3つの特別な小書(こがき・特殊演出)がありました。

出端之伝(ではのでん)・・・シテ(巫女)の登場が通常と異なり、神・幽霊などの役柄に用いる出端を用いていて、極めて珍しく異例なのだそう。

彩色之伝(いろえのでん)・・・通常の演出で舞う神楽の舞の代わりにイロエというものを舞うのだそう。

惣神楽(そうかぐら)・・・常五段の舞を全て神楽の囃子にのって舞う。

これらの小書きのため、クリ・サシ・クセが省略となるとのことでした。が、通常がわからないので、演出もわからないです・・・。わかる方はわかることでしょう、きっと。

 

私が観ていてわかった(ハッとなった)のは、従者(間)が使者(ツレ)を縛り上げた後で、はらりと縄がほどけてしまったことくらい。漫画「花よりも花の如く」で、舞台の上でアクシデントは色々ある、あっても淡々と何もなかったように進めると描かれていたので、「おお、本当だ、誰も表情も変えない」と、そんなところばかり注目して見ていました。そのまま、縄の落ちたまま、縛られているものとして進むのかと思っていましたが、その縄を後で巫女がパッとほどく場面があるからか、途中で後見の人が拾って結び直していました。

梅若玄祥さんの巫女の舞は、確かに神憑りしているかのように、男でもなく女でもなく、威厳がありました。が、すみません、舞囃子と神楽舞の調子でなんだか気持ち良く、今回も途中でウトウトっとしてしまいました。クラシックでもジャズでも寝る私、申し訳ないです。

 

日中は暖かく、地下鉄の駅から能楽堂まで歩く途中は皆手にコートを持って歩くほどでしたが、終わって夕方外に出ると肌寒かった。この時期、寒暖の差がありますね。でも道沿いの木々には芽が芽吹いていました。