パパンズdeアトリエ -3ページ目

パパンズdeアトリエ

アトリエ絵画スケッチデッサンなどの個展
芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

テレビはあまり見ないが、このプレバトは面白いのでよく観ている。

俳句短歌はともかく、水彩画は、才気あふれる人達が競って驚くほど立派な作品を描かれるので、「ふ~ん、へ~ぇ!」と感嘆しきりに魅入っている。

本業でもないのに、まるで玄人はだしのように、プロ並みの腕を披露されている。

そんな中、これまでの優秀な作品を含め、水彩画展が開かれているようなので行ってみたのです。

 

「プレバト!! 水彩画展」
期間:2023年12月4日(月)~31日(日)
時間:11:00~20:00(※最終日のみ18:00まで)
場所:東急プラザ渋谷3階111スペース
(東京都渋谷区道玄坂1-2-3 渋谷フクラス内)
入場料:無料

 

まず渋谷に降りて驚いたことは、「ここは、、、どこ?」駅前は、工事中だらけで辺りは高層ビルに覆われている。

 

 工事中の渋谷駅 東急プラザ前の歩道橋から撮影 四方高層ビルに囲まれている。

 

どうにか開催会場に辿り着いたが、これがまた大変な人だかりなのです。

 

「ふ~むむ、 いつまで経っても前に進まないが…」

仕方ないので、列から割り込み、カメラを隙間に覗かせ盗み撮り。

 

    平美乃理 おしゃんなオフィス

 

正確なパース、建物の廊下の照明、透ける手すりの表現、そこにある風景に魅せられる。

 

光宗薫 群馬県の吹割の滝、タイトル「自然美」

水の流れ落ちる様、背景の緑、岩、吊り橋、すべてに調和があり、流れ落ちる水の音まで聞こえてきそう。

 

インスタグラムにもっといい画像がありました。

 

 

 

辻元舞『彩光』箱根彫刻の森美術館にあるステンドグラスの塔

 

場の演出とでもいうのだろうか。ステンドグラスの臨場感が半端ない。

床の反射までが、リアルですごい!

 

なのですが、結局、こちらを見た方が早いようです。

 

 

 

☕コーヒーブレーク

 

変貌した渋谷にも驚いたが、展示会場の混雑にも驚き、作品の凄さにも驚いた。

お子さんを連れて行くのは少々無理があるかもしれない。

受付嬢に「作品集を販売してませんか?」と訊ねると

「今は売り切れです。町の本屋に行けばあるかも知れません。」と言われた。

もう少し、ゆったりした会場で展示会が開かれるのを待った方がいいかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森鴎外の『雁』を読んだのは、確か自分が高校生の頃だっただろうか。

当時、これを読んだ時の印象で唯一残っていることは、「不忍の池で投げた石が、たまたま雁に当たってしまった」という記述だった。
「雁って意外にのろまなんだ。」という感想だった。

そこに展開される、妾と旦那のどろどろとした肉体関係、散歩の大学医学生への恋慕などには関心が無かった。というより、高校生の自分にはとんでも遠い世界、別世界の出来事のように映っていたからだろう。
自分は、あまり男女の醜聞、艶聞などについて触れることは好みではない。というより、何かに見透かされているようで恥ずかしいのです。
ドラマでも、男女の諍い、絡みなどがあると、早送りしてまともに観たことがない。

しかし、こうして改めて読み返すと、森鴎外の人間観察のきめ細かい目線が詳細に描かれていて、得体の知れぬ息苦しさもありながら、当時の江戸から東京に移った頃の風景描写、人情描写などが巧みな文章でリアルに伝わってきて、古き懐かしい明治という時代の空気を自分も呼吸しているように感じるのです。

 


雁 (1953年の映画) 『 雁 』(がん)は、 1953年 に公開された 豊田四郎 監督の 日本映画 、昭和28年度芸術祭参加作品。森鴎外 の小説『 雁 』が原作。
 

           その原作本

 

話のあらすじ

明治13年、いまだ明治維新まもない東京上野の下町でのこと。

東京大学の鉄門の真向かいにあった上条という下宿屋に、医学を志す医学生らが勉学に体育に励んでいた。
中でも競漕(きょうそう)の選手でもある岡田という男は、体格もよく美男で特異な学生だった。夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違いなく帰る。
岡田の日々の散歩は大抵道筋が極(き)まっていた。
『寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入(はいって)、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。』

これらは、全て実在した地名なので、これは架空の物語ではなく医学生岡田、すなわち森鴎外の日常の行動でもあったのだろう。

いつもように無縁坂を散歩していると、湯帰りの女とすれ違い、何気に惹かれたのかその背中を目線で追った。
そんなある日、格子戸の前に差し掛かると、薄暗い格子戸の背景にほのかに白い顔が浮かんでいて、岡田の顔を見ると、微かにほほ笑んでいるように見えた。
それからは岡田はその通りに来ると、必ずその女と目線が合うので、帽子を脱いで礼をするようになった。
すると、その女の顔が仄かに赤らみ、寂しそうな顔が一瞬、華やいだように見えた。
岡田は、必ずその女に礼をするようになり、その女も岡田が通りすがるのを待ち望んでいるように思えた。

寄宿舎には、末造という小使いがいた。

この末造が、書生相手に金貸しをするという噂があった。
最初は、五十銭、一円といった金銭だったが、次第にそれは何十円とかいった具合に大きな金貸しになり、高価な外国の専門書などを購入する医学生らにも、重宝されるようになった。
学校が下谷から本郷に移る時には、末造はもう小使ではなく立派な金貸しになっていた。

末造は、既に三十を過ぎて女房も子供もいたが、それが高利貸で成功して、池の端へ越してから後、醜く口やかましい女房をあきたらなく思うようになった。
末造は、練塀町(ねりべいちょう)の裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、時折、聞こえる三味線の音色に心惹かれた。
その三味線の主が、お玉という十六、七の娘だということを知った。
母親は、お玉が幼くして亡くなり、親父さんが秋葉の原(あきはのはら)に飴細工の床店(とこみせ)を出して日銭を稼いで暮らしていた。

そんな末造は、立派な実業家だという触れ込みで、「お妾はいやだ」というお玉に、親の為だと無理に説得して松源という広小路の料亭で顔見せ、お見合いをすることになった。

親父さんに連れてこられたお玉は、以前より一層、際立って美しく細面の魅力ある女に成長し、末造は、それが期待した以上に嬉しく、精一杯、ここぞとばかり豪勢に親子を持て成すのだった。
話はとんとん拍子に進んで、お玉は末造が用意した無縁坂に引っ越してくることになった。

しかし、こうして無縁坂での生活が始まったものの、お玉にとって、決してそれは幸福とは言い難いものだった。
魚屋に女中の梅を注文の買い付けに行かせても、おかみさんから「高利貸しの妾に売るような肴はないね。」と断られる。
お玉は、湧き上がってくる怒りや恐怖感、失望感のどうしようもない感情が吹きたってきた。
お玉が悔やしいと云うのは、世を怨み人を恨む意味ではなく、我身の運命を怨むとでも云うか、自分が何の悪い事もしていないのに、他人から迫害を受けねばならなくなる定めを、苦痛として感ずることだった。

末造は、お玉の家に立ち寄っても、決してそこで泊まることはなく、必ず夜には自宅に帰るようにした。
だが、末造の素行を感じとった女房の嫉妬に手を焼き、度々、女房のお常から迫られるようになった。夜の帰りが遅いと、「いったい今までどこに行っていなすったんだい」だのと責められるようになったのである。

そんなお玉には、唯一頼りになる隣人のお貞という四十を超す、裁縫のお師匠さんがいた。

お玉に、名前さえ知らない学生さんが岡田という名前だと知らされたのは、そのお師匠さんだった。「あの方は、随分品行も良くて、上条の御上さんもあんな方は他にいませんとお褒めですよ」と聞かされたお玉は、まるで自分が褒められているような気がして嬉しく「上条、岡田」と口の中で幾度も繰り返した。

 

或る日、岡田がいつものように、散歩をしていると、お玉の家の前で人だかりがあり皆が騒ぎ立てている。

何事かと立ち寄ると、鳥籠に青大将が今にもその籠の中の紅雀に襲い掛からんとして、屋根の樋から首を伸ばし、鳥かごの隙間から押し入ろうとしているのだ。

この鳥籠とつがいの二羽の紅雀は、さぞお玉が寂しがっていることを思い遣り、末造がお玉に買い与えたものだった。
鳥は、ばたばた羽ばたきをして、啼ながら狭い籠の中を飛び廻っている。

「何か刃物はありませんか」岡田は腕まくりをし、女中から出刃包丁を受け取ると、その大蛇をガラスのように固い鱗を切り裂き、幾度も切りつけ、ついに胴体を断ち切った。
一羽は、既に蛇に呑み込まれてぐったりしていたが、残った一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶる震えている。

お玉は、その光景をただ怯えながら立ち竦み見ていたが、岡田の手に血が付いているのに気が付くと、我に返り女中に手洗いの水を持ってこさせた。

前々から、仄かな恋心で岡田を見ていたお玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。
今度遭ったら、岡田にそのお礼をしようと、用も無いのに表をうろうろするようになった。

だが、なかなかその機会に恵まれない日々が続いた。

高利貸しの末造に囲われている妾の身分であり、世間の冷たい目線に晒しものにされてきたお玉だが、心の底には、純心な乙女のような羞恥心が働くのだろう。
進んで、岡田に近づくことは憚(はばか)れるような悶々としたじれったい日々を過ごしていた。
末造が来ても、「これが岡田であればどんなに嬉しいことか」と、その胸の内は岡田に執心していた。

或る日、末造が暫し千葉に所用があり、二、三日留守にすることをお玉に告げた。
お玉は、岡田をうちに招いて先日の蛇退治のお礼に御馳走をしたいとかねがね願っていた。
末造が旅立った後、お玉は、女中の梅を実家に帰すことにしたのである。

「今晩は檀那様がいらっしゃらないだろうと思うから、お前、実家へ帰って泊って来たけりゃあ泊って来ても好いよ。」お玉は梅にそう云った。
明治の頃、奉公人が藪入(やぶいり)の日の他には、容易にうちへは帰られぬことになっていたので、梅は目を剥いて驚いた。
お玉は、梅に手土産を持たせると、「まだ後片付けが残っているから」という梅を急かせ、自分は、せっせと部屋の掃除を始めた。
そして、今日こそはと覚悟を決め、岡田に声を掛けてみようと決意するお玉だった。
「決して、あの人も自分の事を好ましくない女だとは思ってもいないはずだ」という確信がお玉にはあったからだ。
髪結いに出掛け、余所行きの身繕いをすると、女の覚悟を決め、岡田が通りかかるのを心待ちにしていた。

いつものように岡田らしき下駄の音が聞こえ、表に出てみると、岡田は医学生仲間と二人連れで近づいてきた。
お玉は、岡田に声を掛けようとしたが、他人と同伴であるのに気が付くと、さっと声を引っ込めてしまった。
せっかくの好機だったが、帽子を脱ぎ会釈をして、無情にも足早に通り過ぎて行く岡田の後ろ姿を、ただ見送るしかなかったのである。
いつまでも名残惜しそうに眉をひそめ、岡田の後ろ姿を追うお玉の姿があった。

それから岡田と友人は、池の縁に出た。
池には、十羽ほどの雁が羽根を休めていた。
友人は、「石を投げてみろ」と岡田を誘った。
岡田は、「もう彼らは眠りにつこうとしているから可哀そうだ」と思った。
石を投げても、ただ脅して彼らを逃がしてやろうとして、的を外して投げたつもりだった。
だが、雁の群れがあわただしく水面を滑って散った中、一羽の雁だけは、頸をぐたりと垂れたままになっていた。
石は、偶然にも一羽の雁に的中してしまったのだ。

岡田らは、既にぐったりとしているその雁を夜の暗闇に紛れ、引き揚げる算段をした。
下宿仲間らと一緒に、その雁を捌いて酒の肴にしようというのである。

夜になり、引き揚げた雁をマントの中に隠し持った岡田と仲間らは、帰路の無縁坂の途中に、お玉が立ち竦んでいるのを見た。
外套の下に雁を隠し持っていた岡田は、ぎこちなく帽子の庇に手を掛けると、軽い会釈をして俯いて過ぎて行った。
女の顔は石のように凝っていた。

美しくみはった目の底には、無限の残惜しさが含まれているようだった。

読後感想

寮に戻った岡田らは仲間らと一緒に、夜更けまで雁を肴に酒を酌み交わしたというところで、この物語は終わっている。

この時、岡田は、ドイツ洋行の話があり、既に意を固めていたので、たとえお玉のことをいくら思い遣ってみても、医学生である自分が、女を囲い一軒の家に住まわせ、生活の面倒などとてもできる身分でもなく、それは成し遂げられないどころか、お玉も自分も人生の足枷になるだろうと推察していたことだろう。
揺れ動く岡田の思いは、すでに日本から離れ、遠い異国のドイツの地にあったのだろう。

象徴

あの蛇退治の籠の中の紅雀は、薄暗い格子戸の向こうに囲われたお玉の存在を象徴するものだろう。
それを襲う大蛇は、妾という囲い者、しかも金貸しの囲い者に対する、蛇のように鋭い冷血動物の、世間という冷たい目線を象徴するものだろう。
岡田は、返り血を浴びながら、その大蛇を見事、討ち取ってくれた英雄、救い主を象徴するものだったのだろう。
雁の群れを憐れんで逃がしてやろう思い、石を外して投げたつもりが当たってしまった。
哀れだから助けてやろうと思った善意が、仇になるという世の皮肉さを象徴している。
無縁坂という地名も、岡田との縁も途切れてしまうお玉の幸への縁の切れ切れを象徴しているのだろう。

もしこの時、岡田がドイツ留学をやめて、お玉との生活を選んだとしたら、いったいどうなるのだろうか。
二羽のつがいは貧しいながらも、あらゆる困難を乗り越え、未来永劫仲睦まじい人生を遂げるだろうか。
あるいは世間と言う大蛇に襲われ、どちらかが犠牲となり残った雀も身を竦め怖れ、陽日の下に二度と囀らなくなるだろうか。

森鴎外(もり おうがい、1862年~1922年〈大正11年〉)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。
1884年(明治17年)22歳でドイツ留学を命じられる。
1890年(明治23年)38歳『国民之友』に「舞姫」を発表。
1911年(明治44年)49歳『すばる』に「雁」を発表。

数々の華々しい履歴がありながら、恋愛小説のような繊細な心理描写も描くという器量豊かな才人です。
明治時代に、西欧人との女性恋愛関係を描けたのはこの人くらいではないだろうか。

明治という時代、女一人では生きてはいけない時代だからこそ、このような悲恋の小説を森鴎外は描いたのだろう。
お玉というどぶ板横丁の貧乏な家庭に生まれ、社会の日陰で暮らすような女性が暗闇に咲く一凛の清楚なユリの花のように一層、美しいと感じ恋してしまう。

これを発表したのは、森鴎外が五十歳頃のことだった。
このお玉との儚い出会いは、二十歳そこそこなので、それから随分時間が経過し、世のどぶ板の底から天上の世界まで知り尽くした頃に描いたものだった。
その前に、三十八才でドイツから帰国し、森鴎外を追ってきたドイツ娘との純愛物語を発表したので、今さら、お玉との悲恋物語を語ることは出来ないだろう。
この小説は、「僕」という一人称代名詞が筆者のように描いてあるが、その「僕」がいったい誰なのかがどこにも描かれていない。

齢五十を過ぎ、既に時効となった身上だが、岡田の当時の心情を描くためには、どうしても「僕」という他人でなければならない。「僕」という他人でなければ、岡田の本当の姿を描くことが出来なかったのだろう。

この小説のくくりの部分に、

読者は「お玉とはどうして相識になって、どんな場合にそれを聞いたかと問うかも知れない」とあり、「譬えば、実体鏡(ステレオスコープ)の下にある左右二枚の図を、一つの影像として視るように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合せて作ったのがこの物語である。だから、それには読者は余計な詮索などしないほうがいい。」と締めくくってあった。

「僕」という一人称と、「岡田」という架空の人物の視点が、重なったり離れたり見え隠れしながら、合わせ鏡のように時を前後しながら描いたものだと信じる。

ところで「僕」は、これを書いた時、既にその後のお玉と末造と岡田の行く末を知っていたことだろう。
であれば、これを単に悲恋の別れ話に終わらせるのではなく、男と女が、純愛小説のように、ことほど左様には収まらないだろうが、是非、その神のような視点と達筆で、その後の行方顛末まで描いて欲しかったと願う。


本文中に「下谷にある医学部」「鉄門」とかいった記述があるが、それらを急ぎ調べてみた。

*当時、神田錦町にあった東京開成学校が法理文三学部に、下谷和泉橋通りから本郷の文部省用地に移っていた東京医学校が医学部となった。
「和泉橋」とは、神田川に架かる万世橋の下流の橋。
*鉄門(てつもん)
 医学部附属病院中央診療棟南側に、1879年から1918年まで存在していた門。1918年に鉄門の外側の民有地を大学が購入し、
 大学の敷地を門で区切っておく必要がなくなったため、撤去された。現在ある鉄門は、2006年に同位置に再建されたものである。
*鉄門倶楽部 1899年に創設され、元々は東京帝国大学医科大学のボート競技の応援団体。
 「競漕(きょうそう)の選手になっていた岡田は」というくだりがあるが、岡田は、このボート部の選手だった。
*競漕(きょうそう)八人とか、四人とかが漕手となる集団競技。⇒レガッタ
 明治八年、英国人F.W.ストレンジ氏が大学予備門(東京大の前身の一つ)の教員となり、 隅田川で学生に漕艇を教え始める。
*松源 上野広小路では、明治から大正初期にかけて最も有名な料理屋。

*岩崎邸 無縁坂などの地図

 

 

地図で辿る「雁」
 

 

この小説には、明治から大正にかけての上野界隈の風俗、歴史、地理など詳細に描かれてあり、本を片手に、その地を巡る小旅行など、いつか楽しみに目論見にしておきたいと思う。


☕コーヒーブレーク

「釘一本」というグリム童話から引用した譬え話が、この小説に登場する。
 

そのあらすじ
 

商人は、市で商売がうまくいって、金袋を金銀でいっぱいにしました。
そこで、帰宅支度し夜前に家に着きたいと思いました。
すると、ある町で馬番が馬を連れて来て「旦那、後ろ足の蹄鉄の釘が一本無いですよ。」と忠告されました。
「いいや、ほっといてくれ。急いでいるんだ。」と言い、そのまま出発しました。
ところが、昼過ぎ馬に水をやっていると、馬番が「だんな、馬の後ろ足の蹄鉄がありませんよ。鍛冶屋に連れて行きましょうか?」と言った。
「いや、そう遠くもないから充分持つだろう。俺は急いでいるんだ。」といい旅を続けました。
ところが、暫く馬に乗っていると、無理をした馬の脚が折れてしまい、商人は、重たい荷物を担いで道を急がねばなりません。
家に着いた頃には、すっかり夜になってしまいました。
 

「急がば回れ」という譬えだが、「小事が大事になる」という譬えとも受け取れる。
「人間万事塞翁が馬」という故事もある。
たまたま小さな事故で、目的の飛行機に乗れず大金を逃がしたが、後に、その飛行機が墜落したというニュースが飛び込んできた。
先ほどまで「なんて俺は運が悪いんだ!」と怒っていたのが、それを聞いて「なんて俺は運がいいんだ?」と安堵の冷や汗をかくことだろう。
果たして、それが本当に幸せだったかどうかは、最後になるまで誰にも分からない。

さて長々、ご清聴ありがとうございました。

 

 

 

 

 

青森のリンゴ農家に婿養子に入ったばかりに、さして、興味も無かった農業を手掛けることになった木村秋則さん。
メカには興味があったので、農業用トラクターをいじくりたいという動機が後押しした。
 

 

UFOにアブダクションされたとか、龍を見たとか、幽霊に小便をふっかけたとか、時間が止まったといった話を聞くと、あまり近寄らない方がいいのかと思う。

「嘘だろ、農薬も肥料も無しにリンゴが出来る訳がない」と、近所の農家や専門家からも「変な人だ」と呆れられ変人扱いされた。

本屋で、トラクターの専門書を買おうと、上の棚にあったその本を棒で突くと、隣にあった本も一緒に落ちて来た。
見ると本の角が変形してしまったので、仕方なく一緒にその本も買った。
実は、その本が福岡正信氏の『自然農法』という本だった。
最初は、興味も無かったが、読んでいくうちに次第にのめり込むようになり読破していった。
奥様が、農薬散布をする度に、寝込んでしまうほど弱かったので、なんとかしなければと思っていたからだった。
これは優れた考えだと、希望が胸に溢れて来たのだったが、それが地獄の始まりだったとは、その時は知る由も無かった。

何年経っても、リンゴが花を咲かせるどころか、枯れ始めて来ている現状に、「なぜなんだ…」と落胆し、リンゴの樹に愚痴さえこぼす様になった木村さん。
家族の生活費さえ、電気代さえ借金をしなければ払えない状況に追い詰められ、近所からは、「だから言っただろう。無理だって。悪いことは言わんから農薬を使え。」と責めらた。
だが、ここまで来て、諦めるのは敗北宣言をするようなものだ。 

自分が諦めると、世界の誰もが諦めるということだ。だから、あと一年、一年過ぎるともう一年と、月日が過ぎるほど、益々、意地でも止められなくなった。
 

しかし、幾年身を尽くし、心を尽くしても何も応えてくれない枯れそうなリンゴの幹を撫ぜながら、或る日、「万策尽きた、最早これまでかぁ…」と立ち上がり、恥を忍んで自らの命を断とうと夜の岩木山に登ったのだった。

木の枝にロープを括りつけて覚悟を決め、ふと月明かりに照らされた辺りの樹々を見ると、なんとリンゴの木が、こんな何も無い山中で、花を咲かせて輝いている。
誰も、肥料も農薬も撒いてもいないのに、虫食いどころか青々と豊かに繁っている葉っぱ。
「これだ!誰も何もしていないのに、こんなに生き生きと繁っているじゃあないか!この力がどこから来るんだ。」
はっと何かに頭を打たれたように閃きが走り、何をしに来たのかもすっかり忘れ、飛ぶように麓に駆け下りていった。
「俺は、一体今まで何をしていたんだ。そうだ。地中だ、答えは見えないところにあったんだ。」と胸を打った。

「あれほど語り掛けて懇願しても、なぜ俺が首を括るまで教えてくれなかったんだ。」とリンゴに愚痴をこぼした。
「だが、実はリンゴは、それを自分に教えてくれていたんだ。ずっと、前から教えてくれていたんだ。」

目に溢れる感涙を浮かべながら、一目散にリンゴ畑に駆け戻ったのだった。


(後の調べで、あれはリンゴではなくどんぐりの木だったそうだが…、如何にも木村さん)


火星のテラフォーミング

火星を人間が住める環境にしようという取り組みがある。

 NASA ハッブル宇宙望遠鏡の撮影した火星の映像

 

NASAエイムズ研究センターの科学者、クリストファー・マッケイ博士は、古くからこの火星改造計画に尽力されてこられた。
第一段階は、火星の気温を上げることだという。
火星の南北の極には、白い氷状のものがある。

これは氷ではなく、太古の火星の大気、二酸化炭素が凍ってドライアイスになったものです。
ドライアイスの融点が-79℃なので、極の温度をそれ以上に上げれば、氷は溶ける始める。
二酸化炭素は、温室効果があるので、それからは、益々温度が上昇していくことになるだろう。
一方、植物の光合成は、光のエネルギーで水と二酸化炭素から養分と酸素を作り、その酸素は生命活動に利用できるだろう。

 

火星の大地には、太古の昔、水が流れていた形跡がある。
その水は、一体どこに消えたのかというと、大地の下に氷となって閉じ込められていると考えられている。
火星の地形に、100m間隔で筋が入っているように見える地形がある。
同様な地形がアラスカにもあり、それを少し掘ると、氷が泥と混ざって出てくることが知られている。
火星が温まれば、氷も水となって地表に湧いてくることだろう。

森林限界

 

         冬の富士山

 

富士山の六合目を過ぎると、急に辺りに繁茂していた植物が視界から消えてしまう。
いわゆる森林限界に差し掛かったのだ。
 

ある専門家が、森林限界の上と下の土壌の違いについて調べたことがある。
数千年、数万年も、大量の落ち葉が山林に降り積もり折り重なるが、その落ち葉に樹々が埋もれている光景は見たことがない。
土壌中の微生物には、細菌・放線菌・糸状菌・藻類・線虫などが多数ある。
それら大量の葉っぱを分解掃除をするのが、土中に生息する大量の微生物たちなのです。

更に、抗生物質やホルモン様物質を生産し、植物の病害を防いだり、生育を促進したりします。

森林は、水と栄養だけあればいいということではなく、これらの微生物たちの微妙なバランスの上に繁栄をしているのです。
殺菌剤や殺虫剤などばら撒こうものなら、彼らは死滅してしまいます。

無農薬、無肥料でリンゴ栽培に成功した木村さんに、火星のテラフォーミングについて助言を願うべきだろう。
「目に見える部分だけに着目していたが、真実は目に見えない土中にあった。」
木村さんは、そのことに目覚めると、微生物が生息しやすい土壌の大改造に着手し成功したからです。

 

コーヒーブレーク

木村さんは、若い頃はSEだったらしい。
Windows95辺りの世代で、C言語で開発していたという。

実は、バリバリの工学系エンジニアだったのだ。

度々、UFOにも宇宙人にも会ったことがあるという。
宇宙人に連れられてUFOに乗ったこともあるそうだ。
UFOの外板は、なんと銀紙のように薄いのだそうで、中から外が全部透けて見えるという。
また、地球人が何億年かかるような遠い星でも、一瞬で行けるのだと宇宙人は答えた。
広大な宇宙には、どうも我々が考えている常識、知識では計り知れない超高度な文明があるようだ。

木村さんは宇宙人から、「地球には120ばかりの原子があり、そのうち、利用しているのは20ばかりの原子だが、我々は250くらいの原子を全部活用している」と聞いたという。
それを東北大学の物理教授に聞いたところ、確かにそうだと答えたという。

木村さん曰く、ソクラテスのような人から聞いた話では、2032年あたりに何か重要な事が起きるらしい。
それを聞いた木村さん「意外に早いんだな」と感じたという。


兎に角、木村さんのお話はぶっ飛んでいて面白い。

思うに木村さんは、宇宙人に騙されて、UFOの中で、脳に何かを埋め込まれたに違いない。









 

 

伊集院静氏の訃報

 

「あっと、小さく驚くニュースが入った」

あの伊集院静氏(西山忠来(にしやま・ただき))が、11月24日、肝内胆管がんの為、亡くなった。

彼は、山口県防府市出身で、桑山中学時代、同級生だったことがある。
中学校の野球部で放課後はクラブ活動に励んでおり、人気者で、その人気投票で生徒会長にまでなった。
 

彼を例えると、巨大な恐竜が、地面に生えた小さな花を愛で、香りを嗅いでいるような、ペーソスとユーモア、浪漫と威厳とが織り交ざった、ちぐはぐなムードがあった。
必ず、一日に一度はクラス中を笑いの渦に巻き込まないと気が済まないようで、休憩時間などは皆が彼の周囲に集まっていた。
忠来(ただき)を「ちゅうらい」と読めるので、「ちゅうらい、ちゅうらい」と呼ばれ親しまれていた。

「彼が、普通のサラリーマンなどをやっていることなどあり得ないだろうな」と思っていると、やがて、週刊誌を賑わすような存在になっていた。
直木賞の受賞インタビューでTVで報道されると、「あらあ、西山君じゃあないか?」と顔のどこかに昔の面影が残っている彼に気付いた。

そのペンネームが『伊集院静』と聞いて、彼にしては、気障に気取った女っぽい名前だと思った。
企画力がある彼のことだから、自分が有名人になった時の為に、沢山のペンネームを考え、サインの書き方もシミュレーションしていただろうに。
だが、最近、その理由を聞いて合点した。
ある企画で、別な女性コピーライターに付ける名前だったのだが、「今日は、これでやってくださいね」と言われ使い始めたのが切っ掛けだったようだ。

彼が、帰化朝鮮人二世だったことを知ったのは最近のことだった。
ふと裏に漂う物憂い哀愁感は、その背景もあったのだろうか。
己流儀、男流儀、ダンディーが正義だということを貫くことで、世間の冷たい風を、払拭していたのかも知れない。
学生時代は、野球部の「昼のクラブ活動」に精を出していたが、社会に出てからは銀座や赤坂、六本木等で「夜のクラブ活動」に精を出すようになった。

「君は伊集院静という作家を知ってるか?」と中学からの友人に尋ねた。
当時は、直木賞を受賞する前だったので、あまり世間の知名度は高くなかった。
「いいや知らん。誰?」と友人は訝しがった。
彼が、あの西山忠来であることを説明すると「西山? おお、あのちゅうらいか!」驚いたように目を剥いた。

その友人が、山口県の徳山という街のマンモスキャバレーで、大勢のホステスに囲まれて浮かれていると、そのトイレで伊集院静に偶然出会ったという。
「おお、ちゅうらいじゃないか? 俺じゃ、俺じゃ、○○じゃ!」と握手を求めると、一瞥した彼は、片手合掌するように「すまんすまん!」と指で口を押さえ「これは内緒だ」という仕草をして黙って出て行ったという。
「預言者は故郷では尊ばれない」という言葉が聖書にあるが、幼いガキの頃から知っている者が、大衆キャバレーという大人を演じる社交場で邂逅するのは気まずいのだろう。「今日は見逃してくれ」と言いたいのだろう。
 

その友人も、もう八年近くも前に亡くなっている。

 

『亡霊たちのマンモスキャバレー』小説のネタにでもなりそうだ。
亡霊たちが、マンモスキャバレーで偶然出会い、歌い踊り呑みまくり、賭博で負けが嵩み後悔する者、女に振られがっくりと気落ちしている者、昔の栄華ばかりを誇り、皆から煙たがられる者、いまだに戦争の夢を語る者、財宝を探す旅に出るもの、欲望と肉欲と、愛と憎悪が折り重なる光と闇が交錯するように展開していく。


NHKで「レオナルド・ダビンチ特集」なる企画にゲスト参加して彼が解説をしていた。
彼は、寝室にレオナルド・ダビンチの「受胎告知」のポストカードを飾っているという。
夏目雅子との仲が報道されるようになってからは、週刊誌の話題をさらうようになった。
彼との間に妊娠、幾度か中絶するということもあったようだ。

或る日、「徹子の部屋」の番組に彼女がゲストとして登場したことがある。
「私は、暫くお休みをいただくの」と告白していた。
理由までは言わなかったが、それは彼女が血液の癌、白血病であることを告げられていたからではないだろうか。

彼女が、闘病の果て亡くなった時に、彼は随分荒れた様子だったという話が漏れ聞こえて来た。
金さえあれば何とかなったのかも知れないが、当時は、それが出来ない不甲斐なさに悔しい思いだったのかも知れない。
夏目雅子の墓は、防府市の桑山という小山の麓、大楽寺墓地に埋葬されているという。
 

余談だが、自分の両親の墓も、多分そこら辺にある。
多分と言うのは、まだ一度も両親の墓に香を手向けたことが無いのである。

その桑山には、昔、火葬場があり、友人の中村君の実家だった。 時々、髪の毛が燃えているような臭いが風向きによっては我が家にも流れて来た。
その西側の麓には、身寄りが無い人達の墓、無縁塚が並んでいた。

無縁塚の夕べを灯す曼殊沙華  静月 歌集曼殊沙華より

曼殊沙華は華美な花で、毒々しささえある。
その曼殊沙華の花が、無縁塚を取り囲むように、彼岸と此岸の岸辺に咲く花の代名詞のように艶やかに咲き誇っていたという。

コーヒーブレーク 伊丹十三監督

人の死亡通知の知らせを聞いて、自分は、涙を流したことがこれまでの人生で二回だけある。
その一人が、1984年上映の『お葬式』の原作者 伊丹十三監督だった。
1997年12月20日のマンションの駐車場で飛び降りた遺体発見の訃報のニュースを聞いた後、自宅でシャワーを浴びていると、思わず知らず涙がこぼれ落ちてくるのに気が付いた。
「あれ、俺はなぜ泣いているのだろうか」別に交際があったわけでもなく、その理由さえ分からなかった。

King Gnu 白日

 

 

時には誰かを
知らず知らずのうちに
傷つけてしまったり
失ったりして初めて
犯した罪を知る
戻れないよ、昔のようには
煌めいて見えたとしても
明日へと歩き出さなきゃ
雪が降り頻ろうとも
今の僕には
・・・・・・

彼の亡骸は、どこに葬られるだろう。
夏目雅子の墓がある防府だろうか。それとも篠ひろ子の実家、仙台だろうか。
・・・・・・

 

どこかの街でまた出会えたら、僕の名前を思えていますか?

その頃にはきっとまた春風が吹くだろう

・・・・・・

 

何かが寂しく、何かがせつない。とうに忘れてしまったからだ。

いや、忘れようにも忘れられない面影が走馬灯のように脳裏によぎるからだ。

 

 

 

富士山
 

 

 

秦の始皇帝は徐福に、東の海にあるという蓬莱山(ほうらいさん)から不老不死の薬を持ち帰るよう命じられたのです。
世に萬金丹のように、すべての病に利くような万能薬など無いので、手ぶらで帰っても制裁が待っているだけなので、徐福は始皇帝から貰った旅銀で遊戯三昧したあげく、二度と帰ることはなかったという。
この故事にならい、その蓬莱山を「不死山」富士山と呼ぶようになったという。
 

嚥香(えんか)
 

久々、山口に帰郷したとき、「えんかがええお茶でも淹れようのう」と母親は、立ち上がり水屋箪笥から茶筒を取り出した。
その後、「えんか?」とは、どんな漢字を充てるのかがずっと気になっていた。
IMEの漢字変換に任せると、演歌、煙火、嚥下などが候補に上がるが、どれも違う気がする。
どうやら、これは山口方面の方言らしい。
ネットのQ&Aコーナーで、ある人が「嚥香ではないだろうか?」との回答があった。
「なるほど、嚥香か…」 嚥+香は、喉越しと香りの意味合いがあるので、これがえんかもしれない。

イザベラ・バードと日本茶の出会い

イザベラ・バード(1831年~1904年 大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家 )
明治期、まだ維新も明けやらぬ古き風情が残り香のように漂う横浜港に彼女は降り立った。
 

 

『江戸湾の空は、やや淡いブルーに霞んでいた。
甲板では、しきりに富士山を感嘆する声がするので、富士山はどこかと長い間探して見たが、どこにも見えなかった。
地上ではなく、ふと天上を見上げると、思いもかけぬ遠くの空高く、巨大な円錐形の山を見た。
海抜13,080フィート、白雪をいただき、素晴らしい曲線を描いて聳えていた。』
 

十八日間に及ぶ航海を経て、日本の陸地をはじめて眺望したのだった。

1878(明治11)年5月20日の早朝のことである。
この時、彼女は、通訳兼従者として、数えで十八歳の伊藤鶴吉を12ドル/月で雇った
しかし、初見の印象が彼女には、あまり芳しいものではなかったようだが、旅を続けるに連れ、その彼の誠実さが伝わってきたようだ。


 イザベラバード wikipedia

 

 

伊藤鶴吉 wikipedia

 

イザベラバードの通訳として12ドルの月給で雇われたのだった 

初見は、彼女にはお気に召さない様子だったが、旅を続けるうちに、彼の誠実さが理解できたようだった。

 

1874(明治七)年は、100円は101.583ドルなので、大体、1円=1ドルだった。
当時の1円≒現代の貨幣価値で2万円だという。
アメリカ製自転車が200円だったというので、現代では400万円にもなり、当時は超高級品だった。
ざっくり当時のドル(D)から現代円値(E)に変換すると、E = D*20,000 となる。
従って、伊藤君の月給は、E=12×2万円 ざっと24万円となる。十八歳にしては、結構いい給与だとも思うが、それ以上にイザベラが大金持だったことに驚く。

自分が幼い頃も自転車は高級品だった。
我が家には、大人用の男乗りで三角フレームの自転車があり、その三角形の中に足を無理やり突っ込み、向うのペタルを踏み、まるで競技ヨットの操縦のように、巧みな姿勢で漕ぎ進むのである。
当然、自転車は大きく右に傾き、急ブレーキなどには対応できない危険な乗り方だった。


春日部の茶屋

イザベラと人力車や従者一行は、日光方面に向けて横浜を出発した。
 

『春日部に向かう人力車が道中の茶屋で一服の休憩をとると、女の子が、小さな膳に茶器を添えて運んできた。
注ぎ口に直角に中空の取っ手がついた急須から、取っ手も、受け皿も無いカップに液体を注ぎ始めた。
一分ほどで抽出した液体は、透明な淡い黄色で、良い香りと味わいがして、どんな時も気分がさっぱりとして有難いものです。
日本茶は淹れっぱなしにしておくと嫌な渋みが出てきますが、ミルクや砂糖は加えません。』


この時、初めて口にする日本茶の味わいを堪能するイザベラの感想が率直で端麗につづられている。

『当時の茶屋にはお櫃が置いてあり、冷たいご飯がいつでも食べられた。
車夫は、熱いお茶を注いでご飯を温めます。茶屋の女の子がこのお櫃を傍に置いて、向かい側の床に座り、
「もう、けっこう」というまで、茶碗にご飯をよそってくれます。』と記されている。


ある宿を出るとき、八十銭の宿賃を払った。当時の一円が現代の貨幣価値で二万円だとすると
E=0.8*20,000=\16,000の宿賃といったところだろうか。
 

散々、蚤に悩まされ、破れた障子から多数の目で覗き込まれ、深夜まで続く宴会のどんちゃん騒ぎに悩まされた彼女には、割に高いと思ったかも知れない。

奥地に旅が進み、地方農民の貧しく医療にも恵まれない貧しい人々と交流するにつれ、貧しいが礼儀正しく、むやみに善意でやった行為に対し、報酬を望まない姿勢に清々しい好感を抱いた彼女は、水と緑が豊富で英国には無い自然の情景に、旅を満喫することが楽しみになっていったのである。

ロンドンの緯度は北緯51.3度というから、北海道の宗谷岬のもっと北側、樺太(サハリン)あたりになる。
平均気温は真夏で18℃、真冬で5℃というから、緯度が示すほど寒くない。
北大西洋海流の暖流の上を流れる偏西風が、西ヨーロッパに流れるので、ノルウェーとか、スウェーデンといった更に北側でも人が住めるのだろう。

日光の金谷ホテル

 


当時、金谷カテッジインという、自宅の侍屋敷を改装して異国人向けに開業したホテルで、後の金谷ホテルの前進だった。
イザベラが宿泊した部屋の紹介などもある。


コーヒーブレーク

姉が「最近、美味しいお茶が無い」と不満を洩らしていた。
そういえば確かにそうかも知れない。
自分は、ある知り合いの奥様からご教授いただいた、はらだ製茶の三百円台の袋入り茶葉がコスパがいいので愛飲している。
九州地方の 知覧茶、屋久島茶など安くても味わいがある茶葉を好んで買っている。
英国で飲まれる紅茶は、中世時代、キャラック船でアフリカ喜望峰 東南アジア、インド辺りから仕入れた茶葉が長い航海で発酵が進み、それを淹れて飲んだところ「こりゃあいける!」と英国人に受け世界に流行ったという。
 

お茶こそ萬金丹 その効用


食物繊維、タンパク質、脂質、クロロフィル、ビタミンE、βカロテンなどの栄養分があり、
効能として、悪玉コレステロールの低下、体脂肪低下作用、ガン予防、抗酸化作用による老化防止、虫歯予防、抗菌作用などがある。
まさに、これぞ秦の始皇帝が求める萬金丹に匹敵するものだろう。
始皇帝にしても、猛毒である水銀など服用しないで、日本の緑茶を服用すべきだろう。

お茶を淹れた後の茶葉をそのまま捨てるのは勿体ない気がする。
ネットで調べると、佃煮から、チャーハン、果ては、入浴剤、シンク清掃、カーペット、畳の清掃、床磨きまで万能な使い道がある。
水虫の薬にもなるというから、萬金丹+万能素材ともなる。

 

「嚥下がええお茶でも淹れようかのう?」


長々、ご清聴ありがとうございます。