海外に行かねばならぬので、留守にします。
 
1ヶ月ほどの、慌ただしい滞在で、
ブログは休みます。
 
帰れば、再開しますので、よろしく。
 
 

 

 

 

さきおとつい(2018年6月12日)の

島百日紅(シマサルスベリ)に、
ミソハギ科なのに、
禊萩(みそはぎ)に、
こんなフリルはなかったようなと、
書きましたが、
ミソハギも、けっこう縮れています。
 
写真の通りに、確認しました。
 
サルスベリを、英語では、
Crape-myrtle(クレープマートル) と、
言いますが、
ミソハギの英語名は、知りません。
 
ネットで検索すれば、出てきますが、
聞いたことがないので、知りません。
 
受け売りは、面倒臭いので、書かない。
 
死にかけの年寄りになのに、
今更、他人の受け売りで、暮らしたいと、
思いませんから。
 
この写真は、エゾミソハギのようです。
 
撮った時に、気づきませんでしたが、
今、貼りつけて見ると、
萼(がく)のトゲが、
上向きになっていますので。
 
エゾと付いても、
別に、北海道と関係ありません。
 
もしかしたら、北海道に多いと、
感じた人がいたのかも。
 
わたしは感じません。
 
植物の和名は、命名規約があるわけでなく、
通俗名ですので、
どんな名前であろうがなかろうが、自由です。
 
他人に通じない名前を使っても、
仕方ないだろうと、思うだけの話です。
 
自分勝手に名前をつけても、へっちゃら。
 
何が嘘で、何が本当、というようなことは、
ありません。
 
 
   ***    ***
 
 
論理とは、何かを、御存知ですか。
 
ここでは、論理学と、言う場合の、
論理のことですが。
 
そうでない論理は、
「これが、私の論理である」とか、
「それは、あなたの論理にすぎない」とか、
何とでも解釈できる意見のことですので、
紛(まぎ)らわしい。
 
だから、論理学と言う場合の、論理と、
限定します。
 
紛らわしさを排除するために、
このブログでは、論理法則と、言います。
 
 
   何と何と何が、論理法則の教条ですか。
 
   全部で、いくつ、ありますか。
 
   論理学では、わかっているのですか。
 
   
そんなのは、だれも、知りません。
 
それにもかかわらずに、
論理的でなければ、裁判に勝てませんから、
裁判は、
論理法則に、一致していなければいけません。
 
もっと厄介なのは、
自然科学の法則が、論理法則に一致して、
科学技術の事実として、
確実に再現されることです。
 
裁判は、法律と事実に、拠りますから、
事実は、論理法則に一致しているはずと、
法律家は、信じています。
 
嘘こけ。
 
判決文を読むと、信じられない、という言葉が、
いくつも出て来ます。
 
心証の自由と、法律家は言います。
 
信じられないような、心証の自由が、
論理法則に一致しているワケがない。
 
事実による判断であるワケがない。
 
 
   法律の条文は、人の意見です。
 
   事実と、全然違います。
 
   裁判が、事実を標榜するのは、
   マヤカシです。
 
   法律の条文のように、
   ただの変更困難になった意見を、
   判断の根拠にしながら、
   事実に依拠しなければいけないと、
   信じるのは、支離滅裂です。
 
   人の意見と、事実が、
   一致するというメカニズムが、
   憲法に示されていません。
 
   大陸漂移説のように、
   いくつかの大陸の海岸の地形が、
   パズルのように一致すると、
   主張するには、
   大陸が移動する原動力を、
   示さなければいけません。
 
   法律と事実が一致する原動力を、
   憲法は、隠蔽しています。
    
   ロマンティックな判断の手順が、
   明らかになれば、
   日本国憲法が、
   スターリンやヒトラーの思想を、
   継承していると、わかります。
   
 
裁判は、人を殺すのに、
論理法則に拠るのか、事実に拠るのか、
心証に拠るのか、法律に拠るのか、
根拠が不明です。
 
道徳や常識や作法は、
裁判の根拠でないのでしょうか。
 
事実は、
論理法則に一致しなければいけないと、
ロマン主義が信じた理由を、
現代の日本人は、知りません。
 
人の意見が、論理法則に一致すると、
勝手に主張するのでなく、
事実は、必ず論理法則に一致すると、
自然科学は言います。
 
自然科学の法則は、
論理法則に一致しなければならないと、
科学者は信じています。
 
論理法則の教条が、何と何と何であるかを、
だれも知らないのに、
どうして、わかるのでしょうか。
 
    
   科学技術の事実は、
   だれが、いつ行なっても、
   必ず再現されますから、
   完全に、論理法則に一致していると、
   言われます。
 
   完全に必ず一致するのなら、
   自然科学の法則や論理法則や
   事実などは、
   ただの定義でありませんか。
 
   科学技術の信頼性が、
   ただの定義であるのは、不思議ですが、
   絶対に間違いないのは、定義です。
 
   自然科学の法則は、
   科学技術の事実のように、
   だれも、再現しようとしなければ、
   再現されません。
 
   再現しようとして、
   わざと行なえば、必ず再現できます。
 
   飛行機や超高層ビルや原子爆弾や、
   合成樹脂や石油精製やエアコンなどの、
   便利な科学技術は、
   みんな、わざと再現しようとすれば、
   必ず再現されますから、
   科学技術の事実は、間違いないと、
   確信されます。
  
   自然科学の信頼性の根拠です。
 
 
いいや。
 
意図して再現しなくても、
事実は、知覚するだけで、再現されます。
 
科学技術の事実の再現性を、
はたで見ているだけで、
自然科学は間違いないと、確信されます。
 
べつに再現しようとしたのでなく、
傍観していただけです。
 
わたしたちが知覚する事実は、
すべて、意図して再現されたものですが、
自覚していませんから、無意識です。
 
知覚や事実は、
自分で命令したことを、忘れているから、
自分の意図に、気づきません。
 
2足歩行のようなものです。
 
いちいち命令しなくても、
勝手に、調子よく左右の足が出て、
身体が、自動的にバランスを取ります。
 
でも、命令しなければ作動しないことを、
自分で確認できますから、
いちいち命令を自覚しなくても、
無意識に、規則的な繰り返しが、
実行されます。
 
自覚しないで自動化されるのは、便利ですが、
機械と同じですから、
自分でなくなるようなものです。
 
身体や脳は、繰り返しを、プログラムとして、
勝手に読み取りますから、
念入りに自覚しなければ、
勝手にプログラムを書くロボットと、
同じです。
 
 
   知覚もそう。
 
   命令がなければ、
   そのように見えないし聞こえません。
 
   見ること、聞こえること、
   触ることなどは、すべて、
   命令により、知覚の内容が規定されます。
 
   そのように、知覚しろと、
   自分で命令したから、
   そのように知覚されます。
 
   事実は、すべてそうですから、
   自覚しないで、忘れてしまえば、
   ただの自動機械です。
 
   科学技術の事実は、
   論理法則という流行文化や権力の
   教条の通りですから、
   間違いないと、感じられます。 
 
   わたしたちの身体や脳は、
   同じことを繰り返せば、
   その規則性で行けと、
   勝手に命令が出ます。
 
   プログラムが書かれてしまいます。
 
   同じことを繰り返せば、
   自覚しない限り、
   プログラムが変更不能になりますが、
   法律は、同じことを繰り返せと、
   教条を、掲げます。

 

   別に、掲げなくても、

   身体は、規則性を読み取りますが、

   法律のように、はっきりさせると、

   権力に、引導を渡されたと、

   国民も気づきます。

 

   軍隊と同じです。

   自覚してはいけない。

 

   国民皆兵の徴兵制が、

   ロマン主義者を育てたように、

   ホロコーストが悪いなどと、

   だれも考えません。

 

   ゲルマン系ドイツ人を全員、

   処刑するわけに行かないように、

   ロマン主義者たちが、

   日本国憲法を書き下ろして、

   自分たちが育った精神を再現したのは、

   国民が精神医学を継承したのと、

   同じ事情です。

 
 
論理法則の教条は、何と何と何なのかを、
だれも、知りません。
 
自然の規則性も、その一部しか、
わかっていませんから、
自然科学者は、
もっと規則性を、発見するのが、
日々の仕事です。
 
退屈でしょう。
   
論理学者は、
自然科学の規則性も、法律と同じように、
人が作ったものであると、言います。
 

法律と言われる種類の、

言葉を使った権力の意見のように、

天体の運行や、化学物質の変化も、

知覚を使った種類の、

自然と言われる権力の意見であると。

 
知覚の繰り返しの、
事実の再現性と言われるプログラムを、
自分で書いて置きながら、
忘れているだけですから、
木の実を埋めて、忘れる栗鼠(りす)や、
蛙(かえる)を垣根に刺して、
忘れる百舌鳥(もず)や、
老人性痴呆の、うちの母などと、同じです。
 
老化現象ですが、生まれた時からですので、
早発性痴呆(Dementia Praecox)と言います。
 
現在では、統合失調症と言いますが、
ざっくばらんに、精神病と言えば、
そのことです。
 
法律家や警察官や精神科医などに、典型的な、
精神の病気を言います。
  
   
   規則的なことは、次々に忘れます。
  
   そのために、規則性を作るのですから、
   当たり前ですが、
   コンピュータのプログラムと、
   同じです。
 
   規則的であれば、順調ですので、
   忘れるとも言えますが、
   心理学のような文学では、
   記憶すると、言います。
 
   意に染まぬ他人のことは、
   自傷他害の恐れがあるとして、
   精神病としますから、
   棋士が、将棋や囲碁に強いのは、
   コンピュータや老人性痴呆と同じで、
   規則性を、
   変更不能にするからでしょう。
 
   棋士と棋士が争い、負ければ、
   精神病と診断されるようなものです。
 
   科学技術の事実が、間違いないと、
   信じられるのは、
   知覚の老化にすぎませんから、
   勝った棋士を褒め称えるのは、
   あまり賢くありません。
   
   若ければ、
   事実は2足歩行と同じであると、
   当たり前のように、
   仕組みがわかっています。
 
   1才未満の赤ん坊は、
   皆、知っています。
 
   わたしたちは、自分の子供に、
   早く老化するように、躾けますから、
   早く老人性痴呆になり、
   東京大学医学部に行けば、
   みんなに喜ばれます。
 
   老人でないので、
   早発性痴呆と言いますが。
 
   精神科医は、自分の精神病を、
   患者の精神病と、診断しますから、
   病識がありません。
 
 
こういうことを、わたしは、
中学生の頃に、考えましたので、
今は、一瞬のうちに閃き、
とっくの昔に、忘れています。
 
犯人に報復したり、精神病を治療したりは、
すべきでないと、思っています。
 
犯罪は全部冤罪であり、
病気は全部誤診であると。
 
たまには冤罪や誤診もあると、
言うのでありません。
 
全部がそう。
 
我が子や母親を殺されて、
犯人を憎む人間に、なりたいと、
わたしは、一度も思ったことが、ありません。
 
イラクで首を切られた後藤健二君の母親は、
立派でした。
 
世間は、息子の首を取られて、
頭がおかしくなったと、笑いましたが。
 
人により、解釈が違いますので、
これは、誰々の解釈、これはあなたの意見、
これは、どこそこの裁判官の判決文、
これは精神科医の診断と、
区別するのが面倒です。
 
老化すると、
ついつい規則的に処理しますので、
裁判官や精神科医やマスコミのように、
あほになります。
 
 
   犯人を憎むのが、作法ですので、
   憎んで置きますが、
   どこそこの誰々が殺されたと、聞き、
   本当は、面白いだけで、
   犯人を憎む気持ちは、ありません。
 
   もっと面白いことはないかと、
   退屈していますので、
   娘や孫を殺されても、
   予定外の面倒臭いことが、
   年寄りになれば、
   身に堪(こた)えると、
   ボヤキたくなるだけです。
    

   娘や孫を殺したければ、殺して下さい。

 

   そう思っていますが、

   面倒臭いので、言いません。

 
   子孫の人数が減っても、

   気になりません。

   
   どうせまた、増えますから。
 
 

 


 

 



 
 


 

凌霄花と書き、ノウゼンカズラと読みますが、
中国の植物名の音読みに、近いことは近い。
 
霄の、音はショウ、訓は、みぞれ、そら。
 
雨の下に肖ですが、
肖は、似るとか、あやかるの、意味でしょう?
 
雨に似るから、みぞれは、わかりますが、
空は、どこから来た意味なのか、
わたしは知りません。
 
霄壌って、言いますよね。
天と地の意味。
 
霄壤の差という型通りの表現以外に、
ほとんど使いませんが。
 
霄壤の霄の、空の意味が、
凌霄花(のうぜんかずら)の霄の意味です。
 
空を凌ぐ花。
 
蔓性ですから、
それほど高く登る、という意味ですが、
蔓(つる)から、気根をたくさん出して、
狭い所に入っていきます。
 
湿気や暗がりを求めてと、思いますが、
狭い所に気根が入れば、外れませんので、
蔓を支える足場になります。
 
落葉性ですが、放ったらかしでも、
しぶとく育ちます。
 
蔓性の植物は、他の植物に絡みつきますので、
それだけでも、要領の良い生き方ですが、
ノウゼンカズラは、花もキレイで、
夏の間に、ずっと咲いていますから、
憎たらしくも見えるかも。
 
緑の葉が、鮮やかです。
 
 
   ***    ***
 
 
物理化学の法則と言えども、
人間の知覚に依存せずに、成り立つことは、
あり得ません。
 
知覚されなければ、
その法則の正当性だけでなく、
そんな具体的な現象があるとも、
気づかれないのは、当たり前です。
 
たとえ間接的でも、
どこかで、だれかが、知覚しなければ、
物理化学の現象も、規則性も、ありません。
 
計器の示す数値を知り、論理法則により、
事実の存在や規則性を、類推するだけでなく、
正当性の検証を、直接に知覚できなくとも、
計器を使い、確かに事実を再現できると、
間接的に知覚できなければなりません。
 
実験的に、一部が再現されたとしても、
広く科学技術の事実として、
再現されなければ、
自然科学の信憑性は、希薄です。
 
小保方晴子氏だけでなく、山中伸弥氏にも、
問い質してみると、良いでしょう。
 
 
   刑事裁判で公表される証拠は、
   植草一秀氏の手指に付着していたと、
   科学捜査研究所の
   主張した繊維片のように、
   捏造でない、という証明が、
   通常は皆無です。
 
   刑事事件の証拠物件の、ほぼ全部は、
   書類上の事務的な作り話と、
   識別できません。
 
   和歌山の毒物カレー事件の、
   被告人の家の台所から、
   検出されたという砒素(ひそ)を、
   裁判所は、証拠としましたが、
   物的証拠を捏造した上の、
   捜査当局の讒言(ざんげん)でない、
   という証明が、ありませんでした。
 
   本当であったかも知れませんが、
   作り話であったも知れません。
 
   決定的な判断の根拠は、
   何もありませんでした。
 
   裁判官や検察官や捜査員などの、
   判断力を検査すれば、わかりますが、
   ジャーナリストや
   中学高校の教員などと、
   さして変わりません。
 
   これでは、ゴキブリに向けて、
   殺虫剤を撒(ま)くようなもので、
   ゴキブリの個体による犯罪を、
   洗い出せるとは、到底、思えません。
 
   そのゴキブリは、
   本当に、法律に違反した犯人ですか。
 
   証拠や証明もないのに、
   殺虫剤を吹き付けませんでしたか。
 
   ゴキブリに対する偏見を、
   剥き出しにしただけですから、
   犯罪物語に相応(ふさわ)しい人間を、
   捜査当局が炙(あぶ)り出して、
   法律家が追認したにすぎません。
 
   精神病もそう。
 
   架空の幻聴物語や、させられ体験に、
   相応しい人間を、
   家族が突き出したのでなければ、
   捜査に失敗した当局が、
   冤罪を揉み消すために、
   不起訴にして措置入院にしただけです。
 
 
人間の知覚に拠らない自然の事実や規則性が、
存在すると、物理化学が吹聴したので、
イギリスの産業革命が起こり、
人間の知覚に拠る社会の事実や規則性が、
存在すると、ロマン主義者たちが吹聴して、
ヨーロッパ大陸の、
革命と戦争の時代の、幕を開けました。
 
ロベスピエールやダントンが、
何を信じて、
たくさんの人の首を、ギロチンで刎ねたかは、
数学のできないスターリンやヒトラーや、
日本の法律家たちを見れば、
簡単にわかります。
 
論理的に検証すれば、本当に起こった事実を、
絞り込んで行くことができると、
彼らは、信じていました。
 
数学の規則性やコンピュータを見れば、
明らかなように、
何が本当に起こった事実か、という価値に、
論理法則は無関心です。
 
本当の事実と、嘘の事実を、
論理法則は、識別できませんから。
 
期待する判断の道筋を、
論理法則は、特定するだけですから、
いかにも犯人や精神病のような人が、
論理的に、間違いなく犯人や精神病であると、
指摘されます。
 
 
   独身者の多い木造アパートの近くの、
   ゴミ集積場に、収集日でないのに、
   生ゴミが捨てられて、腐臭が甚だしい。
 
   自治会は、
   木造アパートがあるからと、言います。
 
   高感度の隠しカメラで、
   一晩中、ビデオに撮影すると、
   ゴミ収集日でないのに、真夜中に、
   次々と生ゴミを捨てに来るのは、
   塀に囲まれた邸宅の住人ばかりでした。
 
   警察が、冤罪を作り、
   精神科医が、
   健常な精神の人を、精神病と診断して、
   強制的に隔離監禁するのは、
   いずれも、これと同じです。
 
   精神科では、
   抗精神病薬を強制投与しますから、
   注射を打たれた人は、皆、廃人になります。
 
   2度と治りません。
 
   論理的に、
   これこれなら、必ずこうなると、
   判断できるのは、
   数学でなければ、
   科学技術の事実や、刑事訴訟や、
   精神科の強制入院のように、
   意図して事実を再現するからに、
   決まっています。
 
   主張した通りになるように、
   事実を作るから、自作自演と言います。
 
   脳やコンピュータは、
   そのためにありますから、
   当たり前ですが。
 










 


 

合歓(ねむ)の木は、
多くのマメ科植物と同様に、
夜に葉が閉じて、昼は開いています。
 
サーカディアンリズム(circadian rhythm)
ですが、
日周性と翻訳すれば、
怒られるかも知れません。
 
概日(がいじつ)リズムや
体内時計でなければ、減点すると。
 
ネムノキの鉢植えは、洞窟の中でも、
夜になれば葉を閉じ、朝になれば開きます。
 
光だけでなく、
温度や湿度や、気体の濃度などにも、
影響されずに、朝晩を知っています。 
 
なんらかの仕組が、
1日のリズムと、一致していますが、
わかりませんので、
体内時計と言われています。
 
メカニズムがわかったような顔をすると、
小保方晴子君のように、
袋叩きに遭(あ)うかも。
 
生物には、生まれつきの体内時計があると、
最初から想定して、
考え方や用語を、神秘的に統一しなければ、
生物学者や植物学者は、気が済みません。
 
彼らは、ロマンティストですから、
時間という便利な分類法を、
理解したくありません。
 
時間は、手をつけてはいけない聖域です。
 
生命は、コンピュータや機械と、違う。
そう、信じています。
 
わたしは、そんな迷信と、付き合うのが、
面倒くさい。
 
証拠や証明を、傍聴人に吟味させずに、
人を裁いて処刑したり、
証拠や証明もなく、人の心を病気として、
人格を処刑したりするのは、
体内時計を信仰する人たちに育てられて、
刑事コロンボや大岡越前守のように、
お茶の間の娯楽番組向けに、
改良された人たちでしょうか。
 
 
   ***    ***
 
 
物事(ものごと)には、
納得できる仕組があると、限りませんし、
何らかの規則性を、
自然や人間が、保証しているとも、
思えません。
 
混沌としているのが良いのか、
特定の秩序を好みたいのか、
それとも、絶対に間違いないと、
信じざるを得ない人や文化の老化が、
嬉しいのかって、
だれも、理由を知りません。
 
自然や論理法則は、不滅であると、
信じられる人は、幸せです。
 
人は、みな死ぬ、とかね。
みんなを、見たことがないので、
わたしは知りません。
 
この地球に、75億人も生きているのに、
いったい誰が、全員を見たと、言うのですか。
 
見たこともないのに、
人は、みな死ぬと、わかるわけがない。
 
夢のように、
知覚は、対象がなくても、成り立ちますから、
知覚がなくても、
事実と言われる物事(ものごと)はあると、
信じる人もいます。
 
物理化学の教科書に、
そう書いてありますから、
だれにも、知覚されない物事(ものごと)が、
物理化学の言う規則性の通りに、
事実として、確かに再現される理由は、
言うまでもありません。
 
 
   小学5年生の頃に、
   担任の先生に、よく笑われました。
 
   教科書は、
   片方の試験管に集められた気体に、
   火のついた線香を近づけると、
   ポンッと、爆発するから、
   水素とわかる。
 
   もう一方の試験管の気体に、
   線香を入れると、激しく燃えるから、
   酸素とわかると、言います。
 
   先生に質問されたので、
   そんなの、わかるワケがない、
   この教科書を書いた大人は、あほだと、
   答えました。
 
   こんなことも、わからないのかと、
   笑われて、
   真顔(まがお)で怒られました。
  
   児童は、だれも笑いません。
 
   神戸大学を卒業したばかりの、
   若い先生でしたが、
   電気分解も理解できないほどの、
   あほの大学なのか、
   それとも、
   まぐれ当たりで入学した劣等生か、
   もしかしたら、
   あほバカとは、無関係に、
   大学は、入学したり卒業したりが、
   できるのかと、悩みました。
 
   原理的に、わかるワケがない。
 
 
小学校の教科書に書いてあることは、
全部ウソかも知れないと、
小学2年生の頃に、疑い始めて、
4年生には、確信していました。
 
中学生になると、
真偽の根拠は、任意ですから、
教科書や先生は、
権力を振るいたいに、違いないと、
疑いました。
 
権力は、そんなに良いものかと、
生殖と同じくらいに、
わかりませんでした。
 
任意の真偽の判断を、
法律のような権力が、勝手に取り締まるのは、
簡単ですが、
自然科学の判断の通りに、
科学技術の事実が、再現されるのは、
知覚のメカニズムに、自然科学の判断が、
取り込まれていなければ、いけません。
 
その仕組の細部を、詰めるのが、
中学生には、楽しすぎて、
学校に行きたくありませんでした。
 
列挙した論理法則の教条を、
品種改良の結果の、
生まれつきの変更不能なプログラムの
組み合わせや、
生まれた後の、無意識と老化のせいで、
変更不能になった習慣や文化などの
プログラムの組み合わせに、
仕分けして、
論理法則や時間や空間などの、流行文化が、
知覚の仕組を形成する手順に、
わたしは夢中でした。
 
 
   春休みや夏休みなどに、
   日本全国をヒッチハイクしながら、
   記号論理学に、思いを寄せました。
 
   理科の先生には、
   ロケットを飛ばして、
   宇宙へ行きたいと、
   言っていましたので、
   東大へ行くのかと、尋ねられて、
   うんざりでした。
 
   ヒッチハイクに行きたい。
 
   普段は、登校するよりも、
   植物採集をして、手足を動かしながら、
   知覚の規則性と事実の再現性の、
   組み合わせや枝分かれを、
   試してみるのが、
   3度のメシよりも、好きでした。 
 
   アメリカで、
   パソコンのキットが、発売されたので、
   通信販売で買いました。
  
   キーボードやモニター画面が、
   ありませんでので、
   中古テレビやタイプライターを、
   場末(ばすえ)の古道具屋で買い、
   パソコンにくっつけました。
 
   ハードウェアが完成すれば、
   次はプログラムです。
 
   わたしが作った判断の手順の通りに、
   パソコンが電気回路を制御しますから、
   プログラムの優劣が、
   丸出しになります。
 
   これを、やりたかったので、
   パソコンを作ったのに、
   市販の電卓でも、
   複雑な計算が、速くできるようになり、
   ワープロが発売されました。
 
   パソコンを使い、
   文章を書いているわたしは、
   笑いものでした。
 
   今は、ワープロなんて、消滅して、
   若い子は知りませんから、
   自分の思い通りに、操作する意味を、
   理解できなかった人たちが、
   笑ったのでしょう。
 
 
思い通りが、わからないって、
犬や牛みたいです。
 
わたしの作った規則性を、放り込めば、
人類の脳の、知覚の仕組が、作動して、
わたしの期待する事実が、知覚の対象として、
みんなの目の前に、再現されるから、
面白いのに。
 
他人の脳は、コンピュータですから、
わたしの思い通りに、動かせば、
みんなの目に、
わたしの作った事実が見えるのは、
当たり前です。
 
自然科学の規則性の通りに、
科学技術の事実が、再現されるのと、
同じです。
 
わたしは、自然科学のような、
ロマンティックな規則性を、
信じていませんので、
わたしの作った規則性が、
人類の知覚の対象を、規定して、
具体的に、事実が再現されれば、
科学技術よりも、面白い世の中や人生に
なります。
 
善悪美醜だけでなく、真偽の価値も、
迷信ですから、わたしは否定します。
 
 
   コンピュータが、そうです。
 
   価値により、判断されるのでなく、
   プログラムの通りに、
   組み合わせを選択します。
 
   選択されたほうと、
   されなかったほうの、いずれかを、
   真や偽と、名付けるだけであり、
   正しいとか、本当であるとかの、
   価値には、無関係です。
 
   真偽は、選択の片方と、もう一方を、
   呼び分けるための、名前に過ぎません。
   
   刑事裁判では、これこれの事実であると、
   その証拠を提示します。
 
   公開ですが、
   嘘や間違いの証拠かも、知れません。
 
   指紋が出たと、言いますが
   よそで採取した偽りの指紋と、
   だれが、どのようにして、
   検証しますか。
 
   現場に足跡があったと、
   写真を提示します。
 
   その靴を、捜査員が履いて、
   つけた足跡を、
   写真に撮ったのかも知れません。
 
   物的証拠や証言は、ほとんど自由に、
   捏(でっ)ち上げられます。
 
   警察に反対する証言者は、
   警察に睨まれます。
 
   どうして、傍聴すれば、
   証拠や証言が、嘘や間違いでないと、
   傍聴人に、判断できますか。
 
   嘘や間違いを、判断できないのに、
   何のための、傍聴ですか。
 
   裁判を公開しなければ、
   裁判は、
   権力による事務的な記録の捏造に、
   なります。
 
   書き放題です。
 
   公開しても、傍聴人は、
   嘘や間違いを、判断できません。
 
   これこれのことを、述べたと、
   見て聞くだけです。
 
   事務文書の記録と、
   公判の進行や発言が、同じであると、
   確認するだけです。
 
 
強制的な精神病の診断では、
鑑定診察の進行や発言が、
実際とは、まったく違います。
 
鑑定や診察の記録が、
架空の進行や発言であり、
事実でなく、嘘八百の記録ですから、
非公開の裁判と、同じ実態が、
現実の鑑定や診察の、ほぼ全部です。
 
本当のことは、まず書かれません。
 
公開されずに、ビデオも要求されず、
当人の同意や署名も、不要ですから、
精神科医の書き放題です。
 
なぜ、精神病があると、
人が信じるのかが、不思議です。
 
精神病と診断すれば、
即時に、抗精神病薬を強制投与しますから、
どれほど健康な精神の持ち主でも、
必ず、精神病の症状を、発症します。
 
その症状が、
診断時の精神病の症状であったと、
診断書に記述されているだけです。
 
自作自演と言いますが、
コンピュータや脳や、
知覚や事実などの仕組と、同じです。
 
 

 

 

 

よく見ると、百日紅(さるすべり)のように、
フリルが一杯の花びらですが、
ミソハギ科と言いながら、
禊萩(みそはぎ)に、
こんなフリルは、なかったような。
 
サルスベリは、中国南部の原産ですが、
シマサルスベリは、
南西諸島に自生しているそうです。
 
シマは、南西諸島の意味です。
 
島百日紅の自生の個体は、
20メートルに、なるそうですが、
ありきたりの百日紅のほうは、
何メートルになるのでしょうか。
 
いずれも、日本本土に自生しませんので、
知らないのは、当然ですが、
植栽されているシマサルスベリは、
確かに大木です。
 
ふつうの百日紅のほうは、真夏に、
その名の通りに、ずっと咲き続けますので、
こじんまりとした幹から、
ひょろっと伸びた穂のように、
風に揺られている姿が、印象に残ります。
 
島百日紅は、大木になるだけでなく、
葉の量も、桁違いに多く、
真夏に、こんもりと茂った日陰を作ります。
 
梅雨の最中の今頃に、
短く咲いて、散りますから、
島百日紅は、百日紅に比べて、
野生が残っていると、言うべきなのか・・・
 
関東平野なら、
北関東でも大丈夫と、言われていますが、
わたしは、東京や大阪の、街の中でしか、
見たことがありません。
 
遠くからは、栃の木よりもデカイ木に、
花が咲いている感じですが、
季節が少し遅く、近づくと、葉が違います。
 
シマサルスベリと気づき、
大喜びで写真を撮るわたしは、あほです。
 
 
   ***    ***
 
 
2足歩行のように、
無意識の習慣が、自動的に実行されることを、
わたしたちは、知っています。
 
言葉は、特に学んだつもりが無くても、
幼児の頃に接すれば、勝手に覚えます。
 
成人してからでは、努力して学ばなければ、
死ぬまで習得できません。
 
年齢による違いがあります。
 
猿に教えても、聞き取ることさえ、
なかなか、できないように、
生まれつきの素質は、個体により違います。
 
猿と人間の、生まれつきの素質の差が、
見てくれの違いにより、識別できますので、
わたしたちは、エステティックにより、
個体を差別して、
猿や人間と、名付けています。
 
けっして、
性交渉や遺伝子の分析などを、試みてから、
生殖不能や遺伝的素質などを、
知ったのでありません。 
 
見てくれだけで、決定的に差別しますから、
エステティックと言います。
 
その問題を、今は、さて措(お)きます。
 
 
   時間や空間や論理法則などのうちの、
   時空は、他の動物にも、
   古くから伝わるプログラムです。
 
   簡単に証明できますので、
   証明しません。
 
   そのような証明と言われる言説は、
   論理法則に
   一致しなければなりませんが、
   何と何が、
   論理法則と言われる教条であるかを、
   だれも、全部は知りません。
 
   論理法則の個々の教条は、
   文法のように、
   ただの流行文化にすぎません。
 
   知覚が、時間や空間だけでなく、
   論理法則と言われる言語の規則性の、
   流行文化に一致するので、
   自然ついての、
   科学と言われる論理法則による証明が、
   科学技術の事実のように、
   だれが、いつ行なっても、
   知覚の対象として、再現されます。
 
   言語の流行文化の規則性の通りに、
   規則的に、対象が知覚されるので、
   自然を論理法則により説明した通りに、
   確かに科学技術が再現されると、
   知覚されることを、
   自作自演と言います。
 
   無意識の習慣と、
   生まれつきの素質のような、
   規則性のプログラムが、
   知覚を制御しているからです。
 
   特定の習慣は、
   文化的に、すべての個人に行き渡り、
   特定の生まれつきの素質は、
   望まれない素質の個人を殺して、
   品種を改良すれば、
   すべての人が、同じ知覚の規則性を、
   共有することができます。
 
   
当然に、知覚の対象は、不要でないかと、
疑われます。   
 
知覚の規則性を、共有すれば、
知覚の対象を、共有する必要は、ありません。
 
わたしたちは、他人の知覚の内容を、
だれも、検証することができないと、
すでに何度も、このブログに書いた通りです。
 
個人の知覚の内容を、他人に伝えるための、
言葉や写真やビデオなどの、
コミュニケーションのメディアの表現を、
他人は、共有することができるだけですので、
個人の知覚の内容が、表現の通りであると、
他人は、だれも検証することが、できません。
 
他人に共有された知覚とは、
言葉や写真などの、
メディアの表現にすぎません。
 
そもそも、論理は、
違うものを同じと、定義するのが、基本です。
 
同じ言葉を、使用するたびに、
定義の内容は、異なりますから、
言葉は、すべて同音異義語です。
 
言葉だけでなく、
写真や音声ファイルやビデオなども、そう。
 
概念は、すべて同音異義語です。
 
 
   わたしたちは、対象を知覚して、
   規則性を知るのでなく、
   一連の知覚の仕組に、
   いくつもの規則性を放り込めば、
   概念を限定して、対象を知覚したと、
   自覚する答えが、出てくるだけです。
 
   目があり、身体があると、
   知覚された事実は、
   限定された概念にすぎませんから、
   わたしたちは、
   漠然として限定されない概念を、
   幾つもの文化的な規則性の信仰から、
   目や身体のように
   具体的に限定された事実として、
   対象が知覚されたと、
   自覚するにすぎません。
 
   リアルタイムで、
   信じる規則性が変わるので、
   限定されて知覚される事実も、
   変化するのは、当然です。
 
   事実を信じるのは、
   妄想や幻覚の典型ですから、
   それを、主たる症状とする精神病が、
   単に、精神科医自身の精神を、
   診断したにすぎないと、
   わからなければいけません。
 
   自分の病気を、患者のせいとするのは、
   精神科医であることが、
   最もひどい精神病であるからです。
 
   

 

 

 

姫女苑(ひめじょおん)は、
梅雨時から秋まで咲く2年草です。
 
春紫菀(ハルジオン)は、
4~5月に咲く多年草です。
 
花びらの幅が、
ヒメジョオンは1.5mm以上で、
ハルジオンは1.2mm未満と、
言われていますが、
1.3mm1.4mmというのを、
しょっちゅう見かけます。
 
ハルジオンの葉は、少し茎を抱き、
ヒメジョオンは、葉柄がないものの、
茎を抱きません。
 
咲く季節が違うので、
なんとなく、わかりますが、
今頃なら、
まだハルジオンが、咲いているかも。
 
ヒメジョオンの茎は、
中身が詰まっていますが、
ハルジオンは、中空ですから、
これが、いちばん確実かも。
 
わたしは、
品種や変種の、すぐに出来る草花が、
苦手です。
 
ヒメジョオンとハルジオンは、
そう簡単に、雑種が出来ないので、
別の種(しゅ)とされています。
 
同じErigeron(ムカシヨモギ属)です。
 
 
   ***    ***
 
 
   生殖できずに、
   めったに雑種ができない理由を、
   わたしは知りませんから、
   2年草と多年草や、花びらの幅や、
   茎の中実と中空や、
   茎を抱かないと抱くなどの,違いが、
   原因に関係ないとも、知りません。
 
   咲く季節の違いが、生殖不能の原因に、
   1番近いような気もしますが、
   生殖できない原因でなければ、
   変更不能の違いが生ずることもないと、
   必ずしも言えません。
 
   こういう理屈は、
   わたしの経験から言えば、
   小学2年生頃に、ようやく、
   言葉に表現することができるくらいに、
   言葉の使用に、習熟しましたが、
   言葉に表現できない幼児の頃から、
   直感的には、当たり前であると、
   自覚していました。
 
   言葉と、論理法則と言われる規則性が、
   一致することが多く
   論理法則は、流行の文法にすぎないと、
   言われていますが、
   言葉に表現できない幼児の頃の、
   直感的な自覚が、
   論理法則によるものなのか、
   そうでないのかは、確定できません。
 
 
わたしたちは、
論理法則と言われる流行文化を、
知覚の規則性とするように、
おそらく1才未満の赤ちゃんの頃に、
習得して、以後変更不能になりますので、
論理的に説明される通りに、
科学技術の事実が、再現されます。
 
論理法則のほうは、文化的に、
特定の流行が、変更不能になりましたので、
特定の文化に馴染まない者を、
殺すことにより、
遺伝形質の中から、特定の形質を選び、
純化したにすぎません。
 
 
   科学技術の事実のように、
   飛行機や宇宙船が、
   計算通りに空を飛び、
   だれが行なっても、
   何度も繰り返して再現されるのは、
   その通りに知覚される規則性ですから、
   赤ちゃんの頃に繰り返すことにより、
   習得された特定の文化的な判断が、
   無意識の知覚の習慣になり、
   同じ文化に染まったみんなの、
   同じように規則的な知覚の仕方が、
   変更不能になっているだけです。
 
   2足歩行が、
   無意識に行なわれるにもかかわらずに、
   意志の命令によることは、
   自由に立ち止まり、
   自由に歩き始めることが出来るので、
   誰にでも、
   習慣であると検証できますが、
   それだけでなく、
   生まれつきのプログラムが、
   必要であることは、
   猿と比べたり、
   生まれつきに健康にもかかわらずに、
   2足歩行のできない人と、
   比べたりしなければ、
   なかなか確定できません。
 
 
知覚の規則性が、ただの習慣でなく、
生まれつきに、
すでに純化されたプログラムを、
遺伝的に受け継いでいることを、
直感的に自覚するのは、
幼児には不可能であり、言葉に習熟した後に、
法律や歴史の要点が、
品種改良のための人殺しを、善良として、
他人に強制して教え込んでいることを、
理解しなければいけません。
 
法律が、違反者を懲罰することよりも、
精神医療が、現行の文化に馴染まない者の、
人格を抹殺することのほうが、
科学技術のように、
確実と信じられている事実を守るには、
必需です。
 
 
   わたしは、自由に、
   2足歩行を始めたり、
   止めたりができるように、
   論理法則の通りに
   知覚したり、しなかったりを、
   自由に変更できると、
   幼児の頃から、知っていました。
 
   科学技術の再現性の変更不能な事実は、
   ただの、知覚の癖でなければ、
   他人のように、生まれつきに、
   その癖が純化されたプログラムを、
   遺伝的に受け継いだせいで、
   色覚障害の人が、
   赤と緑を識別できないように、
   それ以外の選択ができずに、
   変更不能になっているだけであると。
 
   言葉や法律や歴史などを、知った今は、
   そのように表現できますが、
   遺伝的に純化されたプログラムを、
   受け継いでいないわたしには、
   自由に立ち止まったり、
   歩き出したりの、出来ない他人が、
   安物の機械に見えます。
 
 
科学技術のように、
流行の論理法則を使わなければ
知覚できない事のために、
ここ数十万年の人間の流行文化に、
意識を固定しなければいけないのは、
なんで、タバコを吸わされるのかと、
文句を言いたくなります。
 
酒も飲みたくないが、他人には選択不能で、
わたしには、選択可能であるって、
面倒臭い。
 
こいつら他人が、圧倒的多数派であるのは、
わたしのような人間を殺したから、
遺伝的素質が純化されたのが、原因です。
 
科学技術は、
鉄砲や黒船や原爆やコンピュータのように、
品種改良が目的ですから、わたしは危険です。
 
ロマン主義者に見つかると、必ず殺される。
 
そういう思いを、
このブログに書いていますが、
精神病患者は、
抗精神病薬を飲まされていますから、
不可逆的なあほに、なっています。
 
わたしだけが、生き残っている、
という思いを、だれとも共有できません。
 
科学技術が間違いないと、確信されるのは、
ただの癖でなければ、
知覚の仕方の遺伝なのに・・・
 
科学技術は便利であると、思うのが、
2足歩行モードを変更できない人が、
そうでない奴を、殺して来た科学技術により、
純化された遺伝にすぎませんから、
世代を超えた犠牲者と、言うべきか、
ゾンビと言うべきか。
 
   


   
   




 

 

池が、半夏生(はんげしょう)で埋まり、
柘榴(ざくろ)の赤い花が、見えます。
 
半夏生のことも、何度も書きましたので、
もう、飽き飽きです。
 
72候の半夏生は、
24節気の夏至の3候の内の、
末候を言いますが、
毎年、7月2日の前後、5.07日間が、
半夏生です。
 
太陽暦の1年を、
均等に、72等分しただけですから、
地球や太陽の軌道が、頭に浮かび、
幾何学的です。
 
 
   72候の半夏生は、
   烏柄杓(からすびしゃく)の咲く頃と、
   解説されていますが、
   サトイモ科のカラスビシャク
   (Pinellia ternata)の塊茎から、
   生薬の半夏を採取するので、
   植物の種(しゅ)の、
   カラスビシャクのほうも、
   半夏と言われたのでしょう。
 
   7月2日は、確かに72候の半夏ですが、
   写真のドクダミ科のハンゲショウ
   (Saururus chinensis)の咲く
   今頃(6月中頃)も、
   半分は夏の、季節感です。
 
   植物の種の、ハンゲショウは、
   どうして、この名でしょうか。
 
   72候の半夏の頃よりも、
   梅雨入り直後から、梅雨明けまで、
   ずっと、咲きっ放しです。
 
   葉が白くなるので、
   半化粧と、言う人もいて、
   こっちのほうが、わかりやすい。
 
   カラスビシャクから、
   72候の半夏生を、パクって来たような
   名前です。
 
   植物の花や生殖器は、
   葉が変形したものですから、 
   あと数千万年もすれば、
   花になるのかも知れません。
 
 
   ***    ***
 
 
わたしたちが、
日頃に、知覚する物や事(こと)のうちで、
事実の証拠や証明のあるのは、
何%ぐらいでしょうか。
 
量を測るのが困難ですが、
科学技術のように、間違いないと、
確信できる知覚の内容は、
どれくらいでしょうか。
 
わたしの山勘というか、
当てずっぽうと言うか、
ざっくばらんな目分量では、
0.1%未満でないかと、直感します。
 
その割合は、0.1%でも、99%でも、
どうでも良いのですが、
1日中、
ボイスレコーダやビデオカメラなどを、
身体にくっつけて生活すると、
99.9%にまで、割合が高くなるでしょうか。
 
もしも、そうなら、
1日中、公費で録画録音して、
データの公的な保存を、お勧めします。
 
冤罪や精神病が、なくなりますから。
 
痴漢と言われて、かえって、
冤罪や精神病のもとに、なりそうですが、
公費の公的な録音録画なら、
問題ありません。


 
   冤罪については、
   どれくらいの比率かを、
   わたしは、知りません。
 
   詳しく調べたことが、ありませんので。
 
   精神病のうちの、強制的に診断して、
   強制的に監禁投薬するものは、
   生活の全部が、録画録音されれば、
   100%全部、なくなります。
 
   本人の望まない診断や治療を、
   強制的に行わねばならない種類の
   精神病は、原理的に無いからです。
 
   健常者が、法律に違反して、
   処罰されるのでなく、
   本人の希望により、
   診断して投薬するのでもなければ、
   精神病は、
   薬物や身体の病気による症状しか、
   ありません。
 
   原因となる身体の病気や薬物や、
   本人の意思による服薬などが、
   医師により、
   公開で証明されなければ、
   医療が原因でしか、ありません。
 
   医原病の原因としての医療が
   医師により、公開で証明されなければ、
   強制的に診断投薬された精神病は、
   医師により捏造された架空の病気です。
 
   生活の全部が、
   公的に録画録音されれば、
   強制的な精神病の診断や治療の
   全部が、
   医師の捏(でっ)ち上げた病気であると、
   証明されます。

   

 

 

 

忘れな草(Non Ti Scordar di Me)
 
テノール : アリゴ・ポーラ(Arrigo Pola)
 
    ※ 他の10倍の巨大音量に、注意!!
 
 
   ***    ***
 
 
作詞 Domenico Furno 作曲 Ernesto De-Curtis

   Non Ti Scordar di Me


Partirono le rondini dal mio paese freddo
E senza sole
Cercando primavere di viole
Nidi d'amore e di felicità
 
La mia piccola rondine partì
Senza lasciarmi un bacio
Senza un addio partì
 
Non ti scordar di me
La vita mia legata a te
Io t'amo sempre più
Nel sogno mio rimani tu
 
Non ti scordar di me
La vita mia legata a te
C'è sempre un nido nel mio cor per te
Non ti scordar di me
 
Non ti scordar di me
La vita mia legata a te
C'è sempre un nido nel mio cor per te
Non ti scordar di me


よく歌われますので、
日本語訳も、インターネットに一杯です。
 
ようするに、

つばめは去って行った。
春の花と幸せを求めて。
別れの言葉もキスもなく。
 
わたしを忘れないで。
心の中に、いつも、あなたがいる。
 
そういう意味の歌詞ですが、
騎士ルドルフと恋人ベルタの、
忘れな草の民話を、踏まえた歌詞です。
   
 
   グリム童話(Grimms Märchen)の
   いばら姫
   (Dornröschen 眠れる森の美女)に
   ゆかりの、
   ドイツのラインハルトの森
   (Reinhardswald)の、
   ザバブルグ城(Schloss Sababurg)
   には、
   忘れな草の伝説が伝わり、
   現在は、ホテルになっていますが、
   あたり一面に、
   播種された忘れな草が一杯です。
 
   ライン川の支流の
   マイン川(Main)のほとりの、
   ヘッセン州(Land Hessen)なのに、
   忘れな草の民話は、
   ドナウ川のほとりの話です。
 
   騎士ルドルフが、少女ベルタのために、
   青い綺麗な花を、
   摘んであげましたが、
   足を滑らせて、ドナウ川に流されます。
 
   摘んだ花を、岸辺のベルタに投げて、
   僕を忘れないでと、笑っていましたが、
   そのまま、岸から離れて、
   2度と戻りませんでした。
  
   彼女は、ルドルフの墓に、
   青い花を一杯摘んで、供えました。
 
   騎士ルドルフの実家が、
   ヘッセンのザバブルグ城と、
   言うのです。
    
   ヨーロッパの、ゲルマン系民族の、
   至る所に伝わる民話ですが、
   中世の城の維持費は高く、
   観光客誘致に熱心でした。
 
 
忘れな草は、
ドイツ語では、Vergissmeinnicht、
英語では、Forget-me-notと言います。
 
日本語は、1905年(明治38年)に、
マリモや台湾の植物の川上滝弥が、
忘れな草と、翻訳しました。
 
さそり型花序(scorpioid)の、
ムラサキ科のワスレナグサ
(Myosotis scorpioides)です。
 
このブログに、何度も書きましたが、
リンクしようとすると、
ブログを、複数回、引っ越していますので、
アドレスの関係で、
面倒くさいことになります。
 
好きな人は、検索して、探してみて下さい。
わたしのブログにも、書いたことがあります。
 
ワスレナグサの近縁種や品種すべてを、
一般に、忘れな草と言いますので、
ワスレナグサ属(Myosotis)全部を、
指(さ)しています。
 
 
   歌は、ドイツ民話にもとづく詩に、
   ナポリのクルティスが作曲しました。
 
   カンツォーネ・ナポレターナ
   (Canzone napoletana)の体裁ですが、
   1935年のイタリア映画
   "Non Ti Scordar Di Me" の、
   主題歌として、
   テノールのベニャミーノ・ジーリ
   (Beniamino Gigli)が歌いました。
 
   
歌の意味は、忘れな草よりも、ツバメですから、
わたしは、
若いツバメ、という日本の言葉のほうを、
思い出してしまいます。
 
元始、女性は太陽であった、の、
婦人運動家の、平塚らいてい(平塚雷鳥)が、
年下の男性画家を、若いツバメと、
呼んでいました。 
 
マスコミのネタになり、持て囃されましたが、
男性のほうが、逃げ出した時の、
らいてう宛の手紙に、
 
「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ
一羽のツバメが飛んできて
平和を乱してしまった。
若いツバメは
池の平和のために飛び去っていく」
 
と書いたのを、
らいてうが『青鞜』に発表して、
またまた、有名になりました。
 
若いツバメとは、
年下の恋人の男性の意味です。
 
この画家の奥村博史の言葉のほうが、
クルティスの歌の、忘れな草の歌詞に、
ぴったりです。
 
 
   今回は、
   アリゴ・ポーラ(Arrigo Pola)の
   テノールを貼り付けて置きます。
 
   オペラ歌手でしたが、
   東京芸大に雇われましたので、
   日本の歌好きには、
   お馴染みの先生です。
 
   いま聞いても、上手(うま)い。
   こんなに上手いのを、
   どうやって、引き抜いて来たのかが、
   不思議です。
 
   来日以前に、
   シンガポールやインドネシアなどでも、
   オペラを教えていましたから、
   アジア人に、ベルカントを聞かせて、
   ドヤ顔をするのが、
   好きだったのかも知れません。
 
   インドネシアにしても日本にしても、
   伝統的な発声法がありますから、
   テノールを聞いても、驚きません。
 
   昔は、
   マイクやスピーカがありませんので、
   世界中、どこでも、
   プロの歌手は、大声を出さなければ、
   仕事になりません。
 
   毎日、大声を出しても、
   大丈夫な発声法は、
   世界中、どこにでも、伝わっています。
 
   ヨーロッパの発声法が、
   一番良いとは、だれも思いません。
 
   わたしは、男性の高い声なら、
   45年くらい前の、
   最上川舟唄の大塚文雄のほうが、
   こんなに聴き応えのある声を出して、
   大丈夫なのかと、はらはらしました。
 
   日本民謡の高い声は、
   喉を痛めますから、
   男声の民謡歌手は、声の寿命が短い。
 
   大塚氏の声を聞いてから、
   フランコ・コレッリ(Franco Corelli)
   を聞いても、粕(かす)でした。
 
   
アリゴ・ポーラは、藤原歌劇団の音楽監督も、
引き受けていましたから、
日本のオペラファンは、皆、知っています。
 
歌い方が、上手い。
 
なるほど、大学教授にぴったりですですが、
教え方が上手いかは、知りません。
 
世界的には、
パバロッティ(Luciano Pavarotti)の
先生として、知られています。
 
貧乏人のパバロッティ家のために、
現役の一流のオペラ歌手が、
幼児のピアノのお稽古のような月謝で、
教えたのですから、
彼を見込んで、投資したのでしょう。
 
パヴァロッティを育てたお蔭で、
東京芸大教授になりましたから、
褒められたのでしょうか、
それとも、アホと笑われたのでしょうか。
 
わかりません。
 
現役の一流の歌舞伎役者が、
アメリカの素人歌舞伎の役者の、
個人教授を引き受けるのは、物笑いです。
 
なんでアメリカ人に
能や歌舞伎を、教えないといけないのか・・・
 
なんで日本人に、
オペラを教えないといけないのか。
 
藤原義江は、
メトロポリタンの蝶々夫人の公演を見て、
レベルが低いと、文句を言っていましたから、
なるほどと思います。
 
必ず、師を超える弟子が、現れますから、
アリゴ・ポーラに教えられれば、
日本のオペラは、世界一流になります。
 
なんで日本人が、オペラなのかと、
それが問題です。
 
 
   声の質は、95%くらい、
   頭蓋骨の形により、決まります。
 
   ラジオで声を聴き、
   知らない人の顔を、想像してから、
   実際に顔を見ると、
   ほぼ的中しています。
  
   その反対に、前と横からの写真を見て、
   声を想像してから、
   実際に声を聞いても、
   やはり予想通りです。
 
   顔と声は、同じなのです。
 
   声が良いとは、
   顔が良いと言うのと、同じで、
   ほぼ完全に、エステティックです。
 
   歌が上手いと、評価するのは、
   顔を評価しているのと、同じですから、
   問題です。
 
   なぜ、日本人が、オペラなのかと。
 
   嘘こけと、思うかも知れませんが、
   声の質の識別と、頭蓋骨の形の識別が、
   同じであるのは、簡単に実験できます。
 
   わたしは、
   オペラ歌手に首ったけの耳鼻科医を、
   信じません。
  


 

 

車輪のように、葉をつけるので、
この名前ですが、
輪生でなく、バラ科ですから互生です。
 
葉が、密集していますので、
枝先のほうの、上から見ると、
確かに、葉が全方向に伸びて、
車輪のように見えないことも、ありません。
 
わたしは、
道路の分離帯に植わっているので、
車を思い出します。
 
排気ガスに曝(さら)されて、
埃(ほこり)まみれでも、育つのでしょう。
 
たいていの人は、分離帯の低木を、
庭に植えたくないけれど、
放ったらかしでも、大丈夫なので、
地植えなら、水やりの必要もありません。
 
長期間、留守にする人には、もって来いです。
 
海岸の植物は、根を、深く伸ばしますので、
乾燥に強く、
海岸の砂地に似た土地が、
良いかも知れません。
 
わたしは、足元の風通しを、良くしたいので、
皐月や躑躅や車輪梅などの、灌木を、
あまり植えませんでした。
 
横須賀に暮らしていた時ですが。
 
今は、娘夫婦や孫たちに、家を明け渡して、
都心の、しがないマンション暮らしですから、
出入り自由の、刑務所のようなものです。
 
自分の庭は、ありません。
 
1つ1つの花は、バラ科ですので、
梅に似ていますが、
この花序を見て、梅と思う人は、あほです。
 
わたしは、そういう天然ボケが、好きですが、
わざと貶(おとし)めて、
讒言(ざんげん)をする捜査員や、
精神病と診断して、
人格を葬り去る精神科医などが、
世の中には、たくさんいます。
 
 
   ***    ***
 
 
脳の神経細胞の樹状突起は、
樹木の枝や、進化系統図のように、
枝分かれをしています。
 
判断もまた、枝分かれをしますが、
神経細胞の樹状突起は、
使わなければ、すぐに消滅します。
 
男性の朝立ちのように、
使わなくても、樹状突起が消滅しないように、
毎日、試験的に、電気が通るように、
プログラムされていたりします。
 
コンピューターにも、ものすごい数の、
電気回路の枝分かれがありますが、
ICやLSIなどと言われる集積回路は、
チップの中に、密封されています。
 
電気回路ですから、
使わなくても、消滅しません。
 
 
   わたしたちの記憶は、
   特定の判断の組み合わせのみが、
   変更不能になり、
   他の判断の組み合わせを、
   なぞることが出来なくなった状態を、
   言います。
 
   樹状突起の廃墟であり、
   玉の動かない算盤(そろばん)に、
   似ています。
 
   ほとんどの枝分かれを失い、
   すべての判断の組み合わせを
   再現する汎用性もなく、
   ただ、特定の判断の道筋だけが、
   サンゴ礁のように、
   遺骸として残っているのが、
   記憶の正体です。  
   
   特定の枝分かれの道筋のみが、
   固く残り、
   他の枝分かれが、
   消滅してしまった樹状突起の、
   生命活動を失った状態です。
 
   脳の、生きている神経細胞について、
   これが起こります。
 
   記憶や記憶力が良いと、言えば、
   文化的には、褒め言葉ですが、
   生理的には、老化現象にすぎません。
 
   他の判断の道筋を、
   再現することができずに、
   汎用性を失った神経細胞の、末路です。
 
 
知覚に、記憶の仕組みが、よく現れています。
 
ロマン主義者は、
物や事のような、対象を知覚すると、
考えましたが、
大昔から、知覚の対象の存在を、
だれも証明できませんでした。 
 
対象がなくても、知覚できます。
 
むしろ、知覚するとは、
幻のように、
対象を作り出して、知ることでないかと、
疑われました。
 
わたしたちが、知覚や思考を、
モニターするように、自覚する機能は、
自分で作り出した対象を、
自分で知覚するために、必要であると、
言われています。
 
モニター機能を経て、
作り出された幻のことを、事実と言います。
 
 
   科学技術の事実は、幻なのかと、
   疑問になります。
 
   目や耳や鼻は、何のためにあるのかと。
 
   科学技術の事実が、
   幻でないと、特別に信じられる理由は、
   ありません。
 
   事実が自作自演なら、
   科学技術の事実が、
   最も念入りに作られた自作自演である、
   というだけの話です。
 
   みんなの合意で、作られていますから。
 
   目や耳などは、
   幻を、幻と感じない端的な例であり、
   自分自身のことは、
   知覚や思考をモニターして、
   自覚する仕組のように、
   フィードバックしているので、
   わかりにくいだけです。
 
 
わたしたちは、
変更不能になった判断の手順により、
毎度お馴染みの規則性に違わない幻を、
事実として知覚します。
 
わたしたちが知覚した事実は、
そうでなければいけないと、
確信するくらいに、脳の老化のせいで、
規則性の記憶が、変更不能になっています。
 
多くは、融通が効かなくなった文化を、
権力により、個人が強制されたものです。
   
 
   わたしと、すぐ近くの人が、
   同じ物事(ものごと)を知覚するのは、
   同じ文化を、強制されているので、
   ごく近くに居る2人が、
   これこれの物事が見えるはずと、
   想像した中身も、
   酷似しているだけです。
 
   空間的に近いと認識するのは、
   そもそも、同じプログラムの結果の、
   可能性が高い。
 
   似ているプログラムを、いくつも使い、
   似ている判断が、いくつも重なれば、
   同じ事実が見えるのは、当たり前です。
 
   知覚された事実が似ているのは、
   判断のプログラムが似ていたからに、
   決まっています。
 
   事実と言われる知覚の対象は、
   判断に使用された変更不能な規則性が、
   表示されているだけです。
 
   樹状突起の残骸が、
   見えているにすぎません。
 


 
   



 

 

わたしは、立葵(たちあおい)と、
芙蓉(ふよう)や木槿(むくげ)を、
よく間違えそうになります。
 
すくっと1本、
立っているのが、見えなければ、
間違えます。
 
 
   ***   ***
 
 
戦時に、権力が、
どのような人間を、どのような方法により、
選別するかを、
現代人は知りません。
 
第二次世界大戦後、
日本は、戦争を経験していないだけでなく、
国民皆兵や男子皆兵の徴兵制がなく、
民衆は、軍事教練を受けていません。
 
野蛮なことを、知りませんから、
権力と、知覚や判断との、関係について、
無学文盲のようなものです。
 
平和は、鉄砲を使わない戦争であると、
毛沢東も、言っていたくらいですから、
ロマンティストの目があれば、
文化大革命よりも、日本の平和が、
革命戦争よりも、野蛮かも知れません。
 
 
   わたしは、アフガニスタンの内戦時に、
   現地のソ連軍に、
   銃の扱い方を、教えられるまで、
   鉄砲の実物を見たことも、
   ありませんでした。
 
   男子皆兵の、2度の世界大戦に、
   徴兵された一般市民が、
   自国の軍隊に殺されずに、
   生き残るために、
   習熟しなければいけなかった精神が、
   今も求められていると、
   安倍晋三君は、
   信じているかのようです。
 
   社会体制でなく、
   必死で適応しようとした精神が、
   大切であると。
 
   彼は、好んで、
   企業戦士という言葉を使い、
   日本が追求すべきと信じる価値を、
   表現します。
 
   高度経済成長の時代よりも、
   むしろ、第二次世界大戦の頃の、
   軍国主義や全体主義に、
   求められた精神を、
   現代日本が求めていると。
 
   鉄砲を突きつけられて、
   生き方を強制された人間の心が、
   今も、社会人の心得であり、
   日本に必要であると、
   安倍晋三君は、確信しています。
 
 
なぜ、権力の言うことを聞かなければ、
殺されると、覚悟した心が、
良いのでしょうか。
 
トルストイの戦争と平和の、
ピエールのような心です。
 
みんなと一緒の価値観を、
国の隅々までに強要する考え方は、
16~17世紀の、絶対主義王朝の時代よりも、
むしろ、フランス革命後の
19世紀のヨーロッパの一般庶民に流行して、
ナチスドイツやホロコーストや
原子爆弾投下などと共に、
20世紀の中頃に滅んだ思想です。
 
マルクス・レーニン主義者が、
ナチスドイツや軍国主義日本を、
批判しましたので、
共食いのような批判勢力も含めて、
遅くとも、ソ連の崩壊により、
ロマン主義は、一掃されたと、
言われています。
 
 
   18世紀後半のフランス革命から、
   20世紀の終わりまでの、
   世界の思潮です。
 
   日本の幕末の志士たちも、
   フランス革命に憧れましたので、
   明治維新の薩長政府は
   純然たるロマン主義を標榜しました。
   
   イギリスの産業革命に、遅れを取り、
   存亡の危機に立たされた大陸の
   ヨーロッパ人が、
   フランス革命を起こしました。
 
   王侯貴族や聖職者を、殺して、
   荘園に囲われていた農奴を、
   こき使うために、
   都会の工場に引っ張り出しました。
 
 
自然科学の法則が、
産業革命の原動力の科学技術を生んだように、
人間や社会の、精神や文化にも、
自然法則があり、人間を選別して、
品種改良を成し遂げた民族が、
産業革命に打ち勝ち、生き残ると、
民衆を鼓舞しました。
 
ナポレオンが、
ヨーロッパ大陸の合理化を目指したように、
ソ連やナチスも、
世界を統一する国家や政府を望み、
社会主義を標榜しただけでなく、
革命や戦争を、次々に起こしました。
  
ヒトラーは、ヨーロッパ全土に、
戦争を仕掛けて、
ロンドンに、ロケットを打ち込み、
大陸とイギリスの、ユダヤ人を、
絶滅させようと目論見ました。
 
 
   ユダヤの資本家は、
   イギリスの産業革命の張本人でしたが、
   すでに、経済や産業の本拠地を、
   アメリカ大陸に移していましたので、
   イギリスは、もぬけの殻でした。
 
   ヨーロッパに残った同胞たちが、
   ほんの600万人ほど、
   ヒトラーに殺されただけです。
 
   日本の幕末の志士たちが、
   ロマン主義を目指して、
   新しい国を作り、せっかく、
   第二次世界大戦に負けたのに、
   日本国憲法のように、
   一層ロマンティックな憲法を、
   頂く嵌めになりましたから、
   踏んだり蹴ったりです。
 
   負けたから、
   もっと負ける憲法を、
   押し付けられたのは、当たり前ですが、
   現代人には、理解できませんでした。
 
  
マッカーサが、日本国憲法のように、
ロマンティックな復古主義を、
日本に再現したのは、
ソ連が、まだ死んでいなかったからですが、
マッカーサも、死んでいなかったからに、
違いありません。
 
ナポレオンやナチスと同様に、
ソ連は、
生粋(きっすい)のロマン主義社会でしたが、
戦勝国でした。
 
アメリカと、ソ連や中国の、
ロマン主義者たちは、
共食いをしなければ、気が済みません。
 
中学や高校の子どもたちが、
すばしこく、1番の成績になり、
東京大学医学部出身の医師の、鼻が高いのと、
ロマン主義者が、民衆の選別を、
確信する気持ちは、さほど違いません。
 
朝鮮戦争やベトナム戦争の、
わたしの青年時代には、
ロマン主義の亡霊たちが、
ゾンビのような戦いに、明け暮れていました。
 
ジャーナリストのような敗残兵は、
冷戦と自嘲しましたが、
わたしは、海ゆかばの歌詞を、
大伴家持が、ほんとうに歌ったのかと、
気になりました。
 
海ゆかば、水漬く屍、
山行かば、草生す屍、
大君の、辺にこそ死なめ、
かへりみはせじ
 
 
   イギリスやアメリカの、ユダヤの、
   産業革命の勢力に、
   蔑(ないがし)ろにされて、
   ソ連が、1991年に崩壊したことは、
   若い子でも、知っています。
 
   アメリカのロマン主義のゾンビは、
   どうなったのかと、
   ちっとも、気になりませんでした。
 
   ブッシュが、イラクと戦ったり、
   トランプが、北朝鮮と会談したりと、
   いまだに、夢中ですが、 
   餌(えさ)がなくなれば、
   共食いは、当たり前ですから、
   やがて、安倍晋三君も、
   引っ張り出されるでしょう。
 
   彼は、コンピュータを知りませんから、
   食べなければ生きて行けません。
 
   ロマン主義は、
   ゾンビが、人間の筋肉や脳みそを慕い、
   人間を食べる時代でした。
 
   コンピュータは、
   野蛮でありませんので、
   絶食療法のように、何も食べません。
 
   
ロマン主義と、思想のことを言うのなら、
イギリスやユダヤの、産業革命の司令塔は、
イギリス経験論と、目されるべきです。
 
ナポレオンやレーニンや
ヒトラーやマッカーサや東条英機などの、
ロマン主義者たちとは、
正反対の考え方でした。
 
第二次世界大戦終了と共に、
コンピュータが実用化されたのは、
ナチスが台頭する以前から、
ヨーロッパ大陸とイギリスの、
経験論者たちが、ロマン主義を批判して、
ウィーンに集まっていたからです。
 
ヒトラーに駆逐されて、
アメリカへ移住するための、
架け橋の街になりましたが、
記号論理学やコンピュータなどの、
産業革命の原理や原動力が、研究されました。
 
アメリカに渡ったコンピュータは、
第二次世界大戦後に、すぐに、
ユダヤ資本の銀行で、実用化されました。
 
スターリンやヒトラーは、
コンピュータが、
単なる計算のための機械でなく、
ロマン主義を、根本から否定するための、
イギリス経験論の道具であったことを、
生涯、理解できませんでした。
 
ロマン主義者は、数学ができません。
 
 
   ソ連の崩壊は、
   特権階級のノーメンクラツーラと
   乗り遅れたコンピュータのせいと、
   言われましたが、
   日本経済が、石油危機とバブルを経て、
   壊滅したのも、
   官僚主義の瀰漫(びまん)だけでなく、
   経験論のコンピュータを、
   ロマン主義者たちが
   理解できなかったからです。
 
   阿倍晋三君と同じです。
 
   数学のできない人は、
   政治家になるべきでないかも
   知れません。
 
   現代日本の銀行員に、
   コンピュータの原理を尋ねても、
   わかりませんから、
   日本が潰れるのも、
   阿倍君の失脚と同じように、
   時間の問題です。
 
   精神や人格や歴史のような、
   事実と言われる架空の物語を
   信じなければ、
   身の回りのことを、理解できない人は、
   横井庄一氏や小野田寛郎氏のように、
   精神科医だけでなく内科医も、
   遠くない将来に、絶滅するはずです。
 
   事実が、コンピュータに必要ないのは、
   なぜかを、
   ロマン主義者は、理解できません。
 
   科学技術の事実が、
   間違っているはずがないと、
   彼らは、信じていますから、
   知覚の仕組みを、実感できません。
 
   脳の仕組みが、
   算盤(そろばん)であると、
   わかっていないはずです。
 
 
ピアノと同じで、
別に、数学ができなくても、
政治ができないと、思えませんから、
なぜ、脳みそや知覚の仕組みを、
ロマン主義者が、理解できないのかと、
不安になります。
 
5倍速で、録音ファイルを再生すると、
わたしは、聞き取れませんから、
目の見みえない人は、不思議だと、笑います。
 
わたしは、目が見えないのかも、知れません。
 
コンピュータの仕組みは、
専門学校の生徒でも、
あらすじを知っていますから、
わたしが言うまでもなく、
コンピュータの本を読めば、
だれでも、わかります。
 
どうして、
脳の知覚や、判断や記憶などの、仕組みを、
スターリンやヒトラーは、
実感できなかったのでしょうか。
 
算盤(そろばん)と同じですから、
見た通りなのに・・・
 
 
   ソロバンって、
   英語では、abacus と言いますが、
   あほ馬鹿カスと、言われているようで、
   わたしは、嫌(いや)でした。
 
   でも、脳や知覚の仕組みは、
   単細胞生物よりも、単純明快です。
 
   たぶん、脳は、
   最も原始的な生物の器官でしょう。
 
   免疫のような、
   単純馬鹿の組み合わせは、
   コンピュータのハードウェアの設計や、
   プログラムの作成も、同じです。
 
   幕末の小栗忠順(おぐりただまさ)は、
   フィラデルフィアの造幣局で、
   金貨と小判の、成分の分析を要求して、
   日本の通貨の、純金の比率が、
   額面通りでなく、
   純金の質量を基準にした為替レートは、
   不正であると、主張しました。
 
   欧米の金銀の交換比率は、
   1:15でしたが、
   日本は、1:5でしたので、
   銀の価値が、相対的に高く、
   欧米と日本の銀貨を、
   銀の含有量により、
   等価交換したのでは、
   日本の銀貨を、日本の小判に両替して、
   上海で売り捌くだけで、
   大儲けできる事態になってしまいます。
 
   棚からボタ餅です。
 
   貿易業者と言えども、
   初代駐日公使のハリスが、
   銀の質量による等価交換を
   日本に対して、執拗に主張しながら、
   その手法により、
   大儲けをしましたので、
   自作自演の彼を、
   処罰しないアメリカ政府は、
   杜撰(ずさん)でした。
 
   日本も、小栗忠順と
   三井の番頭の三野村利左衛門が、
   つるんでいましたので、
   通貨の改鋳前に、
   三井は、小判を買い占めて、
   大儲けをしたと、言われています。
 
   
貨幣の改鋳は、すでに元禄時代の勘定奉行の、
荻原重秀が、小判の金の質量を下げて、
大儲けをしています。
 
彼の言い分は、
どうせ、幕府が額面を保証するのだから、
紙や瓦で、貨幣を作ろうが、何で作ろうが、
幕府の勝手であると。
 
それなら、もっと金の量を減らして、
額面を保証すれば、良さそうなものですが、
そこまでは、実行していませんから、
具体的な保証の仕方に、
彼自身が、納得していなかったはずです。
 
現在は、どうですか。
 
わたしの青年時代に、
金とドルの交換停止を、
アメリカ政府が発表したので、
ニクソンショックやドルショックと、
言われました。
 
それまでは、1万円札という紙っぺらを、
アメリカ$に交換すれば、
純金との交換を、
アメリカ政府が保証していました。
 
金とドルの交換比率は、1オンス=35ドルの、
固定相場でした。
 
金貨そのものが、
それだけの重量の純金を、
含んでいましたから、
紙幣も、その額面の金貨と、
交換できることを、
政府が保証していただけです。
 
 
   江戸時代の幕府も、同様ですが、
   貨幣改鋳により、
   金貨(小判)の金の量が減れば、
   より少ない銀との、
   交換になりますから、
   勝手に小判を吹き替えても、
   萩原重秀は、
   1両という小判1枚の単位の意味を、
   変更しただけにしか、なりません。
 
   実際は、金銀の正味の量を計り、
   金銀の地金として、
   取引されましたから、
   貨幣改鋳は、
   名称の意味を変更したのに、
   同じ言葉を使っているだけの、
   同音異義語により、
   人を騙(だま)そうとする魂胆でした。
 
   頭の悪い人は騙される、というよりも、
   改鋳の情報を知らない人が、
   騙されました。
 
 
それでも、まだ、欧米よりも、
日本の金は、1/3の安値で、
銀は3倍の高値でした。
 
欧米の銀を持参して、日本の金を買えば、
得をします。
 
日本の小判を、上海で売れば、
3倍の値がつきますから。
 
このことから、大量の金(小判)が、
海外に流出したと、されます。
 
貿易専用の銀貨(安政二朱銀)を
発行していますから、
外国の銀貨を、安政二朱銀に、交換しても、
小判に両替できなかったと、思います。
 
欧米人は、小判を入手して、
棚ボタの儲けを得るために、
外国の銀貨を、
日本で流通している銀貨に交換することを、
要求しました。
 
日米修好通商条約では、
銀の量に応じて、
外国の銀貨を、日本の銀貨に交換すると、
取り決めていますが、
幕府が、どこまで応じたかは、わかりません。
 
ハリスが、大量の不労所得を得たことは、
彼の日記に、記述されているそうですから、
もしかしたら、ハリスと、その周辺の、
個人的な利益のために、
彼らが、アメリカ合衆国の軍艦を使い、
日本政府(幕府)を威嚇していた可能性を、
否定できません。
 
小栗忠順が、フィラデルフィアで、
貨幣の分析のために、予定外の1日を加えて、
昼食にホテルに帰ることもなく、
分析の現場を離れずに、
通貨の交換レートの問題を訴えたのは、
ハリスを含むアメリカ公使館の不正を、
アメリカ政府に伝える目的であった可能性が、
高い。
 
 
   日本は、鎖国中も、
   清と貿易していましたから、
   世界の貿易慣行を、知っています。
 
   貿易商が、貨幣の交換レートを、
   知らないはずがない。
 
   ハリスの条約では、
   欧米の銀を持参すれば、
   それだけで、
   自動的にポロ儲けができます。
 
   日本に来るアメリカ人は、
   限られていますから、
   その人達の私腹を、
   無尽蔵に肥やすために、
   アメリカの軍艦により、
   日本を恫喝したようなものです。
 
   事実上の
   プライベートな略奪戦争ですが、
   一部の人の私腹を肥やすために、
   アメリカ合衆国という国家が、
   ほんとうに、軍艦を使い、
   日本を脅したのかと、
   アメリカ政府と市民の意思を、
   直接に確認する必要がありました。
 
   もしかしたら、
   現場の、ハリスや軍人や貿易商などの、
   当事者たちの
   独断による背任の可能性がある。
 
   自分たちだけで、
   利益を山分けしようとしたのかも
   知れない。
 
   
小栗上野介は、それを確かめました。
 
新見正興、村垣範正、小栗忠順などの、
万延元年遣米使節は、
フィラデルフィアの分析結果から、
簡単に、議論に必要な計算を、済ませて、
左うちわで、笑っていたそうです。
 
アメリカの造幣局の役人は、
1時間も、かかっていたとか。
 
日本人は、
算盤(そろばん)を持参していました。
   
さて、脳みその仕組みは、
算盤と同じであると、書くために、
ほんの入り口のところで、
長々と書いてしまいましたので、
続きは、後日にとって置きます。
 
算盤と脳みそは、何が違うかと、
見れば、すぐにわかるのですが。