パパンズdeアトリエ -2ページ目

パパンズdeアトリエ

アトリエ絵画スケッチデッサンなどの個展
芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

室町時代、天文18年、西暦1549年に、宣教師フランシスコ・ザビエル一行が、日本に基督教を伝える為、鹿児島に上陸したのです。

この時代、前々年に、 足利義輝が室町幕府13代将軍に就任したのです。
長尾景虎、後の上杉謙信が兄・晴景に代わって家督を継ぎ、越後の春日山城に入城しました。
そして、美濃国斎藤道三の娘、濃姫が尾張国織田信長に嫁いだのであります。

日本の歴史が胎動する戦国時代に、ポルトガルの密命を帯びた、フランシスコ・ザビエルが乗ったジャンク船が、現在の鹿児島市祇園之洲町(ぎおんのすちょう)に到着したのです。
はるばる異国の地から来た外国人の異様な姿に、日本人は驚き身を竦めたのです。

ここぞとばかり、九州の大名は、南蛮貿易の利益を得るために基督教を保護したのです。
時は戦国時代、西欧との圧倒的な戦力の差を感じた戦国武将らは民と領土を守る為にも、ここは自身も信者になりキリシタン大名となり、民にも基督教を勧めたのです。

群雄割拠する世相にあり、如何に南蛮貿易で外国との交易により、自国が有利に立つことができるかどうかが問題だったのです。
圧倒的な西欧の近代的な武器を、入手できるかどうかが判断基準だったのです。
基督教の布教と南蛮(なんばん)貿易は、表裏一体のものだったのです。

マルコ・ポーロの西暦1271年から1295年にかけての東方見聞録で、日本を黄金の国ジパングとして欧州に広く紹介された。
時は大航海時代だったこともあり、外洋航海にも適応できる頑丈なキャラック船やキャラベル船のような建造船技術が確立し、羅針盤(方位磁石)が普及し、航海技術を修得すると、冒険者たちは次々と外洋に挑んでいったのです。

1543年には、ジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えています。
この鉄砲の威力に、いち早く目を付けたのが尾張の織田信長だったのです。

時に、ドイツのグーテンベルクが1445年に活版印刷技術の発活版印刷技術を考案し、実用化していった。
1450年までには印刷所の運営を開始して、一番儲かったのは、教会向けの数千枚の贖宥状(しょくゆうじょう)の印刷だったと言われている。

それまでは、すべて手書きで高価だった聖書が、一般庶民にも手が届くようになったのです。
特権階級の専有物だった教会が、聖書の大量印刷が可能になったことで一般民衆向けになったのです。

しかし、当時の宗教改革者ルターが遺憾だとした贖宥状の印刷でグーテンベルクは儲けていたのです。
聖書を、もっと一般大衆向けに安くし、神の恵みを一人でも多く受けられるようにと志したものが、ルターが忌み嫌う、最も罪深いとされたものに利用されるという時代の皮肉さも同時にあったのです。


安次郎は、薩摩、大隅国出身の男です。

ある時、安次郎は若気の至りで誤って殺人を犯し、追われる者となり、当時、薩摩に来航していたポルトガル船に便乗し、マラッカに逃れたのです。
丁度、折しもマラッカに滞在していた宣教師ザビエルのことを安次郎は知ることになるのです。
その基督教なるものに、人の罪を赦すことができるという教えがあることを聞き及ぶと、自分が犯した罪の償いをする為にも、安次郎は、是非とも、そのザビエルと会いたくなったのです。

御主基督なる神が、愛と恵みにより懺悔すれば、例え、極悪人であっても天国に入れることを悟らせるザビエルの導きにより、聖霊による恵みを受けた安次郎は、日本人で初めてザビエルから洗礼を受けたのです。

それからの安次郎は、遠い祖国、日本の話を、朝な夕な、ザビエルらと親しく交えるようになったのです。
ザビエルは、その切迫した真摯な態度で、懺悔の念を告白をする彼の話を聞くにつれ、未知の国、日本に行ってみたいという思いが湧き立ってきたのです。
その使命感のような憧れが、ふつふつと湧いてきて、一緒に日本に行こうと願うようになったのです。
一方の安次郎も「もし、自分の罪が赦され、故国、日本に戻れるなら、是非一緒に日本に行きましょう」と意気投合したのです。

こうして、日本語通訳として安次郎を従えたフランシスコ・ザビエルら一行が、生まれて初めて踏む日本の大地に意気揚々、降り立ったのです。


芥川龍之介が描く宣教師ウルガン


ところで、その宣教師ら一行に『ウルガン』という神父も同行していたのです。

この神父の卓越した晴眼が、もの凄いのです。
人の心を見抜く力が、この人には生まれつき備わっており、それは、あの基督にも匹敵する程の力だったのです。

ウルガンの青い瞳を見たものは、誰でも、まるで魔術のような力に屈服せざるを得ないのです。
その吸い込まれそうな底知れぬ井戸のような瞳に魅せられると、誰でも従わざるを得ないのです。
まるで天使か悪魔のように神秘的で、人を幻惑せんばかりに魅惑的なのです。

日本での伝道が、順調に進む中、ザビエルは日本と云う国に魅了されるのです。
祖国のイエズス会に宛てた手紙には、日本の素朴であり、神秘的な精神文化に魅了される内容が書かれている。
「向学心、知的好奇心が旺盛で、決して貧しくても悲壮感など無く、武士などは貧乏であっても名誉を重んじます。
うるさいほど質問してくるのですが、納得すると喜んで神の言葉に耳を傾け、多くの人が洗礼を受けています。」

辛い出来事があっても、捨て台詞のように「沙羅くせえ」と受け流すような粋の精神が日本にはあるのです。
能や、狂言、夜空に火の粉が舞う薪能、あるいは岐阜長良川の鵜飼いだとか、金閣寺、銀閣寺に漂う豪華さと茶の湯の侘び寂びといった、全く西洋にない荘厳で神秘的な出会いにザビエル一行は感動したのです。


京に上った神父ウルガンは、織田信長の行列に出会ったのです。

それは、信長がお気に入りの姫の行列でもあったのだが、その姫の籠の上に、妙なものを見たのです、
それは人間の顔とコウモリの翼と山羊の脚とを備えた、奇怪な小さい動物なのです。
ウルガンは、この悪魔が、ある時は塔の九輪の上に手を叩いて踊り、ある時は四つ足門の屋根の下に日の光を恐れてしゃがむ恐ろしい姿を度々見たのです。

実は、信長は美濃の国の斎藤道三の娘、濃姫より、この姫を気に入っていたのです。
信長の思いはなんとしてでも、この姫を自分の思い通りにしたいと願っていたのです。

しかし、その籠の上にあぐらをかく悪魔の姿に、ウルガンはその姫の為にも、あるいは日本国の為にも、言葉を悪魔に借りてでも、なんとしてでも、信長と姫の関係を切りにかかったのです。

ウルガンは、その悪魔に魅入られた姫君の身を気遣ったのです。
両親と共に、熱心な基督教の信者である姫君が、悪魔に魅入られているという事実は、ただ事ではないと思ったからです。

そこで、この神父ウルガンは、駕籠の側へ近づくと、突然、十字架の力によって難なく悪魔を捕えてしまったのです。
そして、それを南蛮寺の内陣へ、襟元をつかみながら連れて来たのです。

ウルガンは、その前に悪魔を引き据えて、なぜ、それが姫君の駕籠の上に乗っていたか、厳しく詳細を問い正したのです。

すると、その悪魔はこう告白し始めたのです。

「私は、あの姫君を堕落させようと思いました。が、それと同時に、堕落させたくないとも思いました。
あの清らかな魂を見たものは、どうして、それを地獄の火に穢す気がするでしょう。
私は、その魂を、いやが上にも清らかに曇りなくしたいと願ったのです。が、そうと思えば思うほど、益々、堕落させたいという気持ちも湧いてくるのです。

その二つの気持ちの間に迷いながら、私は、あの駕籠の上で、じっくり私たちの運命を考えていました。
もし、そうでなかったとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、こんな悲しい目に遭うことは逃れていたことでしょう。

私たちは、いつでもそうなのです。堕落させたくないものほど、ますます堕落させたいのです。
これほど不思議な悲しさがまたどこにあるでしょうか。

私は、この悲しさを味わう度に、昔、見た天国のほがらかな光と、今見ている地獄の暗闇とが、私の小さな胸の中で一つになっているような気がします。
どうか、そんな私を哀れんでください。私は寂しくて仕方がありません。」

そこには、襟首を掴まれた悪魔の懸命に命乞いをする哀れな姿があった。

その裁きの場にある、ウルガンと悪魔とのやりとりは、天井の一点を睨んだまま、「どうぞ私を赦して下さい。」と枕に涙の懺悔をする芥川龍之介の鬼気迫る狂気でもあったのです。


『悪魔』1918年、大正7年発表 現代語訳 
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房 1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行


読後感想 「天使と悪魔」

悪魔も、その素性を明かせば元は天使だったのです。
しかし、世の不条理と、もののあわれとが織り成すところ、天使は天上を追放され、堕天使となり、荒れ野の地の果てまで幾年月も放浪し、余りの飢え渇き、空腹と命の危機に、地にうねり、その地の塵まで口にほふるようになり、人々に忌み嫌われる存在となったのです。

こうした非業の境遇に追いやられたサタンは天罰を惧れ、暗闇に逃れ、天上の神に復讐の誓いの儀式を捧げたのです。
そして「あの自分を陥れた神を信じる者達を、なんとしても堕落させたい。」と逆恨みのように呪うようになったのです。

その嫉妬心から、なんとしても、あの姫の美しい魂を堕落させたいと願い、神の意志に反抗し、自分の味方に付くことを願ったからです。
あの信長の心を掴む、美しい魂の姫君を如何なる手段ででも、堕落させようと強く願うようになったのです。
もし、神に背き、自分の味方に付いてくれるなら、「これはしてやったり」と膝を叩いて喜ぶようになったのです。

晩年、既に著名人となっていた芥川龍之介には、多くの女性ファンが取り巻いていた。
中には、不倫関係となった女性もあり、その嫉妬の情念の諍いに精神を患うようにもなったのです。
悪魔の策略を見抜く洞察力がある氏であればこそ、ウルガンと悪魔の攻防が、合わせ鏡のように反射しあい、まるで、自身の似姿のように、肉体と精神が分裂する繊細なガラス細工のように攻め蝕んでいくからです。

『西方の人』(せいほうのひと、さいほうのひと)1927年8月、雑誌『改造』に初出。1927年7月10日に書き上げ、
『続西方の人』(『改造』1927年9月)は、自殺前夜に脱稿された。

西方の人とは、あのナザレのイエスのことです。
あの神父ウルガンに首根っこを掴まれ、悪魔を捉えて放さない基督のことです。
「私についてきたければ、己の十字架を背負いなさい」と弟子たちに言われた基督のことです。

 

☕コーヒーブレーク 「君は幻を見たかね?」

 

さて、今夜ばかりは、千野哲太が路傍演奏するサクソフォーンの語らいに、ひと時、ほろりと苦し涙に誘われるように、ナイトクラブの一隅で、ワイングラスでも傾けながら、至福のひと時をお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

対岸に大島という中洲があり、この大島が地名の由来ともなっている。

 

この相模川は急流なので、もともと台地だったところを、激流が掘り込んで出来た、いわゆる河岸段丘なのです。
相模川の源流は、なんとあの山梨県の富士山の麓、忍野八海、山中湖なのだそうです。
上流部の山梨県では桂川と呼ばれているそうです。

古くは鮎川(あゆかわ)とも呼ばれ、江戸時代から相模川産の鮎は将軍家への「献上鮎」として江戸城に上納されていた。
今でも、その名残の道が台地の上の山間部に「尾根緑道」があり、昔は陸軍の戦車の実走試験を行っていたと言われる。
その相模陸軍造兵廠(さがみりくぐんぞうへいしょう)は現在、相模原市中央区にある米軍相模補給廠などになっているそうです。(ここで人影を見たことがないが、相模原駅から矢部駅まで広大な土地を占めている。)
 

 

川岸沿いに、生簀があり、ここで魚釣りを楽しんでいる。以前、台風が荒れ狂い、この辺り一面が水没して沢山の魚たちが流れ出てしまったと思うが、暫くすると、水も引き元の姿に復活したのです。

溜池ではなく、左の山間部(正確には河岸段丘)から流れ落ちる湧き水が水源となっている。

 

このキャンプ場の遊歩道には沢山の桜の木が植えてあり、春時ともなると示し合わせたかの如く、一斉に花が咲きます。

なぜ、ソメイヨシノが、まるで息を合わせたように一斉に咲くのかというと、ソメイヨシノはクローンだからだそうです。

ある研究によれば、その源木は、東京都台東区の上野公園内の一角に並ぶ4本である可能性が高いとDNA解析から主張している。

決して桜同士が会話をして開花日を決定しているわけではなく、温度を感知する機能が全く同じなので、一斉に咲き始めるのだそうです。

 

青柳寺庫裡(せいりゅうじくり)

 

相模原市の上鶴間にあった神奈川県指定重要文化財である青柳寺庫裡(せいりゅうじくり)を公園内に移設、復元したもの。
その上鶴間にあったった頃の絵図がどこかにあったが、二階建てで、いかにも庫裏という佇まいなのです。

竈(かまど)のある台所から、眺めた座敷です。いかにも江戸時代の人たちがぬっと現れそうな気配を漂わせている。

 

 

☕コーヒーブレーク

最近、キーボードが壊れて、新しいキーボードを買った。
超薄型で、小型のキーボードなのだが、その微妙に違う感触に慣れず、文章を作成するのに時間がかかるのです。
 

昨日、クロマチックハーモニカの演奏を町田のとあるスナックで聴く機会があった。
そこで、ネットで検索すると、クロマチックハーモニカのなんともいえない郷愁感漂う演奏があった。
 

くちなしの花 クロマチックハーモニカ 南里沙
 

「くちなしの花」(くちなしのはな)は、 渡哲也 が 1973年、 ポリドール・レコード から発表したシングル曲。 

 

渡哲也の歌う「くちなしの花」
 

渡 哲也(わたり てつや、本名:渡瀬 道彦(わたせ みちひこ)、1941年〈昭和16年〉~2020年〈令和2年〉は、日本の俳優・演歌歌手・タレント・実業家。
島根県生まれ、兵庫県・淡路島 出身。株式会社石原プロモーション第2代代表取締役社長。

道理で石原裕次郎の弟のような風貌を感じ、男から見ても、いい男だと思う。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前々から、一度は訪れてみたいと思っていたのが多磨霊園です。


東郷平八郎、与謝野晶子、北原白秋、長谷川町子、上原謙、大平正芳などなど著名人が埋葬されている由緒ある霊園です。

 

正面門から望む多磨霊園  

 

京王線の多磨霊園駅で降りて、そこから徒歩で向かったのだが、これが結構遠い。
通りがかりの人に訊きながら、やっとそれらしい樹木に覆われた森があったので、正面門から入ってみたが、これが見当もつかないくらい広いのです。
案内地図が無ければ無理だなと思って事務所を探したが見つからなかった。
普通の霊園ではなく、広大な森の中で区画ごとに仕切られた墓地が並んでいて、とても目的の墓に辿り着くのは無理だと諦め、さっさと出てしまった。
「ここは、無鉄砲に探してもまず無理だな。ネットで探して地図を印刷してくるべきだった」と後悔したのです。
案内所が無いのは、ここは霊園で公園ではないので、案内地図が無いのも当然かもしれない。

ここはさっさと諦め、多摩川に向った。
西武鉄道の多摩川線の白糸台という駅から、是政を目指した。


それは自分が高校生の頃、国語の教科書に上林暁の『花の精』という小説に、この是政が登場するので、上京して、真っ先に向ったのがこの是政だった。

あれから、随分、時が過ぎたが、どうなっただろうかといういうことで、青春の思い出を辿って行ってみることにした。

西武鉄道 是政駅 

上林暁(かんばやし あかつき、1902年(明治35年)~ 1980年(昭和55年))は、日本の小説家で、昭和期を代表する私小説作家のひとり。高知県出身。東京帝国大学英文科卒。「花の精」1940年発表(作者38才)

国語教科書に掲載された『花の精』は、原文よりかなりコンパクトに編集されたものだった。
原作は23ページにわたる長文なのだが、教科書はそれらを大胆にカットされていたように記憶している。確か、教科書では樹木を伐根したので、その窪地に花でも植えようかと思い立ち、多摩川に月見草を探しに出かけた。といった内容だった気がする。

しかし、原作では若い庭職人に植えてあった月見草を伐根され踏みにじられたので、新たに月見草を探しに釣り仲間と一緒に出掛けた。という展開だったのだ。
 

多摩川堤防沿いの上から望む是政橋 

当時もあったと思うが、どんな橋だったか覚えていない。

 

昔の岩だらけの河川敷とは違い、今は広い野球グラウンドに整備されている。

 

グランドの向こう側、樹木が植えてあるのが多摩川の本流だが随分小さくなった印象がある。

 

自分が是政を訪ねた当時、その河原に咲いていた花は、多分、オオマツヨイグサではないだろうか。

 

オオマツヨイグサの花弁が開く瞬間
 

オオマツヨイグサ (大待宵草) 
アメリカ大陸原産で、日本へは明治のはじめに渡来して、北海道〜九州に見られる。海辺や河原などの荒れ地に生える。一般にツキミソウと呼ばれている。
 


省線南武線 戦前は鉄道省が管理していたので国鉄(今のJR)のことを省線と呼んでいた。

 

さすが南武線、今でもこうして貨車が走っているのに感動したのです。

帰途の道、是政から白糸台で降車し、徒歩で京王線の武蔵野台に向かったが、途中で分からなくなってしまい、通りがかりの人に訊ねた。

「武蔵野台はどの方向でしょうか?」

すると丁寧に道順を教えて下さり、「それでは良い旅を」と別れ際言ってくださったのです。

その何気ない別れの言葉が一期一会のように心に響き「良い旅を…」と幾度か頭の中で口ずさんだのです。

 

コーヒーブレーク

 

さて、青春の1頁を辿る道の散策だったが、あまりの景色の変貌ぶりに、別な場所に来たような気がしてならない。

確か、当時は、多摩川堤防の上から是政駅が見えたような気がしたのだが…。

改めて、『花の精』の原文を読んでみると、あの高校時代に読んだ印象とはまるで違っていた。

庭に花を植えるため、多摩川に月見草を探しに出かけるという、何気ない日常の一コマなのだが、帰りの電車(当時はガソリンカーだった)で、月見草が開花し、車内灯の光にうすぼんやりと輝いて咲いている幻想的な印象があったが、実は、もう少し現実的な内容だったのだ。

しかし、それが現実であり真実であり、歳を経るということなのかも知れない。

 

「少年老いやすく学成り難し」というが、何か夢のような浪漫が失せてしまうのが歳をとるということかも知れない。

重い病で、入院が続く妻を月見草を抱きかかえながら思い遣り、心細く、つい涙もろくなる作者の心境が、原作には描かれている。

嫁いだ先の亭主に先立たれ、出戻りになった妹のことなども肩に纏わり付き、気晴らしに是政に釣り仲間と共に、魚釣りと月見草狩りに出掛け、夜になり駅前の赤ちょうちんで一杯呑んで、今日の獲物を、友と分かち合い薄暗い夜道を、とぼとぼと歩きながら帰路につく。

 

この作品を発表した1940年、昭和15年はどんな年だったのか振り返ると、

日本は国連から脱退し、日独伊の三国同盟が締結され、近衛文麿が首相となり太平洋戦争にまっしぐらに突進していったのです。

ヒトラー率いる独軍が、ハーケンクロイツ(鉤十字)の旗を掲げ、パリに無血入城したのです。

野球では、巨人の川上哲治氏がホームラン王となり、大相撲では無敗の双葉山が快心の連勝をしたのです。

 

世相という薄暗い夜道を、ほろ酔いのように陶酔し、帝国主義の栄光と利権を求め、第一次世界大戦での敗戦国ドイツに課せられた膨大な借金の侮辱を晴らす為にも、あるいは資源を持たない日本が大陸に進出し、満州の利権を主張することなど、世界は戦争という暗闇に突っ走っていったのです。

それが現実であり、重い病の妻を抱えた昭和初期では、満足な医学的治療もできないという心細い現実からの、一時の逃避行の旅だったのです。

 

「それでは良い旅を…」

その言葉が胸にひっかかったのは、その為かも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の母親が亡くなったのは、もう二十年も前だろうか。
東京に居て超多忙で、滅多に郷里に帰ることも難しい状況なのだが、ある日、自分は夢を見た。
夢の中で郷里に戻っていたのだ。
実家の勝手口のドアを開けると、そこには昔と全く同じ間取りで、台所兼、リビングルームの板の間があった。
真ん中に掘りごたつがあり、そのテーブルの上には、ガス式の炊飯器が置いてあり、中には保温されたご飯が残されていた。
「腹が減ったらこれを食べるようにということだろうな」という母の心尽くしだと思った。
昭和三十年台に建築された親父の設計のこの家は、台所に竈(かまど)があった。
当時の最新式文化住宅だった。
五右衛門風呂も焚口が台所側に向けて構えてあるので、風呂を焚き、夕飯の支度をする時間ともなると、まるでたぬきでも出そうなほど、煙が家中に充満してくるのである。
「ああぁたぬきが出る」と手で目の前の煙を払った。
風呂を焚くのは主に自分の仕事だった。廃材をのこぎりでカットし、斧で割り、焚口から投入するのである。
後に、竈はプロパンガスに、風呂は、重油バーナー式となり、焚口が外に設置されて問題は解消したのです。

腹も満足したので、その隣の東向きの和室で一休みしていると、人の気配がして、いつの間にか隣に布団を頭から被った母親が眠り込んでいた。
夢の中では、昔のままの部屋で昔のままの母親がごく普通に生きている。

般若心経講話 紫雲荘 橋本徹馬著
 

昭和42年8月 山梨県滝山にて 著者 橋本徹馬

 

橋本徹馬(はしもとてつま、1890年(明治23年)~1990年 (平成2年) )は、日本の政治家、思想家。愛媛県出身。早稲田大学専門部政治科中退。佐藤栄作の私的相談役でもあり、紫雲山地蔵寺を創建した。
その講話集は、般若心経を禅の公案を滝行など激しい修行をしながら、一般大衆向けに分かり易い事例、短歌などを交え乍ら解説していったものです。

色即是空、空即是色の意味

 

この意味を簡単に説明すると、色とは、目に見える此の世の中の物事の全てです。
空とは、実体がないことです。 空即是色は、その対語です。
つまり、この世のすべてのもの、色は、実体が無い空となるが、その無いはずの空から物質や実体、即ち色は生まれる。といった意味です。
ここに、なんでもいいのですが物体があるとして、これを分解していくと分子になり、原子になり、素粒子になり、最後には波動になり雲散霧消します。
その雲散霧消したものから、今度は逆に素粒子となり、原子を構成し、分子を構成、細胞から更に生物などの実体になります。
ですから、色即是空、空即是色と対語になっており、決して空は虚しいものではなく、それが何であるかは、言葉に言い尽くせぬ摩訶不思議な真理だというわけです。
 

この世に存在するものは、形こそ変えることはあっても、無くなるということはありません。

水は、冷やして零度で氷という個体となり、熱すると液体となり、更に熱して百度になると水蒸気という気体になり、もっと熱するとプラズマ(電子が分離した状態)になります。

これらを相転移(そうてんい、 phase transition)あるいは相変態(そうへんたい、phase transformation)と物理では呼んでいます。

ただ形が変化したというだけで、決して無くなってしまったわけではありません。

「死ぬと全てが無になる」と考えている人もあるが、もし、そうだとすると、今頃、地球はもっと軽くなっているはずです。

しかし、そうなったという報告はありません。

 


般若心経講話本文より

あなたは誠にはかない存在のようであるが、実は永遠に存在する実在の一時的顕現なのです。
すなわち、あなたが即ち実在、実在がすなわちあなたとなり、これが色即是空、空即是色の意味です。
いわば、あなたは父母の未だ生ぜざる以前からの己、天地の開ける以前からの己、そうしてまたこの肉体は滅んでも永久に死ぬることのない己を、はっきりと自覚することになります。
つまり、永遠の生命があなたなのです。

あるひとは、永遠の存在である生命が、時々、現象人としてこの世に生まれてくることを、永遠の旅人と旅館に例えています。
 

徳川光圀の辞世の句に

 

父母に呼ばれてかりに客に来て
     思い残さず帰るふるさと


という句があります。

永遠の旅人である我は、何かの縁で父母の元に、たまさか旅館の客のように立ち寄ったのだが、時が来たので、元々居た故郷に思い残さず帰るのだと詠んでいます。
 

ところがです。

 

ここで、その元々の前世がはっきりしないので、今も後も理解できないという訳です。
それについては、天理教祖が最も的を得ています。
「前世が分かったら、顔をあげて歩ける者はあるまい。そこで神様のお慈悲で、一生ごとに黒幕を垂れ、見えないようにしてあるのじゃ。しかし、前世がどうだったかは、今の己の状態から察すれば如何だったかは分かるはずじゃ。よう思案してみよ。」

 

※前世を記憶して誕生する人があるとしたら、それをどう考えれば、どう受け入れればいいのだろうか。

その黒幕は、時々、破れ落ちることもあると云っておるのだろうか? ようよう思案せねば…。

 


滝行による神秘体験

この話は、昭和17年の7月に、私こと橋本徹馬が甲州の滝山で滝行をした時のこと、私が滝にかかりながら般若心経を読もうとすると、一回どころか半分も読まないうちに、水の冷たさで心臓麻痺を起こしそうに感じる。
以前は、難なく出来たものが今日に限ってはできない。
そこで、私は精神力が肉体の制約を超えられるものかどうか、命がけで試してやろうと、滝つぼへ入って行きました。
心経を必ず五回読むまで、断じて引かぬ。死んでも止めぬという決心でやれば実際死ぬものか、その緊張した精神力で肉体を超え、死なずに五回読み切れるかどうかを、我が身を投げ出して試みてやろうというのです。
「えーい、死んでやれ」という不動の決意で滝水に浸かったのですが、すると、不思議なことに先ほどまでとは違って、一回読み終えても何ともないのです。
「おや…なんともないようだが。しかしそのうち心臓の限界が来て倒れるやも知れぬが、然し決して後へは引かんぞ」
と更に決意を強めてはや、二回読んでも倒れることはない。
「おかしいなあ」と思いつつも、ふと気が付くと、私は滝壺に天柱地軸を貫く金剛不動の巨人の姿で突っ立っている自分を見たのです。
それは肉体の死生を超越し、滝水の冷暖なども超越した私の実在の姿なのでしょう。
そのかたわらに、五尺五寸の肉体、橋本徹馬がふるえながら滝水にかかっているのが見える。
それを巨人の方の橋本の眼で見降ろす肉体橋本の姿のちっぽけで、哀れっぽいのがおかしくなって、私は思わず吹き出した。

 

この時、感得した巨人の橋本が実在の橋本で、そのそばで震えながら滝水にかかり愚かで哀れに見えた五尺五寸の橋本が、肉体の橋本、すなわち現象人としての橋本なのです。


読後観想

この厳しい滝行で氏は、所謂、幽体離脱をしたのでしょう。

精神が肉体から分離し、浮遊しながら鳥瞰図のように空中から己の身體を眺めているのです。
肉体はぶるぶる震えているのに、それを鳥瞰する実体は、その姿が哀れで可笑しく「ぷっ」と吹き出しているのです。

氏は仏教徒ですが、キリスト教をほめそやしている個所が随所にみられます。
ある新興宗教などは、他の宗教を貶なし落とすことで、自分の信じるものが如何に正しいかを誇っているようですが、それは、子供が痴話喧嘩で「おまえのかあさん出べそ」と罵っているのとそう大差ありません。
氏のように誠に厳しい修行の上に覚醒した修験者は、決してうかつに他者を卑しめ落とすことはありません。
本冊子にも、キリスト教を度々引用し、仏教が伝えることとの対比が説かれています。

ところで、
この話が、『二歳の子供が硫黄島の戦いで撃たれた』と前世を語り始めたという実話との関連性はあるのだろうか。
天理教祖の「前世を知ると恥ずかしくて…」という説話とは、意味が違うのだろうか。
滝行で体験した幽体離脱との関連性はあるのだろうか。
なぜ二歳から七歳までが、前世を語る年齢なのだろうか。
七歳を過ぎたら、その前世の霊人は、どこに消えるのだろうか。

六道輪廻とはどう違うのだろうか。

前世と生まれ変わりは、宗教とは無関係だということの意味は何だろうか。
 

知れば知るほど益々疑問は広がっていくのです。


☕コーヒーブレーク

ところで、般若心経を五回読んだところで、肉体に戻れたので良かったが滝行は危険を伴なうので、単独ではなく誰か傍で見守る必要があります。
氏は佐藤栄作元総理の顧問を務めていただけあり、その経文の読解力、瞑想、修行からくる洞察力など見事で感服します。
明治生まれの人は、どこか胆力でも違うのか、超人的な神がかりの人が多い。また中途半端に修得することもなく、妥協を赦さず徹底的に「会得するまでは死んでも引かん」と求道される人が多い。


実は、この般若心経講話の冊子は、母親がどこかの勉強会で貰って来たものだったが、なぜか、今は自分の手元に母親の写真と一緒にある。
帰郷すると、これに感化された母は、箪笥から写経した般若心経を自慢げに見せてきた。
見ると、何かの怨念がこもったような、鬼神が書いたような文字が並んでいた。

その冊子中に

きのうまで人のことだと思いしに
    わしが死ぬとはこいつたまらん


という世のざれ歌の引用記述があり、母は、それが余程可笑しかったのだろう。
大うけして「こいつたまらんって」「こいつたまらんって」と大笑いしているうちに亡くなった。

「こいつたまらんって」


 

 

 

 

いまでも鮮明に覚えている夢がある。
母を亡くして数年後に見た夢だった。
私は下り坂の並木道を全力で駆けていた。
約束の時間がとうに過ぎていて、なかば諦めた気持ちで角を曲がると、大学図書館の前に立つ二つの人影が目に入った。
彼らは私の姿に気が付くと、「おーい」と声を上げて左右に大きく手を振った。
そこに立っていたのは父と母だった。
私は、だいぶ遅刻をしたのだが二人は辛抱強く待っていてくれたのだ。
そこで夢から覚めた。




この本の巻末に記述してあった著者の昔の夢の思い出なのだが、この夢の後、一体、両親と約束していたことが何だったのかという疑問が頭をよぎったのだ。
その約束とは「私は彼らのもとに生まれる約束をしていたのだ」ということだった。
今でもこの夢が両親への感謝であり、それを確かめたくて生まれ変わりの研究を始めたのかも知れない。
と筆者は語っている。

竹倉史人(たけくら ふみと、1976年~ )日本の宗教学および在野の人類学者
2000年武蔵野美術大学造形学部映像学科中退、2005年東京大学文学部思想文化学科宗教学・宗教史学専修課程卒業。
フリーター、会社役員、自営業、予備校講師など多彩な履歴の持ち主なのです。

輪廻転生の概要

輪廻思想というと、仏教の思想のように思えるのだが、少なからず仏教さえ知らない国、古代ギリシアや古代エジプトでも、その思想が支配しているのはなぜだろうか。
国際社会調査プログラム(ISSP)の調査では、アメリカ在住のイスラエル人の53.8パーセントの人が輪廻転生を信じている。
日本は42.6%だった。
荒唐無稽な話だという人々が多い現代においても、この「古代の妄想めいた迷信」のような話が、無神論者の多い日本でさえも、信じる人が多いという事実があります。
現代科学者は、「心は脳の活動に起因するものだ。死ねば脳は活動しなくなるので、その後は何も起こりえない無です。」と断言するだろう。
しかし、それは事実でしょうか。

「脳の活動が心を創り出している」とする考えと、「心が脳の活動を創り出している」とする考えがある。
もし、前者だとすると、脳のどこにその中枢部があるのだろうか?
もし、後者だとすると、心はいったい身体のどこにあるのだろうか?それは心という字が入っている心臓だろうか?

これは重く難解な課題で、軽々に結論などいえず、結論は纏まらないだろうという予見があるのですが、もしそれらを暗示する事実があるなら知る必要があると思うのです。


仏教には六道輪廻という教えがある。

有情(うじょう)輪廻して六道に生まるること、なお、車輪の始終なきがごとし。 心地観経(しんじかんぎょう) 

有情とは我々人間のことで、六道とは、1.天道、2.人間道、3.修羅道、4.畜生道、5.餓鬼道、6.地獄道のことで、これが車輪のように巡り生まれ変わると考えます。天道が一番高級で、地獄が最低です。
これは、仏教の倫理的、観念的、教義的なもので心の問題だと言っているのではなく、死後にもこれが続き、これを転生するのだと説いています。
そして、この未来永劫繰り返す因縁、カルマから解脱する方法を仏教は説いています。
その方法とは、出家して座禅瞑想し、滝行、断食、祈祷などの厳しい修行で煩悩を断ち切り、日々、精進鍛錬することだといわれいる。

一方、キリスト教では、輪廻転生の教えは存在しません。

仏教的な円環の思想に対し、キリスト教は、始めがあれば終わりもあるといった、一本の直線に捉えます。
聖書は天地創造から始まり、黙示録で終わるという一本の直線にあり、人類の歴史もその線の時系列上に並んでいます。
もし、人が幾度も生まれ変わるとすると、「メシアを受け入れ救われた人は、いつの時代の人だったか?」ということが疑問になります。
例えば、前世で救われた人が、再び生まれ変わり、洗礼を受けなければ救われないと諭され、もう一度洗礼を受けるとすると、前世の洗礼は一体何だったのか意味不明になります。


イエス・キリストは、荒野で、40日という厳しい断食を修めましたが、それは悪魔の試みに勝つためでした。
今でも神学生などは、断食、祈祷修行などもしますが、煩悩を罪の所在として、キリストを受け入れることで、その罪を抹消し、三位一体の神、すなわち、「父なる神」、「子なるキリスト」、そして「聖霊」を受け入れることで救いの道に至るとします。
 

聖書外典、偽典には、生まれ変わりを示す文節もあるようですが、正典にはキリストが明確に生まれ変わりを支持するような文節はありません。

新約聖書からの抜粋

さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。マルコ 8:27

領主ヘロデ・アグリッパはイエスのことを「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ」と家来たちに語っています マタイ14:2。

当時、このように「あれは○○の生まれ変わりだ」という世俗的信仰があったことを物語っています。

では、輪廻転生は、古代人の妄想のようなもので、現代では存在しないのだろうか。

 

転生の実話

バージニア大学のDOPS(知覚研究所)では、世界中の前世の記憶を検証する膨大な研究データが蓄積されている。
その中に、世界中のメディアでも取り上げられた有名な話がある。

二歳の子供が「硫黄島の戦いで撃たれた」と語り始めた。

事件は2000年、アメリカのルイジアナ州で、父親はブルース、母親はアンドレア、子供はジェームスという一家で起こった。
ジェームス君の特異な言動が始まったのは、2000年5月、まだ二歳になったばかりである。
激しい夜泣きをするようになり、母親は小児科医にも相談したが「そのうち治るでしょう」とだけ言われ帰されたが、夜泣きは益々激しくなった。
 

そして「飛行機が墜落!炎上!出られない!」と幼児が突如喋り始めたのだ。
当時のジェームズ君は、まだ言葉は単語を並べるだけの語彙しか喋れないので、両親は非常に驚いたのです。

この後、ジェームズ君は次々と不思議な話をし始める。

「飛行機に乗っていて、日本の飛行機に撃たれて墜落した。」
「自分が乗っていた飛行機はナトマという船から飛び立った。」
「硫黄島の闘いで撃たれた。」
「近くにジャック・セーランという仲間のパイロットがいた。」

母親は、ジェームズに「あなたの名前は?」と問うた。
すると「ジェームズだよ。今と同じ名前だよ」と答えたという。
母親は、もしかして前世が関係しているのではと思ったが、父親は馬鹿バカしいと受け付けなかった。
父親のブルースはコロンビアの大学院で、国際政治の修士号を取得したインテリで、石油会社のエリートビジネスマンでもあり、聖書研究などにも参加する敬虔なクリスチャンなのです。

ジェームズ君は、その後も不思議な行動をとるようになる。
彼は、よく飛行機の絵を描くのだが、その日本の飛行機にジークとか、ベティとかいう名前を付けるので「なぜ、そんな名前を付けるのか?」と問うと、
「戦闘機には男の名前、爆撃機には女の名前をつけるんだ」と答えた。
父のブルースが、そのことを調べてみると確かにそうだった。

ジェームズ君は「コルセア」という飛行機の絵をよく描いた。
「コルセアはいつもフラット・タイヤを履いていたよ」とか、「離陸するときに左に傾く癖があった」などと話すのだが、これも後の調べて事実だったことがわかった。
「ナトマ」は、太平洋戦争中の小型空母であることも判明したのだ。

父のブルースは、前世などあり得ないと信じていたので、仕事の合間に、「ナトマ・ベイ戦友協会」なるものがあることを知ると、何か手がかりがあるかもしれないと思い、極秘で参加してみた。

そこで、驚くべき発見をするのです。
 

ナトマ・ベイの乗組員名簿を見ると、そのなかに「ジャック・ラーセン」という名のパイロットがあり、ブルースは、その後アーカンソン州の彼の自宅を訪問しています。

その他、多岐にわたって調べたのだが、ことごとく息子の言っていることと内容が合致していたのだ。
硫黄島で戦死したパイロットの名前は、ジェームズ・ヒューストンJr.で、1945年3月3日に日本軍に撃墜された事実も判明したのです。
炎上しながら海に墜落したことも息子の話と全く同じだった。
また、その時、すぐ隣を飛んでいたのが、あのジャック・セーランの機体だったことも判明した。
こうなると、父のブルースは前世の記憶、生まれ変わりを受け入れるのが、この怪異な現象を説明するのに最も合理的解釈だと考えざるを得なかった。

 

その後、ジェームズ君は両親と共に、その「ナトマ・ベイ戦友会」にも参加するようになった。
最初は怪訝そうな顔つきだった会員仲間らも、その小さな戦友ジェームズ君を、暖かくを迎え入れたという。

DOPSは、こうした事例を、世界中から2,600件も以上収録、データベース化している。
それらの統計から傾向を抜粋すると次のようになる。

(1)子供が過去生について語り始める平均年齢は2歳10か月、自分から話さなくのは7歳4か月。
(2)過去生から、次に生まれ変わり誕生までの平均年月は4年5か月。
(3)同じ宗教内の生まれ変わりが多いが、他の宗教間での事例もある。(宗教に限定されない)
(4)ある民族によっては、同一家族、もしくは近親者間での生まれ変わりが多い。
(5)その前世の人物が見つかった例は72.9%
(6)前世で非業の死をとげた事例は67.4%
(7)生まれ変わりによって、経済的、社会的地位が向上するといった一定の法則性はない。
(8)前世で悪事を働いたことで身体に障碍があるという事例は稀である。(因果応報でもない)

これらの科学的統計分析は近年始めたばかりなので、これでどうだという結論は出ないだろう。
子供の中には、それを言葉にして表現できないということもあるかも知れない。
あるいはその周辺の人は、ただ変わった子だということで片付けられてしまうこともあるだろう。
その意味で、実際はもっと多大な事例がある可能性はあるだろう。

「勝手に他人の胎盤を借りて、生まれ変わるって…、じゃあ、本当の両親の子はどこに消えたんだ。」という憤りもある。

ただ救いは、7歳を過ぎるとその子供は、すっかりその記憶を忘れるのです。
これに似ている現象として、夢が挙げられるれるかと思う。
眠っている間は、夢はリアルなんだが、目覚めると放物線を描くように忘れてしまうのです。
暫くすると、思い出そうとしてもさっぱり思い出せない。
夢は、覚醒時に記憶した無駄な記憶、あるいは恐怖の記憶を、必要以上憶えていると障害があるので、それを抹消する行為だとする意見もある。
日常、抑制された不満、本能の欲望などが、夢で発露することで自己解消していることかもしれない。

戦争という不条理で極端に抑圧された環境下で、思いもよらぬ被弾で墜落したという不本意な出来事があり、その無念な想いが胎児として間借りのように宿り、己の無念さを人々に認められることで呪縛から解放され、慰められ、癒され、数年後には占領していた身体を出ていくということかも知れない。
この世には、目には見えないが、霊魂とでもいうものが働きかける何かがあるのかも知れない。

 

昔、ある神学校の宗教学部長が、こう語られたことがある。

「キリストを信じることは、永遠の生命を授かることです。それは、この肉体の延長線にあるものではありません。もし、この肉体の延長線にあるのだとしたら、私はお断りをします。」

米国にも出張で出掛けることも多い先生は、ある日、アメリカの洋服店でスーツを買おうとしたら、シニア用ではなく、ジュニア用の売り場に案内されたという。妙な屈辱感を味わったと笑いながら、

「こんなちんちくりんで不便な肉体が永遠に続くとしたら、お断りしたいと願います。」ときっぱり断定された。

「そうではなく、全く作り変えられた朽ちない栄光の体が永遠の生命です。」と顔を輝かせながら熱弁されたことがある。


☕コーヒーブレーク 永劫回帰

Bing君に、永劫回帰(えいごうかいき)について訊いてみた。

『永劫回帰とは、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが提唱した思想で、宇宙の全ては同じことの繰り返しであるという考え方です。
ニーチェは、人生に真理や価値はなく、努力しても意味はないというニヒリズムから、自分の影響力を大きくしていけばいいという超人思想に至りました。
永劫回帰は、この世界が何度も同じように回帰するという考えを強く肯定することが、生の絶対的肯定を説くニーチェの根本思想です。
永劫回帰は、仏教の輪廻転生とは異なり、ループから抜け出すことを目指すのではなく、ループそのものを受け入れるという点が違います。
永劫回帰は英語で「eternal recurrence」や「eternal return」と言います。

 

私は、永劫回帰の思想に基づいて、インスピレーションにあふれたコンテンツを作成することができます。
例えば、永劫回帰をテーマにした詩を書いてみました。

永劫回帰

この世界は繰り返す
同じことの連続
始まりもなく終わりもなく
永遠に変わらない

だからこそ私は
この瞬間を大切にする
何度も何度も訪れる
この瞬間を愛する

永劫回帰は恐ろしいことではない
永劫回帰は素晴らしいことだ
この世界を肯定することで
自分の力を増やす

永劫回帰は私の思想だ
永劫回帰は私の詩だ
永劫回帰は私の創造だ
永劫回帰は私の超人だ』



「おいおい嘘だろBing君。君はいつから詩作の達人になったんだ。こんなにも溢れる詩情を誰から教わったんだ。まさか、君まで実はニーチェの生まれ変わりだとか主張し始めるんじゃないだろうな? 君はただのコンピューターなんだろ!?」

 

さて新年早々から、長々、ご清聴ありがとうございます。