おはようございます雨

 

NHKで昔の紅白歌合戦の番組を白黒からカラーにして放送する番組がありました。


昭和44年(1969年)に放送された「第20回NHK紅白歌合戦」です。

『来年は1970年に入ります』と何度となく司会の宮田輝さんがおっしゃいました。

1970年はEXPO70万博の歳ですからね。

 

それではこの年の出場歌手と曲目をお伝えします。


この年は、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」や、いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」など、今も歌い継がれる名曲が数多く誕生した年でした。

皆さんお若くて、可愛くて、見ていてうっとりしました、若いっていいですね。

そういう私はまだ幼稚園でしたから、大晦日でも9時に寝ていて見ていないんですけどね。

でもこの歳私はいしだあゆみさんが大好きで「ブルーライトヨコハマ」を体をくねくねさせながら家で歌っていたのはよく覚えていますデレデレ

これくらいの頃かな?「シェー」のポーズです。

 


第20回 NHK紅白歌合戦(昭和44年)
【司会・結果】
• 紅組司会: 伊東ゆかり
• 白組司会: 坂本九
• 総合司会: 宮田輝アナウンサー
• 結果: 紅組の優勝

トリは美空ひばりさんと、まだ出場回数が少なかった森進一さんが務めました

【第20回紅白歌合戦(1969年)一覧】

■紅組(歌手名/曲目)

青江三奈/池袋の夜
いしだあゆみ/ブルー・ライト・ヨコハマ
小川知子/初恋のひと
カルメン・マキ/時には母のない子のように
越路吹雪/愛の讃歌
奥村チヨ/恋泥棒
水前寺清子/真実一路のマーチ
由紀さおり/夜明けのスキャット
伊東ゆかり/宿命の祈り
岸洋子/夜明けのうた
森山良子/禁じられた恋
弘田三枝子/人形の家
黛ジュン/雲にのりたい
西田佐知子/アカシアの雨がやむとき
梓みちよ/こんにちは赤ちゃん
高田恭子/みんな夢の中
佐良直美/いいじゃないの幸せならば
都はるみ/はるみの三度笠
ザ・ピーナッツ/ウナ・セラ・ディ・東京
美空ひばり/別れてもありがとう


■白組(歌手名/曲目)
森進一/港町ブルース
布施明/バラ色の月
千昌夫/君がすべてさ
西郷輝彦/海はふりむかない
春日八郎/別れの一本杉
ザ・キング・トーンズ/グッド・ナイト・ベイビー
三田明/サロマ湖の空
デューク・エイセス/筑波山麓合唱団
坂本九/見上げてごらん夜の星を
鶴岡雅義と東京ロマンチカ/君は心の妻だから
三波春夫/大利根無情
橋幸夫/京都・神戸・銀座
村田英雄/王将
水原弘/君こそわが命
美川憲一/女とバラ
ダーク・ダックス/あんな娘がいいな
内山田洋とクール・ファイブ/長崎は今日も雨だった
舟木一夫/夕映えのふたり
北島三郎/加賀の女
フランク永井/君恋し



トピックス
• 初出場組の豪華さ: いしだあゆみさん、由紀さおりさん、森山良子さん、内山田洋とクール・ファイブなど、後に歌謡界を代表する方々がこの年初めて紅白のステージに立ちました。


• 森進一さんの大抜擢: 当時デビュー4年目、22歳の若さで白組トリを務めたことは大きな話題となりました。


• 応援合戦: ザ・ドリフターズが応援ゲストとして登場し、賑やかなステージを繰り広げました。

 

ニヤニヤ私はこの年の紅白歌合戦をはじめて見たわけですが

特にファンではありませんが

水前寺清子/真実一路のマーチが歌がうまくて歌いっぷりがとってもかっこいいなと思いました。

 

探したけど動画がありませんガーン

ぜひNHKONEでご覧ください。

 

♪この世は長い坂道だけど

長さじゃ無いよ人生は

真実一路を生きたなら

短くたってかまわない

タンバリンリンリン×4

鈴を鳴らそう愛の鈴を♪

 

白組でときめいたのは

 

三田明 サロマ湖の空 ハンサム~歌うまい~♪

 

また動画がありません~

 

サブちゃんの

北島三郎/加賀の女

も良かったな~

 

司会の坂本九さんの歌もすごくしみました。

 

ほんとにきりが無いぐらいみんな歌がお上手でした。

 

トリの美空ひばりさんは最後までお姿を見せなくて

とっておき感がすごく感じられました。

 

当時、アイドル的である

小川ともこさんや西田佐知子さんや高田恭子さんなど

めちゃくちゃ歌がうまい

さすが「紅白」に選ばれただけあるって感じがしました。

 

応援合戦に出てくるクレイジーキャッツやドリフターズ

殺陣をを見せてくれた高橋英樹さんだったかな?お若くてとってもハンサム

 

ぜひご覧くださいね。タイムスリップしますよ~( ̄∇ ̄)

 

 

おはようございます太陽

 

今朝のEテレ0655でひさしぶりになぞなぞがあったので

私もひさびさにクイズを出してみようと思いますが

 

難しいのは疲れちゃうので小学生向けで、脳をほぐしてみましょうデレデレ

(答えは最後に)

 

1.一週間のうち2日しか使えない楽器は?

2.ケガをしたときにつける毒ってなーんだ?

3.電子機器で使う、血が出ないというものはなーんだ?

4.1より大きく10より小さい100と書いてあるものはなーんだ?

5.イカが邪魔者扱いされそうな国はどーこだ?

 

 

炎答え炎

 

1.もっきん(木琴)

 

 

2. しょうどく(消毒)

 

3.でんち(電池)

 

4.100円玉

 

5.ジャマイカ

 

ニヤニヤいかがでしたか?

私は昔はなぞなぞ得意だったんですけど

だんだん怪しくなってきました~やばいです~あせる

 

おはようございます太陽

 

真顔田中美佐子さんが自転車で走る「こころ旅」、今週は奈良県でしたね

 

奈良県にはアスカという漢字が2つあります。

奈良の飛鳥と明日香の違いを教えてくださいとAIさんに聞いてみました。

 

結論:
「飛鳥」は歴史的な呼称・古代の都の名前、
「明日香」は現在の行政地名(明日香村)。

1. 「飛鳥」=古代の都・歴史用語
飛鳥は、6〜7世紀の政治・文化の中心地で、いわゆる飛鳥時代の舞台となった地域です。
古代文献では「飛鳥」が都の名として多く使われ、格式ある表記とされていました。

 

    飛鳥時代     飛鳥寺     飛鳥駅     飛鳥資料館
こうした歴史・文化に関わるものは今も「飛鳥」と書かれます。

2. 「明日香」=現在の地名(明日香村)
一方で「明日香」は、奈良県高市郡明日香村の正式な行政名です。
1956年、高市村・飛鳥村・阪合村が合併した際、
公平性や響きの美しさから「明日香村」という表記が採用されました。
  明日香村     明日香川     万葉集に詠まれた「明日香の里」
現代の地名としては「明日香」が定着しています。

3. 古代は表記がもっと自由だった
古事記・日本書紀・万葉集では、
明日香・飛鳥・安宿・阿須賀・阿須可…など多様な漢字が使われていました。
音(アスカ)に漢字を当てていた時代なので、表記が揺れていたのです。

 

真顔同じ頃?大阪には難波の宮の遺跡がありますが?

 難波の宮は「もうひとつの古代の都」
飛鳥(明日香)が6〜7世紀の政治・文化の中心だったのに対し、
難波の宮(なにわのみや)は、海と大陸に開いた“外交の玄関口”としての都でした。
難波の宮の特徴
•     現在の大阪城公園の南側あたりに位置
•     飛鳥時代〜奈良時代初期にかけて、何度か都が置かれた
•     大陸との交流・遣唐使の出発地に近く、海運の要衝
•     飛鳥の内陸的・精神文化的な都とは対照的に、外向きで実務的な都
飛鳥の静けさと、難波の宮の開放性。

飛鳥と難波の宮の関係
飛鳥の天皇たちは、季節や政治状況に応じて
飛鳥 ↔ 難波を行き来していました。
•     飛鳥:内政・祭祀・精神文化の中心
•     難波:外交・物流・海の玄関口
いわば、
飛鳥は「心の都」、難波は「世界へ開く都」
そんな二都体制のような時期があったのです。

 

真顔そうなのよね~、でも、どうして不便な山奥の飛鳥なんかに都を置いたのかな?

 

山奥の飛鳥に都を置いた理由は、現代の感覚で見ると「なんでそんな不便な場所に…?」と思えてしまうのですが、
当時の価値観・政治状況・宗教観を重ねていくと、とても合理的で、むしろ“飛鳥でなければならなかった”理由が浮かび上がってきます。

1. 飛鳥は「聖なる土地」だった
飛鳥は、古代から神々が宿る場所と考えられていました。
•     三輪山(大神神社)
•     甘樫丘
•     石舞台古墳
•     高松塚・キトラなどの古墳群
これらは、政治と宗教が一体だった時代において、
天皇が“神の子孫”として統治する正統性を示す舞台として最適でした。
つまり、飛鳥は「ただの山奥」ではなく、
天皇の権威を支える“聖地”だったのです。

2. 大坂(難波)は便利すぎて危険だった
おっしゃるように、大坂は海に開けていてとても便利。
でも古代の視点では、それが逆にリスクでした。
•     外国勢力が攻めてきやすい
•     海賊・渡来勢力の影響を受けやすい
•     物流の中心=権力争いの舞台になりやすい
飛鳥は内陸で守りやすく、
外圧から政治の中心を守る“安全地帯”でもありました。

3. 飛鳥は「王権のふるさと」だった
飛鳥周辺には、
大王家(のちの天皇家)の祖先の古墳が集中しています。
つまり飛鳥は、
王権のルーツが眠る土地=精神的な本拠地。
現代で言えば、
「創業家の墓所がある場所に本社を置く」
そんな感覚に近いかもしれません。

4. 政治の中心は“飛鳥”と“難波”を行き来していた
実は、飛鳥にずっと閉じこもっていたわけではありません。
•     内政・祭祀 → 飛鳥
•     外交・物流 → 難波(大阪)
この二つを行き来することで、
内向きの精神文化と、外向きの実務を両立していました。
だから難波の宮が大阪にあるのは、
飛鳥の“補完都市”として、とても理にかなっていたのです。

 

5. 飛鳥の“山奥”は、むしろ理想の都だった
飛鳥の地形は、
•     小さな盆地
•     周囲を丘陵に囲まれ
•     水が豊富で
•     気候が穏やか
という、古代の農耕社会にとって理想的な条件が揃っていました。
政治・祭祀・農耕が一体だった時代には、
飛鳥の静けさこそが“都の条件”だったのです。

 

 

ニヤニヤ大王家(後の天皇家)って奈良出身の人たちだったってこと?それともどこかから奈良の飛鳥に引っ越してきたの?

 

結論から言うと――

大王家は“奈良出身”と断言はできないが、飛鳥周辺を本拠とした勢力がゆっくりと形成された
つまり、
どこか遠くから突然やってきた一族というより、
大和(奈良盆地)に古くからいた有力な首長層が、長い時間をかけて“大王家”へと成長した
という見方が最も有力です。
ただし、外部との交流や血縁の混ざり合いも多く、
「純粋な奈良ローカルの一族」とも言い切れません。

1. 大和(奈良盆地)は古代から“権力の集積地”だった
奈良盆地は、
•     平野が広く農耕に適している
•     古墳を築くのに十分な土地がある
•     周囲の山々が“聖なる地形”として信仰を支えた
こうした条件から、弥生時代末期〜古墳時代にかけて
自然と有力な首長たちが集まる地域になりました。
その中で、飛鳥・橿原・桜井周辺の勢力が頭一つ抜けていき、
やがて「大王家」と呼ばれる中心的な家系になっていきます。

2. 外部からの影響も大きかった(渡来系との交流)
大王家の形成には、
朝鮮半島からの渡来系の技術者・豪族が深く関わっています。
•     土木技術
•     鉄器
•     仏教
•     文字文化
•     都市計画
こうした知識を持つ人々が大和に集まり、
大王家と婚姻関係を結んだり、政治を支えたりしました。
つまり、
大王家は“大和の土着勢力”+“外来の知識・血統”の融合体
というのが実像に近いです。

3. “どこかから引っ越してきた”説もあるが、決定的ではない
学説の中には、
•     九州から東へ移動してきた
•     出雲系の勢力が大和に進出した
•     朝鮮半島から来た王族が基盤を作った
などの説もあります。
ただし、どれも決定的な証拠はなく、
大王家が突然どこかから移住してきたというより、
大和の地で徐々に力を蓄えたと考える方が自然です。

4. 飛鳥が“本拠地”になった理由
飛鳥は山奥の静かな土地ですが、古代の価値観ではむしろ理想的でした。
•     三輪山・天香具山などの“聖なる山”に囲まれている
•     祖先の古墳が集中している
•     祭祀の中心地としての歴史が深い
つまり、
大王家の精神的・宗教的なルーツが飛鳥周辺にあった
ということです。

 

デレデレなるほどよくわかりました

想像をめぐらす楽しい会話ができました。