読書と映画の時間 森鴎外 『雁』 | パパンズdeアトリエ

パパンズdeアトリエ

アトリエ絵画スケッチデッサンなどの個展
芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

森鴎外の『雁』を読んだのは、確か自分が高校生の頃だっただろうか。

当時、これを読んだ時の印象で唯一残っていることは、「不忍の池で投げた石が、たまたま雁に当たってしまった」という記述だった。
「雁って意外にのろまなんだ。」という感想だった。

そこに展開される、妾と旦那のどろどろとした肉体関係、散歩の大学医学生への恋慕などには関心が無かった。というより、高校生の自分にはとんでも遠い世界、別世界の出来事のように映っていたからだろう。
自分は、あまり男女の醜聞、艶聞などについて触れることは好みではない。というより、何かに見透かされているようで恥ずかしいのです。
ドラマでも、男女の諍い、絡みなどがあると、早送りしてまともに観たことがない。

しかし、こうして改めて読み返すと、森鴎外の人間観察のきめ細かい目線が詳細に描かれていて、得体の知れぬ息苦しさもありながら、当時の江戸から東京に移った頃の風景描写、人情描写などが巧みな文章でリアルに伝わってきて、古き懐かしい明治という時代の空気を自分も呼吸しているように感じるのです。

 


雁 (1953年の映画) 『 雁 』(がん)は、 1953年 に公開された 豊田四郎 監督の 日本映画 、昭和28年度芸術祭参加作品。森鴎外 の小説『 雁 』が原作。
 

           その原作本

 

話のあらすじ

明治13年、いまだ明治維新まもない東京上野の下町でのこと。

東京大学の鉄門の真向かいにあった上条という下宿屋に、医学を志す医学生らが勉学に体育に励んでいた。
中でも競漕(きょうそう)の選手でもある岡田という男は、体格もよく美男で特異な学生だった。夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違いなく帰る。
岡田の日々の散歩は大抵道筋が極(き)まっていた。
『寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入(はいって)、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。』

これらは、全て実在した地名なので、これは架空の物語ではなく医学生岡田、すなわち森鴎外の日常の行動でもあったのだろう。

いつもように無縁坂を散歩していると、湯帰りの女とすれ違い、何気に惹かれたのかその背中を目線で追った。
そんなある日、格子戸の前に差し掛かると、薄暗い格子戸の背景にほのかに白い顔が浮かんでいて、岡田の顔を見ると、微かにほほ笑んでいるように見えた。
それからは岡田はその通りに来ると、必ずその女と目線が合うので、帽子を脱いで礼をするようになった。
すると、その女の顔が仄かに赤らみ、寂しそうな顔が一瞬、華やいだように見えた。
岡田は、必ずその女に礼をするようになり、その女も岡田が通りすがるのを待ち望んでいるように思えた。

寄宿舎には、末造という小使いがいた。

この末造が、書生相手に金貸しをするという噂があった。
最初は、五十銭、一円といった金銭だったが、次第にそれは何十円とかいった具合に大きな金貸しになり、高価な外国の専門書などを購入する医学生らにも、重宝されるようになった。
学校が下谷から本郷に移る時には、末造はもう小使ではなく立派な金貸しになっていた。

末造は、既に三十を過ぎて女房も子供もいたが、それが高利貸で成功して、池の端へ越してから後、醜く口やかましい女房をあきたらなく思うようになった。
末造は、練塀町(ねりべいちょう)の裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、時折、聞こえる三味線の音色に心惹かれた。
その三味線の主が、お玉という十六、七の娘だということを知った。
母親は、お玉が幼くして亡くなり、親父さんが秋葉の原(あきはのはら)に飴細工の床店(とこみせ)を出して日銭を稼いで暮らしていた。

そんな末造は、立派な実業家だという触れ込みで、「お妾はいやだ」というお玉に、親の為だと無理に説得して松源という広小路の料亭で顔見せ、お見合いをすることになった。

親父さんに連れてこられたお玉は、以前より一層、際立って美しく細面の魅力ある女に成長し、末造は、それが期待した以上に嬉しく、精一杯、ここぞとばかり豪勢に親子を持て成すのだった。
話はとんとん拍子に進んで、お玉は末造が用意した無縁坂に引っ越してくることになった。

しかし、こうして無縁坂での生活が始まったものの、お玉にとって、決してそれは幸福とは言い難いものだった。
魚屋に女中の梅を注文の買い付けに行かせても、おかみさんから「高利貸しの妾に売るような肴はないね。」と断られる。
お玉は、湧き上がってくる怒りや恐怖感、失望感のどうしようもない感情が吹きたってきた。
お玉が悔やしいと云うのは、世を怨み人を恨む意味ではなく、我身の運命を怨むとでも云うか、自分が何の悪い事もしていないのに、他人から迫害を受けねばならなくなる定めを、苦痛として感ずることだった。

末造は、お玉の家に立ち寄っても、決してそこで泊まることはなく、必ず夜には自宅に帰るようにした。
だが、末造の素行を感じとった女房の嫉妬に手を焼き、度々、女房のお常から迫られるようになった。夜の帰りが遅いと、「いったい今までどこに行っていなすったんだい」だのと責められるようになったのである。

そんなお玉には、唯一頼りになる隣人のお貞という四十を超す、裁縫のお師匠さんがいた。

お玉に、名前さえ知らない学生さんが岡田という名前だと知らされたのは、そのお師匠さんだった。「あの方は、随分品行も良くて、上条の御上さんもあんな方は他にいませんとお褒めですよ」と聞かされたお玉は、まるで自分が褒められているような気がして嬉しく「上条、岡田」と口の中で幾度も繰り返した。

 

或る日、岡田がいつものように、散歩をしていると、お玉の家の前で人だかりがあり皆が騒ぎ立てている。

何事かと立ち寄ると、鳥籠に青大将が今にもその籠の中の紅雀に襲い掛からんとして、屋根の樋から首を伸ばし、鳥かごの隙間から押し入ろうとしているのだ。

この鳥籠とつがいの二羽の紅雀は、さぞお玉が寂しがっていることを思い遣り、末造がお玉に買い与えたものだった。
鳥は、ばたばた羽ばたきをして、啼ながら狭い籠の中を飛び廻っている。

「何か刃物はありませんか」岡田は腕まくりをし、女中から出刃包丁を受け取ると、その大蛇をガラスのように固い鱗を切り裂き、幾度も切りつけ、ついに胴体を断ち切った。
一羽は、既に蛇に呑み込まれてぐったりしていたが、残った一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶる震えている。

お玉は、その光景をただ怯えながら立ち竦み見ていたが、岡田の手に血が付いているのに気が付くと、我に返り女中に手洗いの水を持ってこさせた。

前々から、仄かな恋心で岡田を見ていたお玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。
今度遭ったら、岡田にそのお礼をしようと、用も無いのに表をうろうろするようになった。

だが、なかなかその機会に恵まれない日々が続いた。

高利貸しの末造に囲われている妾の身分であり、世間の冷たい目線に晒しものにされてきたお玉だが、心の底には、純心な乙女のような羞恥心が働くのだろう。
進んで、岡田に近づくことは憚(はばか)れるような悶々としたじれったい日々を過ごしていた。
末造が来ても、「これが岡田であればどんなに嬉しいことか」と、その胸の内は岡田に執心していた。

或る日、末造が暫し千葉に所用があり、二、三日留守にすることをお玉に告げた。
お玉は、岡田をうちに招いて先日の蛇退治のお礼に御馳走をしたいとかねがね願っていた。
末造が旅立った後、お玉は、女中の梅を実家に帰すことにしたのである。

「今晩は檀那様がいらっしゃらないだろうと思うから、お前、実家へ帰って泊って来たけりゃあ泊って来ても好いよ。」お玉は梅にそう云った。
明治の頃、奉公人が藪入(やぶいり)の日の他には、容易にうちへは帰られぬことになっていたので、梅は目を剥いて驚いた。
お玉は、梅に手土産を持たせると、「まだ後片付けが残っているから」という梅を急かせ、自分は、せっせと部屋の掃除を始めた。
そして、今日こそはと覚悟を決め、岡田に声を掛けてみようと決意するお玉だった。
「決して、あの人も自分の事を好ましくない女だとは思ってもいないはずだ」という確信がお玉にはあったからだ。
髪結いに出掛け、余所行きの身繕いをすると、女の覚悟を決め、岡田が通りかかるのを心待ちにしていた。

いつものように岡田らしき下駄の音が聞こえ、表に出てみると、岡田は医学生仲間と二人連れで近づいてきた。
お玉は、岡田に声を掛けようとしたが、他人と同伴であるのに気が付くと、さっと声を引っ込めてしまった。
せっかくの好機だったが、帽子を脱ぎ会釈をして、無情にも足早に通り過ぎて行く岡田の後ろ姿を、ただ見送るしかなかったのである。
いつまでも名残惜しそうに眉をひそめ、岡田の後ろ姿を追うお玉の姿があった。

それから岡田と友人は、池の縁に出た。
池には、十羽ほどの雁が羽根を休めていた。
友人は、「石を投げてみろ」と岡田を誘った。
岡田は、「もう彼らは眠りにつこうとしているから可哀そうだ」と思った。
石を投げても、ただ脅して彼らを逃がしてやろうとして、的を外して投げたつもりだった。
だが、雁の群れがあわただしく水面を滑って散った中、一羽の雁だけは、頸をぐたりと垂れたままになっていた。
石は、偶然にも一羽の雁に的中してしまったのだ。

岡田らは、既にぐったりとしているその雁を夜の暗闇に紛れ、引き揚げる算段をした。
下宿仲間らと一緒に、その雁を捌いて酒の肴にしようというのである。

夜になり、引き揚げた雁をマントの中に隠し持った岡田と仲間らは、帰路の無縁坂の途中に、お玉が立ち竦んでいるのを見た。
外套の下に雁を隠し持っていた岡田は、ぎこちなく帽子の庇に手を掛けると、軽い会釈をして俯いて過ぎて行った。
女の顔は石のように凝っていた。

美しくみはった目の底には、無限の残惜しさが含まれているようだった。

読後感想

寮に戻った岡田らは仲間らと一緒に、夜更けまで雁を肴に酒を酌み交わしたというところで、この物語は終わっている。

この時、岡田は、ドイツ洋行の話があり、既に意を固めていたので、たとえお玉のことをいくら思い遣ってみても、医学生である自分が、女を囲い一軒の家に住まわせ、生活の面倒などとてもできる身分でもなく、それは成し遂げられないどころか、お玉も自分も人生の足枷になるだろうと推察していたことだろう。
揺れ動く岡田の思いは、すでに日本から離れ、遠い異国のドイツの地にあったのだろう。

象徴

あの蛇退治の籠の中の紅雀は、薄暗い格子戸の向こうに囲われたお玉の存在を象徴するものだろう。
それを襲う大蛇は、妾という囲い者、しかも金貸しの囲い者に対する、蛇のように鋭い冷血動物の、世間という冷たい目線を象徴するものだろう。
岡田は、返り血を浴びながら、その大蛇を見事、討ち取ってくれた英雄、救い主を象徴するものだったのだろう。
雁の群れを憐れんで逃がしてやろう思い、石を外して投げたつもりが当たってしまった。
哀れだから助けてやろうと思った善意が、仇になるという世の皮肉さを象徴している。
無縁坂という地名も、岡田との縁も途切れてしまうお玉の幸への縁の切れ切れを象徴しているのだろう。

もしこの時、岡田がドイツ留学をやめて、お玉との生活を選んだとしたら、いったいどうなるのだろうか。
二羽のつがいは貧しいながらも、あらゆる困難を乗り越え、未来永劫仲睦まじい人生を遂げるだろうか。
あるいは世間と言う大蛇に襲われ、どちらかが犠牲となり残った雀も身を竦め怖れ、陽日の下に二度と囀らなくなるだろうか。

森鴎外(もり おうがい、1862年~1922年〈大正11年〉)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。
1884年(明治17年)22歳でドイツ留学を命じられる。
1890年(明治23年)38歳『国民之友』に「舞姫」を発表。
1911年(明治44年)49歳『すばる』に「雁」を発表。

数々の華々しい履歴がありながら、恋愛小説のような繊細な心理描写も描くという器量豊かな才人です。
明治時代に、西欧人との女性恋愛関係を描けたのはこの人くらいではないだろうか。

明治という時代、女一人では生きてはいけない時代だからこそ、このような悲恋の小説を森鴎外は描いたのだろう。
お玉というどぶ板横丁の貧乏な家庭に生まれ、社会の日陰で暮らすような女性が暗闇に咲く一凛の清楚なユリの花のように一層、美しいと感じ恋してしまう。

これを発表したのは、森鴎外が五十歳頃のことだった。
このお玉との儚い出会いは、二十歳そこそこなので、それから随分時間が経過し、世のどぶ板の底から天上の世界まで知り尽くした頃に描いたものだった。
その前に、三十八才でドイツから帰国し、森鴎外を追ってきたドイツ娘との純愛物語を発表したので、今さら、お玉との悲恋物語を語ることは出来ないだろう。
この小説は、「僕」という一人称代名詞が筆者のように描いてあるが、その「僕」がいったい誰なのかがどこにも描かれていない。

齢五十を過ぎ、既に時効となった身上だが、岡田の当時の心情を描くためには、どうしても「僕」という他人でなければならない。「僕」という他人でなければ、岡田の本当の姿を描くことが出来なかったのだろう。

この小説のくくりの部分に、

読者は「お玉とはどうして相識になって、どんな場合にそれを聞いたかと問うかも知れない」とあり、「譬えば、実体鏡(ステレオスコープ)の下にある左右二枚の図を、一つの影像として視るように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合せて作ったのがこの物語である。だから、それには読者は余計な詮索などしないほうがいい。」と締めくくってあった。

「僕」という一人称と、「岡田」という架空の人物の視点が、重なったり離れたり見え隠れしながら、合わせ鏡のように時を前後しながら描いたものだと信じる。

ところで「僕」は、これを書いた時、既にその後のお玉と末造と岡田の行く末を知っていたことだろう。
であれば、これを単に悲恋の別れ話に終わらせるのではなく、男と女が、純愛小説のように、ことほど左様には収まらないだろうが、是非、その神のような視点と達筆で、その後の行方顛末まで描いて欲しかったと願う。


本文中に「下谷にある医学部」「鉄門」とかいった記述があるが、それらを急ぎ調べてみた。

*当時、神田錦町にあった東京開成学校が法理文三学部に、下谷和泉橋通りから本郷の文部省用地に移っていた東京医学校が医学部となった。
「和泉橋」とは、神田川に架かる万世橋の下流の橋。
*鉄門(てつもん)
 医学部附属病院中央診療棟南側に、1879年から1918年まで存在していた門。1918年に鉄門の外側の民有地を大学が購入し、
 大学の敷地を門で区切っておく必要がなくなったため、撤去された。現在ある鉄門は、2006年に同位置に再建されたものである。
*鉄門倶楽部 1899年に創設され、元々は東京帝国大学医科大学のボート競技の応援団体。
 「競漕(きょうそう)の選手になっていた岡田は」というくだりがあるが、岡田は、このボート部の選手だった。
*競漕(きょうそう)八人とか、四人とかが漕手となる集団競技。⇒レガッタ
 明治八年、英国人F.W.ストレンジ氏が大学予備門(東京大の前身の一つ)の教員となり、 隅田川で学生に漕艇を教え始める。
*松源 上野広小路では、明治から大正初期にかけて最も有名な料理屋。

*岩崎邸 無縁坂などの地図

 

 

地図で辿る「雁」
 

 

この小説には、明治から大正にかけての上野界隈の風俗、歴史、地理など詳細に描かれてあり、本を片手に、その地を巡る小旅行など、いつか楽しみに目論見にしておきたいと思う。


☕コーヒーブレーク

「釘一本」というグリム童話から引用した譬え話が、この小説に登場する。
 

そのあらすじ
 

商人は、市で商売がうまくいって、金袋を金銀でいっぱいにしました。
そこで、帰宅支度し夜前に家に着きたいと思いました。
すると、ある町で馬番が馬を連れて来て「旦那、後ろ足の蹄鉄の釘が一本無いですよ。」と忠告されました。
「いいや、ほっといてくれ。急いでいるんだ。」と言い、そのまま出発しました。
ところが、昼過ぎ馬に水をやっていると、馬番が「だんな、馬の後ろ足の蹄鉄がありませんよ。鍛冶屋に連れて行きましょうか?」と言った。
「いや、そう遠くもないから充分持つだろう。俺は急いでいるんだ。」といい旅を続けました。
ところが、暫く馬に乗っていると、無理をした馬の脚が折れてしまい、商人は、重たい荷物を担いで道を急がねばなりません。
家に着いた頃には、すっかり夜になってしまいました。
 

「急がば回れ」という譬えだが、「小事が大事になる」という譬えとも受け取れる。
「人間万事塞翁が馬」という故事もある。
たまたま小さな事故で、目的の飛行機に乗れず大金を逃がしたが、後に、その飛行機が墜落したというニュースが飛び込んできた。
先ほどまで「なんて俺は運が悪いんだ!」と怒っていたのが、それを聞いて「なんて俺は運がいいんだ?」と安堵の冷や汗をかくことだろう。
果たして、それが本当に幸せだったかどうかは、最後になるまで誰にも分からない。

さて長々、ご清聴ありがとうございました。