おはようございます![]()
やっと平穏無事な朝がやってきましたね。
被害に合わせた方々には、片付け等、お疲れ様でございます。
突然ですが、みなさんは1都1道2府43県すべて言えますか?
日本地図を見ていていろんな県の形があるなあと思って、ふと、この大きさの違いはなぜだろうと思ったのです。
神奈川犬とチーバくん
元々の藩などが元だとは思いますが、現在までに吸収合併はたくさんあったと思います。それなら大体同じぐらいの大きさにしようとはならなかったのでしょうか?
もちろん北海道除く
結論から言うと、明治政府は実際に「ある程度均等な大きさに」という発想自体は持っていたのですが、最終的にはそれよりも既存の行政区分や地理的・歴史的な実態を優先する形に落ち着きました。
経緯を整理すると、いくつかの段階があります。
■まず廃藩置県(1871年)の直後は、旧藩がそのまま県になったため、数も大きさもバラバラで、最大300以上の県が存在しました。
飛び地や極端に小さい県も多く、これでは行政効率が悪いということで、その後数年で大規模な統合が進みます。
■1871年末から1876年にかけて、県の数は急速に減らされ、一時は3府35県程度まで統合されました。
ここで「同じぐらいの大きさに」という発想に近いことも実際に検討されています。
■特に1876年前後は大県主義といって、財政基盤を強化するために県をできるだけ大きく統合しようという方針が取られました。
香川県が愛媛県に、福井県が石川県や滋賀県に編入されたりと、かなり大胆な統合が行われた時期です。
ただ、この大県主義は長続きしませんでした。理由はいくつかあります。
●一つは、あまりに大きな県だと県庁から遠い地域の住民の不満が強くなり、行政が行き届かないという問題が出てきたことです。
香川県は愛媛県への編入後、住民の強い再置運動によって1888年に再び分離独立しています。
●もう一つは、地理的な障壁です。
山地や河川によって元々経済圏・生活圏が分かれている地域を無理に一つの県にまとめても、実態として機能しにくいという問題がありました。
日本は山が多く、平野ごとに独立した文化や経済圏が形成されていたため、これが県境として残りやすかったわけです。
■つまり1880年代以降は、行政の都合よりも「歴史的なまとまり」「地理的な妥当性」「住民感情」を重視する方向に振り戻され、現在の47都道府県の形に近づいていきました。
結果として、面積や人口で見ると今でも県ごとの差はかなり大きいままです(香川県と岩手県では面積に7倍近い差があります)。
なので、均等化しようという発想がなかったわけではなく、一度試して住民の反発や実務上の不都合に直面し、結局は歴史的・地理的な実態に合わせる方向に落ち着いた、というのが実際の経緯になります。
はぁ~・・、全然思うようにはいかなかったことがよくわかりました。
住民の気持ちを無視できない、これは当たり前のことですね。








