もこ太郎の平成阿房列車 -24ページ目

もこ太郎の平成阿房列車

No Train,No Life!
生粋の「乗り鉄」がブログを書くとこうなる!!
私が行った鉄道の旅をレポートさせて頂いています!
私のブログをお読み頂いて、鉄道の旅に興味を持って頂けたら幸いです!

私が鉄道に興味を持ったのは、何も突発的なことではない。



私の生家は、JR和歌山線の線路に隣接されている。
列車が通過する度に、家には走行音が響き、振動が伝わる。
私は、この世に生を受ける前から、鉄道の走行音に慣れ親しんでいたのかもしれない。
よって、私は生まれつきというより、生まれる前から鉄ヲタになる素質を持っていたのであろう。


無論小さいころは鉄道が大好きだった。
毎日飽きることなく家の窓から、クリーム色と赤にペイントされた列車が走るのを見ていた。
親から鉄道車両の百科事典などを買い与えられ、私は喜んでそれを読んでいた。
列車の走る音が、朝は目覚ましに、夜は子守唄がわりになっていた。


家の近くには機関区があり、家の裏はたくさんの線路がひかれていた。
列車が走るとき、微妙な走行音の違いで、どの線路を走っているのか分かった。
和歌山線の線路は「ガタン・・・、ガタ、ガタン・・・」
機関区から出庫する列車用の線路は「ガッタガッタダンダン・・・ダンダン・・・ガッタガッタ」
機関区へ帰る列車用の線路は「ダンガッタン、ガッタン、ガッタン・・・」
といった具合だ。
おそらく今は線路が張り替えられ、継ぎ目もかなり変わっているだろう。
鉄道が走るときの「ガタン、ガタン」という音は、線路の継ぎ目を通るときに生じる音であるから、走行音も当時のものと相当変わっているだろう。


上記の線路の他にもう一本、その上を列車が走ることなど無さそうな引き込み線が、家の一番近くにひかれていた。


私は近所の子供たちと、毎日その引き込み線の上で戯れていた。
一本の線路の上を、どこまで落ちずに歩けるか、とか
枕木を使ってケンケンパをしたり、とか
その引き込み線の先にある、犬がお座りしたような格好の車止めによじ登って遊んだり、とか…


もこ太郎の平成阿房列車



もこ太郎の平成阿房列車

走り抜ける列車に大きく手を振ってみたら、乗客が手を振りかえしてくれた時には嬉しかった。


私が小学校低学年のころに、和歌山線は全線電化となった。
今まで見たことも無いような車両が、「試運転」というサボを表示して走っているのを見たときは、私はあまりにも興奮して、狂喜乱舞したものだった。



親に何度も、大阪の交通科学博物館に連れて行った貰った事も、はっきり記憶している。


もこ太郎の平成阿房列車


ボンネット型の特急「くろしお」の車体にしがみ付いて見ていた記憶もある。


第1旅第8章にも書いたが、私は小学校低学年の頃、家族で九州旅行に行ったことがある。
行きはブルートレイン、帰りは飛行機での移動だった。
ブルートレインでの移動はわりとよく覚えているのだが、飛行機での移動は殆ど記憶にない。
普通の子供であれば逆だろうに…



しかし、小学校中学年くらいからはガンプラに没頭してしまい、以降小学校高学年の時からファミコン、高校大学は音楽、社会人になってからは専ら車と、私の興味は鉄道からかけ離れていってしまった。



離婚が無ければ、再び鉄道に興味を持つことなど、一生無かっただろう。


最近ふとついでに思い出したことだが、小さな頃は、私は新幹線の整備士さんになりたかった。
運転手や車掌ではなく、整備士に着目していたとは何とも変わった子供であった。




私は、離婚によって大切なものをたくさん失った。


しかし、新たにかけがえのないものを幾つか手に入れたのも事実である。


今後の旅の物語で、それをゆっくり語っていきたい。





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土合の地底探索が終わって、後はもう帰宅するだけだ。


しかし、あと一つ今回の旅の見どころが残っている。


土合を出発するとすぐにトンネルに突入する。

そんなのはお構いなしで私はずっと、進行方向の右側のドア付近に張り付いてカメラを構えていた。



トンネルの一つ目を抜け、二つ目を抜け…



今だ!!


もこ太郎の平成阿房列車



深緑の中から浮かび上がるループ線の姿。

私の稚拙なカメラの技術でも、何とかを写真に収めることができた。
列車の車内でカメラを構えるなど、3日前の自分からは、想像もできない姿であった…



ここは土合~湯檜曽間にあるループ線。
ループ線とは、山間部に螺旋状に線路を敷設することにより、急勾配を緩和する工夫である。
鉄道に限らず、道路などでもこの技術がしばしば使われている。


日本で現存する鉄道のループ線は、ここを含めて数点しかなく、ループ線は鉄道遺産として扱われるケースも少なくない。


ちなみに上越線では、この区間の他に越後中里~土樽間でもループ線(松川ループ線)が存在する。
しかし有名なのは、今通っている「湯檜曽ループ線」のほうである。
画像のように、列車の車中から、数分後に通る線路が進行方向の真横に真っ直ぐ伸びていて、さらに次に停車する駅のホームまで見えるという、非常に珍しい光景が目の当たりにできるからである。

この光景は列車の車内からでしか臨むことができない。
しかも1日に何回もこの景色を見たいと思っても、そのチャンスは1日に数回しか無い。

湯檜曽~土合間の下り線は全く違うルート(新清水トンネル)を通るため、ループは見ることができない。

よって上り線に限られるが、土合~湯檜曽間を走る列車の本数も少ない為、1日に何度も見れる景色では無いのである。
そこまでしてループを見たい人がいるのかどうかは、最大の疑問ではあるが。 


湯檜曽駅の上りホームからも、数分後に到着する列車が山に沿って真横に進んでいく光景も見られる。


後から知った話だが、昔の湯檜曽駅は、私が写真を撮った地点付近に存在していたらしい。


私の隣には、私と同じように湯檜曽ループを写真に収めていた小学生低学年ほどの男の子がいた。
私は彼と写真の見せ合いっこなどをしていると、いつのまにか湯檜曽に停車した。


ループの中はそれほどカーブや勾配を体感することは無かった。


12時39分。
定刻通り列車は水上に到着。
さすがは観光地だ、土合よりもたくさんの人がいた。


もこ太郎の平成阿房列車

その頃ちょうど、高崎から来たSLが、転車台によって回転されようとしていた。
ぜひ写真に収めておこうと思ったが、周りにはもの凄い人だかり。
人ごみが苦手な私はそれを見て、SLに近づく気が完全に失せてしまった。
(私が「撮り鉄」になれない理由はいくつかあるが、その一つがこれである)



駅前の定食屋で、舞茸天そばを頂くと、店の人から記念にとSLステッカーを貰うことができた。
SLの写真を撮れなかったせめてもの救い、というとこか?



水上から上越線~高崎線と乗り継いで、本庄に着いたのは午後3時半を過ぎていた。
聞き慣れた「JR-SH7」のメロディーがホームに流れる。
2泊4日の旅の中で、本庄に降りた瞬間が一番暑さを感じた。



帰宅して、私は今回の旅について一つ確信が持てた。






鉄道って、面白い


ここまで心を震わされたのは、私の人生で初めてかもしれない


もっともっとたくさん鉄道に乗って

もっともっとたくさんいろんなところに行きたい


自殺なんてしてる場合じゃない

鉄道に乗るためには、生きなければ…






荷物を整理していた時に気付いたが、旅先で抗鬱剤を1回も服用していなかった。



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新潟から来た上越線上り水上行き普通列車、車内はそれほど混雑した様子はなかった。


前日訪れた、姨捨から私の自宅のある本庄まで、その日のうちに決して帰れない距離では無かった。

だが、もう一つ行きたい駅があったのだ。
それが今日の目的地である。


列車は、越後滝谷、越後川口、越後堀之内と、いかにも新潟らしい名前の駅に次々と停車していく。
上越線は国道17号と一緒に、越後川口まで信濃川、それ以南は支流の魚野川と並走する。
並走というよりは、一旦川とくっついたかと思うと離れて、そのうちまたくっついたりを繰り返す。


六日町駅以南は、スキー場と直結した駅が多い。さすが豪雪地帯を走る路線である。
しかし新緑の絨毯がひかれた真夏のスキー場は、人の気配もまるで無く、そのまま自然に返ってもおかしくなさそうな様相である。


越後中里駅では、駅直結のスキー場の手前に、ブルートレインの客車が何両も並べられている。
おそらくスキー客の休憩所として使われているのだろう。

ブルートレインと言えば、30年ほど前、家族旅行で大阪から九州までブルートレインに乗った記憶がある。その頃の私は小学校低学年であった。
乗った列車は「はやぶさ」だったのか「富士」だったか?これはあまり記憶がない。
しかし乗った客車はB寝台の上段で、興奮と揺れで殆ど眠れず、枕元の照明をつけてずっと何かの本を読んでいたのだけはよく覚えている。



その越後中里を過ぎると、それまで並走していた下りの線路と大きく分かれて長いトンネルに入る。


トンネルを抜けると土樽という駅に停車した。
大きなホームの割に、周りには何も無さそうな駅だ。こんな駅を定期的に利用する人はいるのだろうか?


土樽を出発すると、さらに長いトンネルに入る。
いったいいつになったら外に出れるのか?と思わせるほど長いトンネルだ。
この時は何も知らなかったが、このトンネルは、川端康成の小説「雪国」の
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
という有名な冒頭に出てくる、清水トンネルだという事を後程知った。


その清水トンネルの中で、車内放送で次の停車駅が告げられる。


トンネルを抜けると、山奥の真ん中に駅があった。私はここで下車する。
下車することに、もう何のためらいも無かった。今回の旅で変な度胸がついてしまっていたらしい。
列車が停止し、ドアを手動で開け、ホームに降り立つ。



ここは…



土合(どあい)駅


もこ太郎の平成阿房列車


この駅以南は群馬県に入る。ここでも真夏の日差しが非常に厳しい。
ここで下車した乗客は数人程度であった。私は列車を見送った。


もこ太郎の平成阿房列車

ホームから無人の改札口を抜け、


もこ太郎の平成阿房列車

割と広い印象の待合室を抜けて駅の外に出てみると、なかなか立派な駅舎の前にたくさんの人がいた。
今回の旅で訪れた駅の中で、一番の人だかりであった。


もこ太郎の平成阿房列車


列車から降りた人はそんなにいなかったはずだが…
おそらく、大半の人は車で来ているのだろう。
駅前は大きな広場のようになっており、そこに車やバイクが何台も駐車されていた。
車以外の人は、水上から下り列車で来たと思われる。
個人的には、駅には鉄道で来訪してほしいところだ。


この駅も、小和田、姨捨に並んで大変有名な駅である。


この駅は「日本一のモグラ駅」と呼ばれている。


もこ太郎の平成阿房列車

その所以は、同じ駅なのに、上りホームと下りホームが大きく離れた場所に位置していること。
私が下車したのは上りホームだが、下りホームは地上には存在しない。
下りホームは、駅舎からひたすら階段で下って行った先のトンネルの中にある。


どうしてこのような駅になったかというと、上越線は開業当初は単線であった。
その当時はトンネルを作る技術も未熟であった為、なるべくトンネルを作らないルートで線路を作り、線路の途中で信号場を作った(後に信号場は駅に昇格)。
このトンネルとは、先ほど私が通った清水トンネルの事である。
しかし後から複線になる時にはトンネルを作る技術も進歩したので、複線化工事で一気に長いトンネルを作った。
後者のトンネルは、新清水トンネルの事である。
そうしたら上りとなる線路、そしてそこにあるホームとあまりにも掛け離れてしまった。
でも上りにホームがあって、下りにホームを作らないわけにはいかない。
よって、強引に新清水トンネルの中にホームを作ったら、こんな駅になってしまった…


こういう風に話してしまうと、何とも間抜けな話に聞こえるだろう。

しかしそれが幸いして、今では関東の駅百選に選ばれるほどの有名な駅になったのだ。



ここで私がすることは、まず下りホームまで階段を下りて、そこからまた戻ってくるという非常に無駄な行為。
しかしここを訪れた人の殆どは、階段の往復を行っていたようだ。
この駅を訪れたら、必ず行う儀式となってしまっているのだろうか?

自分も含め、ご苦労様である。



駅に戻り、改札口を抜けて左に進むと下りホームがあるとの案内図が掲げられている。
その案内をよく見てみると、
「(注)486段の階段を下りますので、10分要します」との事。


もこ太郎の平成阿房列車

案内通り進むと、まずは数段階段を下りた先に、真っ直ぐ渡り廊下が伸びている。


もこ太郎の平成阿房列車

この渡り廊下で、県道と小さな川を渡る。
窓からはせせらぎが見渡せた。


もこ太郎の平成阿房列車

渡り廊下を抜けた後が、この駅のハイライトである。


目の前には、想像を絶する光景が広がる。


もこ太郎の平成阿房列車

どこまで階段が続いているのだろう、階段の先が見えない。

下りホームへは、この奈落の底に向かって進まなければ到達できない。


足元に注意を払いながら、462段の階段を1段1段降りてゆく。
一つの段は比較的広めに作られており、5段単位で小さな踊り場のようなスペースが設けられている。
降りる方向の向かって右側に、階段になっていないスペースが取られている。

エスカレーターを作る計画でもあるらしいが、現実には至っていない。


200段ほど降りたところの踊り場に、休憩用のベンチが設置されていた。

JRのちょっと粋な計らいを感じた。

もこ太郎の平成阿房列車

階段を下り進むにつれて、体感温度も下がってくる。
壁からは、ところどころ湧き水が流れている箇所があった。

洞窟探索でもさせられているような雰囲気だ。


ようやく下りホームにたどり着く。

案内の通り、改札から10分近くはかかったと思われる。

もこ太郎の平成阿房列車

Tシャツ1枚羽織っただけの私の体には、かなり肌寒さを感じた。


ホームは薄暗く、湿度もかなり高いらしい。壁や天井に苔が生えている箇所もあった。
プレハブで作られた小さな待合室があり、

もこ太郎の平成阿房列車

私はそこで時刻表を見ていると、一組の初老の夫婦が私に話しかけてきた。
この夫婦も、18きっぷであての無い鉄道旅行をしているようだ。
私の小和田や姨捨の訪問談を熱心に聞いてもらえて、少し嬉しくなった。


体の冷えに限界を感じ始め、急いで地上に戻る。


もこ太郎の平成阿房列車

スポーツバッグを背負ったまま、無心で階段を上り続ける。

ちなみにここ土合駅は、登山で有名な谷川岳の最寄駅となる。

下り列車で土合を訪れた登山家は、まずこの上り階段で、否が応でもウォーミングアップさせられることになる。


先ほどの初老の夫婦が、階段を上っている途中であった。
私は、「大丈夫ですか?無理をしないようにして下さい」と一声かける。
夫婦は笑顔を見せてくれた。


地上に戻ってきた。かなりの疲労感が付きまとう。
気温は高いが、湿度は地下よりも低いため、僅かながらすがすがしさを感じた。


上りホームで待っていると、先ほど乗ってきた列車と同じ、グリーンの塗装の115系がホームに入線してきた。


もこ太郎の平成阿房列車

私はこの列車に乗り込み、水上へ向かう。



もこ太郎の平成阿房列車


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スイッチバックによって、姨捨の駅が一旦遠のき、また近づいてすぐに離れていく。
普段見ることのない景色の流れ方を見ていて楽しかった。

しかしやはり姨捨を離れるのは寂しい。
初めて訪れたのに、何だか長年親しんだ故郷を離れるような錯覚に陥った。


右手に善光寺平の景色を見ていると、列車は突然ポインタを通過したような揺れを起こして停車した。
駅もないのにどういう事だ?


そして長野から松本方面に向かう特急「しなの」が、私の乗車している列車の脇を高速で通過する。
特急をやり過ごした後は、列車は今来た方向を逆走し、本線に戻ったところで長野方面に走り出す。


予備知識の無かった私はすこぶる驚いたが、篠ノ井線は姨捨駅だけでなく、もう一つスイッチバックが現存する。
それがこの「桑ノ原信号場」である。


信号場とは、一般的に旅客の乗降を取り扱わずに、列車入れ替を行うための設備を指す。
この桑ノ原信号場は、非常に珍しいスイッチバックの信号場だったのである。



14時40分、長野に到着。
ここから、信越本線に乗り換える。
次に乗る列車は、直江津行きの「妙高」。
これは普通列車なのに名称が与えられており、車両は普段特急などに使用される183系・189系である。
車両は少々年季が入った感じだが、ヘッドマークも掲げられており、見た目はまさに特急だ。

18きっぷだけでこのような車両に乗れるとは、少し得をした気分になれる。


長野を出発して1時間ほど車窓の眺めを楽しんでると、「二本木」という駅に着いた。

駅名標をよく見ると、もう既に新潟県に入っているらしい。
ドアが閉まり、列車は今来た方向を逆走し始めた。


まさか?と思ったが、やはりこの駅もスイッチバックの駅であった。
今日は「これでもか」とばかりスイッチバックを味あわされた。もう満腹である。

この日から私は、スイッチバックの虜になってしまったようだ…




二本木の次の駅「新井」でまた乗り換えを行う。
この駅始発の、新潟行き快速列車の「くびき野」だ。


もこ太郎の平成阿房列車


この列車も、普通は特急などで使われる485系が使われている。
もちろんこの列車も、18きっぷだけで乗車できる。


17時01分、くびき野は新潟に向けて発車。


信越本線は、直江津~柏崎の区間は日本海の海沿いを走り抜ける。
この区間は、車内から一面に広がる日本海の景色が見られるのだ。

だが予備知識の無かった私は、進行方向右側の席に座ってしまっていた。
これでは、左側に広がる海原をよく見ることができない。
席を移ろうにも、どの席も乗客で埋まっている。これは悔いが残った。




18時31分。
定刻通り長岡に到着した。

今夜は長岡にて一泊する。


宿は、前日より少し奮発して、駅前の全国展開のビジネスホテルの予約を取っている。
昨日の宿主には申し訳ないが、快適な居住感はこちらのほうが数段上だ。


夕飯は、駅前の全国チェーンの大衆居酒屋で済ませた。
飲みたい気分とは裏腹に、お盆料金を取られた上に、料理もいまいちで酒も進まなかった。

この居酒屋は一人で来るところではないと、その時悟った。




2011年8月14日


思いのほかよく休めた。バイキングの朝食も箸が進む。


いよいよ今日が旅の最終日だ。長岡も天気は快晴。朝から厳しい日差しが照りつける。

長岡駅で3回目の18きっぷの検印を貰う。
そこで私を待っていたのは、グリーンの塗装に身を包んだ115系。


8時27分。私を乗せた上越線上り水上行き普通列車は長岡を後にした。

この旅最後の目的地に向かって…


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塩尻にて、淡いブルーに塗装された115系の車両に乗り込んだ。
シートが70パーセント程埋まった状態で、列車は長野に向けて発車した。



塩尻駅から松本駅までの区間は、すでに2度通っている。

前日のムーンライト信州。そして白馬から岡谷まで向かう時。

今回が3回目であることから、しっかりと車窓を目に焼き付けておくつもりだった。
しかし残念なことに、またこの区間で眠くなってしまったらしい。
南松本駅に貨物列車がたくさん停留されていたこと以外はあまり覚えていない。


松本駅で列車は20分あまり停車した。
降りる乗客と乗り込んでくる乗客の数はほぼ同等だったらしく、乗車率は変わり映えしなかった。



松本を出発した列車は単線に入る。

しばらくは山と川に挟まれたわずかなスペースを、国道19号線と並走する。


松本の隣駅「田沢」と、さらにその隣の「明科」の区間だけは複線となっている。
明科を過ぎるとまたすぐ単線となり、長いトンネルに入る。


しばらくは険しい山の中を分け入るように列車は走る。
途中で停車する駅は木造のひなびた感じの駅舎が多い。

しかし思わずそれらに見とれてしまう。


途中停車した駅の駅名標には「かむりき」という文字。冠着と書くらしい。
北海道のような、アイヌ語の当て字のような駅名だな。

そう思いつつ車内から駅の周りを見回してみると、民家は無く、静かな森の中に駅は存在した。
この駅の駅舎もまた木造で、周りの静かな雰囲気と非常によくマッチしていた。


いよいよ今日の目的地は次の駅だ。
列車がトンネルを抜けたところで、車内放送がかかる。

と同時に、車窓には素晴らしい風景が広がってくる。

乗客がいっせいにカメラを構える。



列車はゆっくり駅のホームに入線する。
2線2面相対式のホームの反対側には、既に茅野行きの上り列車が発車を待っていた。



ドアを手動で開け、ホームに降りる。

前日の小和田とは違い、ここで降りる乗客がかなりいた為、今回は何の抵抗もなく下車できた。



ここは…



姨捨(おばすて)駅


もこ太郎の平成阿房列車


さてこの駅は大変だ。とにかく書くことがたくさんある。



まずはどうしても耳に残る、駅名の由来。
諸説あるようだが、概要は次のとおりである。


昔々、この辺りの国の殿様は、年寄りが大嫌いで「六十歳以上になった者は山奥に捨てよ」というおふれが出ていたらしい。
この辺りに住んでいた一人の若者が、自分を養ってくれた伯母を母のように慕い、大切にしていたのだが、伯母は70歳になっていた。
若者は泣く泣く伯母を背負って、姨捨山に捨てに行ったが、後ろ髪がひかれ一人で帰る気になれぬと、若者はそっと引き返し、伯母を背負って帰った。
その老婆によって国は救われ、以降お年寄りは大切に扱われるようになった…


かなり話を端折ったが、姨捨駅にはその「姨捨伝説」が綴られた資料などが残されている。

可能であれば、ぜひ駅まで足を運んで確認して頂きたい。


もこ太郎の平成阿房列車


そして、この駅は全国でも非常に珍しくなった「スイッチバック」の駅。


この辺りは急斜面に線路が引かれている。

スイッチバックとは、急斜面の勾配を緩和するための工夫なのである。


話は、蒸気機関車がメインで走っていた時代までさかのぼる。

その蒸気機関車は、今の電車などと比べるとずいぶん非力であった。
なので例えば登り傾斜の途中で停車などしてしまったら、そこから発車出来なくなるという事態に陥ってしまう。
それを回避するために、傾斜の途中で平坦な引き込み線を作り、平坦な場所で客の乗降や給水等を行っていたのである。


技術向上により、今はスイッチバックが廃止される傾向にあるのだが、ここ姨捨駅は残されている。


もこ太郎の平成阿房列車

姨捨駅のホームをよく見てみると、列車が進入してきた反対側に、車止めが設置されている。


もこ太郎の平成阿房列車


そして私が今乗ってきた列車が次の駅に向けて発車した。

その行方であるが、まず今まで進んでいた方向と反対方向に進む。
しばらく進むと、冠着から続いている線路の脇にまた別の線路があり、列車はそちらの線路に入って停車する。


もこ太郎の平成阿房列車

またしばらくすると、今度は今まで進んでいた方向に発車し、ホームの脇を抜けて次の駅に向かっていった。


もこ太郎の平成阿房列車

普段は見れない光景に、私は少し興奮してしまった。


それから、この駅最大の特徴は、ホームから見渡せる絶景。


もこ太郎の平成阿房列車

善光寺平を一望できることから、北海道の狩勝峠、九州の矢岳越えと並び「日本三大車窓」の一つに挙げられる。


この日はうっすらともやがかかっており、万全な風景は望めなかった。

しかしその景色の素晴らしさは、とても言葉にはできなかった。


この駅で下車した人はほぼ全員、列車に乗車したままの人も大半は、カメラをフル稼働させていた。

面白いのは、ホームに設置されたベンチだ。

普通は線路側を向いているのだが、この駅のベンチは線路の反対側の景色に向けて設置されている。


もこ太郎の平成阿房列車


ホーム、景色の次は、駅舎を観察してみよう。


もこ太郎の平成阿房列車


この駅も木造の駅舎だが、近年リニューアル工事がされたらしく、大正時代に設計された駅舎が復元されたということである。
窓口やチッキも再現されたものであろう。


もこ太郎の平成阿房列車


事務室と思われる部屋は解放され、そこで地元のボランティアと思われる人たちが、駅に訪れた人たちをもてなしていた。


駅の外に出てみると、バス停等は存在するが、近くに民家もなく非常に静かな印象であった。


もこ太郎の平成阿房列車


それにしても、ここは長閑だ。心が落ち着く…
先日の小和田もそうだが、ここに来れて良かった。心からそう思えた。
願わくば、この場所にずっと居たい…


しかし1時間余りの滞在時間は、あまりにも短く感じた。
無情にも次の長野行き列車が、定刻通りホームに入線してきた。


もちろん、また来るよ。次は、夜景を見に来たい。


乗車した列車は、先ほどホームから見送った列車と全く同じ、スイッチバック独特の動作を行いながら、長野に向かって発車した。



もこ太郎の平成阿房列車



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小和田駅の別れを名残惜しみながら、列車は豊橋へ向けて出発した。
この前に乗車して来た列車と同様、この列車も車内は閑散としていた。


豊橋に近づくにつれ、一駅一駅何人かの乗客が乗り込んでくる。
小和田から豊橋まで37の駅が存在する。
一つの駅で1両に乗り込んでくる乗客が3人いたとしよう。

すると豊橋に着くときには1両に100人以上はいる計算になる。
実際豊橋に着いたときは、本当にそれくらいの人がいたのではないか?

そう思うほど、車内はすし詰め状態に近かった。
車両は窓を背に向けて座る、いわゆるロングシートだった。

おかげで、混雑した車内からは景色は殆ど見えなかった。



小和田から約2時間半、列車は定刻通り、豊橋駅の2番線に到着した。
豊橋駅の飯田線ホームは1・2番線。

その両方とも車止めが設置されている。


豊橋駅はこの日下車した駅の中では、一番大きな印象をうけた。
そして面白いことに、

豊橋駅の3番線は名古屋鉄道(名鉄)が有するホーム。

4~8番線が東海道本線のホーム。(11~13番線は新幹線ホーム)
私鉄である名鉄のホームの両脇を、JRのホームが挟み込んでいるのだ。
これは飯田線が、昭和18年まで私鉄(豊川鉄道)であったことの名残であると思われる。
3番線ホームには簡易改札機が設置されている。

JRと名鉄の乗り換えの時にこの改札機が使われるのだろう。


ホームに降りると、流れる人の波の中に、小和田で会話を交わした二人組の学生がいた。

「豊橋」の駅名標と並んで記念撮影を行っていた。



有人改札口で18きっぷを提示し、駅を出た。
時刻は夕方6時半を過ぎていた。

真夏の暑さはこの時間になっても衰えを見せない。


もこ太郎の平成阿房列車


さっそく、予約していたビジネスホテルへ、チェックインに向かう。
小さなビジネスホテルだが、駅に近く、お盆の時期にしては料金が安かったので迷わず予約しておいた。


ホテルの受付まで来ると、経営者の親族の子供と思われる7,8歳くらいの男の子が、虫取り網を振り回しながらフロアを走り回る。
「セミが入ってきとる~~」
確かに小さな蝉が飛び回っている。


ちょっと面喰っている私の前に、経営者と思われる初老の夫婦が奥から出てきた。
私もオーナーも笑みを交わしながら、
「どうもお騒がせしてすみません、ようこそいらっしゃいました」
気の良さそうな感じの経営者だ。

前金で宿泊代を支払い、部屋の鍵を受け取る。


私が部屋に向かおうとしている時には、蝉は男の子の手によって、既に捕まえられていたらしい。



部屋は2畳あるかないかという広さ(「狭さ」と言ったほうがいいのか?)で、シングルベッドが置かれている。
素泊まりなので、これには特に文句は無い。


テレビは、15インチあるかないかの大きさ(「小ささ」と言ったほうがいいのか?)。
これも、まあ文句は言うまい。



今日はたくさん汗をかいた。さっそくシャワーを浴びよう。



お湯がなかなか出ない…
やっとお湯が出たと思ったら熱すぎる…
少しだけお湯の温度を下げたら、また水になってなかなかお湯が出てこない…

これには少々まいってしまった…


夕食は、豊橋駅前にある全国チェーンの格安中華料理屋で取った。
生中の肴にこの店名物の餃子、そして焼きそばを頂いた。
久しぶりにビールが美味いと感じ、思わず2杯も飲んでしまった。



部屋に戻って、明日からの旅の行程を考える。


まずは目的地だ。
豊橋から無理なく行ける場所が望ましい。
飯田線の、小和田以外の秘境駅にも行きたい気持ちもある。

しかしルートは今日とは全く異なるものにしたい。




よし、ここにしよう。
かなりの思い付きで目的地を決めてしまった。



次は宿泊先を決める。
目的地から電車で移動して…
夕方にはこの辺りに着くから…



急いで次の宿泊先ホテルの空き部屋状況を、携帯のネットで調べる。
空きがあったようだ。すぐに予約手続きを行う。


よし、これで今日すべき事は全部済んだ。
ゆっくり休もう…





2011年8月13日

狭い部屋ながら、エアコンが程よく効いてよく眠れた。
朝6時の目覚めも快適だ。


準備を整え、6時半にはチェックアウトを行った。
この時は、ホテルに対してはあまり良い印象は持てなかった。

しかし、今になってふと思う時がある。

あの経営者夫婦は今でも元気だろうか…?
そう考えると、またあのホテルで泊まってもよいかな?と考えてしまう。


お盆休みに入っている早朝の豊橋駅は、人もまばらであった。


駅前には、路面電車の電停がある。
そう、豊橋には路面電車も走っているのだ。


もこ太郎の平成阿房列車


路面電車にも一度は乗ってみたいが、またの機会に、ということにして駅の改札に向かう。


18きっぷに2回目の検印を貰う。

7時丁度発、東海道本線大垣行き下り快速列車に乗り込む。


列車は三河地方を走り抜け、7時51分、定刻通り名古屋に到着。



名古屋は私が学生時代に住んでいた場所だ。いわゆる第2の故郷のようなものだ。
しかし名古屋でゆっくりできる時間は無い。

すぐさま8時17分発、中央本線の塩尻行き下り快速「ナイスホリデー木曽路」に乗りこむ。


東海道本線から中央本線への乗り換えは、名古屋駅から2駅隣の金山駅で乗り換えるのが便利だ。

しかしナイスホリデー木曽路は名古屋が始発。
もし金山で乗り換えれば、名古屋から乗車した客で既に混雑している恐れもあった。

そんな理由から、あえて名古屋まで足を延ばしたわけだ。


愛知県内の中央本線に乗るのは、実に10年以上ぶりであった。
学生当時の最寄駅「鶴舞」は、当時は快速の停車しない駅だったのだ。

なのに私の乗った快速列車は鶴舞に停車した。時代は変わるものだ。


多治見駅の2つ手前の定光寺駅は、上りホーム側に庄内川(愛知県内での名前で、岐阜県内では「土岐川」と呼ばれる)が流れており、ホームから美しい景色が臨める。



名古屋から3時間かけて、また塩尻に戻ってきた。
ここで篠ノ井線に乗り換える。
名古屋に続いて、ここ塩尻でも今日はゆっくりしている暇は無い。
昼食用のおにぎりを買って、列車に乗り込む。




11時28分発、長野行き下り普通列車。
この列車が、私を次の目的地までいざなう。


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私の記憶が正しければの話になる。

岡谷にて乗車した飯田線の車両は、JR東海の主力車両、313系であった。
車内は混雑はしていなかったが、シートはそれなりに埋まっていた。

目的地のことで頭がいっぱいであったのは確かだ。

しかしその為に、車両や車内、車窓の記憶はあまり自信がない。


飯田線は、長野県の辰野駅から、愛知県の豊橋駅を結ぶ、全長195.7キロメートルの地方交通線。
起終点駅を含むと、路線の中に94もの駅が存在する。
195.7キロメートルという距離は、東海道本線で東京駅から静岡駅までの距離よりも長い。


天竜峡駅~大嵐駅(「おおぞれ」と読む)の区間は、天竜川に沿って線路がひかれている。

急峻な山岳地帯を列車は走り抜ける。

この区間に、ここ数年テレビや本で取り上げられて話題になっている駅が点在している。



俗に「秘境駅」と呼ばれている駅である。



秘境駅とは、

・周りには民家も道路も無く、集落から孤立した場所に位置する駅
・日常的な利用者の極端に少ない駅
・車でのアクセスは難しく、鉄道でしか行けない駅
・停車する列車が極端に少なく、普通列車でも通過する場合がある駅

などといった特徴を持った駅の事である。


いわゆる「何も無い駅」に降りて、駅や周辺を観察する。

このような行為が一つのステータスになりつつある。

この飯田線では近年、代表的な秘境駅に停車する臨時列車が出たりしているらしい。

そう、秘境駅ブームはにわかに起こっているのである。


実は私も、その秘境駅の一つを目指しているのだ。



岡谷を出発してゆうに3時間は経過したであろう時である。

ようやく車窓は山間の風景を写し出してきた。
この辺りから車内は閑散となった。

停車する駅で降りる乗客も、乗り込んで来る乗客も皆無な状態になってきた。
車内が空いている隙に昼食を済ませる。


ふと自分の携帯に目を落とすと、圏外になっていた。この列車は相当山奥を走っているらしい。



長いトンネルの中で、車内放送にて次の停車駅が告げられる。
いよいよ次が目的の駅だ。


しかし私は少々怖気づいてしまった。




こんな駅に降りるなんて、周りからみれば、きっと私は鉄道マニアに見られるのだろう…
いい歳しておいて、俺は何をやっているんだろう…
どうしよう、降りるべきか降りないべきか…?




しかし、何の為にここまで来たんだ?
ここまで来て何を怖がっている?
こんなに長い時間、好きで鉄道に乗っていれば、お前はもう立派な鉄道マニアだ!




トンネルを抜けてすぐ、列車は停車し、扉が開いた。
私は一瞬の葛藤の後、意を決してホームに飛び降りた。







真夏の日差しが、ホームを、列車を、そして私を鋭く突き刺す。


ホームに立ち尽くす私をよそに、列車は発車していった。

何事も無かったかのように、無愛想に。
列車の走行音がなくなると、そこには虫の鳴き声と、水が流れる音しかない。




ここは…






小和田(こわだ)駅


もこ太郎の平成阿房列車






私もその存在は、数年前から知っていた。


秘境感、駅や周りの雰囲気、車や列車でのアプローチの難易度、
どれをとっても日本トップレベルの秘境駅。



初めての一人旅の目的地にここを選んだ私もかなり変わった人間だ。

そんな私を、この駅は温かく迎え入れてくれた。


小和田で下車した乗客は、私の他に若い男性が3人いた。そのうち2人はグループらしい。
彼らはホームや駅舎の観察もそそくさと行って、すぐ駅の外に出て行った。


木造の駅舎や、ホームから見える天竜川などを見ていると、なぜか懐かしい気持ちになる。



さて、せっかくここまで来て、勇気を振り絞って下車したのだ。
私はじっくりこの駅を、そして駅周辺を観察させて頂くことにする。


まずは、ホームをゆっくりと見回してみる。


もこ太郎の平成阿房列車

もこ太郎の平成阿房列車

今立っているホームの、線路を挟んで反対側に、別のホームの跡がある。
少し前までこの駅は相対式2面2線ホームを有し、列車の交換が可能な駅であった。
しかし片側が廃止され、反対側のホームに渡るための踏み切りは閉鎖された。

廃止になったホーム側の線路も撤去されている。


ホーム上には、この駅が愛知県、静岡県、長野県の3県の境目に位置する事を示す、木製の標識が立てられている。


もこ太郎の平成阿房列車

駅舎の中に入ってみる。
壁には手書きで書かれた、お世辞にも上手とは言えない駅周辺図が掲げらていた。


もこ太郎の平成阿房列車

その駅周辺図の横には、宮廷装束を着た新郎新婦の写真が掲げられていた。


もこ太郎の平成阿房列車


もこ太郎の平成阿房列車

この駅は今の皇太子妃、雅子様の旧姓と同じ文字(読みは異なる)だという理由で、当時この駅は「恋成就駅」として有名になったらしい。
実際、ホームには恋成就駅を示す標識も立てられていた。


もこ太郎の平成阿房列車

ここで結婚式まで挙げたカップルがいたとは聞いていた。

写真の二人がまさにそのカップルなのだろう。
皇太子が結婚した年から逆算して、ここで結婚式が挙げられたのも20年近く前になると思われる(実際、写真もそれなりに傷みが目立つ)。

今でも二人は幸せに暮らしているだろうか?

と、こんな事を言ったら「お前と一緒にするな」などと突っ込まれそうだが…



言うまでもなくここは無人駅だ。

だが駅舎の中の待合室には、昔は有人駅だったことを示す窓口跡があった。

よく見るとその横にチッキ(手小荷物貨物取扱)の窓口跡まである。

今はカーテンが内側から閉められている。


もこ太郎の平成阿房列車


待合室の出口付近に、事務机とその上に駅ノートが置かれていた。


もこ太郎の平成阿房列車


では、駅前探索を始めよう。



駅舎を出てすぐ右側には、厠(かわや)と呼ぶに等しいようなトイレがあった。

駅からは細い砂利道がのびていて、右にカーブしている。
砂利道は、車が通れる程の幅は無い。この時点で、車でのアプローチは不可だという事が分かる。


カーブの途中に、大きく「愛」と書かれたベンチが置かれている。
このベンチも、きっと恋成就駅ブーム時に作られたものなのだろう。

座るにはかなり抵抗がいる。


もこ太郎の平成阿房列車

カーブを曲がり切ったすぐ左側には道案内があり、集落まで徒歩1時間との事!


もこ太郎の平成阿房列車


道案内の隣には、廃屋が佇んでいる。


もこ太郎の平成阿房列車



砂利道はここからほぼ真っ直ぐにのびている。


もこ太郎の平成阿房列車

ひたすら砂利道を突き進む。すると道の脇には無惨な姿でバイクや車が放置されている。


もこ太郎の平成阿房列車

もこ太郎の平成阿房列車

よく見ると車はミゼットのようだ。
ミゼットなんて、何十年前の車だろうか…
そして、このミゼットは何十年このまま放置されているのだろう…
この空間は、どれだけ時か止まったままなのだろうか…?




さらに進むと、人の営みか感じられる民家があった。


もこ太郎の平成阿房列車

さすがにこの家に入る勇気が無かったが、小和田という駅は、まさかこの一家の為だけに存在する駅なのだろうか…?


もこ太郎の平成阿房列車


時間の許す限り、奥へ進んでみようと思う。


天竜川の流れを横目に、道は続いている。


もこ太郎の平成阿房列車


道を覆い尽くす木々か、厳しい日差しを遮ってくれて、とても気持ちかいい。


途中には、小さな滝があったり、


もこ太郎の平成阿房列車

蝉の抜け殻を見つけたり…


もこ太郎の平成阿房列車


道は途中から所々舗装された箇所がある。土砂崩れでも起きたのだろうか。


スポーツバッグを背負ったまま歩いてきたので、さすがに疲れてきた。

と、行く先に赤錆びた吊り橋が見えてきた。


もこ太郎の平成阿房列車


吊り橋を安全に渡れる自信も補償も無いので、この辺りで引き返すことにする。


随分歩いた。こんなに歩いたのは久しぶりだ。
汗が心地よく流れている…


待合室まで戻ると、先ほどの男性達が、次の豊橋行きの列車を待っていた。
私は2人組と話をすることができた。

彼らは都内の学生で、彼らも18きっぷで列車の旅をしているとの事。
秘境探索がしたくて、小和田まで来たらしい。
彼らも、この駅を十分に楽しんだようだ。




しかし…

何だか…


とても楽しかった…




こんなに楽しい思いができたのは、何か月ぶりだろうか…


ここに来れて良かった…


小和田での2時間余りの滞在時間はあっという間に過ぎた…
いつまでもここに居たい気分になったが、とうとう列車が来てしまった。





ありがとう、小和田



私に「楽しい」という感情を引き戻してくれて…
必ずまた来る…



もこ太郎の平成阿房列車

もこ太郎の平成阿房列車


もこ太郎の平成阿房列車


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