ドラマの時間 天使と悪魔(続編)  | パパンズdeアトリエ

パパンズdeアトリエ

アトリエ絵画スケッチデッサンなどの個展
芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

信長が気になっていたのは、宣教師ウルガンではなく、あの籠の姫のことだったのです。
如何に自分が姫を愛しているかを伝えたかったのです。

信長は、美濃の斎藤道三の娘、帰蝶(きちょう)よりも、恋焦がれる姫と言うのが、明智光秀の娘、後の細川ガリャシャだったのです。
そう、あの本能寺で、裏切られるあの明智光秀の娘で、ガラシャは洗礼名で、実名は、玉(珠)あるいは珠子という。

信長は、家臣の誰よりも一番に明智光秀を重用していたのです。
自分より年長だということもあるが、文武両道に長け、朝廷にも幕府にも精通する彼の才能を最も信頼していたのです。


「一体、誰が攻め込んで来たのか」と本能寺の変で信長が、それが光秀の軍であることを知らされと「是非もない!」と叫んだのは、その意外性だけではなく、自分に与えられた宿命のような咎を突きつけられたからです。
自分が信頼していた家臣の、その娘であるお珠を愛していた自分が、まさか、信頼し、愛していたその父親から責められるとは思ってもみなかったからです。

自分の宿命を悟った信長が叫んだのは「是非もない!」という一言だったのは、その為であり、他に言葉が見つからなかったからです。


あの宣教師ウルガンが、お珠の輿の上の小悪魔インプ(Imp)を南蛮寺に引き据え取り調べた後、信長とお珠との縁も途切れたのです。
失恋した信長がとった策は、家臣である細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興(ただおき)に嫁にどうかと口入したのです。
自分に従わせることは叶わなかったが、せめて、自分の目の届く範囲におきたいと願い、家臣の細川家に嫁がせたのです。
こうして、お珠は天正六年、元服が済んだばかりの忠興に輿入れをしたのであります。

天正十年(1582年)6月、明智光秀が本能寺の変の後、光秀は細川藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子は信長の喪に服す事を表明し、剃髪すると、これを拒否した上、世情の掟に従うならお珠を離縁するところだが、それはせずお珠を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉したのです。
それは謀反人の娘として、迫害されるであろうお珠の身を案じてのことだったのです。

明智光秀が、謀反に失敗したのは、その首級(しるし)が見つけられなかったからです。
本能寺の変では、激しく燃え盛る炎に近づくこともできず、骨まで崩れ落ちる家屋の下敷きとなり、性別さえ見分けることが出来なかったからです。

本能寺が燃え落ちた後、光秀らは懸命に遺体の捜索を命じたのだが、既に、骨まで灰になるほど、手に取ると崩壊してしまうほどに焼け落ちていたのです。

 

討ち取った「みしるし」が無ければ、誰も相手にしてくれないのです。
戦の後の論功行賞(ろんこうこうしょう)の場でも、敵の武将の首級が無ければ、話にならないのです。
首実検というのは、討ち取った敵兵と面識がある人間の証言のことで、それが無ければ手柄とはならないからです。
矢が尽き、自らも被弾すると、信長は女たちを避難するよう仕向けると、自分の首が晒されれるのを避ける為に、屋敷に火を放ち自刃したのです。
 

その時、なぜ信長は本能寺に居たかと言うと、前夜に茶会が開かれたからです。
信長は、自分のコレクションである茶器を自慢したかったからです。珍奇な茶器を集めるのが趣味だったのです。

その中には、中国の天目茶碗もあり、「どうじゃ、これが天目茶碗というものじゃ!」と有力な武将や公家たちに自慢げに見せつける為です。

お珠は、細川忠興が、あのキリシタン大名として有名な高山右近から聞いたカトリックの話に心惹かれ、裏切者の娘という汚名を払拭する意味もあったのだろう、自ら洗礼を受け、細川ガラシャという洗礼名を授かったのです。

細川忠興は、本能寺の変の後、羽柴秀吉、改め豊臣秀吉に仕えると、天下分け目の関ケ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍で参戦したのです。
ところが、この秀吉が天下を治めるとき、「バテレン追放令」が出され、ガラシャは裏切者の汚名に加え、更に異教者としての負い目も受けなければならなかったのです。

西軍の石田三成は、大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。
三成らの軍勢が、屋敷を取り囲むと、遺体が残らぬよう屋敷に火薬を仕掛けると、武家の作法に従い、家老に介錯を頼むと屋敷に火を放ち、孤独の果てに一人自刃したと伝わっている。

辞世の句は、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」とある。
時とは、清和源氏源頼光の流れを継ぐ土岐氏(とき)であり、同じ土岐桔梗(ときききょう)の家紋の明智光秀のことを暗示しているのかも知れない。

信長の奨めで細川家に嫁いだ明智家の娘、お珠だったが、戦国の世に生まれたが故に、波乱万丈の壮絶な生涯だった。

だが、細川忠興は、主君を裏切る光秀の娘、お珠を離縁はせず、山奥に幽閉したのです。
しかし、信長の死後、天下を握った豊臣秀吉により細川家に復員したが、既に、側室に後継ぎの男子があり、お珠は蚊帳の外のような存在となったのです。

細川護熙(ほそかわ もりひろ、1938年〈昭和13年〉~ )は、第79代内閣総理大臣であり、あの細川忠興の子孫でもあります。

蝶々は、夜の蛾となり、炎の明るさに知らず引き寄せられ、その身を焦がしても、帰る蝶々には戻るべき家もない。
お珠の晩年は、身の置き所もない、そのようだったかも知れない。

中国大返し

羽柴秀吉は、人の心を読む天才だったのです。
明智光秀が、いつか主君を裏切ることになるだろうことは、とっくに見抜いていたのです。
備中高松城攻めの時でさえ、用心深い彼は、何事があったとしても、ただちに軍勢を引き返すことが出来るように、遠征途中の村々の要所に、兵馬を配置しその準備をしていたことだろう。
何事かあれば、ただちに早馬で知らせるべき、情報網を敷いていたことだろう。
 

彼が、本能寺の変の知らせ聞いた時、直ちにその情報網を辿り、明智軍の動向を探っていたことだろう。
鎧甲冑など、重装備の数万の軍勢が夜を徹して一斉に駆け抜け、京に引き返すことなどおおよそ無理がある。
そうではなく、村々に用意した早馬で、軍の要人らだけが駆け抜け、次々にやってくる兵卒を迎える準備をさせていただろう。

瀬戸内は、潮の流れが早い所では時速20kmにもなるので、武具などは船で運ばせた可能性もある。
急に、大量の船を用意できるはずもなく、それらも事前に用意していたに違いない。
金の力を知る秀吉は、瀬戸内を仕切っていた海賊集団、村上水軍とも懇意で、配下にあったのです。

宣教師ウルガンのモデル

芥川龍之介が描く宣教師ウルガンとは、イタリアの宣教師で、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノで、カトリック司祭。イエズス会員。
人柄が良く、日本人が大好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、三十年を京都で過ごす中で、織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となったのでです。

ウルガンは、ガラシャ自刃の後、細川屋敷の焼け跡を訪れて、ガラシャの骨を拾い堺のキリシタン墓地に葬ったのです。
忠興は、ガラシャの死を悼み、慶長6年(1601年)にウルガンに教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に、遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬したのです。
ガラシャの法諡(ほうし、諡号のこと)は「秀林院殿華屋宗玉大姉」だった。


コーヒーブレイク 新古典主義 ネオクラシック 

やっと、町会の役員の勤めが終わりほっとしている。
今、東京都内でも多くの町会が解散しています。
高齢化に伴い、多くの町会が主催するイベントに、資金も含め対応しきれない現状があるのです。
中産階級のサラリーマンが、郊外に宅地を求め、その負債が終わった頃には、既に老齢化し年金生活になっているのです。

戦い終えた戦国武将らが、鎧兜を傍らに脱ぎ捨て、一人、滝を眺めながら、深い溜息をついているようなものです。

住宅も新築はされるが、町会に加入する人は稀です。新築は増えるが、空き家になる旧家も増えているのが現状です。
所謂、長老と云われる人たち(戦い終えた武将たち)が、組織を私物化しているのも大きな問題です。

次世代を担う、若い人たちはそれらに触れたくも無いのです。
「いったい何のための町会?」とその存在意義さえ疑問になるのです。

新古典主義は、近年、若い人たちの流行でもあります。
古典主義は旧すぎ、現代アートには馴染めない人達が、求めている芸術志向だと思う。


日本でも、ネットを見ると古い車や、バイク、崩壊しかけた家などを再生し、付加価値をつけて転売するなどの商売が見られます。
ただ困難なことは、それらの昔の部品などが世の中に少なく高価なことです。

ネオクラシックカーとは、1980年台~1990年台の車を指すのだそうです。
自分としては、もっと古いクラシックカーの方が好みです。
1931年 チャップリンの『街の灯』に登場する、当時の最新モデルの車が好みです。
なぜかというと、車にステップが付いているからです。
今の車に、ステップなど無駄なものは付いていません。着物を着た婦人が乗り降りするには、ステップがあった方が便利です。
和服を着たご婦人が、大股を拡げて地面からいきなり車に乗り込むわけにはいきません。

元来、車は馬車が原点であり、馬車には必ず乗り込む為のステップが付いていました。
 

それと、バンパーもあった方が良いと思う。
バンパーが無くなった理由は「あんなものが、車の前後にあるとデザインに制約が出来る」と当時のデザイナーが拒否したからですが、バンパーがあると、ちょっとした衝突くらいでは、バンパーが傷つく程度で済み、バンパーなど安いものなので、費用も抑えられるのです。
今は、バンパーは車体と一体となっているので、ちょっと傷ついただけで大きな出費となってしまうのです。
ぶつかった相手を、最小限の損傷に抑える為にも、無くすのではなくバンパーの機能を更に追求することが求められるのだと信じます。

物は捨ててしまった頃に、必要だと後悔するものです。



日本人はユダヤの子孫だった ===

 

なんだ? これは?

 

多分、原稿を推敲する中で紛れ込んだものだが、次回以降のいつか、日本人の中にユダヤ人の血筋が紛れ込んでいるかといったテーマで描けるかも知れない。それは難しそうだが…。

でも、出来る限り迫ってみたいと思う。