ライブヲタクのアマチュアカメラマン、紋次郎です。 -2ページ目

ライブヲタクのアマチュアカメラマン、紋次郎です。

ジャンルにこだわらず、思ったママも事を時たま、、、忘れた頃に書き留めます。
気が向いたら読んでみて下さい。

ゴースとライター騒ぎで話題のニセ作曲家、佐村河内守の会見。
興味があった訳ではない、、、っていうより、正直どーでも良かったンですが、どの局の報道番組もその話ばっかりだからしょーがなく見ました。


別人の様な様相でもっともらしく受け答えする彼のみっともなさは今さら言うまでもないでしょう。
ですが私が目を向けたのは、むしろその彼に詰め寄る神山典士氏の方がもっと醜悪だったという事。
相手を貶める事「だけ」に終始しするその態度は、真実の追求でもなければ被害者の為の行為でもない。単に敵意・悪意をぶちまける行為に正義の仮面をかぶているだけでした。

ある意味、それが「マスコミ」という生き物の象徴でもあり、一般大衆という怪物の底意地の悪さを代弁しているンでしょうけど。


勘違いして欲しくないけれど、私はニセ作曲家の味方をする気などサラサラありません。
ただ、何かあるとここぞとばかり寄って集って吊るし上げるマスコミ報道のやり方もゲスの極みだって話です。

2014年の東京都知事選は舛添氏の圧勝で終わりました。

原発廃止を訴えた2候補の得票を合わせても、当選した舛添氏には届きませんでした。
告示前にはこの2候補を一本化しようという動きもあった様です。とは言っても、原発以外の政策での両氏の立ち位置を考えれば共闘出来なかったのも無理もない話です。
そしてその結果、脱原発派の票は両氏に割れてしまった、、、と見られています。


ですが、その見方は本当に妥当でしょうか?


宇都宮・細川両氏の主張は、共に「即時全廃」です。
マッタなしでこのまま今すぐ全面的に、、、という主張です。
これに対し、舛添氏は「段階的な廃止」を訴えています。
どちらも原発ゼロにすべきという点では同じ筈です。が、この舛添氏の様な主張は反原発運動を繰り広げている人々には全く相手にされていないのが実情です。
マスコミ報道などでも「脱原発候補」と言えば宇都宮・細川両氏を指し、どちらかといえば舛添氏と田母神氏をひっくるめてその反対側に括られる傾向がありました。
まるで、原発反対と言えば即ち「原発反対、即時全廃」って事であり、それと「原発推進」の意見が対立していて、世論の大勢は前者であるかの様に捉えられています。


ところが、出口調査のアンケートではちょっと違った傾向が見られます。
幾つかの調査結果が報道されましたが、私の知る限り全ての調査で一番多数を占めたのは「即時全廃」ではなく、舛添氏の主張と同じ「段階的廃止」です。それに比して「即ゼロ」派は明らかに少数派であり、「推進」派よりはいくらか多い程度でした。

これ↓が、その一例です。
http://www.asahi.com/articles/ASG294JLLG29UZPS001.html


原発について
「今すぐゼロにする」は、21%
「徐々にゼロにする」は、63%
「ゼロにはしない」は、15%。


これが実際の世論です。

「即ゼロ」のシュプレヒコールの中心地は東京ですから、分母を全国に置き換えればその差はもっと大きく広がるかも知れません。

圧倒的多数は「段階的廃止」であり、世論の中で「即時廃止」はむしろ少数派だというのが紛れもない事実です。

落選した陣営に対し「原発が最大の争点にならなかったから」と分析する報道も多々あります。ですが上記の様なアンケート結果を見る限り、もし原発が争点であっても舛添氏の勝利は揺るがなかったに違いありません。


表立って声の大きいのは、少数派の「即ゼロ」を訴える人達です。
ですが、311以来ずっと「反原発運動」が続けられているにも関わらず、それが世論全体に浸透しているとはとても言えません。
その最大の原因は、「即ゼロ」という運動の基本方針そのものが、多くの人々(サイレント・マジョリティ?)の考えと乖離しているからではないでしょうか。


おそらく「即ゼロ」を言う人のほとんどは舛添氏が言う様な「段階的な廃止」を信用していません。彼らにとって「即ゼロ」だけが正義であって、それ以外は全てが「敵」でしかないのですから。
つまり、本当に深刻なのは細川氏と宇都宮氏に象徴される分裂の構図ではありません。
日本に於いて脱原発を実現するためにクリアしなければならないのは、むしろ細川・宇都宮氏と舛添氏との間にある深く大きな溝の方です。
どうにかしてその溝を埋めない限り、脱原発の実現は遠のくばかりでしょう。
モタモタしていれば、その隙に漁夫の利を得た原発推進の主張が実現してしまうかも知れません。


今の日本は既にそうなりつつある、、、と言ったら貴方は信じますか?
これが杞憂なのかどうかを確認出来るのは、少なくとも十数年かそれ以上後になるでしょう。
その時が「手遅れ」でない事を、私は心の底から願います。

明日23日、東京都知事選挙が告示されます。

現在、十数名が出馬を表明している様ですが、立候補を届け出るには必ず供託金を用意しなければなりません。
都道府県知事選挙の場合、供託金は300万円です。
つまり、当選者が決まるまでの間、合計3000万円以上の供託金が都に預けられる事になります。
そして、得票が有効投票総数の10分の1(供託金没収点)に満たなかった候補は、この供託金は没収されてしまいます。
過去数回の都知事選で供託金没収点以上の票を得たのは、上位2名から、多くて4名程度です。それ以外の候補者の供託金300は万円は、全員没収されています。


しがらみのない若い政治家にどんどん立候補して欲しいと考えると、この供託金の様に障壁になる制度や条件は緩和して欲しい気もします。
ですが一方、売名行為などを目的とした安易な立候補者の乱立を防ぐためにはやむを得ないとも考えられます。
Wikiによると、供託金額の引き下げや供託金没収点の緩和は一度も行われていません。が、2007年に、選挙戦略・党利党略的で極めて次元の低い思惑から議題になった事があるとも記載されています。
【供託金】(Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9B%E8%A8%97%E9%87%91#.E9.81.B8.E6.8C.99.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E4.BE.9B.E8.A8.97.E9.87.91
この一事をとってみても、選挙制度をその選挙で選ばれる政治家たちに任せておく事には大きな問題があると言えるでしょう。


これとは別に「法定得票数」って言葉に聞き覚えはありませんか?
誤解している方も多いと思いますが、この「法定得票数」とは前述の「供託金没収点」の事ではありません。
どちらも選挙の種類によって多少違います。今回の様な都道府県知事選での法定得票数は「有効投票総数の4分の1」と、没収点よりかなり高く定められています。
法定得票数に達した候補者は、当選者の辞退や死亡などの場合に繰り上げ当選する資格が与えられます。
2003年以降4度の都知事選では多数の候補が乱立しましたが、当選者以外にこの法定得票数を満たした候補者は2011年の東国原英夫氏と2007年の浅野史郎氏の2名だけしかいません。


法定得票数には、実はもっと重大な意味があります。

たとえ得票数が一位であっても、この法定得票数に達しなければ当選の資格を得られないという事です。
皆さんもご存じの通り、特に東京都知事選では多数の候補が乱立する傾向があります。そしてその結果、もし万が一多くの候補に票が割れて法定得票数に達する候補者が出なかった場合には、その選挙は無効、やり直し再選挙となってしまいます。
ですから、当選の見込みのない候補の乱立は決して笑い事ではありません。
まして、面白半分で投票する様な人が増えれば、事と次第によってはトンデモナイ結果を招きかねないンです。


そンなバカバカしい事態を避ける為にも、そしてロクデモナイ候補を絶対に当選させない為にも、きちんと投票する必要があります。
たとえベストな候補がいなくても、少しでもマシな候補を選んで投票するしか方法はありません。
白票入れても棄権しても同じ、どちらも文字通り薄氷を踏む様なキケンな行為だって事です。


もちろん、これは都知事選に限った話ではありません。
全ての有権者、そして全ての将来の有権者の皆さんには、この事を肝に銘じていて欲しいと切に願います。

何か選挙がある度に、棄権や白票を「政治不信の意思表示」みたいに言いたがる奴が必ずいる。
マスコミ報道に於いてさえ、そんな下らない勘違い発言をする大バカ野郎が後を絶たないのは本当に勘弁してもらいたい。


断固として言う!
何度でもしつこく繰り返し叫びたい!


棄権だの白票なンてのは、不信の表明だの抵抗だのとは全く逆なンだ!
要するに『白紙委任状』そのものじゃないか!!!


一体どこがどう違う?


結局その行為が意味するのは「この町、この国はアナタ達の好きな様にやって下さい、私は何も言わずに従いますよ」って事。無条件に服従する意思表示。それ以外の何物でもないじゃないか!


投票率が低いままなら、組織票をもつ既得権団体が有利なのは子供にだって解る事。
世の中を、いつまで奴らの好き勝手にさせておく気なンだい?
いい加減、目を覚まそうぜ!


「だって現実に、俺が一票入れても入れなくても何ンにも変わらないじゃないか」

なンてウダウダ言うセリフも、いい加減聞き飽きた。

組織票だってそういう一票の積み重ねだよね?
積み重ならなきゃ勝負になる訳ないのに、端緒っから自分の一票を放り出しちゃったら話にも何もならンじゃないか。


違うかな?


それでもやっぱり「一票だけじゃ~」みたいに言い張るンなら、他にいくらでも方法はあるよ。
一番手っ取り早いのは、自分が立候補する事。
それが無理なら、先ずは今居る政治家よりも少しでもマシで有能な人物を探し出す。

その人を応援する同士を募って立候補してもらう(=擁立する)。

これこそが、本格的に選挙権を行使する本来の方法。


そこまでやれば、一票どころじゃない効果が必ずある。
当選すればもちろんだけど、もし当選できなかったとしても既存の候補や政治家達にナニガシかのプレッシャーを与える位の事にはなるよ。


そこまでする気はないって言うなら、せめて現状の候補者の中から一番マシなのを選び続ける事。
その人を当選させる為っていうより、より悪い候補を当選させない為にも投票はしなければならない。

だって、たとえ全員ダメでも誰か一人は当選してしまうんだから。


とにかく、選ばなければ何ンにも始まらないし、効果なンてある訳ない。

さもなくば、無条件で服従するしかないんだよ。


他にも、出来るだけ周囲の人とも話し合っていきながら「小さな組織票」を育てるって手もある。
こンな程度の事ならば誰にだって出来るンじゃないのかい?
ネット選挙の解禁だって、この為にこそ意味があるンだよ。


そうやって多くの「一票」が積み重なっていかない限り、何百年何千年経ったってこの世の中は永遠に「奴ら」の思うままだ。


いつの日か、願わくば近い将来。。。
日本全国の「小さな組織票」が世の中全体を動かす様になったら、それが本当の民主主義って事なンじゃないのか。


そうは思わないかい?

何故日本の政府は、小泉元総理が言う様な廃止の方向へ舵を切れないンでしょうか?
原発廃止の世論はこれ程までに盛り上がっているのに。


どうして特定秘密保護法案は国会で通されてしまうンでしょうか?
法案に反対する世論がこれ程様々に取り沙汰されているのに。



「戦争のつくりかた」というバーチャル絵本?が、特定秘密保護法に反対する人々によってネット上で拡散されています。
http://www.ribbon-project.jp/sentsuku


嫌われるのは覚悟で、あえて言います。
こういうやり方・モノ言いこそが、世論が力を持てない最大の理由だと私は思っています。


この種の童話的な比喩は、難しい問題を解り易くイメージさせてくれている「かの様に」みえます。
でも、実際はその逆。解り易いっていう「イメージ」がむしろ曲者です。問題を単純化していく中で、知らず知らず大事な要素が抜け落ちてしまう。中身の抜け落ちた「カラ」だけで問題を考えると、人はいつのまにか「賛成・反対」「善と悪」みたいな単純な二元論に自らを誘導してしまいます。


今回の法案のどこがどう問題なのか。

マスコミ報道の中にも、その大事なポイントを扱っているメディアは私が見聞きした範囲だけでも結構あった様に思います。にも関わらず、世論の大勢は「こんな法律を作る事自体が悪い、だから断固反対」みたいな方向にしか向いていません。

その元凶のひとつが、こうした安易かつ乱暴な単純化なンじゃないでしょうか。


例えば民間企業などの場合、経営上のトップシークレットであっても社員全員に開示し、共有しなければならない、、、なンて馬鹿な話はありません。
国家という組織にとっても何らかの形で機密の漏洩を防ぐための法や制度は必要であり、その事は多くの方が認識している筈だと思います。
その法制度をどういう形にしていかなければならないか。「情報の保護」と「知る権利」の両面から考えなければならない。その上で、今回の法案のどこがどう問題なのか、そこが「反対の理由」にならなければなりません。

「戦前の日本に戻る~」「戦争をやり易くする~」なんていう、どこかで聞いた様なステレオタイプの捉え方をして反対を叫ぶだけならば、「どこがどう問題なのか」なんて難しい事を考える必用など全くありません。
この絵本?も、保護法の内容如何に関わらず制定ること自体が「悪」であるかの様に訴えています。法案をどの様な内容にしたとしても、絵本の方は一言一句変える事なく「断固反対」を叫ぶ理由付にされてしまうでしょう。


話を善悪や賛成・反対」の二元論の枠に押し込めて、「どういう形にすれば良いか」などと考える事は一切ない。ただ強引に綱引きの綱を引こうとしながら「これこそが正義」だという思い込みだけを強くしていく。
そういった理も非もない「力ずく」の反対運動は、たとえ民衆によるものであっても「民主主義」などとは言えない。少なくともその理想に合致するものではありません。
結局は烏合の衆が「イメージ」に踊らされて騒いでいるだけの話で、中国の民衆が日本を糾弾するデモや暴動に加わるのと何も変わる所はありません。

「解り易いイメージ」に惑わされると、本当の問題点は見えてきません。
見えないまま、見ようとしないまま、単純化された安易なイメージだけをシュプレヒコールにしてしまう。

それではデモに何万人集まろうと、どれほど盛り上がろうと、現実の世の中を動かす力になどならないでしょう。
何故なら、そこには「中身」が伴っていないンですから。


政治に対する日本の世論の影響力は、今以てそれほど大きくはありません。
それは必ずしも「政治が悪い」って事だけではない。世論の主体である「大衆」が、効果的で意味のある「ハンタイ」のやり方を身に付けようとしていないからなンじゃないでしょうか。

タイトルは残念ながら覚えていないが、昔読んだ漫画に出てきた「正義の味方」が強く記憶に残っている。
確かにその主人公は「正義の味方」なのである。その物語に登場する、絵に描いた様な「悪人」を残虐なまでにやっつけていく。それで、確かに「悪」は滅んでいった。

だが、物語は決してめでたしめでたしのハッピーエンドでは終わらない。

悪役の権力者が叩き潰された結果、その悪人が経営していた(悪の巣窟である)町て唯一の大企業も当然潰れてしまう。そこで過酷な労働を強いられていた多くの人達は今度は働く事すら出来なくなり、一層困窮してしまう。


「正義」・・・なんて虚しい言葉だろう。

私だって「不正や不条理を正そう」という熱意までも否定するつもりではない。
ただ、それに「正義」というある種のレッテルを貼る事によって、思考は硬直してしまう。

殊更に「正義」もしくはそれらしい主張が叫ばれる時には、それはもう純粋な熱意の表れとは限らない。もはや憎しみに被せる仮面でしかなくなっている事がいかに多い事か。

私が今まで経験してきた様々な場面でこの「正義」に出くわす毎に、そういう思いは深まってきた。



しばき隊と名乗る集団は、レイシスト(差別主義者)を「しばく」と言いながら非暴力を標榜している。その最大のターゲットは「在日特権を許さない市民の会」、通称「在特会」だ。
私も「在特会」の悪評を耳にした事はある。表向きの主張以上に、デモなどの中で在日朝鮮人に対するひどい嫌がらせや暴行が頻発している事を指摘しているのは、彼等しばき隊だけではない。


だが、在特会の活動自体の是非は、私の話にはそれほど重要ではない。

肝心なのは、しばき隊の行動が現実にどういう結果をもたらすだろうかという点だ。


しばき隊が在特会に対して行っている行為は、決して「非暴力」などと言える様なモノではない。カツアゲにも等しい実質的な暴力行為だ。法律家などと相談して「違法性はない」といったような主張もしているが、法に触れるはどうかなどどいう問題ではない。
彼等自身がネット上で公開している映像で怒声が飛び交う様子は、チンピラどうしの小競り合いそのもの。いつ殴り合いの大喧嘩が始まってもおかしくない様な、低俗な挑発・脅迫の応報が繰り広げられている。

にもかかわらず、しばき隊の野間易通氏は今も非暴力を標榜し、違法性なないから問題ないと繰り返し主張している。

彼等は「自分達はレイシストの差別的な犯罪行為を阻止している」とも言っているが、私が見た限りではそんな様子は確認出来ない。twitter上でその事を指摘しても、野間易通氏からはそういう映像の提示はなかった。やはり、カツアゲの様な小競り合いの映像ばかりしかないのだろう。

そんな事ばかりを続けて、一体何ンになるのだろうか?
たとえ彼らが言う様にナニガシかの蛮行を阻止出来たとしても、それはむしろ事態を悪化させる事にしかならないのではないか?

例えばもし仮に、「しばき隊をしばく会」みたいな集団があったとしよう。

彼らはしばき隊の行動を阻止する為に「合法的な暴力行為」を繰り返すだろう。そうなったら、しばき隊の面々は反省し、考えを改めるだろうか?

そんな事はありえない。逆に対抗措置を考え出して、もっと行動しようとするに違いない。 

今の様な暴力的なやり方を今後も続ける限り、それは仮想の「しばく会」と全く同じ。

結局、ただ単に火に油を注いでるに過ぎないだろう。 


そういう意味で、彼等しばき隊は私の記憶にある物語の「正義の味方」そのものだ。
彼ら自身は、きっと世の為人の為という「つもり」でいるのかも知れない。もともとは純粋な熱意が動機であったのだろうとは思う。

だが、彼等自身が公開している映像は、チンピラの恐喝や小競り合いとしか思えない暴力行為に溢れている。そこにある「正義」は、もはや憎しみをカモフラージュするための仮面でしかない。
そうやって彼らは気勢をあげ、またこれからも火に油を注ぎ続けるのだろう。


正面切って彼等にこんな指摘をしても、なんだかんだ理屈をつけて聞く耳は持たなかった。
彼らがいつか目を覚まして、もっと違うやり方にエネルギーを振り向ける事を願って止まない。

先日、野田総理と首都圏反原発連合の面会が実現した。
官邸前のデモを盛り上げながら、加熱し過ぎないように主導・継続してきた事と、おそらく地道なロビー活動なども行ってきた成果なのだろう。
これが脱原発に向けた大きな一歩となった事は間違いない。


野田首相はあくまで再稼働に理解を求める姿勢は崩さなかったものの、
遠くはない将来の「脱原発依存」を口にした。
とはいってもどうせ建前だけの話で、首相もしくは政権が変われば
どうなるか分ったものではない。


これに対する首都圏連合の手並みも、正直期待はずれだった。
断片的に報道された発言や態度を見る限り、やはりその頭には
「サイカドウハンタイ」の一点キリしか無い様に思えた。


大きな柱として「再稼働を阻止する」という不動の方針を示す事はアリだと思う。それはそれで極めて有効な戦術だし、安易に捨ててはいけない切り札だ。
ただ、それ一辺倒では戦略としてあまりに幼稚ではないだろうか。


たとえ当座凌ぎの建前にしても、野田首相自身の口から「将来的な脱原発」っていう願ってもない台詞がでて来た、これをテコに活用しない手はない。
即時全廃の要求は堅持するとして、相手の言っている事にも突っ込んで言質を取る位はすべきだった。
「今後、どんな基準でどの程度再稼働するつもりなのか」
「その後、どんな手順で停止していくのか。その判断基準は?」
「火力以外の代替エネを拡充する政策はいつまでに具体化させるのか」
等々、口約束の空手形でも、少しづつでも外堀を埋めれば今後の展開を
有利に出来たに違いない。


でも、実際の話し合いの場では、、、
「サイカドウハンタイ、とにかく今すぐ原発ヤメテホシイ」
「再稼働、ご理解下さい。いつの日かきっと脱原発します」
と、お互いに自分の念仏を唱えるだけで終わってしまった。


「緊張のため」「時間的な制約」って事も、確かにあるとは思う。
当然ながら、私としても彼らを責める気持ちなど微塵もない。ただ、
彼らが折角手にしたチャンスをフイにしてしまった事は残念でならない。


彼らが何らかの形で「次の機会」を演出できるのかどうか。
今のところは極めて厳しいと言わざるを得ない。

それでも私は、今後にまた期待したいと思う。

先月まで、日本の原発は全て停止していた。


でもそれは決して、「これからの日本は原発なしでやっていく」という
何ンらかの意思決定に沿って為された訳ではありません。
この夏の電力需給についても、様々な皮算用が巷に溢れかえってます。
けれど、全停止のプロセス自体は誰かが責任持って見通しや方針を立てて
意思決定した訳ではない。


原発全停止ってのは、定期点検からなし崩しに生じてしまっただけの、
単なる「状況」に過ぎなかったンですよね。


原発についてどういう意見を持っている人でも、先ずこの事実に
もっと注目すべきです。
事実とはつまり、明確な意思決定も将来を見据えた計画性もない。
単なる事実として全停止していたに過ぎないって事です。


で、、、今度は一箇所、大飯原発が再稼働した。


「現時点での」再稼働は、私は至極真っ当な判断だと思います。
ただそれが「至極真っ当な判断」によって為されたのかって言えば、
そこは甚だ疑問。どう見たって、単なる綱引きの結果そういう状況が
また生まれたに過ぎないですよね?


結局は、全停止も再稼働もどっちも同じです。
単なる綱引きの結果生まれた「状況」でしかない。
そこには何ンの計画性もありません。



たとえばの話。
仮に、何らかの理由で「脱・自動車社会」を実現する必要が生じたとします。
この車社会から、自動車を一掃しなければならない。。。


では、車検証の発行を差し止めるなどして期限が来た車から順に片っ端から
「全て停止」させてしまったら、社会はどうなるでしょうか。
そんな風にして、いきなり全部廃車にするなンて乱暴な話はないですよね。
自動車に代わる何ンらかのインフラを整備するとか、車に頼らない
流通・経済・生活のシステムなどを模索しながら、少しずつ計画的に
減らして行こうとするでしょう。


普通に考えれば、ネ。


で、話を原発に戻します。
今の原発の「状況」は、車検の来た順に全ての車を走らなくさせた様な
状態です。車だったら走らなければ事故も起きないでしょうけど、
原発はそうはいかない。既にある危険物は相変わらず危険なママです。


いままで通りにその危険物を増やし続けてはいけません。
でもだからって無計画のママいきなり全停止ってのもムチャな
話じゃあないでしょうかネ。


あえて繰り返しますが、、、
原発の「一部」を今後も「ある程度の期間」運用する事は、
ごく常識的で健全な判断だと思います。


電力需給や経済的な様々な観点から見て、必要性は間違いなくある。
一方、停止したからといって直ぐに危険性がゼロになる訳ではありません。
既にある危険はそのままに、管理費用だけが掛かり続ける事になるンですよね?


確かに原発は危険です。無くしていくべきだと思う。
ただ、その危険性は去年の3月11日に突然生じたのではなく、
それまでもこれからも全く同じ様に危険な訳です。


いくら便利でも危険なモノは使わないようにしよう。なくしていこう。
ゴモットモです。私もそう思います。
でも、それをどうやって実現するのか。
それはきちんと計画的に進めなければなりません。


原発のない社会につながる入口は、ナニが何ンでも再稼働を阻止する事
ではありません。

なし崩しに生まれただけの「状況」を強引に死守するための綱引きなンて、

場当たり的で無計画な「騒動」にすぎない。

そんなお祭り騒ぎにばかり血道を上げるンじゃなくて、脱原発社会の実現

という明確な目標に向けた現実的な道筋を見極め、計画的に事を進める。
それが肝心です。


イワユル反対派?と言われる方々は、残念ながら今は皆ンな目の前の

お祭り騒ぎばかりに盛り上がり、夢中になっています。
そうやって世論をそこに集中して盛り上げ、渦を巻く効果は確かにあります。
全く無意味とまでは言いません。

でも、戦(いくさ)に喩えるなら、戦略的に大した意味のないところに
膨大な戦力をつぎ込んでいる。そんな風に見えて、私にはとてもとても
危なっかしく感じるンですよね、どうしても。


今は「再稼働反対」に寄り道している世論の渦が、
目先の事からもっと遠くを見据えた方向に動き出した時。
そこで初めて脱原発社会への入口が見えてくるンじゃないでしょうか。


再稼働に反対する事は、決して・反原発・脱原発の本丸ではない。

そうは思いませんか?

世の中を、登場人物が「イイモノ」と「ワルモノ」に分かれてる、
お子様向けのヒーローものみたいに考える人は流石にいない、、、と思うでしょ?


でも、実際はそうでもない、掃いて捨てるほどいるンですよ。
いや、本当の話。


旬の話題で言えば、例えば原発の再稼働。
原発存続の必要性を言う人もいるし、即時全廃を叫ぶ人もいる。
今は後者の勢いが圧倒的に強く、前者は極めて少数派ですよね。


でも世の中、決してこの二つの意見だけなンて事はない。
「今の時点での再稼働は認めても良いが、なるべく早い時期に全廃すべし」
って思う人なンかも決して少なくない。
むしろこれが一番多いンじゃないかな?多分。


ところが、ミクシィ等のSNSなどではこンな常識的な話が全く通じないンですよ。
どこに行っても「即時全廃強硬派」が跳梁跋扈していて聞く耳を持たない。
この手の話をした途端に「推進派」に色分けされて、どんなに意を尽くして話をしてもダメ。
結局は「工作員」「エア御用」なんてレッテルを貼られるのがオチです。
(因みに、この二つの意味、解りますか?)


彼等は皆ンな、自分こそが「正義の味方」なんですよ、きっと。
彼らにとっては「即時全廃」だけが正義であり、チョットでも譲歩するような事
言う奴は「敵」であり、「工作員」の謀略って事になるンですネ。


皆さんも正義の味方とまで思わないにしても、もしも自分の方に「正義」があると
感じる事があったら気を付けて下さい。
彼等と似た様な「二択思考」に陥っているかも知れませんよ。


むしろ「正義なンて糞喰らえ」位に思っておくのが一番健全じゃないかと思います。


・紋・

島田紳助の電撃引退から一週間。未だに様々な憶測が飛び交っている。


でも、本当のところは、どうも良く判らない。
会見で「ウソをついた」と言われてはいるが、
それもあやふやな伝聞に過ぎないものばかりだ。


例えば「写真や直筆の手紙があった」とも言われているが、それだって
B氏なる人物本人との2ショットではない、本人宛の手紙でもないって話もある。
仮に、あれこれ言われてる事がある程度本当だったとしても、
あの会見を「ウソだ」って決めつける程の「事実」が出てきている訳ではない。
細かな食い違いを際限のない憶測で飾り立てているだけに過ぎない。


隠されている(かも知れない)事について、どの程度、どんな事がありそうなのか。
悪意に勘ぐり始めれば、どこまで行っても際限はない。
何がどこまで明らかになっているのをきっちり踏まえた意見は、どうしても地味だ。
あれこれ憶測をめぐらせた方がマスコミにもネットの波にも乗り易い。



この騒ぎの直前、僕の好きなコラムニストが図らずも紳助嫌いを吐露していた。
だから、この人が何かコメントするのを楽しみにしていたら、
やっぱり言ってくれました。

武田砂鉄氏のコラム「全裸」第338回 「シンスケ君とコウヘイ君」 
これ↓の真ん中辺り、


CINRA.NETメールマガジン vol.338
http://www.cinra.net/mail_mag/vol338.html


無闇矢鱈と尾ひれハヒレをはためかせるンじゃない。
本人が明らかにした事実は事実、推測は推測として、必要以上の憶測を交えず、
かなりの程度善意に解釈した上で的を射た批判をしている。


あえて付け加えるなら、彼の様な退き方をする政治家の姿を
一度でもいいから見てみたいモンだ。と、切実に思う。


紳助を信頼し、恩義を感じ、師とさえ仰ぐ人も多い。そんな人達も、
武田砂鉄氏のこの批判にはきっと悔しさや反発は感じないだろう、きっと。
事実と推測ってのはこういう風にブレンドすれば香りも立つっていう
見本じゃないかな、これって。


これに比べると、マスコミやネットに溢れ返ってる雑言の中にはヒドイのが多い。


何が何所までハッキリ明らかになっているのか。
そこを弁(わきま)えずに、さも解った様な事をあれこれ言う奴等なんて
ハタ迷惑極まりない、人間のクズだよ、全く。
自分が言われる身になってみろ、と、俺は言いたい。