両親の帰りが遅い日は市原が夕飯を作るらしく、“あんな事”があった後、彼はせっせと三人分の料理を作ってくれた。彼とは長い付き合いだけれど、料理が出来る男だとは今日まで知らなかった。


そして今。

俺は、それを無言で頬張っている。


料理の味は言うまでもなく、美味い。


「・・・何か喋ろうよ」


沈黙に耐えきれなくなったのか、市原が箸を置いて俺を見た。


「別に気にしてないしさ」


事も無げに言いながらも、市原の顔がニヤけているだろう事は見ないでも分かる。絶対に今の状況を楽しんでるんだろう。

市原ってヤツはそういう男で、今更その性格にとやかく言うつもりはない。


言うだけ無駄ってやつだ。


「気にしてねぇ顔かよ」


ご馳走様、と箸を置いて市原を睨みつけた。


とやかく言うつもりはなくても、やっぱり人の不幸を楽しむような所はどうにかして欲しい。


(こいつのこういう所に似てなくてホント良かった・・・)


そっと、黙々と料理を食べている春樹を盗み見る。

無愛想な上に腹黒って、人に好かれなさそうだし。


「ごめんごめん。顔に出やすいんだ、僕」


市原はそう言って、ニコッと笑った。


「貴」


それまでずっと沈黙を守っていた春樹が、箸を置いて市原に呼び掛けた。


「あんまり梓をからかうな」


「お前なぁ・・・その原因作ったの誰だか分かってんのか?」


イライラした口調で問い掛ける俺を無視して、春樹はさっさと席を立つとリビングから出て行ってしまった。

その背中がやけに寂しそうに見えたのは俺の気のせいだろうか?


(やっぱ怒ってんのかな・・・・・・)


あんな風に拒絶して、春樹を傷つけてしまったのかもしれない。

でも・・・本当に駄目だって思ったんだからしょうがないじゃないか。


「大丈夫だよ」


まるで俺の心を読んだかのような市原の言葉に、そっと彼を見る。

そこにはもう、あの悪魔の様な微笑みはなかった。


「恋愛とかあんまり経験のない僕にはよく分からないけど、しょうがない事だと思う。・・・羽柴の気持ちがまだ春に追い付いてないんだよ、きっと」


短い言葉だけれど、その中に市原の優しさが見える。

それに少し心が救われたように感じた。


「あ、春。戻って来たんだ」


声のトーンを変えた市原の視線の先に、いつもと変わらぬ春樹が立っていた。彼と目が合うと、彼は黙ったまま俺の前にやって来てスッと拳を差し出した。


「・・・何?」


首を傾げると、春樹はゆっくり拳を開いた。


「これ・・・」


掌の中にあったのは、シルバーの指輪だった。

中央にゴールドの線が入ったシンプルな指輪が、キラキラと光りを反射している。


「やる。安物だけど」


春樹は指輪を摑むと、それを俺の掌にそっと載せた。


俺はボーッと自分の掌にあるソレを見つめる。

男が男に指輪ってどうよ?って普通は思う所だが、自分でも意外なくらい心が躍っていた。


「春樹・・・ごめんな」


ぎゅっと指輪を握って、俺は口を開く。


「いいんだ」


何の事かすぐに察した春樹は、ぼそりとそう言った。


「俺も、急ぎすぎた」


「そんな事は・・・」


ないとは言えないだろうか。

少なくとも俺は――俺の気持ちは、市原が言ったようにまだ追い付いていないのだ。


「ごめん」


どう言えばいいのか分からなくて、もう一度謝る。


「俺さ、俺・・・・・・春樹の事、好きだよ。ホントだよ。好きだけど・・・・・・すげぇ好きなんだけどっ、何か理屈じゃ説明出来ないってゆーか、か、身体が、勝手に・・・っ。何でだろ、俺、マジでお前の事・・・っ」


ふと、彼は苦笑を洩らした。


「・・・・・・人前で、そう “好き” を連呼されると困るな」


「うわッ!いたのか市原っ」


市原が視界に入った瞬間、俺は大声を上げていた。


「酷いなぁ。ついさっきまで僕と一緒に喋ってたでしょ?指輪貰ってその嬉しさのあまり、僕の存在を忘れちゃった?」


「うっ・・・」


全くその通りだから、何も言い返せない。


「それにしても、羽柴って結構素直で可愛い性格してるんだね。いつもは、気が強くてツンツンしてる感じなのに」


市原はニコニコ笑いながら、俺の羞恥を煽っていく。


「どうしたの?羽柴。顔が真っ赤だよ?」


天使と悪魔の顔を使い分ける市原を、今以上に苦手だと思った事はない。


「クソ!もう帰るっ」


いたたまれなくなった俺は、鞄を持つと急いで玄関に向かった。

その後に春樹が続く。


「ごめん」


靴を履いていると、ぼそっと春樹が謝った。


「お前が謝る必要ねーよ。春樹、絶対あいつに似るんじゃねぇぞ?」


その言葉に、真剣に頷いた春樹がちょっとだけおかしかった。


「それと・・・コレありがとな。すげぇ嬉しい」


胸ポケットに入れた指輪に布越しに触れて、言いそびれていたお礼を口にした。


「大事にするからな」


そう言って、嬉しそうに微笑んだ春樹を見届けてから彼の家を後にしたのだった。







「ま、待った!」


思わず声を上げると、市原春樹は胡乱げな顔つきで俺を見た。

咄嗟に脱がされ掛けたシャツの前をかき合せて、どうやってこの場を誤魔化そうかなと考える。


いや――誤魔化そうなんて聞こえが悪い。一応覚悟はしてきたのだ。

してきたのだが、しかし。


いざこういう状況になってみると、俺のしてきた覚悟なんてちっぽけ過ぎて足りなかったなーとか、そもそもコンナコトは覚悟してするもんじゃないだろうとか、そんな愚にもつかない考えが頭の中をぐるぐるするばかりで、パニック寸前だ。


「駄目だ。待ったなし」


容赦なく春樹はいい、シャツを摑む俺の手を退けさせて、再び前をはだけようとする。


「わ、わわっ、待って!頼むからっ、待てってば。まだ心の準備がっ」


「・・・・・・してきたっつったろ。時間山ほどあったんだから」


相変わらずの仏頂面で、春樹が言う。

愛想はないけど、怒ってる訳じゃないって事は、百も承知だ。

付き合いの浅いヤツらならビビッちゃうだろう春樹の無表情も、俺には通用しない。


だけど――だからって、この状況をホイホイと受け入れられるかっつーと、そのあたりもまた微妙だったりして。


紆余曲折あって恋人同士になったからと言って、突然何もかもが変わるかって言うとそうじゃなかった。俺達の日常は、至極穏やかで普通だった。そのまま春を迎えて、俺も春樹も進級した。


変わった事と言えば、二人きりでいる時にふっとお互い黙り込む事があって――今までだってあったんだろうけど、特に意識した事はなかった――どちらからともなく、キスするようになった。それぐらい。


素直に認めるのは癪だけど、春樹の傍は俺にとって居心地のいい場所だ。それは春樹も同じなんだろうと思う――つい最近までは。


そう、それはほんの一週間ほど前の事。


「じゃあまた明日」 とバイバイした俺を呼び止めて、彼はやけに真面目な顔をしてこう言ったのだ。


「梓―――俺、アンタの事抱きたい」


そりゃあもうびっくりしたのなんのって。

一瞬何を言われたのかピンとこなくて、俺の思考は三秒ぐらい止まってたに違いない。


あまりにもストレートな誘いに文句なんだけど、春樹らしいと言えば言えなくもない。つまり春樹は、俺達の関係をキスから先に進めましょうと言ったのだ。


俺だって、そういう事を全く考えなかったかと言えば嘘になる。ちょっとぐらいは考えた。だけど、そんな事しなくても俺達は上手くやってたし、こんなもんだろうと楽観してる部分があった。

いずれその日が来るにしたって、それはもうちょっと先のような気がしてた。


でも、そうじゃなかった。春樹は―――俺を抱きたいと言う。

抱きたい、と言うからには、俺は抱かれる立場なんだろう。抱かれる―――そこでまず、想像の限界にぶち当たった。


一体俺は、どういう風にしてりゃいいんだ?そもそも俺は、春樹に抱かれたいんだろうか?―――よく分からない。


別に春樹が嫌だと言うんじゃなくて、俺は元々同性相手に恋愛感情を持つ日が来るなんて考えてもみなかったし、自分がそういう行為をするとしても相手は女の子だろうと思っていたのだ。その場合、俺は抱かれる側ではなく抱く側な訳だ。俺が、抱かれる自分というのが理解の外だったとしても、それはしょうがない事だと思う。


だったら、春樹を抱きたいかと言われれば―――ちょっと考えてしまう。

春樹は俺よりも遥かに体格がいい。

そんな彼をどうこうしたいと考えたりするだろうか。


そしてここで問題なのは、俺がもしも 「嫌だ」 と言った場合、愛がないんじゃないかと受け取られてしまわないかって事だ。


俺は、春樹をとても好きだと思うんだけど。

恥ずかしくて彼には言えないが、誰にも奪られたくないと思う。それが、子供っぽい独占欲の延長だと受け取られてしまうのは悔しい。この気持ちは、紛れもなく恋なのだと自分では思うのに。


誰にも否定されたくないし、ましてや春樹を不安にさせたくなんかない。

だから、頷いたのだ。俺を 「抱きたい」 と言う春樹の言葉に。


春樹は珍しく照れたように笑って、その時はそれでバイバイした。

俺は家に帰ってから、彼とのそんな口約束が現実になる生々しさを考えた。俺のどこを見て、彼が抱きたいと思うのかも考えてみたけど、自分ではよく分からなかった。


そして今日、学校から帰る道すがら、春樹は思い出したように口にしたのだ。


「・・・・・・今日、ウチの両親出掛けてて、帰って来るの遅いんだ」


俺はマヌケな事に、その言葉の意味を一瞬摑み損ねた。


「あ、そなの?」


春樹は困ったように一瞬口を噤んだ。その顔を見て、ハッとした。


「・・・・・・今日?」


恐る恐る訊き返すと、彼もまた俺がちゃんと意味を察した事に気付いたんだろう。黙って頷いた。


「で、でも、兄貴はいるんだろ?」


そう言う俺に春樹は大丈夫だと答え、俺はそれに一抹の不安を抱えながら春樹の家に直行して――


☆   ☆


「わ、だ、だからっ、五秒待って!」


「一、二、三、四、五。・・・・・・待ったぞ?いいな?」


「よくねーよっ」


俺の上に乗り上げて、春樹はしょうがないなと言いたげに苦笑を浮かべる。

いつの間にか俺は半裸で、ベッドに転がされている。春樹の手際がいいのか、俺が隙だらけなのか。


「だって、今の五秒って三秒ぐらいしかなかったじゃねーか!」


「・・・・・・っていうかさ、梓、嫌だ?俺に抱かれんの」


問い掛けてくる瞳は、痛いくらい真剣だ。こんな眼差しを向けられたのでは、嫌だなんてとても言えない。


「嫌じゃねぇよ。全然。嫌じゃねぇんだけど・・・・・・流石に男とこういう経験ねーからさ」


俺がそう言うとピクッと春樹の眉が動いた。


「・・・女とはあるみたいな言い方だ」


彼がボソッと不機嫌気味に呟くのに、俺はどう答えようかと言葉に詰まる。

自慢じゃないけれど、俺だって彼女の一人や二人いた時期はあった。

当然、これから春樹としようとしている行為は経験済みだ。


それをどう春樹に伝えればいいのか、少し悩む。


「えーと・・・ごめん」


悩んだ末に出たのは謝罪の言葉だった。

別に謝る必要はないんだけど・・・何となく。


春樹の眉間に深く皺が刻み込まれるのに、ズキッと胸が痛むのが分かる。

傷付けたのかもしれないけれど、こればっかりはどうしようもない。


「・・・男とは初めてなんだろ?」


「そ、そうだけど」


「ならいい。アンタは別に何もしなくていいから、今日は俺に任せて・・・」


「ちょっと待て。お前、こういう経験ねーだろ」


やけに慣れたような事を春樹が言うので、俺はツッコミを入れてしまった。

過去に付き合っていた女の子は一人もいないと、市原から聞いた事がある。

彼女がいた経験がないのだから、当然、春樹は “初めて” だ。


「・・・・・・うるさい」


春樹は目元を少し赤くして、ついと視線を外した。

男と経験がないのだから、俺も春樹と似たようなものかもしれないので、あんまり揶揄しない事にした。


「それにしても何か・・・・・・屈辱的な感じがする」


何が?と彼が再び俺を見下ろす。


「・・・・・・年下のお前にこういうコトされるのが、だよ」


「気にするな」


春樹は妙に優しい表情を浮かべた。

じっと俺を見て、それからキスしてくれる。触れるだけじゃない、ちょっと深めのキスだ。

口の中に春樹の舌が入り込んで、遠慮なく動き回ってる。


そうするうちにも彼の手は、俺の胸に触れ、脇を撫で下ろし―――。

思わず、うひゃあ!と声を上げた。


「だ、駄目っ、そこ!すげーくすぐったい」


ギブギブ、と訴えながら、身を捩る。


「梓」


ひやりとした響きで、春樹が俺を呼んだ。


「・・・・・・だって」


「くすぐったい場所は、感じる所だって言うぜ?」


真面目に返されて、笑いは強張って消えてしまった。

そりゃ、ゲラゲラ笑っちゃった俺ってばムードないのかもしれないけど。

でも―――笑ったり冗談でも言ってないと、間が持たねぇじゃん。


だって、こんな春樹を俺は知らない。

こんな真剣な顔をして、俺を抱こうとしてる。俺の事を、まるで宝物を見るような優しい目で凝視(みつ)めてたりする。


「いいから、もう黙ってろ、アンタ」


その言葉に、仕方なく頷いた。


春樹がゆっくり俺に覆い被さってくる。

手首をぐうっと摑まれて、それだけで俺はもう身動きできなくなった。

固い胸に押し潰されそうになって、息が詰まる。


何度もキスが繰り返されて、彼の唇は頬や首筋や鎖骨辺りにも触れた。

その頼りない柔らかさに、肌が粟立つ。

手首を縛めていた手が退けられて、彼は次第に下へ下へと移動していった。


くすぐったいと訴えた脇腹辺りをやり過ごし、足に触れる。決して強引な訳じゃないけれど、容赦ない力で彼は俺の足を開かせる。


「・・・・・・あ・・・!」


いきなり、内股に唇をつけられた。

ギョッとして身を竦ませた所へ、今度は掌が中芯を握り込む。


「は、春樹っ」


「力抜いて、梓。俺に任せて」


感じて欲しい、と彼は言う。

思わず、自由になっていた両腕を顔の前でクロスさせた。恥ずかしくて、顔を晒していられない。


「・・・・・・っ、・・・は・・・・・・あ・・・っ」


堪えきれずに、声が洩れた。

春樹は絶え間なく俺を追い上げて行く。


たいしてもたずに、俺は胸を喘がせた。自分でする時よりもずっと早く、呆気ないくらい簡単に、彼の掌の中で自分が弾けるのが分かった。


「梓」


嬉しそうに、春樹が呼んだ。


「・・・・・・梓、顔見せて」


「ヤダ」


「手、退けて。顔、見せろって」


「絶対ヤダ」


こんな直後に、どうして彼の顔が見られるだろう。―――というよりも、見られたくない。


「梓」


それでも春樹は辛抱強く、俺の名前を呼んだ。

その大きくて固い身体が再び伸び上って、俺の上に覆い被さってくる。


「キスさせて」


「・・・・・・今は嫌だ」


もうちょっと後でならいい、と言いかけて、ふと足のあたりに固く張り詰めたものが当たるのを感じた。


そうだっけ。俺だけ先にイッちゃったんだった。

仕方なく、そろりと顔を隠していた手を退ける。


「梓」


ホッとしたように、春樹は息を吐いた。


「・・・・・・悪い。春樹、まだだっけ」


躊躇いつつも、手を伸ばす。


「俺、上手く出来ねーかもしんないけど」


「いいよ、梓は」


「え?」


どういう意味だろうかと首を傾げた俺に、彼はとんでもない事を続けて言った。


「・・・・・・梓の中に、入っていい?」


「俺の―――中って・・・?」


ここ、と彼は思いがけない場所に指で触れる。


「嘘っ、こんな・・・・・無理!ぜってー無理だって!」


「大丈夫。力抜いて。・・・・・・ちゃんと慣らして、傷付けないようにするから」


「って、そんな無茶苦茶だろっ。お前のただでさえデケーんだからっ。そんなん入れられたら、俺、壊れるっつーの・・・」


逃れようとするのを、強引に抱き竦められた。


「ちゃんと用意してあるから」


彼はベッド脇のサイドテーブルから、何やら怪しげなボトルを取り出す。

“ラブ・ローション” と記されたそれは、潤滑油のようなものらしい。


女と違って、男の身体は構造上それを受け入れるようには出来てないものだと思う。そんなものを使ってまで、受け入れたいかと問われれば、俺は頷くのを躊躇ってしまう。


第一―――こんな、また板の上に張り付けられたカエルみたいな格好だけでも憤死ものなのに、春樹はその上俺の体内まで開いて暴き出そうとするのだ。


トロリと粘り気のある液体が、股間を伝うのが分かった。


「い、やっ・・・!」


なおもローションを掬った春樹の太い指先が、俺の中にゆっくりと埋没してくる。


「・・・・・・痛・・・っ」


ぎゅうっと身体の芯が竦み上がるのが分かった。

指だけでこんなに痛い。絶対に無理だ、と思う。


そんな俺の心情なんて全く気にも留めず、春樹は指を小刻みに揺らしながら奥へ奥へと侵入しようとした。彼の指が内側から押し広げようと蠢くのを感じる。


「・・・・・・嫌だ!やっぱり、駄目っ」


「梓?」


「絶対無理!出来ないったら出来ねーよっ」


面喰って彼が僅かに身体を浮かした隙を突いて、ベッドから降りる。そのまま床に散らかった制服をかき集め、両手に抱えて部屋を飛び出そうとした―――が。


「春?いるの?」


聞き慣れた声が聞こえたかと思ったら、ガチャっとドアが開いた。


事情の最中に誰かが部屋に入って来るとは思っていなかった俺と、弟の部屋を開けたら裸の男がいるとは思っていなかった市原の思考は、多分三秒ほど止まった筈だ。


「な・・・んで・・・」


最悪だ。


俺と春樹の関係を知っているとは言え、こんな現場を見られるなんて。


「な、何でお前がここにいるんだよ!!」


「何でって・・・、ここ僕の家だし」


声を張り上げる俺に対して、いつもの自分を取り戻した市原が冷静に答えた。


「春樹、どういう事だよ!お前、大丈夫だって言ってたじゃねーかっ」


市原を責めるのはお門違いだ。

そう思った俺はすぐに、怒りの矛先を春樹に向けた。


「大丈夫だとは言ったが、貴が “いない” とは言ってない」


多分今の俺は、怒りで顔が赤くなってると思う。

もう、恥ずかしすぎて春樹の屁理屈に返す言葉を持たない。


「・・・羽柴、取り敢えず服着ようか」


落ち着き払った市原の言葉に、俺は透かさず服を着込んだのだった―――。



春樹の出るバレー部の対抗試合は、今日の放課後だという。

本人からではなく、俺は人づてにそれを知った。

春樹とはやっぱりまだ話せない。昨夜も考えて考えて――でも中々勇気は出ない。


「・・・・・・試合が終わってからにするか」


こうして先延ばしにしているうちに、うやむやになってしまいそうだ。

それだと、以前の関係でいられなくなるのかな。


春樹は、俺が頼んだのではない試合に出る。

俺に 「見に来い」 とも言わない。


俺は――見に行ってもいいのかな。応援してもいいんだろうか。

迷いながら、体育館への廊下を歩く。


そう言えば、今日も高橋の顔を見なかった。まだ凹んでいるんだろうか。

嫌味を言われるかもしれないけれど、早く立ち直って欲しいかな、なんて。


試合のコートを見下ろせる中二階のテラスに行くと、それほど観客はいなかった。

皆体育館内のコート脇で観戦しているのだ。春樹に見つかる事を恐れて、俺はコートの側には行けない。ここでなら、ちょっと遠いけれどこっそり観戦する事が出来る。


俺は手摺に凭れて、そうっと下を覗く。

試合はもう始まっていた。


春樹は、最初からバレー部員でしたというような顔をして前衛に立ち、相変わらず一番活躍している。


誰もが羨む恵まれた肢体、綺麗なフォームと力強いバネに、俺は見惚れてしまう。


「格好いいですよね」


不意に背後から、声をかけられた。

聞き覚えのある声に、恐る恐る振り向くと、思った通り高橋が立っている。彼女は澄ました顔で俺の隣に来ると、同じように手摺に凭れた。


「あ・・・・・・えーと・・・」


この場合、大丈夫?と訊くのは変だろう。元気になった?良かったな、なんて言ったら張り飛ばされるかもしれないし。


「同情なら止めて下さいね」


ピシリと言われて、返す言葉を失った。


「もう知ってるんですよね。市原くんにフラれたって事。どうですか?先輩の望み通りになりましたよ。嬉しいですか?」


「そんな・・・あれは・・・・・・」


答えようがなく口籠もると、わっと階下から歓声が湧き起る。

十五点先取して、一セット目が終了したらしい。


「羽柴先輩はずっと、あんなに格好い市原くんを独り占めして、皆から隔離して来たんですよ」


そんな事ないと言いたかったけれど、結果的には彼女の言う通りなのかもしれないから、黙っているしかない。


「でも、独り占めしたくなる気持ちは分かります」


不意に、彼女の口調が変わった。


「私、お兄ちゃんの事好きだったんです。ちっちゃい頃から大好きで、憧れて自慢で、自分の周囲にいた小汚い同年代の男子なんて目に入らないくらい」


お兄ちゃんから聞いたんですよね?と訊かれて、どう返事したらいいのか困ってしまう。どうして彼女はさっきから、こうも返答に詰まるような質問ばかり投げかけてくるのか。


眼下では、二セット目が始まった。

一セット目の勢いのまま、春樹は積極的に攻めて行く。


「なーんで実の兄妹なんだろうって、親を怨みました。お互いに浮気して出来た子供同士ならいいのにとか、自分が貰われっ子だったらいいのにとか、本気で考えました。わざわざ戸籍謄本見に行った事があるんです。そうしたら、二人ともちゃんと実子で・・・・・・やんなっちゃいますよ」


それは普通逆だろう、とツッコミたくなった。

自分が貰われっ子かも知れないと悩む場合はあっても、実子だと嘆かれたのでは親も立つ瀬がない。


「市原くんは、そんな私が初めてお兄ちゃんと同じぐらい好きになった人なんです」


「・・・・・・高橋・・・」


やはり彼女は本気だったのかと、少なからず俺はショックだった。

それなのに俺は憶測だけで酷い事を言ってしまった。


「俺さ・・・」


「あ、謝らなくてもいいですよ。最初は、先輩の言った通り、お兄ちゃんに似てたから近付いただけですし。でも・・・・・・フラれてから、分かったんです。私、市原くんと一緒に何日か過ごして、楽しかった」


口調はあっけらかんとしていたが、口ほどサバサバしているのではない事は、顔を見れば分かった。彼女はずっと、コートにいる春樹を見ている。真っ直ぐに。


「・・・・・・今度好きになるのは、全然違うタイプの人にするんです。明るくて優しくてよく喋る・・・・・・愛想のいい人。だって、お兄ちゃんや市原くんみたいな人って、私より羽柴先輩みたいなタイプが好きみたいだから」


「そんな事は・・・」


「そうなんですよ」


あんまりよく喋る相手を好きになっても、きっと上手くいかねぇよ、という余計な差し出口は我慢する。


俺達は暫く黙って、試合を眺めていた。

三セットマッチだが、このまま行けば二セット目もうちのものだ。


「・・・・・・あ、終わった」


呆気なく、試合の終了を知らせるホイッスルが鳴り響いた。うちの圧勝だった。


「行かないんですか?」


手摺に凭れたままじっとしている俺に、彼女は不思議そうな目を向ける。


「言っときますけど、この試合、本当は市原くん出ないって言ったんですよ」


「え・・・?」


「この前バスケの助っ人なんかしたのは、羽柴先輩が見たがったからだって、市原くん言ってました。だから、先輩が頼むんなら出るけど、そうじゃないなら出ないって。私、そんなの困るってごねたんです。もう約束して来ちゃったのにって。そうしたら・・・・・・約束したんならしょうがない、今度だけだって」


春樹らしいと思った。

高橋が勝手にしてきた約束なのに、ちゃんと守ってやろうとする。


「俺さ、お前が現れるまでよく分かんなかったけど・・・」


思いきって口にした。

珍しく彼女は話の腰を折らずに、黙って続きを待っている。


「お前の言う通りだったかも。春樹の事、心の何処かで独り占めにしたかったんだ。だから・・・」


「いいんじゃないですか?」


あっけらかんと彼女は言う。


「よくねーよ。男同士だぞ」


「血が繋がってないだけいいじゃないですか。こっちはどんなに頑張ったって、所詮妹なんですよ。それに比べたらまだマシですよ」


筋が通っているようで全然通っていない理屈に、思わず噴き出した。


「言ってる事無茶苦茶だけど、お前、やっぱり芳久さんに似てるよ。流石兄妹だよな」


高橋は何だか複雑な顔をして、いきなり背を向けると、パタパタと駆け去って行ってしまった。


どうして急に、と振り返った俺は、その理由を知る。


春樹がいた。

思わずコートを覗くと、当たり前だがもうそこには彼の姿はない。

試合中に、ここで見ている俺に気付いたんだろうか?いや、俺と高橋の姿に気付いて、駆け付けて来てくれた?


「・・・・・・何か言われたか?」


ぼそりと彼は口を開いた。

何処となく心配そうなのは、俺が彼女に嫌味でも言われていると思ったから?


そう言えば、芳久も彼女が立ち直ったら俺をイジメに行くような事を言っていた。春樹はそんなに酷いフリ方をしたんだろうか。

それも、俺に怒りの矛先が向くような・・・?


「フッたんだってな」


さりげなく訊くと、春樹は憮然として頷いた。


「・・・そっか。高橋には悪いけど、何か嬉しいよ・・・・・」


「梓」


ズンズンと彼は近づいてくる。


「高橋だけじゃない。お前が俺以外の誰かと、俺よりも仲良くなるの嫌なんだ」


ぎゅっと握り締めた拳が震えた。

駄目だ―――意気地なしの俺。勇気をかき集めたつもりなのに、ちゃんと想いを伝える前に萎んでしまいそうだ。


「梓以外のヤツらとも仲良くしろとか、喋った方がいいとか・・・・・・アンタが言うから、そうしてただけだ。アンタが嫌なら、もうしない」


「・・・・・・春樹」


胸が一杯になって、熱く疼き出す。

春樹は俺が望む事を何でも叶えようとする。

それが自分の為にならないって分かってても。


「嬉しいけど・・・・・・よくねぇな。俺が春樹の世界を狭めてる。春樹だって、そんなんじゃ駄目だって分かってるよな。俺は、怖いんだ。俺が・・・・・・春樹を閉じ込めて駄目にしちゃったらどうしよう。春樹は何でも出来んのに、俺だけで満足しちゃいけねーのに」


彼は黙って俺を見る。

その目はまるで 「どうしていけないんだ?」 と訊いているようだ。


「・・・高橋の事は、特別な存在として見られないって言った。俺が好きなのは梓で、俺にとって特別な存在はアンタだけだって」


そんな事を言ったのか、と俺はあんぐり口を開けてしまう。


「物凄く泣かれた。酷いって詰られた。・・・・・・梓は、高橋を泣かせるなんて最低だって落ち込んでたけど、俺の方がもっと泣かせた。俺は、最低最悪だ」


淡々と告げられて、二の句が継げずに肩を竦めた。


「梓も、こんな俺が怖いか?」


あの日怯えた事を婉曲に訊かれているのだと思った。

俺の為に女の子を泣かせても平気な春樹。

確かに最低男かもしれないけれど――俺だって一緒だ。


「怖がって、悪かった。でも、俺が怖かったのは・・・・・・本当に怖かったのは・・・」


拳にぐっと力を込めた。


「今まで過ごしてきた時間が・・・・・・俺達の関係が壊れるんじゃないかって事なんだ」


今までの関係。

しつこく俺に付き纏って好きだと伝えてくる春樹を、俺はいつも相手にしなくて。

彼はそれでもめげずに何度でも俺の前に現れて・・・。


そういう毎日だったけど、俺は結構それが楽しかった。

だからその関係が壊れてしまうのは怖い。


春樹は黙って、その場にしゃがみ込む。そうしてチラリと俺を見上げた。

促されるでもなく、俺も手摺に背を預けてずるずると座り込んだ。


「壊さなければ、分からない事だってあると思わないか?」


ぼそりと彼は言う。


壊さなければ分からない事、見えないものがある。


「春樹は・・・・・・壊してぇの?」


問い掛けて、じっと凝視(みつ)めた先でゆらりと彼の身体が揺れる。

息がかかりそうな位置まで彼は顔を近付けて、目を瞑った。

俺はそんな春樹から、目を離せなかった。瞼を閉じる事も出来ずに、自分にキスしようとしている大事な後輩の顔を見続けていた。


唇が触れる。

ずっと見ていたけれど、感触は知らなかった。

柔らかくて、ほんのりと暖かい。


僅かに触れただけのそれは、ゆっくりと離れて行く。


「・・・・・・壊れたか?」


問われて、曖昧に首を傾げる。


俺は、拳を自分の左胸に当てた。


「今、この辺がピキッていった」


春樹は眉を顰めた。


「壊れた音かと思ったけど、そうじゃなくて・・・・・・何か・・・内側から溢れてくるみたいな、変な感じがする」


「脱皮したみたいに?」


「そうそう、そんな感じ」


頷いて顔を上げると、また唇が重なった。

今度はさっきと違って、ちょっと深いキスだった。


潜り込んできた舌先は燃えるように熱くて、俺の上顎や歯列をくすぐってゆく。

唇を軽く吸われて、ぞくぞくと背中が震えた。


「壊れねーよ、大丈夫」


名残惜しく俺の唇を舌で舐め、春樹は離れて行った。


そうかもしれない、

今までの時間は壊れない。俺達はただ、これからまたその上に、新しい時間を積み上げて行くだけだ。


「春樹は・・・・・・いつから、俺にこんな事したいと思ってたんだ?」


さあ、と彼は首を傾げる。


「・・・・・・初めて会った時からずっと思ってた気もするけど、はっきり分かったのは、この前梓が怯えた時かもな」


ぼそりと付け加えて、春樹は首にかけたタオルで汗を拭った。

そうしてタオルを口に押し当てる。


「暗がりで、アンタの寝顔見てて・・・・・・改めて気が付いた。俺が欲しいのは、アンタだって」


その言葉に赤面して俯く。


欲しいと言われたのは二度目だけれど、こんなに重く響いたのは初めてだ。

くすぐったくて、甘くて――ちょっと照れる。


俺達はどちらからともなく手を握った。

指を絡めて、ギュッと力を入れる。


そうして俺は春樹の肩に頭を凭れて、窓から覗く空を見上げる。


春樹の汗の匂いと、頬に触れる温もりと。

指先から伝わってくる僅かな鼓動に、泣きたいくらい胸が高鳴った。


「俺、お前の事好きだ・・・・・・」


思わず口を突いた告白に、春樹は 「やっと素直になったな」 と返した。


「うっせーよ。・・・・・・生意気なヤツ」



―――俺は一生春樹の傍にいる。


         死ぬまで俺達はずっと一緒だ―――






                                 一部完