遠藤周作という人を思う
「どうも、風邪を引いてしまったようだな…」
咳が止まらなくなり、喉の不快感に吐き気さえする。
自分は、風邪には葛根湯と決めているので、それを服用してもみたが、一向に症状は治まるどころか、ますます咳は酷くなり呼吸が苦しくなってくる。
肺気腫は、痰が気管支に詰まり、丁度、軽く溺れているような症状になり、吸っても吸っても酸素が入ってこないのです。
水面に、パクパクと口を開けて空気を吸っている金魚の気持ちが、ふと分かるようになった。
横になっていると、息をするごとに、「ピー!、ピー!」とまるで笛を飲み込んだ蛙のように鳴るのです。
ディズニー映画の「トムとジェリー」のような滑稽な様に笑いが堪えきれず、笑えば笑うほど、益々、「ピー!」「ピー!」と喧しく鳴るのです。
明くる日、掛かり付けの病院に行くと、胸のレントゲン写真など眺めながら、「これは別な病院を紹介しますから、そちらで治療してください」とのことだった。
こちらとしては、取り敢えず息が苦しいので、痰を切る薬だとか、症状を緩和する薬を処方されるのを期待していたが、MRIが設置してある、もっと別な大病院を紹介されたのです。
どうやら、もっと重篤な病を懸念した配慮なのだろう。
その大病院でのこと
「えっとね。あっそうこれね…、右胸のこの影ね。これがなんだか…ね?」とMRIの映像を見ながら若い医師は首を傾げるのだ。
こちらとしては、MRIの映像が鏡のように写るのか、見当もつかない自分は、詳細に映る肺の解剖図のような映像を見ながら説明される医師の専門的見解が理解し難いのである。
「ふーっ」と深い溜息にも似た嘆き、ある作家の言葉ではないが、「またか…」と、やり場のない失望感が沸き起こってくる。
それと、自分の胸は医学の教科書にも載っていそうな他人と同じ構造をしているんだという、安心したような、がっかりしたような神妙で不思議な感覚になる。
「これはうちでは治療できませんので、別な病院を紹介します。」といい、それら診断書一式を持たされ、紹介状と一緒に投げ出された自分は、その更に大きな総合病院にバイクで向かった。
その総合病院でのこと
ここは年中、患者が多く待ち時間も長いので「またひどく時間がかかりそうだなぁ…」と愚痴りながらも、ここは、病院という罰を宣言される閻魔大王様の御前に立たされる罪人のように、一応、善人風の体裁を整えておかないと、「もう少しは真面目に神妙な態度で向え!懲りない奴め!」と閻魔大王とやらに怒鳴られるのもどうかと思い、「私は無罪です」と宣告してもらいたく、なるべく真摯で謙虚な姿勢になることを心掛けるものです。
帯状疱疹(たいじょうほうしん)という子供の頃に罹った水疱瘡のウイルスが体内に残留し、それが、年老いて再発する病気がある。
肩から首、頭にかけて、縫い針でチクチク刺されているような不快感が続きます。
その治療のため、この病院に来たことがあるが、体中が、チクチクと刺されているように痛いのに、昼飯も食べず六時間も待合室で待たされていると、無性に腹立たしくイライラしてくるのです。
と同時に、ウイルスの物凄い執念深さにも、驚くのです。
「細胞は耐えず新陳代謝をしているので、子供の頃から見れば、随分細胞が入れ替わり、もう、あの頃から幾度も細胞が生まれ変わり、別人になっているはずなのに、なぜ、そんな昔のことをウイルスは記憶しているのだろうか?」
そんなことなどを思い巡らしていると、ようやく自分の名前が呼ばれた。
精密検査をするため、MRIという装置がある部屋に行くよう指示された。
まるでタイムトンネルの入口のような穴に、足先から次第に胸部に移動し、ジェットエンジンのように、けたたましい音を上げながら次第に上部にスキャンをする。
「はい、そこで息を止めて」と言われても、溺れているのに更に頭を押さえつけられているようで「これ以上、息を止めていると窒息死するが…」顔を真っ赤にし、限界に耐えていると、「はい!息していいですよ」と声がかかった。
タイヤがパンクしたような「プシュー」という音と共に、けたたましい音が静まり検査が終わったことを告げる。
最近は、コンピューター・ネットワークで院内は繋がっているので、診察室に戻ると、担当医師は、早速、そのMRI画像を見ながら、沈黙のままマウスを操作しながら頭を傾げるのである。
医者の言動で気になるのは、「あれぇ?」という疑問符や、手術中に「あっ!いけねえ」といった疑問符や反省の言葉です。
手術台に、十字架の刑罰のように捕縛され、一切の抵抗が出来ない患者は、「この後に及んで反省されてもなあ…」となんとも不安な心持ちになるのです。
痰の検査とスッポン
看護師から痰の検査をするので、試験管を渡され、「そこに痰を吐くように」と言われたのだが、自分は「こんな可愛らしい小さな口に吐くことは出来ない」といい、もっと大きな洗面器のような器をよこすよう言った。
すると看護師は「これでいいい?」と言いながら、シャーレを渡された自分は公衆便所に向った。
ところで、鼻は顔の中心にあって顔の飾りのようにあるのではなく、重要な役割も担っているのです。
冷たい外気を直接取り込むと肺にとっては負担になるので、鼻はその外気を一端温めるのです。
車に例えると、吸気加熱装置のようなものです。
冷気をいきなり燃料と混ぜても、温度が低いので燃焼が悪いので、外気を温めて取り込む仕掛けがあり、それと似た機能が副鼻腔にはあるのです。
その為、鼻の内部は鍾乳洞のような複雑な構造になっています。
額の中心には前頭洞(ぜんとうどう)、目の辺りには篩骨洞(しこつどう)、頬には上顎洞(じょうがくどう)という洞穴のような空洞があり、風邪などをこじらせると、その洞窟が膿で塞がり、それを長年放置しておくと、慢性副鼻腔炎というやっかいな病気になります。
痰を吐き出すのは、咳をして、気管の溜まった痰を吐き出すのですが、なにしろ、咳をし過ぎたせいか、横隔膜が痛くて痰を吐き出すことが出来ないのです。
仕方ないので、鼻呼吸を利用し、洟をかむという動作を長時間、幾度となく続けていると、副鼻腔が真空状態になり、丁度、真空ポンプで吸い取る要領で、気管枝から副鼻腔に痰が上がって来ることを発見したのです。
それは、丁度、下水が詰まった時の、あの黒いゴム製の「スッポン」の要領です。
だが、それをやるには全身の力を込めて、まるで修験者か、ヨガの達人のように、腹から全空気を鼻に抜けるように吐き出す必要がある。
副鼻腔と気管支は繋がっているので、それをしつこく繰り返すと、やがて気管支に詰まっていた痰は副鼻腔に吸い出されるようになります。
それを鼻腔から吐き出すと、まるで、ヘドロが詰まった下水が貫通したかの如く、冷たい外気が肺に浸透し、随分呼吸が楽になるです。
実は、鼻のこの真空ポンプ作用は、食べ物を飲み込むときにも利用しているのです。
「そんなまさか!」と思うかも知れませんが、人間のように、直立姿勢をしていると食べ物を気道に入らないように、、一端、真空ポンプで掬い上げ、それから食堂に導いているのです。
本能的にそうしているので、気が付かないかも知れませんが、実際、鼻が全閉塞すると、実に食べ物が呑み込み辛くなります。
しかし、この動作を一歩間違うと、誤って食べ物が気管に飛び込むことになります。
談笑しながら食事をするのは楽しい事ですが、もしや、呼吸を間違えて気道に食物が入ると食べ物を吹き出し、鼻腔にも飛び込み、目が白黒し、大騒ぎになります。
人間が直立歩行するようになり、頭脳が発達すると、本来、魚のように口が体の最先端にあったものが、丁度、魚を首のあたりでグイっと曲げたような不自然な恰好になっているからだそうです。
人類は、その急激な進化に、顔がついていけず、かなり無理をしているのだそうです。
悪魔の咆哮
「ゴワーヴァ~!グエ~!」とまるで汚れて醜いものを吐き出すエイリアンのような雄たけびで、痰を吐き出す様は、決して他人には見せられない。
幸いトイレには誰も来なかったのでよかったが、もし誰かトイレに入って来て、いきなりその雄たけびを聞いたらさぞ怯えることだろう。
排出したそれは痰と言うより、真っ白な塊で卵の白身を溶いたメレンゲのような塊だった。
こんな真っ白な痰は自分でも初めて見たが、どうやらそれが気管支炎独特な症状だそうです。
ようやく診療が終わり、病院に付属の薬局で処方された抗生剤や、吸入装置などを処方され、1か月後に再診、更に二か月後に再診、と再診の間隔が伸びていった。
今は、六か月点検という車の車検のような状態になったが、その後、どうなるかは分からない。
自分は若い頃、不思議なほど病気になることが多く、ちょっとしたことでも風邪にかかり、高熱を発して倒れるのです。
これまで手術台に上ったことは、大小含めると片手では収まらない。
まるで全身を捕縛されたヒキガエルのような手術台、あんなものに決して慣れるということはありません。
思えば、戦中戦後、日本は食糧事情が極めて悪かったのです。
しかも五人兄弟だった。
戦時中、食糧事情が悪い中、不思議なことに煙草と酒だけは世にあったそうだ。
親として、育ち盛りな子供らには配給の食事与え、自身は、酒やたばこで空腹を誤魔化していたのだろう。
そのせいか、すぐ上の姉も幼いころから病弱だった。
成長してからも度々、婦人病に罹ることも多く、子宮の摘出、あげくの果てには、乳がんも患いレベルⅢだったが、適切な手術と療養で今だ健在です。
「天は、私から女のものを全て取り上げる…」と嘆いている姿が哀れだった。
哀れすぎ、自分は決意し立ち上がり、30日の断食をしたのです。
後に思うが、それは姉を思うことからではありません。自分自身の為でもあったのです。
断食をすることで、何かが開けると思ったからです。
手術も成功し、無事に退院でき、普通に社会生活ができるようになったのだが、喉元、過ぎれば熱さ忘れるで、今では健康を回復しながらも、不平不満をぶちかまし、他人の悪口やら、己が如何に霊感があり、他人より偉く、他人の不信心が禍をもたらせているから、自分が不幸なのだという、訳のわからない恨み節を呟いているのです。
自分としては怒りも湧いてくるが、それでいいとも思わないが仕方なく、女としての身上、赦されているのだと思う。人間として仕方がない事だからです。
その上の兄も、食道がんのため、数年前にこの世を去った。
若い頃、胃穿孔を病み、胃の大部分を切除しているので、二度と手術さえ出来ないようだった。
それでも、平均寿命を全うしたので、それだけは救いだったかも知れない。
☕コーヒーブレーク 遠藤周作という人 狐狸庵閑話
若い頃、遠藤周作という作家が好きで、新作が発刊されると本屋に立ち寄っては買い求めていた。
氏は、若い頃から、肺結核、腹膜炎、脳溢血、肺炎など、まるで病のデパートのように、次々に病に倒れ、度々、入院、手術などに明け暮れるのだった。
慶應義塾大学文学部仏文科に入学し、その後、1950年にフランスのリヨンへ留学。白い人」が芥川賞を受賞し小説家として脚光を浴びた。
『海と毒薬』『沈黙』など重いテーマと向き合う氏は、一方では、ひょうきんな悪戯者としての側面もあり、小田急線の柿生という山林に狐狸庵という居を構えると、生来の悪戯好きが頭をもたげ、全国を巡り歩き、これよとばかりに悪戯を仕掛けるのである。
或る時は、老人の変装をして、夜な夜な新宿歌舞伎町に出没しては人を騙して喜んでみたり、
青森では、恐山のイタコに、でっち上げた人物の降霊を依頼し、見事にそれを演じてくれるイタコを見て、「ほれ、正体見破ったり!」と膝を叩いて喜んでいるような罰当たりな遊びを楽しんでいた。
だが、そんな胡散臭い氏が、踏み絵という歴史上の暗い側面に視線を向け、生来の豊かな文才で、見事に描き切る様は、やはり、芥川賞作家なのです。
その裏では、度重なる重篤な病に難渋していたというのだが、そこにも氏、独特の皮肉なユーモアも忘れないのです。
片肺を摘出する大手術の麻酔から目覚めた時、ゲーテのように「おお主よ!もっと光を」と叫びたいところだったが、実際には「ああ、痛てえ…」しか出てこない情けなさを告白する。
そんな、人間臭く人の弱さを、鈍臭さを素直に語る、人間遠藤周作が好きだった。
「別に死が怖いわけじゃあないんだが、ちくりと痛いのが嫌なんだ。」と告白されておられた。
今、思えば、踏み絵は、氏にとって己が負うべき十字架でもあったのだではないかと思う。
「沈黙」という作品は、それほど苦悩しているのに沈黙し続けている神への恨みだったかも知れない。
キリスト教徒でもある氏は、己とヨブの境遇を重ね合わせ、苦痛に耐えられず、弱気になり、その愚痴や泣き言を家族にも打ち明けていた。
自分と旧約聖書のヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからは、それらから解放され、無くなったという。
「愛などと、歯の浮くようなセリフは恥ずかしくて俺は言えねえ。 言えねえが、俺を責めないでくれ!」それが遠藤周作なのです。
万能薬の富山の萬金丹のように、祈ってさえいれば、あらゆる問題を解決できるということなどありません。
だが、そう願うことが重要なのです。願い続けることが重要なのです。そして描くことです。
言葉を発することなのです。