いつも一緒に帰っていた春樹に、何て言おうかと考える。

バイトでも始めた事にしようか。・・・・・・いや、嘘は良くない。

嘘をつくのと秘密を持つのとでは、嘘をつく方が罪深い気がする。


黙っていよう、と思った。


春樹の事だから、俺が言いたくなさそうにしたり適当に言葉を濁したりするだけで、雰囲気を察して、問い詰めたりせずに黙って見守ってくれるだろう。


春樹はきっと待っていてくれる。

今までだって、そうだった。

彼はいつも、俺を尊重してくれるんだ―――と思っていたのだが。


「最近、帰りにどこ寄ってるんだ?」


不機嫌のオーラをあからさまに撒き散らしつつ、春樹がそう訊いたのは、勉強会を始めてたった三日目の事だった。


毎日 「先に帰って」 と言うのも何なので、今日 「暫く一緒に帰れないから」 と告げたのだ。


「あ・・・・・・うん、ちょっとね」


「俺には言えないとこか?」


言葉を濁すと、珍しく春樹は尚も尋ねてくる。


「そんなんじゃないよ」


「じゃあどこ?」


畳みかけられ、ぐっと言葉を詰まらせた。


どうしよう、言ってしまおうか。

もしかして、隠すほどの事じゃないんじゃないか?


ああ、でも指輪の事を知られたら、嫌われるかもしれない。

それは絶対嫌だ。


逡巡している俺をどう思ったのか、彼は黙って踵を返した。


「・・・春樹・・・・・・?」


(怒らせた?)


慌てて呼び止めようとしたものの、伸ばしかけた手をぎゅっと握って引っ込める。心を鬼にして彼の背中を見送り、俺もまた図書館に向かうため帰る支度をした。


昇降口に行き、下駄箱の前で靴を履き替える。


「羽柴先輩」


不意に声をかけられ、顔を上げる。


「あ・・・」


高橋里奈が立っていた。

相変わらずの勝ち気そうな瞳で、俺をじっと見ている。


「何?」


「市原くんは?」


おいおい、まだ春樹の事諦めてねーのかよ、と一瞬ふっと、もやもやしたものが胸に込み上げる。


「・・・・・・先に帰ったけど」


「何ですかぁ、そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃないですか。別に市原くんを追いかけ回してる訳じゃないんですから。ここんとこ二人別行動だから、どうしたのかなっと思って訊いただけですよ」


何だ、と肩の力を抜く。


「昨日も市原くん、先に帰ったみたいですけど・・・喧嘩したんですか?」


「バーカ。そんなんじゃねーよ」


高橋は 「ですよねぇ」 なんて、呆れたように笑った。


「まぁね、この私をフッたんだから、先輩達には簡単に駄目になって欲しくないんですよ」


フラレたのはもう何万年も前の事なんじゃないか、と思えるほどサバサバした様子で、彼女はけろりと口にする。


「でないと、私が可哀想でしょう?・・・なーんて、もし駄目になったらもう一度トライしちゃいますけど」


「・・・・・・お前、新しい彼氏探せよ」


「大きなお世話です」


高橋は、イーと歯を見せた。


「それより、お兄ちゃんからの伝言聞いてくれました?」


何それ、と首を傾げる。


「聞いてないんですか?昨日、市原くんに言ったんですよ」


「春樹に?」


高橋の兄貴―――芳久からの伝言だって?何だそれは。

春樹からは何も聞いてない。

それだけじゃなく、昨日高橋と話したなんて事も初耳だ。


「嘘ォ、本当に聞いてないんですか?今日、口利いてないって事?やっぱり喧嘩してるんじゃ・・・」


「違うよ。・・・・・・言い忘れたのかもしれないし」


「そうかなあ?昨日、一緒に “和み” に行ったんですよ」


それは聞いてますか?と尋ねられて、「えっ」 と思わず声を上げる。


“和み” というのは、学校の近くにある甘味処だ。

甘党な訳でもない春樹が、彼女と二人きりでそんな店に入るなんて考えられない。


「あら~、市原くんってば、羽柴先輩には内緒にするつもりだったでしょうかねぇ」


思わせぶりに、高橋はちらりと横目で俺を見る。


「・・・っか、んな訳ないだろ。言い忘れたんだよ、絶対」


「フーン、ま、そういう事にしといてあげますよ」


「で?芳久さんからの伝言って何だよ」


高橋は何か言いかけようと唇を薄く開けたが、すぐに思い直して肩を竦める。


「市原くんに聞いて下さい。私、市原くんにちゃんと言ったんですから」


「おい」


「それとも、やっぱり喧嘩してるから聞けないんですか?」


しつこく口にして、彼女は俺を覗き込んだ。


「バカ野郎、違うっつってんだろ。俺はただ・・・」


「ただ、何ですか?」


「―――・・・・・・なあ、お前、芳久さんの事なら何でも分かる?」


どう言う意味か分からないと言いたげに、高橋は首を傾げた。


「だからさ、お前は芳久さんと兄妹だし、・・・・・・好きだった訳じゃん?だったら・・・」


バカじゃないんですか、と彼女は言った。


「分かる訳ないじゃないですか。いくら兄妹でも、好きでも、相手の事が全部分かる訳ないし、分かってると思ってたとしたらそれはただの思い込みですよ。分かんないから、焦って、必死だったんですから。羽柴先輩だって、そうでしょう?市原くんとは長い付き合いなのかもしれないけど、何から何まで分かってる訳じゃないですよね」


「分かってる・・・・・・つもりだったんだけど・・・」


「だから、それは思い込みですよ。思い上がってるだけでしょう」


相変わらず、彼女の言葉は辛辣だ。


「それは・・・」


「じゃあ、想像出来ますか?昨日の市原くん。“和み” で何食べたか。私と一緒にいる時の市原くんが、どんな風で何を話すのか」


答えられなかった。

第一、フッた筈の高橋と甘味処に行く事すら、春樹に出来る筈がないと俺は思うのに。


「せいぜい悩んで下さい。今の羽柴先輩には、市原くんをあげたくないです」


「・・・あげたくない・・・って、春樹はお前のもんじゃねーだろ」


「羽柴先輩のものでもないでしょう」


それじゃあ、と彼女はさっさと自分の下駄箱に向かい、靴を履き替えると昇降口から飛び出して行ってしまう。


「・・・・・・俺のものだよ・・・」


つい虚勢を張って呟いた言葉は、自分のものじゃないみたいに弱々しくて情けなかった。


確かに分からない事だらけだ。

それも、ここ最近―――ただの先輩後輩という関係でなくなってからの方が、春樹の事が分からなくなってきた。


もしかしたら、春樹もそう思ってはいないだろうか。


気を引き締めてきっちり警戒しつつ、待ち合わせ場所の駅前のマックに向かう。例えば、彼が脅迫めいた事を口にしたなら、強気で断ってしまえと思ってる。


そして、かなり緊張して、マックの二階席へと到着したのだが。


「羽柴せんぱーい!こっちこっち」


屈託ない笑みを浮かべ、既に窓際の席に座っていた佐原が俺を手招いた。

ちょっと出鼻を挫かれそうな歓迎ぶりだ。


「悪いな、時間とらせて。ほら、学校だと誰が聞いてるか分かんねーしさ。俺にとっては、ある意味カミングアウトな訳だし。・・・・・・あ、そうそう。俺、うっかりしてこれ返してなかったんだよな。ごめんごめん」


明るく言って、佐原はポケットから指輪を取り出した。

ハイ、と渡され、少々面食らいつつ受け取る。


警戒―――してたんだけど、ちょっと拍子抜けしてしまう。

やっぱり佐原って、悪いヤツじゃないみたい?


「何か食う?俺、買って来るよ。待ってて」


「・・・・・・あ、じゃあ、チーズバーガーのセット。コーラで」


分かった、と彼は階段を駆け降りていき、あっという間にトレイを手に戻って来た。トレイには、チーズバーガーセットが二つ載っている。


「はい、どーぞ。一つは俺のね」


気さくに言って、彼は向かいに腰を下ろした。


「んじゃ、手短に言うけど。・・・・・・俺さ、実言うと、女の子駄目なんだ」


「は・・・?」


一瞬、頭の中が真っ白になった。


(今―――何て言った?女の子が駄目?それって、男はOKって事?何でそれを俺に言う訳?まさかコイツ、俺と春樹の関係にも気付いてんのか?屈託なくあっけらかんとしてるけど、実はすげー悪党でこれから俺を強請るつもりとか?)


口に出して訊けないそんな疑問が、ぐるぐる騒ぎ出す。


この場合、俺からは何も言わない方がいいんだろうか。

彼の出方を待つべき?っていうか、俺と春樹の事はともかく、彼が女の子に興味がないとかいうのは彼にとってもあまり大きな声で言えないんだよな?だとしたら痛み分け?


「・・・・・・ごめん、驚かせて。女の子が駄目って言っても、じゃあ男なら何でもいいって言う訳じゃないから安心して?」


(い、今のはどういう意味だろう。俺は、佐原の好みじゃないって意味?安心しろっていうのは、そういう事だよな?いや、だからさ、何でそういう事をわざわざ俺に言うの?)


「今、俺フリーで決まった相手がいないんだ。だからこういう事頼める相手もいなくて、下手なヤツに打ち明けると、学校でバーッと広まったりするじゃん?卒業までまだ一年あるし、居辛くなるのは困るんだ」


「それ・・・って・・・」


「羽柴先輩なら喋らないだろうなって、信用して言ってんの」


(あ、ちょっと今、大きな釘を刺された気分。口止めされたんだよな?今のは)


「そりゃ・・・・・・喋らないけど。何で・・・」


「何となく。信用できそうなヤツだなって、思ったんだ。それに、変に茶化したりせずにちゃんと話聞いてくれそうな感じ?」


買い被りだよ、と言いたいけれど、そういう評価は正直嬉しい。

誰だって、“お前は信用できない” と言われるよりは “信用出来そう” って言われる方が嬉しいじゃん?


「・・・・・・気が付いたら、そうでさ。他人には言えないし、勿論親にも言えないし、そうそう同じ嗜好のヤツもいないしね」


あっけらかんとした彼の笑みが、一瞬ふっと苦いものになる。


俺に話すって言うのは、やっぱり本能的に似た何かを嗅ぎつけたって事なのかな、と思う。


俺だって―――春樹に対して、他人には言えない思いを抱いてる。

春樹以外には、誰にも言えない。いや、高橋と市原は知ってるけど・・・高橋の場合、彼女だってあまり他人には言えない恋を抱えてたんだっけ。みんなそうやって、無意識に同志を探り当てたりするものなのかなあ。


「羽柴先輩は、理解出来なくても、忌み嫌ったり揶揄ったり、皆に吹聴したりするヤツじゃないと思って、それで話してみようと思ったんだ」


「うん・・・・・・それはいいけど」


一体俺の何を見て、彼がそれほど信用してくれるのかはよく分からないんだけど、勿論俺は彼を揶揄うつもりも忌み嫌うつもりもない。まだ自分の事を打ち明ける気にはなれないけれど、それでも突然の同志の出現にこっそり喜んでしまうぐらいだ。


「従姉妹がいるんだ」


佐原は、ハァと溜息をついた。


「今、中三で受験生。彼女は・・・・・・うちの高校を受けるって言ってる」


「へぇ、そうなんだ」


うん、と彼は頷く。


「彼女の家は横浜なんだ。通えない距離じゃないけど、もし受かったらうちに下宿するって言い出したんだ」


「そうなんだ?可愛い?」


何で女の子の話をする時、いつも一番に 「可愛い?」 と訊いてしまうんだろう。佐原の従姉妹が可愛いとか可愛くないとか、俺には関係ない事なのに。


「顔は可愛い・・・・・・と思う」


「佐原の従姉妹だもんな。お前んとこって、美形揃いって感じ」


ふと、彼は頬を僅かに赤らめて俯いた。

だがすぐに気を取り直したように、キッと顔を上げる。


「彼女は、俺と結婚する気でいる」


「へー・・・・・って、ええっ!?」


(従姉妹って結婚出来るんだっけ?いや、それより、この年で結婚相手が決まってる事?ちょっと待て、佐原は女は駄目って言ってたよな?)


「・・・・・・酒の上のちょっとした冗談のつもりだったんだと思うんだ、最初は。でも、志織が―――あ、従姉妹の名前、志織っていうんだけど―――本気にしちゃったんだよ。本当に俺と婚約したつもりになって、ウチの母親がまた志織を気に入って可愛がってるもんだから、結婚すればいいじゃないのって無責任な事言って焚きつけて・・・」


気の毒に、と思わず同情してしまう。


「ウチの高校に受かったら、一緒に暮らせるし、ついでに花嫁修業するとか言い出した。・・・・・・そんなのは迷惑だから、やめて欲しいんだ。取り敢えず、別の高校を受験させたい」


「佐原、自分は女の子駄目だって、彼女には言った?それとも言いたくない?」


訊きながらも、そりゃあ言いたくないだろうなぁと思う。

彼女だけに止まらず、下手すれば親や親戚にも筒抜けだ。

それじゃあ佐原がいたたまれないだろうし、頭ごなしに非難されないとも限らない。


「言ったさ」


ところが彼は憤慨したように、そう口にする。


「えっ、言ったの?」


「ああ。・・・・・・俺は、お前とは結婚できないってハッキリ。でも、志織は信じない」


「・・・・・・そっか」


佐原は、ハーッと大きな溜息を落とす。


「志織ちゃんってさ、お前の事がすげー好きなんじゃないの?」


「多分な」


多分ではなく、間違いなくそうだろう。だから、酒の上の冗談だと分かっていても、それをチャンスだとしがみ付いたのだ。それに好きな相手が、同性にしか興味がないと告白したって、普通簡単には信じられない。


「だから、羽柴先輩に協力して欲しいんだ」


「協力?」


何でここで彼が登場するんだ?と首を傾げる。


「さっきも言ったけど、今俺フリーなんだ。だから余計に、志織は俺がゲイだって事を信じない。そこで羽柴先輩には、俺の恋人になって欲しい」


さらりと告げられ、目が点になった。


「・・・・・・お前、何言ってんの?何で俺が――嫌だよ」


「フリするだけ。恋人のフリ」


「だからさー、何で俺がそんな事しなきゃなんないんだって。そりゃあ、お前の事は気の毒だなーって思うよ。思うけど、俺、嫌だよ。志織ちゃんの事騙すんじゃないか。そんなの可哀想だ」


「先輩、俺の事は気の毒で、志織は可哀想?どっちの味方だよ?」


そんな事を訊かれても、困る。俺はどっちの味方でもないと思うんだけど。


「兎に角、その気もないのに付き纏われんのは嫌なんだよ。周囲固められて、気が付いたら逃げらんなくなっちゃってんのも嫌なの。俺が女は駄目で男が好きだって証拠見せりゃ、あいつだって認めざるを得ないだろ?そうすりゃ、ウチの高校の受験も諦めるかもしれない」


「だったら、俺じゃなくて他に適任がいるんじゃないの?もっと親しいヤツに頼めば・・・」


「だからァ、その辺にゴロゴロしてるようなヤツじゃ駄目なんだよ。志織は可愛いんだ。しかも、自分でもかなり自信持ってる。あいつが “適わない” と思うようなヤツじゃないと・・・。羽柴先輩なら、絶対大丈夫。先輩、可愛いし綺麗だし、性格も良さそうだしっ。先輩連れて行けば、志織も負けたと思って諦める」


今のは、褒められたんだろうか。

だとしても、あまり嬉しくないような感じなんだけど。


「そんなの買い被りだよ。俺なんか・・・」


「何、アンタ、まだ自覚してねーの?」


呆れたように、佐原が言う。


「自覚?何を?」


「・・・・・写真見せても分かってないんなら別にいいよ。兎に角さ、アンタは俺に借りがある訳だからちゃんと返してよ。ついでに、指輪の事も内緒にしててやるから。だから、一日だけ俺に付き合ってくれ。恋人のフリして志織に会ってくれ。頼む。アンタはただ、黙って俺の傍にいてくれるだけでいいから」


顔の前で手を合わせ、彼は深々と頭を下げる。


こんな風に頼まれたのでは、断れない。

ここで断ったら俺ってば酷いヤツじゃん?


たった一日、恋人みたいな顔して佐原の隣にいるだけ。

従姉妹に会って、それらしく適当に話したり頷いたりするだけ――それぐらいの事、してあげてもいいよな?


勿論これは春樹には言えそうにない。言ったら、何で協力するような状態になったのかも説明しなきゃなんないだろうし、何となくこういう事は嫌いなんじゃないかなって思うんだ。


「一日だけだぞ、フリすんのは」


仕方なく口にする。

と、佐原はパッと顔を上げた。

キラキラした瞳が、俺を正面から凝視(みつ)める。


「いいのか!?」


「・・・・・・だから、一日だけだってば。筋書きとか、ちゃんとお前が考えろよ。フリっつったって俺どうすりゃいいのか分かんねーからな」


分かった、と彼は頷いた。


「心配しなくていいよ。羽柴先輩には絶対迷惑かけないようにする。ありがと!マジで助かったよ。一生恩に着る!」


「・・・・・・んな大袈裟な・・・」


ハハ、と力なく笑う。

心が重いのは、春樹に秘密を持ってしまったからだろうか。


「後・・・これは善意のつもりなんだけど、ついでに勉強教えてやろうか?」


「・・・は?」


「三年のこの時期に順位表にも載ってない成績ってヤバいんじゃないの?」


笑いを含んだ言い方に若干イラッときたが、彼の言う通りだからキツく言い返せない。


「・・・いいのか?」


年下に勉強を教えてもらう事に少し抵抗はあるが、俺は素直に彼の申し出を受ける事にした。


「いいよ、別に。人に教えるの苦じゃないし」


佐原はニコッと笑った。


そして、毎日帰りに図書館の自習室で勉強を教えてもらう事を約束し、佐原と別れたのだった。

『大事にするからな』


そう言ってから三週間。

期末テストも乗り越えたって言うのに、俺は絶望的に落ち込んでいた。

テストが関係していない訳でもないが、それはほんの少しの要因にしかすぎない。


俺が落ち込んでいる本当の原因は、この前春樹から貰った指輪を無くしてしまった事なのだ。


(大事にするって言ったのに・・・・)


俺は頭を抱えて、机の上に突っ伏す。


流石に、学校に指輪をして行く訳にもいかない。

大体、そういう柄じゃないし。それに・・・色々詮索されるのは御免だから。

かと言って、家に置いておく事もしたくない。


だから、胸ポケットやズボンのポケットに入れていつも持ち歩いていた。

手離すなんて事、俺にはどうしても出来なかったから。


それだけ嬉しかったんだ。好きな人から・・・春樹から指輪を貰った事が。


それなのに、それが無くなった。

体育の授業に出るため更衣室に行った時までは、確かに指輪はあった。

でも、着替えに戻って来た時には、指輪の姿はなかった。


(更衣室の中もちゃんと探したけど、結局見付からなかったし・・・)


俺は大きな溜息をつくと、ぐしゃぐしゃっと頭をかいた。


(無くしたなんて春樹にバレたらどうなるか・・・)


嫌われるかもしれない。

そう思ったら、意地でも指輪を探し出さねばならない。


「でも、手掛かりなんてないし・・・」


俺はもう一度溜息をつく。


「羽柴。期末テストの結果、掲示板に張り出されてるよ。見に行かない?」


明るい声が頭上から聞こえて、俺はむくっと上半身を上げた。

そこにいたのは勿論、市原だった。


「俺パス。見なくても大体は分かってるし・・・」


今はテストの結果より、無くなった指輪の方が重要なんだ。


「駄目だよ。羽柴には拒否権ないから。さ、行くよ」


「はぁ!?―――って、うわっ!ちょっ、市原っ!!」


無理矢理腕を摑まれ、半ば引きずるように俺は教室から連れ出された。

市原は、細い体型の割には力が強いみたいだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



職員室脇の掲示板に張り出された、期末テストの結果順位表を見上げてハァと溜息をつく。


テストが終わった直後から、どうせこの上位五十位までしか載ってない表なんて俺には関係ないと分かっていたものの、心のどこかでは気にはしていた。


まぁ結果は見るまでもなかったけど。


「春は八位だって」


中間テストでは十七位だって聞いてたから、八人も飛び越えたって事だ。

恋する立場としては同じハズなのに、惨憺たる結果の俺に比べてこの順位という事は、彼はちっとも悩んでないって事か?


「なーんか不公平な気がするなー・・・」


「何が?」


いきなり背後から訊かれて、飛び上がりそうになった。


いつの間にかすぐ後ろに来て立っていた春樹が、訝しげに俺を見下ろしている。


「え?あ、えーと・・・・・・春樹、すげーな、お前。順位一桁だったんだろ?」


ああ、と彼は特に表情を変えずに頷く。


「偶然山が当たったから、助かった。で?アンタはどうだったんだ?」


ちらりと彼は、目の前の結果表に視線を向ける。

そんなもん、何百回見たって俺の名前なんか載ってないっつーの。

炙り出しみたいに、じわじわ名前が浮き出てくるというものでもない。


「・・・・・・いつも通りだよ」


春樹には分からないだろうけれど、この答えは俺にしてみれば目一杯見栄を張ってる大嘘だ。

いつも通り―――そう、いつもなら俺は張り出されないまでも、何とか上の下くらいの位置には引っかかっている。


それなのに、今回は引っかかってすらいない。


原因は言うまでもなく、指輪が無くなってしまったからだ。

言い訳に聞こえるかもしれないけれど、行方が分からなくなった指輪の事が頭から離れなくて勉強に集中出来なかったんだ。


今は大事な時期だっていうのに、このままじゃ駄目かもしれない。


(早く見付けねぇと・・・)


念のためにここに来るまでの道すがら、獲物を狙う鷹みたいに周囲をチェックしてきたつもりだ。

だけど、どこにも指輪なんて落ちてなかった。―――って事は、つまり。


「・・・・・・誰かにすでに拾われた?」


これだけ探しても見付からないんだ。その可能性が高い。

拾ってくれたのが親切なヤツなら、俺に直接届けてくれる―――って、あの指輪には俺の名前なんか書いてないじゃないか!


その瞬間、神様はまだ俺を見捨ててないという事を、俺は知る事になった。


「羽柴先輩」


声を掛けられたのだ。

いかにも親切そうな顔をした、一人の男子に。


一度見たら記憶に残るタイプというか、背が高く、明るい色に染められたやや長めの髪に縁取られた顔は、甘ったるく整っている。春樹とはタイプが違うけど、割といい男だと思う。


春樹がバリバリの硬派なら、ちょっと軟派系な感じっていうのかな。

愛想も良さそうだし、多分女子にもモテるんじゃないかと思う。


・・・・・・って、俺ってば何で春樹と見比べてるんだろう。


俺の中の “カッコイイ” の基準って、もしかして春樹だったりして。


密かに苦笑していると、彼は思った通りの言葉を口にした。


「・・・・・・先輩、大事なもん落とさなかった?」


勿論、ソッコーで頷いた。


「指―――」


「う、うわあああっ」


彼が“指輪”と言い出すのを、俺は慌てて大声で遮った。

彼も春樹達も驚いたように目をパチクリさせた。


「お、俺こいつと話があるから、先戻っててっ」


そう言って、春樹と市原の前から彼を連れて逃げるようにその場を去った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



結局やって来たのは、人気のない屋上近くの踊り場だ。


「・・・で、どうなの?」


「落としたっていうか、無くした。すげぇ大事なもん。もしかして、お前が拾ってくれたのか?そんで、届けに来てくれた?」


勢い込んで捲し立てた俺を、彼は面白そうに見た。

その口元に、幾分人の悪そうな笑みが浮かぶ。

顔立ちが整っている分だけ、その笑みは似つかわしくなく浮いて見えた。


彼はそっとズボンのポケットから指輪を取り出した。

間違いなくそれは、春樹から貰った指輪だった。


「か、返してくれっ」


「・・・・・・どーしよーかなー」


楽しげにニヤニヤ笑いながら、彼はとんでもない事を言う。


「ど、どうしよう・・・って・・・。お前、返しに来てくれたんだろ?わざわざ。それなのに、何でそこで迷う訳?」


「だって、アンタ面白ェんだもんよ。さっきのアンタの態度からして、あいつ等に見られたくない知られたくないもんなんだろ?」


何て勘の鋭いヤツなんだろう。

まぁ俺の分かりやすい態度も悪かったんだけどさ。


でも、何で初対面で年下のヤツに、偉そうにそんな詮索めいた事を訊かれなきゃいけないんだ?


「な、何でもいいだろ!何でそんな事、お前に言わなきゃいけないんだよ。それよりお前誰だよ?」


あ、と彼は小さく声を上げて、忘れてたと頭を掻いた。


「二年の佐原健司。噂以上に可愛い顔してるんだな、アンタ」


彼の茶化した言い方が癪に障る。


「噂以上ってどういう事だよ」


突っ込むべき所はここではないような気もしなくはないが、俺は思ったままを口にした。


「羽柴先輩ってかなり人気あるんだよ。知らない?」


俺は知らない、と言って首を振った。


前にも春樹に似たような事言われたけれど、そんなに人気があるようには思えない。だって、人気があるならに人が集まって来るもんだろ?でも、俺にはそれがない。


俺に人気があるなんて、何かの冗談にしか聞こえない。


もしかしたら、春樹が傍にいるから誰も近寄れないとか・・・?


「ほら、これ。よく撮れてると思わねぇ?」


佐原が内ポケットから出した写真に、俺は目を剥いた。

写真に写ってるのは俺で、何かで加工してあるのか自分の笑顔が眩しく見える。


似たような写真を春樹も持っていた事を思い出した俺は、どうなってんだ?っと頭を抱えた。

春樹以外の誰も写真は持っていないと言ってたのに・・・。


自分の知らない所で、自分の写真が出回ってるなんて気味が悪い。

というか、いつ撮られていたのだろうか。


「・・・捨てろ!そんなもんっ」


写真を奪おうとするが、春樹の時と同じく、身長差があり過ぎて奪えなかった。


「嫌だ。一応、俺のお気に入りのものだから」


佐原はそう言うなり、さっさと写真を内ポケットに戻した。


「話戻すけど、この指輪俺が持ってると不都合な事でもある?」


「お前に関係ないだろ。いい加減返して・・・」


「理由教えてくれたらな。俺がこれを持ってる所を、あいつ等に見られたくないんだろ?」


(何でお前にそんな事言わなきゃなんねーんだよ)


と、胸の内で悪態をつく。

思った事が顔に出たのか、佐原はちょっと肩を竦めた。


「・・・・・・実際、関係ねーんだけどさ。・・・・・・これ、市原から貰ったんだろ?」


「え・・・?」


意外な質問に、ポカンと口を開けた。


「春樹の事、知ってんの?」


「そりゃ知ってるさ。フツー知ってるだろ?あいつ目立つし、色々活躍してるし。第一、テストの順位表でいつも隣にある名前だから、嫌でも覚える」


愚問だと言わんばかりに、彼は言う。


「へぇ。お前、頭いいんだ」


「こう見えてもな。・・・さて、指輪はちゃんと返すよ」


「マジで!?」


「勿論、タダで返すつもりはないから」


何やら引き換え条件を出されそうなのに、ふと身構える。


「・・・・・・そんな警戒心丸出しな顔すんなって。無茶な事は言わないから。つまり、羽柴先輩が困ってるように、俺も今困ってる事があるんだよ。で、それは、先輩が協力してくれれば解決できるかもしれないんで・・・」


「そうなの?」


そうそう、と佐原はニッコリ笑顔で頷いた。


こっちの警戒心をふっと緩めてしまいそうな、人懐っこい笑みだ。

実を言うと、俺は愛想はいい方なんだけど人見知りする所があって、初めて接する相手には中々すぐに打ち解ける事が出来ない。


それでも―――佐原は結構いいヤツなのかも、と思わせてくれる雰囲気を持ってる。

春樹とは全然違うけれど、きっちり閉じた心の窓を、開けてみようかなあと思わせてくれるタイプだ。


「困ってる事って何?」


話を聞いてみようかな、と軽く彼を見上げる。


「・・・・・・んー・・・・・・ここではちょっと。今日、放課後時間ある?」


「うん・・・?」


そんなに込み入った話なら嫌だな、と思う。

佐原は、俺が協力すれば解決すると言ったが、見込み違いという事もある。

かなり無理しなきゃ出来ない事で、しかもうっかり事情を聞いたばかりに後に引けなくなるのでは、俺の方が困る。


「悪いけど・・・」


「そんなに時間は取らせないよ。ほら、もうチャイムも鳴りそうだし。立ち話もなんだからさ」


その言葉を裏付けるように、予鈴が鳴り出した。


「じゃあ、放課後駅前のマックで。好きなもの奢るよ」


言うが早いか、彼はさっさと身を翻した。


行くのやめようか、と思ったのも束の間、俺は絶対に彼に会いに行かなければならない理由に気が付いた。


「・・・・・・しまった。返して貰ってないじゃん!指輪・・・!」


追いかけようと思ったが、すぐに本鈴が鳴り始め、仕方なく教室へと向かう。


上手く嵌められてしまった気がした。

親切そうないいヤツだと思ったんだけど―――もしかして俺、弱味を握られてしまったんじゃないの?


指輪はまだ佐原が持ってるんだし、話を聞いて、彼の持ち出す条件を引き受けなければ返して貰えないんじゃないかって気がする。


とは言え、乗りかかった船だ。

しょうがない―――取り敢えず春樹に、今日は先に帰ってくれと言わなければならない。


(あ!)


そこではたと気がつく。


何で佐原は、あの指輪が俺のだって分かったのだろうか・・・・・?