5月21日
僕は虫も殺せないような穏やかな男なんですが、先日、そんな僕のことが恐いので一生この店には来ないと言っている男が居るという話を聞きました。一体全体、僕のどこを恐がっているのか不思議ですが、その男のことを思い浮かべてみますと、僕は彼に対して「ヘタレ」というようなことを言ったかもしれないなと思い出しました。そこで、「ヘタレはその通りなので言葉の撤回はしませんが、彼がヘタレだからといって、先ずもって僕が腹を立てるような筋合いはないし、別に彼のことは嫌いではない、好きでもないけど」と返答しておきました。
すると、それを伝え聞いて、早速、その男がのこのこやって来ました。
半年ぶりの挨拶がわりにTシャツを一枚購入の上、キメてもらいました。
ヨシ!
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Tシャツを店頭にまた追加しました。
その中から個人的に好きなものを3枚、
他にもいろいろ、お好みのものがございましたら幸いです。
5月19日
北西のエリアから歩き始めましたが気づけば南東部、お馴染みの梅湯に来ました。
梅湯の横の正面通りを東へ進むと鴨川に出ます。
鴨川に架かるは、その名も正面橋です。
観光客にもあまり知られておらず、ひっそりと佇む生活の為の橋といった感じで、これも個人的に大好きな橋のひとつです。
素朴でひなびた感じが良いです。
そしてこの歩いている通りは、正面通りというくらいですから、何かの正面に通じています。
それは何かと申しますと大仏です。
ほとんど知られてませんが、実はかつて京都には、高さ15mの奈良の大仏をしのぐ19mもあった日本一の巨大な大仏が存在しました。
おっと偶然、新日吉神社の祭りに遭遇しました。
因みに新日吉神社に祀られている柱は、先に尋ねた白峯神社に祀られていた崇徳上皇と対立した後白河法皇(天皇)です。
ややこしいですね。
正面通りを進みますと住宅地に忽然と耳塚があらわれます。
耳塚とは、
豊臣秀吉の命令により、朝鮮出兵に於いて、当初は殺した朝鮮兵の首を船に乗せて日本に帰国していたのですが、あまりにもその数が多くてかさばるので、途中から耳だけ削ぎ落として持って帰ることになりました。
その耳が葬られているのがこの耳塚です。残酷です。
その耳塚を過ぎると豊国神社。豊臣秀吉が祀られてます。
正面通りの始まり、大和大路通りに交わるこの辺りは豊臣秀吉エリアです。大和大路通りを南へ進めば、先ずはすぐに僕の通っていた大谷高校があって、もっと行くと秀吉の居た伏見城、東のエリアには秀吉の墓のある日吉山があり、部活でよく走りにいきました。その上、京都女子高と大学があったものですから、この辺りは高校の頃は特に意味もなくうろちょろしてました。
さて、この場所に大仏があったわけです。
豊臣秀吉が財政が傾くんじゃないだろうかというほどの莫大な費用を注ぎ、天下に自分の力を示すためにつくりました。
が、できて間もなく、地震によって大仏は崩れ落ちました。それに怒った秀吉は崩れた大仏の眼に向けて矢を放ちました。自分がつくった仏とはいえ、ばちあたりなことです。その祟りか、秀吉はその半年後に死んでしまいます。
その後、息子の秀頼が意思を継いでもう一度大仏をつくりましたが、今度は火事で焼けてしまいます。
財政的にヘロヘロになった秀頼は流石に再度の大仏建立を諦めますが、徳川家康はもう一度つくれと、執拗に秀頼に勧めました。その狙いは豊臣の財を完全に絶やすことでした。家康は大仏建立の間に諸国の大名と根回しをして、ほぼ無一文になり、信頼できる家臣もいなくなった豊臣をいっきに潰す機会を窺います。
3代目の大仏はなんとか完成しますが、なんの悪夢か、今回も地震にみまわれて大仏は崩壊してしまいます。
豊臣は完全に天に見放されたかたちです。
そして、豊国神社に隣接する方広寺にあるこの巨大な鐘、
鐘の一面にびっしり文字が刻印されてますが、よく見るとその中に2箇所、文字が小さく白で囲まれてる所があります。
この部分ですね。
徳川家康はその中からこの2箇所に書かれた文字を探し出し、豊臣秀頼に因縁をつけ大阪城に攻め入ります。
「国家安康」の4文字は「家康」という自分の名を分断させた、つまり俺を滅ぼす気だなという因縁です。
みなさんご存知の「方広寺の鐘」事件です。
この大坂夏の陣、冬の陣により豊臣家は完全滅亡し、江戸幕府が誕生しました。
この立派な石垣は、むしろ殺伐とした戦国の世を物語っているように見えます。
豊臣秀吉は戦国時代に咲いたあだ花のように思えます。
僕は高校の頃から神社に行っても願い事はしないようにしてますが、それは普段の行いが悪いくせして都合のいい時だけ手を合わせてもバチしかあたらないと思っているからです。しかし、そもそもこの豊国神社で自分自身のために一体何をお願いできるのだろか?秀吉さん、安らかにおねむりくださいと願うのみです。
ただし、豊臣秀吉、崇徳上皇に限らず、歴史にはいろいろあってこそ、今の平和があるわけですから、やはり思うのは自分に対する戒めですね。
我々は世間の競争から完全離脱して、のんびり好きなことして過ごす事と致します。
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表
50年代から60年代のベースボールユニフォームです。
ウールとコットンの混紡と思います。
表、裏共にかっこいいです。
タグ
表のチェーンステッチ
趣旨の猫目ボタン
バックのサテンワッペン
スポーツ用のユニフォームとしては大きなダメージや汚れも無く、コンディションまずまずです。
size S程度 14800円+tax
5月17日
彼にいつも感心するのは、飯を食う店の選び方です。
選ぶと言ってもたまたま通りかかるだけですが、看板どころか店名すらあがってないので「やってるんかいな」と言いつつ、「開けてみるか」と扉を引いたら、やってた。
こういう普通の喫茶店は京都だけではなく、全国的に絶滅寸前です。
それは、儲かる儲からない以前にオーナーさんの年齢的問題にあります。喫茶店のオーナーさんには既に80代と思しき方が多いです。年金生活に入っておられるオーナーさんからすれば、儲けるというより生き甲斐でやっておられるとは思うんですが、それでも年齢や身体的な衰えには抗いようがありません。
残念です。
「見た途端に絶対美味いと確信した。こだわりを感じた」らしい。
わかるんかいな。
食後コーヒー飲んでゆっくり出来ました。
徘徊の途中、あれば頻繁に立ち寄りたいんですけど、最近、ほんと少なくなってしまった。
今出川通に出ますと白峯神社がございます。
創建は明治維新の頃と神社としては新しく、球技の神様として親しまれ、Jリーガーも多く参拝するそうです。が、実はもともとはそういった神社ではございませんでした。
日本の三大怨霊といえば、平将門、菅原道真、崇徳上皇。ここには、その中でも最恐と云われる崇徳上皇の御霊が祀られてます。
時は平安時代末期の保元の乱。
お互いが自分の子供を次の天皇にさせたい崇徳上皇と後白河天皇、その二人に側近の貴族や武士も絡んだ権力争いです。
後白河天皇は、崇徳上皇に謀反の疑いありという根も葉もない噂を流させ、戦いが勃発します。
因縁をつける側は戦いの準備万全ですが、因縁をつけられる側は突然に近い戦いとなるのでやはり不利です。負けた崇徳上皇は讃岐(香川県)に島流しとなります。そして後白河天皇は崇徳上皇の帰京を永久に許さないとしました。讃岐でそれを知った崇徳上皇は怒り狂い、舌を噛み切って自分の流れ出る血で「我は日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」、つまり、自分は怨霊となって天皇家を潰し、一般人に政治の権力を移してやると書き残して死にました。
それ以来、京都は治安の乱れ、大火、疫病の流行が起こり、皇后、息子を始め後白河天皇の周りの人間が次々と死んでいきました。これは崇徳上皇の祟りに違いないと騒ぎ出しましたが、時すでに遅く、そして遂に、源頼朝による鎌倉幕府が誕生しました。以降700年間、崇徳上皇が言い残した通り、一般人である武士が天皇に代わって政治の権力を握ったのです。
時は流れて明治維新、明治天皇は大政奉還に際して、二度と武士に政治の権力が移らないようにと、真っ先に崇徳上皇の御霊を讃岐の白峯山から京都へ帰還させ、「居心地の良い場所を京都にご用意させていただきましたので、怒りをお鎮めください」とこの地に神社を建立したというわけです。
今では崇徳上皇はどっかに飛んで行ってしまい、蹴鞠発祥の地である飛鳥井家跡地にたまたま建てられたので球技の神様として親しまれてますが、北野天満宮や御陵神社、東京の靖国神社など怨霊、悪霊、生きている時は悪人であった者を祀る神社は実は大変多いです。悪者も死して神となすというのは日本独特の文化です。
怒りをおさめ、参拝する我々も過去の過ちを二度と繰り返さないよう、戒めるのです。
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50〜60sキングルイボーリングシャツ
レーヨン製で短丈、ツートンタイプのボーリングシャツです。
タグ
襟はイタリアンカラーです。
バックにチェーンステッチとワッペンが付きます。
size ML 17800円+tax
5月15日
千本通を東へ、堀川通に出ると晴明神社があります。
鳥居の五芒星と呼ばれる晴明桔梗が目印です。
この神社は安倍晴明の屋敷跡につくられたと聞いた記憶があります。
その橋の横には式神が居ます。
式神に興味があるようです。
式神とは安倍晴明の子分の妖精で、当初は屋敷に一緒に住んでいたんですが、晴明の嫁さんから「気持ち悪いから家に入れるな!」と言われて、戻橋の下に住まわせたそうな。
時代は移り豊臣秀吉の時、千利休の屋敷もこの晴明神社の敷地内にありました。
ここの井戸水でお茶を立てたのかな?
晴明神社から少し南へ、堀川に架かる、この一見なんでもない橋が本物の一条戻橋です。
個人的に好きな橋、と言ってもいっぱいあるんですが、その中でもかなりです。ここは、独りで来ると、いろんなことが巡る場です。
平安時代、学者の三善清行の葬儀で棺がこの橋を渡る時、息子の浄蔵が『お願いですからどうか父を生き返らせて下さい』と願ったところ、死んだはずの清行が一時生き返った、というのが戻橋の名の由来です。第二次対戦中は、兵隊さんとして招集された人達が生きて戻れるようにと縁起を担いでこの橋を渡って出征したという話も聞いたことあります。
一方、残酷な実話も残ります。
千利休が豊臣秀吉に可愛がられていたのは有名ですが、利休の人気は一般の人達にも大変なものになり、大徳寺の山門の上に自身の木像が置かれるほどになりました。そんな様を見て、秀吉は利休が自分よりも人気者になるのではないかという嫉妬と恐れを感じ、放っておけなくなりました。そこで、「俺にお前の足元を通って大徳寺に入れというのか!」と、因縁をつけ、利休に切腹を命じ、その首を戻橋にさらしました。あたかも自分の足で踏みつけられるかのように、そのさらされた首の上には大徳寺にあった利休の木像が置かれていたそうである。
他にも、渡辺綱が美女に化けてすり寄ってきた鬼の腕を刀で切り落とした話、などなど戻橋にまつわる逸話はいろいろあります。
そんな話をしつつ橋を渡ります。
こちらは戻橋のひとつ南にある橋で、逸話は無いんですが石で組んであり大変趣があります。
この構造は相当貴重で珍しいと思います。
鴨川に架かる大橋はもちろんですが、京都の橋は町中の小さなものでもひとつひとつ、かたちが変えられていておもしろいです。
Tシャツを少々店頭に追加致しました。
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60sラッセルTシャツ
オールコットン、60年代ラッセルのTシャツです。
色褪せも無く、コンディション良いです。
短めの袖丈がビンテージらしいです。
タグ
バインダーネック
プリント
サイズ表記はLですが縮みがあります。
ビンテージのコットンですので小さい場合はある程度のサイズ調整は可能だと思います。
9800円+tax
5月12日
今回の京都徘徊のお供は、中学生時代深夜徘徊補導歴130回を誇る徘徊のプロ、さすらいのジェニーです。
千本中立売から北野天満宮に向かってのびる北野商店街から始まります。
彼はこの商店街が、シャッター街ではなく現役であることに驚いてましたが、商店街や路地がしっかり生きてるのも京都の魅力です。大きなスーパーやホームセンターが無くても十分生きて行けます。
できたら個人的には、そっちの方がいいかな。
老舗の店先の餅に食い付いて、「これは、どんな餅だ?」と聞くので、「知らん、調べろ」と応えたら、創業400年の店らしい。
ふたつ買いました。
歩きながら食べる。
僕はいつも、彼のこのスタイルを見て『子供みたいで良いな』と思います。
千本通りに出て、南へ。
西陣織で栄えていた頃、この辺りは四条河原町に並ぶ大きな繁華街だったらしいが、戦後の織物産業の衰退で寂れてしまいました。それでも庶民の町として魅力があり、観光客は殆どいないけど、この西陣地区もまた、ありのままの京都と言えるんじゃないでしょうか。
上長者町通の西側には高校、大学の頃に通っていた千本日活があります。
昔は西陣地区には10件以上の映画館がありましたが、西陣織と映画産業の衰退により、現在は成人映画の千本日活のみ。エロ以外にも多くのことを教えてもろた気がするんですよね。
千本日活の南側は元遊郭、五番町のはじまり。
水上勉の作品で映画化もされた「五番町夕霧楼」の舞台になった場所です。
因みにヒロインの遊女夕子と恋仲になったのは、三島由紀夫の「金閣寺」で金閣寺を炎上させた僧侶です。
つい10年ちょっと前まで現役だった五条楽園と違って、1958年の売春防止法の施行によってすっかり一般住宅地になっていて、当時の面影は微かです。
とはいえ町にはじゅうぶん古き魅力が残っています。
すっぽん料理の大市さんも、我々とは全く縁は無いけど、創業300年以上です。
若い人もいっぱい住んでいるのに令和が欠損し、平安時代から昭和が混在する、我々好みの町ですね。
商品案内
Leeのヒッコリーストライプのワークキャップです。
形がベースボールキャップにちかいので被り易いです。
60年代後半から70年代頭のものと思われます。
内側は比較的綺麗でツバの割れもなくコンディションは良好です。
サイズの小さいものが多いですが、多くの人に被っていただける良いサイズだと思います。
12800円+tax




























































