送らせてと懇願した割に、俺達の間に会話はなく、ただ駅までの道を黙々と歩く。


佐原とこんな事になっちゃって、俺、これからどうすればいい訳?

おそらく佐原は指輪の事を吹聴したりしないだろうけれど、もう無料の家庭教師は失ってしまった。


こんな気分を抱えて、この後何食わぬ顔して春樹に会えるだろうか。


こっそりと溜息をついた。

と、隣を歩く佐原がピタリと足を止める。


「佐原?」


どうしたんだろうと、顔を上げかけて―――俺もまた足が硬直するのを感じた。


目の前に、春樹がいる。

見間違いだろうかと何度か瞬きしたが、それは幻覚でも何でもなく、本当に本物の春樹本人が立っているのだ。


唖然と口を開けている佐原をちらりと一瞥し、春樹は黙って腕を伸ばした。その指が俺の手首を捉え、引き寄せるのを、俺も他人事みたいに眺めていた。


春樹はむっつりと黙りこくっている。

いつも以上に仏頂面で、彼の身体から青白い炎が立ち上っているみたいだ。


その炎は―――嫉妬だろうか。


「春・・・」


佐原との仲を誤解されてしまったのではないかと、それだけは言い訳しようとして慌てて口を開きかけたが、それより先に彼は佐原に向かって低く呟いた。


「お前が俺をどう思っていようと勝手だけどな。・・・・・・梓を巻き込むな。こいつに手を出して傷付けるような真似をするなら、俺は黙っていないからな」


春樹の声は、ゾッとするような響きを持っていた。


こんな春樹も知らない、と思った。

今まで見た事もないくらい、彼は深く静かに怒っているのだ。

それは嫉妬なんてものじゃなく、何か―――もっと根が深いような・・・・・・。


「・・・・・・春樹、佐原と知り合い?」


ふと思い付いた事を訊いてみると、答えたのは春樹ではなく佐原だった。


「そりゃあ知ってるよな?いつも市原の下にいるんだから」


人の好きそうな普段の顔はどこへいってしまったのか、佐原は妙に荒んだ物言いをした。


「俺が必死にやってもさ、どういう訳か市原は俺より一歩だけ先にいるんだよな。本当に、いつも一歩だけ。たった一歩が、俺は追い越せない。その悔しさがお前に分かる?」


佐原の言葉は、ある程度予測出来たものだったんだと思う。

心のどこかで、やっぱり、と納得してる自分がいる。


それは、さっき佐原の部屋にいた時にも感じたものだ。

言葉の端々に、やけに春樹を意識してるみたいな印象を受けた。

彼はさり気なさを装っていたけれど、ライバル意識のようなものはビシビシ伝わってきていた。


「最初から意識してた訳じゃねーよ。・・・・・・市原に負けたくねーと思い始めたのは、今年の春の親善試合ん時からだ」


「親善試合?」


何の?と春樹と視線を交わす。


「覚えてねーんだろうな。市原は色んなクラブの助っ人気取りで、颯爽と現れては消えて行く英雄(ヒーロー)みたいなもんだったんだから」


それって、以前よく頼まれるままに引き受けていた―――というよりは、俺が春樹に引き受けさせていた―――運動部の助っ人の事か?


「バレーだ」


ぼそり、と春樹が言った。


「バレー・・・・・・、もしかして、佐原ってバレー部?」


春樹が入ったために、レギュラーから外されて恨んでたとかそういう事だろうか?でも、部活動はしてないみいだったけど、俺との勉強会のために休んでたのか?


「覚えてたのか?」


佐原は、春樹を睨みつけた。春樹は答えずに、肩を竦める。

俺は黙って、二人を比べた。


春樹の態度に業を煮やしたのか、佐原は今度は俺に向かって口を開く。


「退部したんだよ、親善試合の後に」


「それって・・・・・・春樹の所為な訳?」


その質問には、佐原は首を横に振った。


「切っ掛けはそうだったのかもしれないけどな。・・・・・・俺、親善試合直前に、膝痛めてさ。試合に出られなかったんだよ」


「もしかして、佐原の代わりに春樹が出たんだ?」


「そう。他にも部員はいるのに、何だって部外者を引っ張り出すんだって正直ムカついた。けど、結果は圧勝。

・・・・・・やってらんねーよな。俺はレギュラーになるまでに一年近くかかった。そんで、なった途端、張り切り過ぎて自滅だよ。ところが、いきなり部員でも何でもないヤツが現れて、ちゃっかり試合だけ出て大活躍。・・・・・・俺が出るより良かったんじゃないかって、陰口言うヤツまで現れる始末で・・・」


「佐原・・・ごめん。ごめん、俺・・・」


咄嗟に謝った俺を、彼は不思議そうに見る。


「何で先輩が謝る訳?」


「多分それ、俺の所為だ。春樹は元々助っ人なんてやる気は全然なくて・・・・・・でも、俺がやれって言ったから。それで・・・」


関係ねーよ、と佐原は言った。


「俺が出ても勝てなかったかもしれない。結果的に、市原の方が実力が上だった。それは事実だ。俺だってちゃんとそれくらい認めてる。分かってるけど―――負けたくねーって思ってもしょうがないだろ?それで、何度も何度も思い知らされるんだ。あと一歩のとこで、俺は市原に勝てない」


「だから、梓にちょっかい出したのか」


決めつけるように、春樹が口を挟んだ。


「春樹」


慌てて窘めたが、間に合わなかった。

佐原は、ギラギラした目で春樹を睨みつけている。


「・・・・・・そうかもな」


吐き捨てながら、彼は俺に視線を戻し申し訳なさそうな表情を作る。


「いいよ。何となく・・・・・・そうじゃないかなって気がしてた。・・・・・・気が付いたのは、さっき部屋でだったけど、本当は俺の事好きとかそんなんじゃなくて・・・」


「それは違う」


俺の言葉を遮って、彼は否定した。


「市原を意識するようになって、いつも一緒にいる羽柴先輩も視界に入るようになった。市原にとっての羽柴先輩みたいな存在が、羨ましかった。市原はきっと、羽柴先輩がいるから頑張れるんだろうなって思えたからさ。羽柴先輩が俺を好きになってくれたらいいのにって・・・・・・思ってたのは本当」


「佐原・・・」


「羽柴先輩が俺のもんになっちまったら、市原に一泡吹かせられるなって思ったりもしたけどさ。・・・・・・先輩の事は、マジで好きだったんだって」


それだけは嘘じゃないよと、彼は言う。


この場合何て言えばいいんだろう、と考えていたら―――掴まれたままだった手首を、さらに強く引かれた。


「あ・・・?」


春樹はもう佐原を見ようともせず、真っ直ぐ駅に向かって歩き出す。

俺を引き摺ったまま。


「春樹、春樹っ!ちょっと待ってよ、まだ佐原が・・・」


「もう話す事なんかない」


キッパリと彼は言った。


「それとも、梓はあいつの方がいいのか?」


「そんな事・・・」


ないよ、と口にして、でもやっぱり気になって佐原を振り返る。

彼は道の真ん中に立ち尽くして、俺達を見送っていた。

そうして、小さく手を振った。


俺は手を振り返す事も出来ずに、そんな佐原を黙って見ていた。


彼はどんどん小さくなって、やがて見えなくなった。



春樹と気まずいまま、彼の誕生日の二十日がやってきた。


あれからここ数日間というもの、春樹とは殆ど口を利く事もなかった。市原があれこれと気にして訊いてくるのだけれど、俺も仲直りの切っ掛けが掴めない。


さり気なく何度か声を掛けてはみたものの、帰って来るのはいつもの数倍は不愛想な返事だ。そういう時の春樹には何を言っても無駄なんだと、長い付き合いだから察する事が出来る。


今までなら、そういう時の春樹がどうして欲しいのかとか、何て言って欲しいのかも何となく分かってた。でも、今は駄目だ。


何で駄目なんだろうなあと、溜息をつくばかりだ。


春樹との、一緒に誕生日を祝うという約束も、本当に実行できるのか不安になってきてしまう。


「・・・・・・取り敢えず、佐原との約束は守んなきゃな・・・」


あまり気は進まないけれど、勉強を教えてもらっている事だし、今更ドタキャンは出来ないだろう。


二十日の終業式は無事に半日で終わったので、いったん家に帰る事にして、佐原とはその後待ち合わせる事になった。


彼の家までは電車でひと駅だ。

駅前まで迎えに来てもらう事にし、昼食を済ませて私服に着替える。


今日の帰りも、春樹とは別行動だった。

「今夜どうする?」 と訊く隙も与えてもらえず、一人で帰途についたのだ。


でも、佐原ん家から帰って来たら、真っ直ぐに春樹を訪ねようと思う。

それで、仲直りするんだ。春樹がどんなに怒りのオーラを撒き散らしていたとしても、めげずに粘ってみる。


そんな決心を固めてから、待ち合わせの場所に向かった。

佐原は先に来ていて、改札から出てきた俺を見付けると駆け寄って来た。


「悪いな、今日はよろしく頼む」


佐原は手を顔の前に立てて軽く頭を下げ、悪戯っぽく片目を瞑った。


「もう来てるの?志織ちゃん」


「ああ。ウチの母親とケーキ作ってるよ」


フーン、と頷きながらも、何だか胸が痛い。

佐原の事が好きなのに、彼から同性の恋人を紹介されるというのはどういうものだろう。


「羽柴先輩は何も言わなくていいから。俺の言う事に、頷くだけでいいよ。軽くスキンシップするけど・・・・・・肩抱くくらいならOK?」


「・・・・・・いいけど」


当の佐原が着々と計画を進めようとしているので、結局何も言えずに並んで彼の家までの道を歩く。


駅前の商店街を抜けて、直ぐの所に彼の家はあった。


「ただいまー」


先に入った佐原が声を掛けると、奥から 「おかえりなさーい」 という声と一緒にパタパタ駆けて来る音が近づいてきた。


現れたのは、予想通りの可愛い女の子だ。

肩まで伸びた真っ直ぐな髪を三角巾できちんと留めて白いレースのエプロンをしている。


「いらっしゃいませ」


彼女は俺に向かって、ペコリと頭を下げた。


「・・・・・・は、初めまして」


おどおどとお辞儀をすると、彼女も 「初めまして」 と返してくれる。


「彼が羽柴 梓先輩だよ。・・・・・・こっちは、加藤志織」


佐原に紹介され、彼女はパッと顔を上げ、俺と目が合うなりニッコリ笑った。


この反応は―――何だろう?


まだ俺が恋人だと聞かされていないのか?

ただの友達と思って、愛想よく振る舞ってるとか?


「健ちゃん、やっぱり面食い~。羽柴さん可愛いし、格好イイ~。並ぶと絵になるし、素敵ィ~」


予想外の台詞に、肩透かしを食らったような気がして、思わず佐原の顔を見る。


「志織、会わせてもらうの楽しみにしてたの。嬉しいー。ねっねっ、早く上がって。もう直ぐケーキ焼けるから。それまで健ちゃんのお部屋で待ってて?待つ間、家で焼いたクッキーを食べてみて。お茶の用意して、持って行くから」


「分かった」


はしゃぐ志織に、佐原が何事もないような顔をして答えている。


―――何か変。


二人を見ながら、考える。


彼女の態度は、俺の事を全く知らないものとは思えない。

事前に、佐原からちゃんと聞かされてる。

その上で、あんな風に好意的な訳だけど・・・・・・。


佐原を好きで結婚したいとまで考えているんなら、俺は恋敵の筈だ。

嫌味を言われたり、無視されたりするのは覚悟して来たけれど、歓迎されるなんて思ってもみなかったし―――ありえないんじゃないの?


そのまま二階の佐原の部屋に通された。


きちんと片付いた、シンプルな部屋だ。

どうぞ、と言われて、中央に敷かれた毛足の長いラグの上に腰を下ろした。


「・・・・・・佐原」


「可愛いだろ。・・・・・・まだ子供っつーか、無邪気で、そのくせちょっとマセててさ」


ハハ、と彼は取り繕うように笑う。


「・・・ってゆーかさ、お前から聞いてた話と全然違う気がするんだけど」


佐原の顔から、笑みが消えた。


「志織ちゃん、俺の事知ってんだよな?お前から、話してあるんだよな?だとしたら・・・・・・何で歓迎されんの?俺」


返事はない。

彼は黙り込んで、俺から顔を背ける。


「お前の事が好きで、結婚したがってるんじゃなかったの?お前が、同性にしか興味ないって言っても、信じないくらいお前の事好きなんだろ?

でも・・・・・・さっきの彼女は、ちゃんとそれを認めてて、応援してるみたいに見えた」


佐原は、クスクスクス・・・と笑い出した。


「佐原」


「簡単にバレちゃうよな。そりゃあ、志織はあんなんだし・・・・・・アンタが普段一緒にいる市原に比べりゃ、単純で分かりやすいもんな」


振り向いた彼は、もう笑っていない。

怖いくらい真剣な目で、俺を見てる。


「あの何考えてんだが掴めない、無愛想でぶっきらぼうな市原と対等に付き合えるのって、アンタぐらいだもんなァ。人の気持ちによっぽど敏感じゃなきゃ、やってられないよな」


「・・・・・・何言ってんの、佐原」


何となく気圧されて、ラグの上をじりじりと後退る。


「俺、志織にはこう言ったんだ。“ずっと片想いしてたヤツとようやく両想いになれた” ってさ。志織は、だったら紹介して欲しいって言ったよ。だからアンタを連れて来たんだ」


「・・・・・・はあ?」


いったい何を言い出したんだと、訝しく彼を見上げた。

人好きのする、愛想のいいヤツなのに、今は無表情だ。


俺が人の気持ちに敏感だって?


嘘だろう。全然分からない。

第一、分からないからこそ、ここのところ春樹とも擦れ違っているのだ。


「俺の言ってる事、分かんねぇ?」


問い掛けられて、思わず頷いた。


「好きだって言ってんの。・・・・・・俺、羽柴先輩が好きなんだ。前から、ずっと。アンタに近付きたくて、わざと指輪を盗み出した」


「じゃ、じゃあ、志織ちゃんの事は・・・」


「嘘だよ。志織はただの従姉妹だ。しかも、親も親戚も知らない俺の性癖に気付いて、アンタが言うように応援してくれる。俺の理解者だよ」


俺が後退った分だけ、佐原が近づいてきた。

急速に狭くなったお互いの距離に、嘘だろう、と胸の内でそっと呟く。


つまり―――俺、騙されたって事だよな?

恋人のフリをしろというのはただの口実で、佐原の家にまで連れて来られて―――。


「先輩。・・・・・・俺と付き合って。アンタだって、ノンケじゃねーだろ?俺の事も、嫌いじゃないだろ?」


「嫌いじゃないけど、そういう意味で好きな訳でもねーよ」


思い切って口にする。

悪いかな、と思ったけど、こういう事はハッキリ言った方がいいだろう。

変に気を待たせる訳にはいかない。


「・・・・・・ハッキリ言うなァ」


「勉強教えてくれた事は、感謝してる。佐原の教え方、すげー分かりやすかったし。でも、お前が最初からこういうつもりだったんなら、もう続けられない」


「じゃあ、市原に全部バラしていい?」


さっきから、やけに彼が春樹の名前を言うのが気にかかった。


「佐原、お前・・・」


言いかけた時、不意に肩を突かれて後ろに倒れ込む。

慌てて起き上がろうとしたところへ、彼が押しかかって来た。


「や、やめろよっ」


がむしゃらに覆い被さって来る身体を押し退けようとした途端、「キャッ」 と女の子の声が室内に響く。


声がした方向に目を向けると、志織が立っていた。

手にしたトレイの上で、ティーセットがカチカチ音を立てている。


「ご、ごめんなさい~、お邪魔だったみたい。健ちゃん、クッキーとお茶ここに置くね。・・・・・・ごゆっくり」


彼女は耳まで赤くなって、そそくさと部屋を出て行った。

残された俺達は、ちょっとの間硬直していたが―――。


「退けよ」


凄味を利かせて口にすると、毒気を抜かれたように佐原が素直に身体を起こす。


「・・・・・・出来ればヤッちゃいたかったんだけど・・・・・・駄目?」


「駄目に決まってんだろ。何考えてんだよ、タコ。下に、あの子とお母さんがいるんだろう?・・・っつーか、それ以前に出来るかっつーの」


「やっぱ、駄目かァ」


あーあ、と佐原は大きく息をついた。

その軽さは何なんだと、胸倉を掴んで揺さぶってやりたくなるようなあっけらかんぶりだ。


「あわよくば、と思ってたんだけど」


―――お前、本当に俺の事好きな訳じゃないだろ?と訊きかけて、やめた。


もうそんな事は、どうでもよかった。

佐原に押し倒された瞬間、頭の中にもやもやしていたものがサーッと霧が晴れるようになくなってしまったのだ。


抱くのも抱かれるのも、他の人間じゃ駄目だ―――分かり切っていた筈の結論が、閃いた。


俺には春樹しかいない。

春樹でないと駄目なんだ。


「・・・・・・俺、帰る」


立ち上がりかけるのを、伸ばされた手が阻む。


「志織の手前、もうちょっといて欲しいんだけど」


「嫌だよ」


「フラレるのは兎も角、残念賞として、日が暮れるまで一緒に過ごしてくれない?」


「悪いけど」


つれないなーと、佐原は唇を尖らせた。


「そういう可愛くない態度だと、本当にバラしちゃうよ、全部」


「・・・・・・いいよ」


ちょっと迷ったけど、キッパリ言い切る。

彼は、チェッと小さく舌打ちした。


「つけ入る隙はないのか・・・」


じゃあ、しょうがないな、と溜息混じりの囁きが洩れた。


「送るよ」


「一人で帰れる」


駅までの道は、一本だ。もう覚えてる。


「送らせて、頼むから」


必死な面持ちで言われたのでは断れず、仕方なく頷いた。


結局ケーキは待ち切れず、折角淹れてくれた紅茶も冷たくなって放置されたままだ。


部屋にまで漂ってきた甘い匂いが、俺を責めるように付き纏って来る気がした。

高橋と話してたせいで、約束の時間から少し遅れて図書館に着いた。

佐原はもう来ていて、自分の宿題らしきものを広げている。


「遅かったじゃん」


「あ・・・・・・うん、ごめん」


「もしかして、市原と揉めてた?」


さり気なく訊かれて、そうじゃないけど、と口籠る。


「なぁ、もう直ぐ一学期終わりじゃん。夏休み中はどうする?」


彼は直ぐに話題を切り替えた。


「夏休みかァ。どうしようかな。俺はいいけど、佐原は?忙しいんじゃないの?」


「全然忙しくないよ。じゃあ、時間決めてここで会おうか。ホントは試験休みがあれば、今だってもっと時間取れるんだけどな」


自習室にパラパラといる私服姿の連中を眺めて、彼は言った。

彼らは試験休み中らしく、早い時間からここに来ているらしい。


ウチの高校には、試験休みがないのだ。

以前はあったらしいが、テストが終わった解放感から羽目を外す生徒が目立った年があり、そのせいで試験休みは廃止されてしまった。


「先輩、二十日って暇?」


その問い掛けに、俺は曖昧に肩を竦める。


二十日は春樹の誕生日だ。

特別な約束はしてないけれど、好きな人の誕生日は祝いたい。

それに、恋人同士ならその日は一緒にいるべきだろう。


「その日、終業式で午前中には終わるだろ?前に話した、従姉妹の志織がウチに来るんだ。悪いんだけど、ちょっと付き合って貰えるかな」


「あ―――・・・・・・そっか、・・・うん、分かった。そんなに時間はかからないよな?」


「多分、それ程は・・・」


分かんないけど、と彼は付け加える。


どっちにしろ、夜まではかからないだろう。

せめて誕生日の夜くらい、春樹と二人で過ごしたい。


(付き合って最初の誕生日だし)


春樹もそう思っていてくれるだろうか。

どっちにしろ、一度ちゃんと話した方がいいという気になっていた。

どこまで打ち明けられるかどうかは兎も角。


「じゃあ、いいかな。当日は、志織がいる時間に合わせて・・・」


「いいよ、約束だもんな」


自分にも言い聞かせるように口にした。

佐原は何だか複雑そうな顔つきで頷くと、「じゃあ始めようか」 とテキストを広げる。


二年なのに三年の問題も分かるらしく、彼の教え方は的確で分かりやすい。

勿論、春樹ならもっといいかも、と思わない事もないのだけれど、彼だと落ち着いて勉強に専念出来ないかもしれないし、家庭教師としては佐原の方が適任な気がする。


春樹と過ごす時間が短いのは寂しいけれど、目先の楽しさよりも未来の幸せのためだ。目標があるんだから、いくらだって頑張れる。


☆   ☆   ☆


「梓」


怒ったような声に顔を上げると、俺の家の前に春樹が立っていた。


「遅かったな」


辺りはもう薄暗くて、春樹の表情がはっきりと見えない。


「上がっていいだろ?」


有無を言わせぬ口調で、彼は続ける。


何となく嫌な予感がして、本当はこのまま自宅に逃げ込んでしまいたかったけれど、そうもいかないから覚悟を決める。


「・・・いいよ」


俺は玄関のドアを開け、春樹を中に通す。


靴を脱ぐながら、ちらりと盗み見た彼の表情から、感情はあまり読みとれない。さほど不機嫌な感じはしないけれど、勿論機嫌がいいというのでもない。


よく分からない。


きりりと引き締まった唇が視界を掠め、そういえば暫くキスもしてなかったなあと思った。


あれきり春樹は、俺を抱きたいとは言わなくなったし、何となく気まずかった事もあって二人きりにならないようにしてたんだった。


自室に入って鞄を机の上に置いて、ベッドに腰を下ろす。

瞬間、ベッドはマズいかなと思ったのだが、意識しすぎるのも変な話だ。


春樹はドアを閉め、真っ直ぐに俺の隣までやって来た。

そのまま触れそうなほど近くに、腰を下ろす。


ギョッとして、思わず身が強張った。

ベッドはこんなに広いのに、わざわざ近い位置に座るなんて―――ちょっと反則だ。いや、そんな風に考える俺が意識しすぎてるのかな、やっぱり。


春樹が間近で、俺をじっと見てる。

何もかも見透かすような、痛いくらいの視線だ。


「・・・・・・春樹、何?」


「―――二十日の俺の誕生日・・・一緒に過ごしてくれないか?」


二十日、という言葉にドキッとして顔を伏せる。


(佐原との約束は夜までかからないだろうし・・・)


「夜ならいいよ。一緒にいよう」


パッと顔を上げて明るく言ったのに、春樹は眉間にスウッと皺を寄せた。


「 “夜なら” ?昼は、何か予定があるのか?」


こういうところ、春樹は鋭い―――っつーか、今のは俺がマズったのか?


「え、えーと・・・」


「梓」


言い訳しようとするのを、低い声が遮る。


「アンタ、俺に隠れて何してる?」


「隠れてなんか・・・!」


人聞きが悪いな、と苦笑して誤魔化そうとした。

が、これくらいで誤魔化されるようなチョロイ男じゃない事は、俺が一番よく知っているのだ。


「ずっとアンタの事見てきたんだ。アンタが何か隠そうとしてるのなんか、とっくに分かってる」


責めるように、春樹が言う。


なまじ後ろ暗いところがあるものだから、その言い方がカチンときた。

確かに俺は春樹に隠し事をしてる。だけど、じゃあ春樹は何だよ?


春樹だって―――。


「お前はどうなんだよ」


「え?」


まさかの反撃だったのか、彼はキョトンと目を丸くした。


「デートしたんだろっ。昨日の帰り、高橋と “和み” で!」


間髪入れずに 「あれはデートなんかじゃない」 と、春樹は反論する。


「・・・・・・フーン、どうだかね。じゃあ、何で俺に何も言わなかったんだよ。ちょっとした浮気気分だったんじゃないの?フッた女と、今更何考えて仲良くしてんだよ!あいつはまだお前の事諦めてないんだし、変な気を持たせるような真似してんじゃねーよっ」


「言うほどの事じゃないから、言わなかっただけだ。梓が誤解するような事は、何もない」


気まずさから、つい声を荒らげてしまった俺と引き換え、彼の口調はあくまでも冷静沈着だ。


「何もない?・・・・・・嘘ばっか。高橋からの伝言を、俺に伝えないのは何で?何か思惑があるんだろ!」


春樹の顔がちょっと揺れた。


図星なのかも、と彼を責めた言葉が、反対に俺自身を傷つけたのが分かった。


俺ってば―――バカみたい。

今のは、何だか自虐的だった。春樹が高橋の事を憎からず思っているんだとしたら、それは俺にとって歓迎すべき事じゃない。


分かっていながら、何で自分で聞き出そうとしたりすんの?


もうやめようと思うのに、春樹が反対に訊き返してくる。


「伝言・・・・・・高橋から、聞いたのか?」


「内容は聞いてない。高橋は、春樹に伝えたから春樹に聞けって言った」


所がそこで彼が黙ってしまったので、折角抑えようとした気分がまたイライラと騒ぎ出してしまう。


「で?何だよ、芳久さんからの伝言って。何でちゃんと伝えない訳?」


「別にたいした事じゃない」


ボソリと春樹は吐き捨てた。


「・・・・・・ちょっと待てよ。それはお前が判断する事じゃないだろ!俺に伝えもしないで、勝手に握り潰していい訳ないじゃん!」


「じゃあ、言うけど」


むすっと苦虫を噛み潰したような表情を崩さずに、彼は渋々口にする。

その手が不意に俺の手首を摑んで、咄嗟に振り払おうとしたが適わなかった。


「春樹?」


ぐっと、手に力が籠る。


「お前・・・・・・痛いよ、離せ」


だが、力は緩まない。

それどころか、強引に引き寄せられそうになって、内心酷く焦った。


「春樹!」


「言うけど、それは梓が俺の質問にちゃんと答えてくれてからだ」


引き換え条件を出されて、ドキンと心臓が一つ跳ねた。


「な・・・に・・・?」


「前に訊いた時にも、結局はぐらかされたんだよな。・・・・・・アンタ、高橋の兄貴とは何だったんだ?」


「・・・・・・何って―――」


何でもねーよ、と小さく呟く。


実際、何でもなかった。

芳久とは何度か出掛けただけで、ちょうど春樹の事で悩んでいた時だったけど、具体的に何か相談に乗ってもらったりはしなかったと思う。勿論彼の存在が、春樹への気持ちを認める切っ掛けにはなったけど―――それは、この際関係ないだろう。


大体、そんな何ヵ月前の話を、何だって蒸し返すんだ?

っていうか、蒸し返さずにはいられないような伝言を伝えるように言われたのか?


芳久の伝言って、いったい何だよ!


「本当は、今でも連絡取ってるんじゃないのか?」


突拍子もない事を、春樹は言い出した。

これって嫉妬?だとしたら、勘違いも甚だしい。

嫉妬するだけ無駄じゃんか!


「お前、何バカな事言ってんの?俺と芳久さんが連絡取り合ってんなら、わざわざ高橋に伝言なんか頼む訳ねーだろ」


春樹はそんな事百も承知で、ただそれは芳久の事を引き合いに出しただけなのだと、次の言葉で分かった。


「じゃあ、今は誰と会ってるんだ?」


「誰と・・・って・・・?」


「毎日毎日、誰とどこに行ってる?二十日もそいつと会うのか?」


―――ある意味当たってる。でも、そんなんじゃない。


「春樹・・・・・・うわ・・・!」


いきなり体重をかけられて、受け止めきれずに後ろに倒れ込みそうになる。

いくらベッドの上でもある程度の衝撃を覚悟したのだが、素早く背中に回された腕が抱え込むように守ってくれる。


ぐるんと目の前が回って、次の瞬間には視界が変わっていた。

真上から覗きこんで来る春樹の肩越しに、白い天井が見える。


「・・・・・・は、春樹・・・?」


「ハッキリ言えよ。本当は、俺の事なんか嫌だって。男のくせに、アンタを抱きたいなんて―――変態じみてるって」


自嘲気味に吐き捨てられた台詞に、仰天した。


「そんな事、思ってない!俺、気持ちが変わったりしてない!」


「じゃあ、前と変わらず俺を好きだって言うのか?」


「好きだよ!」


決まってんだろ、と訴えた。


好きで好きで―――前と変わらずどころか、前よりももっと好きになってる。

だから困ってる。好きという気持ちだけじゃなく、知りたくなかった嫉妬とか不安までが育ってしまった。


「だったら、いいよな?」


何が、と訊く暇もなかった。


春樹の手が容赦なく伸びて、俺の股間を弄る。

ズボンの上から握り込まれて、軽く揺すられただけで、いっきに身体中の血が集まってどくどくと脈打ち始める。


「・・・や―――」


「梓」


囁いた唇が、激しく口づけてくる。

思わず上げかけた声を奪われ、息も下も絡め取られてしまった。


肩も腕も、胸も足も、思うように動かない。

まるで縫い止められてしまったみたいに、動けない。


「ん・・・・・・―――んっ、・・・あ・・・・・・」


ワイシャツの前をはだけられる。

直接触れてきた掌の熱さに、さあっと肌が粟立った。


「春樹・・・!」


上手く動かない腕を、彼の胸に突っぱねる。

押し退けようとしたが、固くて厚い胸板はびくともしない。


「春樹、待って!待っててば・・・!」


彼のシャツを指で握りしめ、ぐいぐいと引っ張って離そうと試みた。

でも、上手くいかない。


「春樹ィッ!!」


情けないけど、半分泣き声になった。

と、ピタリと春樹の動きが止まる。


ゆっくりと彼は力を抜いて、ほんの少し離れた位置で俺を見下ろした。

その顔は、なぜか酷く悲しげに見える。


「・・・・・・まだ嫌か?」


「だって―――」


嫌じゃない。嫌じゃない―――と思う。

ただ、ほんの少しだけ躊躇ってる。

頭の中ではもうとっくに、春樹としてもいいと思ってる。


春樹を俺のものだと思いたいように、春樹のものになっていい。

それなのに、何が俺を足踏みさせてるんだろう?


「こんな・・・・・・急には・・・」


「急じゃねーだろ」


全然急なんかじゃない、と彼は言った。

その通りだと、俺は項垂れる。


「結局、嫌なんだ。そうだろ?」


「・・・・・・もうちょっと待って欲しい」


「もうちょっとって、いつまで?」


春樹はこんなにせっかちだったっけ、と意外な感じがした。

それとも、俺が待たせ過ぎてる?

別に勿体ぶってるつもりはないんだけど、結果的に俺ってばお高くとまってる女みたいかなあ?


「だから―――冬までとか?」


苦し紛れに口にすると、春樹はハーッと溜息をついて俺から離れた。


たった今まで押さえ付けられて密着していた身体の隙間に、すうっと風が入り込む。

なぜか物足りないような頼りなさが込み上げて、心の奥底に疼いていた不安がまた頭を擡げる。


「・・・・・・春樹」


「最近の梓は、凄く遠い感じがする」


ぽつりと、彼は呟いた。


「春樹」


「手を伸ばせば逃げるし、といって嫌いになったんじゃないって言うし。俺には、分かんねーよ」


「そんなの・・・」


自分にだって分からないのだから、春樹に分かるように説明するのは難しい。


好きなのに―――ううん、好きだからややこしくなっちゃったのか?


「両想いになったんだって浮かれてる場合じゃなかったな。最近の梓は隠し事ばかりだし、前にアンタが言ってた・・・・・・気持ちが変わる事で関係が壊れるって言うのは、こういう事だったんだな」


「何言ってんの、春樹」


彼の台詞に驚いて声を上げる。


「そんなんじゃないよ。違うじゃん!ただ俺は―――・・・何でもかんでも報告しなきゃなんないって事はないだろ!付き合う前の時でも、分かり合えてるつもりで本当は分かんなかった。分かったつもりになっただけだ。それが一歩進んで・・・・・・両想いになっても、恋人同士でも、分かんない事なんか山ほどあるじゃん!俺だって、高橋に聞かなきゃ、昨日お前が高橋と会ってた事も知らなかった」


「梓」


咎めるように、彼は俺を呼んだ。


「責めてないよ。・・・・・・それでいいんだって。お互いの世界があっていいんだ。分かんない事があってもしょうがないじゃん。だから、俺の事も責めるなよ。俺だって・・・」


春樹はやるせなく頭を振った。


「・・・・・・分かったよ。梓には梓の世界があるって事だろ」


勝手にしろと言わんばかりの口ぶりに、また一つ蟠りが増えてしまった事を知る。


何でこうなっちゃうんだろう。

こんな事が言いたかった訳じゃない。隠し事をしたい訳でもないのに。


「春樹、俺は・・・」


彼はベッドから降りると、ふいと背を向けた。


「・・・・・・元気でやってるか。悩んでたみたいだったのに、相談に乗ってやれなくて悪かった。上手くいく事を祈ってる―――・・・・・・高橋の兄貴からの伝言は、それだけだ」


振り向かずに、春樹は言った。

彼の背中から立ち上る拒絶のオーラに、俺は何も声をかける事が出来なかった。


それから春樹は、黙って俺の部屋から出て行った。


これは―――本当に恋愛だろうか。


俺は、春樹に恋をしているのか?


・・・分からない。


恋愛という名前が付いた途端、俺たちは上手くいかなくなった。

先輩後輩のままなら良かった。何の問題もなかった。


それなのに―――もう戻る事も出来ない。


「全然、上手くなんかいかねーよ。祈り方が足りねーんじゃないの・・・・・・芳久さん・・・」


胸の奥から、苦いものが込み上げてきた。