自分を語ることば 【5/21はぐ♡ラボ×もっくん珈琲お茶会 振り返り⑤】 | もっくん珈琲ブログ

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もっくん珈琲オーナー、タロット&占星術占い師、三児の母のもっくんの日常、店のお知らせ、考えていること。

ゲームの話、完結編になります。

 


<過去のシリーズ>

右矢印ゲーム依存症のはなし【5/21はぐ♡ラボ×もっくん珈琲お茶会 振り返り①】


右矢印ゲーム・デジタルツールと教育のはなし【5/21はぐ♡ラボ×もっくん珈琲お茶会 振り返り②】

 

右矢印ゲームの進化、表現活動としてのゲーム【5/21はぐ♡ラボ×もっくん珈琲お茶会 振り返り③】

 

右矢印ゲーム関連トラブルの後ろにあるもの 【5/21はぐ♡ラボ×もっくん珈琲お茶会 振り返り④】

 


大きな物語」が崩壊したあとの、不確かな世界を生きる、不安な時代に、いちばん大切なこと。

 

という文章で前回を締めくくりました。

 

大きな物語ってなに?というと、上記リンク先にもありますが、

 

「社会全体で共有され価値観のより所として依拠されるイデオロギーの体系」ということです。ようするに、「こう生きれば安心で間違いない!」みたいな、みんなの中での無言の共通認識っていうやつでしょうか。


それまで有効だった「物語」が崩壊したのは、1980年以降だそうで、これ以降を「ポストモダン」というのだそう。

 

↓これもご参照ください。

 

 

社会学には全く明るくないので、用語は私も最近知ったのですが、このような時代の雰囲気は、「あ、やっぱり?知ってた。」みたいな感じです。(90年代生まれの田邉さんから聞きましたが、それぐらいの方の代では、大学受験の国語のトレンドワードだったらしい)

 

ちなみにモダンって、「現代的」「近代的」みたいな訳語がパッと思い浮かぶけど、model(模範・型)や、modelize(モデル=模範・型を作る)と語源が一緒なんですって。

 

近代化っていうのは、すなわち産業革命以後の工業化です。そんな社会で働く、役に立つ人間に必要なのは、個性ではなく、そこに合う「模範的な、型にはまった」人間でした。

 

つまり、「人間を型にはめる」発想の教育が、当時の社会には必要だった。今の日本の教育ってたぶん、ずーっとこれの延長で来てるんですよね。だから色々うまくいかないことがある。その目標になる物語が、すでに壊れている、終わっているのだから。

↑こういうヤンキーが学校現場?周りに出現した時期と、モダニズムの崩壊の走りの時期は、一致してるはず。


①の話に出したゲーセンにたまる「非行に走る若者」なんかも、この時代の中、親やその他大人の旧来の価値観(モダニズム)への反発が背景にあったのでは…と思わされます。

 

私は私立のお嬢様学校だったので直接触れ合ったことはありませんが、田舎の公立校出身の研究者の友達が、「学校の廊下をバイクが走ってた」と言っていて、すげえな 尾崎豊みたいだな!と感銘を受けたものです。笑

 

今はどうかわかりませんが、80-90年代は、ヤンキー漫画がよく流行った時期だったと思います。自分が出来ずとも、その生活様式に共感する若者が多かったのでしょう。私も好きでしたよ。

 

 

これとか。80年代の「悪かっこいい」が色々みえる。フライングV(※エレキギター)を喧嘩の武器にしてぶっ壊すとかw

 

はい、では前置きが長くなりましたが、そんな先が見えない時代に何が大切なのか…ということを考えさせられたパートを紹介して、このゲームシリーズの最後としたいと思います。

 

 

流れ星お茶会参加者紹介流れ星


 もっくん
もっくん珈琲、占い系カウンセラー、

三児の母、80年生まれ、元ゲームっ子

人の心の仕組みと癒しへの興味から、子供の教育に関心をもつ


 よっちゃん

もっくん珈琲、(最近)デザイナー/クリエイター

三児の父、80年生まれ、田舎の山育ち

自然哲学と教育普及活動に関心をもつ

 中井聖さん

生と性のはぐくみ研究室 はぐ♡ラボ 主宰

ままとーん代表(現理事)

思春期保健相談士

三児の母


 安田歩さん
子育て×メディア Five for earth 代表
市民団体 子どもの未来を育む会 代表
認定心理士、新聞読み聞かせインストラクター
三児の母

 田邉大樹さん
総合大学院大学 博士課程の学生(KEK/高エネルギー加速器研究機構所属)

90年代生まれ

ご専門の宇宙のことから、社会のこと、サブカルまで、ジャンル跨いで色々神のように詳しい(※←私の見解)

 

 

流れ星流れ星流れ星

 

男子のコミュニケーション/自分自身を語る言葉

 

 聖さん

男子が高学年になると、外で遊ぶのをやめてみんなでゲームにより集まる傾向はなんなのでしょうか。女子にはあまり見られない。

 田邉さん
男子は目的のない会話が苦手、という傾向はある。共通の目標を見て、それに対して解決方法を出し合うのが男子のコミュニケーション。そこにゲームというコンテンツがあるとコミュニケーションを取りやすい。共通の目標、話題というポジションに収まりやすい。

デメリットもある。男子は自分自身のことを語るという経験をあまり積んでいない場合があるので、外側にあるものを品評したり解決したりすることは出来るけれど、自分自身を語る言葉を持たないのは、性の話でもゲームの話でも課題だと思っている。

 聖さん
どうすれば語れるようになるでしょう?

 田邉さん
仮に脳の性差がないとすると、誰か(男性作家など)が自分自身のことについてきちんと語っているロールモデルみたいなものがあると良い。


身近では父親でもいいが、男性の生き様、心の弱いところまで含めて語ってくれる人はなかなかいない。それらをアングラな雰囲気ではなく、堂々と公明正大な形で語る必要がある。

 

 

オタクの起源/サブカルチャーの作り手、受け取り手の変化
 

 田邉さん

80年代、90年代から少女漫画を読む男性が増え始めている(センチメンタルなことを語る言葉をどうにかして探そうしている)。少女漫画を読む男性が、オタクの原型になった。それらは、90年代、00年代のギャルゲーブームと直線でつながっている。

 もっくん
少年漫画は事象が描かれ、少女漫画はそれに比べて心象描写であると言われているが、90年代の後半から、少年漫画と少女漫画の境が曖昧になってきたような気がする。

 田邉さん
少年漫画に、少女漫画発の作家が入ってきた側面があるが、それが何によって引き起こされたかは、よくわからない。いわゆるラブコメ作品を少女漫画出身の作家が描いている。

 

 よっちゃん
鬼滅の刃の作者が女性であることが最近話題になった。女性はバトルものなどを好まないはずだという先入観、印象があり、そのため意外がられたのかもしれないが、よく読むと女性らしい視点もある。

 田邉さん
もはや今の時代に、「女性ならではの視点」「女性らしさ」を議論するのはナンセンスで、男女どちらであれ、どんな作品も描けるし描いても良い。ただ、女性でも少年漫画で活躍できる事例があることは知られるべき。今は男性向けの雑誌にエロ漫画を描いている女性作家もいたりして、職業的な垣根はない。

 
流れ星流れ星流れ星
 
(もっくん所感)
 
最後はやや余談気味ですけれども、80年代~という時系列を見るにつけ、オタクの起源はやはり、ポストモダンの話と切り離せないものなんだな、と考えさせられました。そのような論考をしている人はたくさんいらっしゃるようで、書籍はかなり興味深いです。
 
大きな物語の幻想に反発した者はヤンキーになったわけですが、それとはまた違う発露で、自分の寄るべきものを探しに、違う物語へ出かけた者もある、ということなのでしょう。
 
また、田邉さんの「男子が自分を語る言葉を持たない」の論は、女性の私にとっては、あまり持ちあわせない感覚であり、とても新鮮なものでした。
 
男女とはいえ、人間だから感覚は同じはずだし、わかりあえる、という気持ちが私にはあったのですけども、同じ世界、同じ国でも、育った環境があまりにも違うんだなあと、改めて考えさせられました。
 
身体的な性差もさることながら、思いを致したのはやはり、ジェンダーの問題です。
 
男女では生き方の躾けられ方が社会的に違っていて、男性が自分の内面に向き合い、それを外に出すことは、あまり歓迎されない、「カッコ悪い」ことのようなイメージが、まだまだあるように思います。それが、意識の使い方に影響を及ぼすのは、必然でしょう。
 
女性も抑圧されているけど、男性も、女性並かそれ以上の抑圧がありそうです。本来出てくる感情やエネルギーが、社会的に「否」とされるのですから。
 
占い師をやっていると、頻繁に出くわす事例ですが、自分の本来の気持ちや感情を抑圧し続けていると、「本当は自分がどう思っているのか」「自分が何を望んでいるのか」という感覚が麻痺してしまって、自分のことがわからなくなってしまいます。
 
他人は「それ」の探索に手を貸すことはできても、究極の正解を差し出すことは、できません。占い師だって、あくまで手がかりを差し出すのみです。
 
これは勿論、男性に限った話ではなく、女性もこういう方がたくさんいますが、今回の話を受けて、もしかすると、男性の方がさらに自分のことに気が付きづらく、声も上げづらいのかもしんないなー。。。とぼんやり感じた次第です。
 

大きな物語が崩れてしまった時代に、何に寄って、自分の生き方を確立していくのか。
 
オタクでもヤンキーでも、何でもいいのですけど、大事なのは、自分自身の物語をつくっていくことです。

寄るべきものがない中、他人の物語(日本だと世間体とも言えるかな)のコピペみたいな生き方をしていると、本当に迷子になってしまう。

そうならないため、また、その状態から脱するためには、自分がなにを感じ、なにを良しとしたり、幸せを感じたりするのかを、常に自分の中で言語化し、その状態に実際に自分を寄せていく、という発想ができるといいなあと思うのです。

これは皆が持っている課題だと思います。また、大人は、子供たちがありのままを表現したり、望んだりするのを、否定するべきではない。

子供の人生は、大人のものではないし、大人の生きてきた時代の価値観のコピペみたいな人間を作り出しても、その子の幸せは担保できないからです。

失敗やネガティブ経験は、自分が何に傷つき、何を求めているのかが一番よくわかる、すごく優しい体験です。これを奪うのは、その子のアンテナを奪うことでもあります。

「我が子に失敗させたくない」という親御さんは、このことを知った方が良いと思います。


ゲームの話に少し寄せます。

ゲームを始めとしたサブカルチャーは、価値観の探索や試行錯誤という意味では、大変役に立ちます。遊びでありながら、リアル時間と並行した仮想の思考実験空間でもある。

もちろん、仮想空間との付き合い方は大いに考える必要はありますが、子供たちの生きる「場」は、もはや大人の私たちの時代とは違うものになっていて、寄り添うために、むしろ勉強しなければいけないのは私たちの方だ、という認識は、持っておいた方が良いと思います。

サブカルチャーやICTツールの変化、進化に向き合うにあたり、大人がつい考えがちなのは「規制」「禁止」の方向ですが、そうではない、情報との付き合い方や、生のリアルな人間のモデルの提示の方が、子供たちにははるかに有益になるのではないでしょうか。

私は普段、主に砕けた言葉でいろいろな言葉を発信しますが、今後はこう言った話を、もっと真面目な、まともな場に乗せていく必要がある、と感じています。枠組みを変えるために。

今はただのコーヒー屋のオーナーだけど(?) 、残りの現役時代、こういう活動に顔を突っ込んでみようかなーと考えていますニコニコ

もしご興味のある方がいたら、ぜひコンタクトしてくださいねキラキラキラキラ

ゲームの話はこれにて終わりです。長い話を読んでくださり、どうもありがとうございましたニコニコ