ゲーム依存症のはなし【5/21はぐ♡ラボ×もっくん珈琲お茶会 振り返り①】 | もっくん珈琲ブログ

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3週間以上経ってしまったのですが、先月5/21のはぐ♡ラボお茶会にて、ゲームのことをお話しました。


 

きほん、性教育のお話会なのになぜゲームの話か?というと、子どもたちのこころの成り立ちを語る上で、今の時代、外せないテーマだから。


ちょうど、デジタルメディアとの付き合い方を考えさせられたStayHome期間だったこともあり、こういう設定にしてみました。

 

参加者は私、よっちゃんをふくめ5人。70年代生まれ、80年代生まれ、90年代生まれ、といい感じにバラけていたのと、それぞれのスタンスの違いもあり、とてもおもしろい話ができました。

 

せっかくなので表にも出したいなあと思い、ここで出た話題と、それに対する私からの視点をシェアしていきたいと思います。1記事にするには、内容がてんこ盛りなので、いくつかにわけようかと。

 

で、①はゲーム依存症についてです。

 

 

私が話題提供者~ということで、自分のことを話そうか、子供のことを話そうか、数ある(?)持ちネタの中から考えあぐねていた所、ちょうどお話し会の前日の22時に、NHKクローズアップ現代で、

 

『外出自粛で“ゲーム依存”は大丈夫? 適切な向き合い方は』

 

なんていう特集をやっていたんです。それをこのタイミングで目にする私、さすが、持ってんな~(笑)

 

というわけで、まず冒頭にこのお話を皆さんに提供しました。



 

内容的には、ゲーム依存症でまともな社会生活が送れなくなった10-20代の若者の事例を主に取り上げて、「ゲーム依存症の専門家」なる精神科医と、ゲームの作り手・提供側の高橋名人がそれぞれZOOMで出演して、問題解決について話し合う、という内容でした。


これに対し、1時間遅れくらいでオンデマンド放送を見ながらの、わたしのツイートが以下。 









番組の構成からして、「ゲーム依存は怖い!」みたいな編集側の意図が全面に出てて、あんまり本質的じゃない感じではありましたが、


若者たちが「居場所」を探して、それでたどり着いたのがゲーム、という論点は少しあったので、その点はよいかなと思いました。

 

 

「ゲーム依存」は、結果であって、原因ではないのです。

 

ゲームによって生活を破壊されたのではないの。

 

生活を破壊しなきゃいけないような、精神的な危機が、その本人に訪れていて、それがゲームという形で具現化したのか「ゲーム依存」なの。

 

 

精神的な危機ってなにか?といったら、「自分はこれでいい」という安心安全感、自己肯定感に、危機が生じるということです。

 

親や友達、学校などなどとの葛藤により、それが崩されていくことじたいは、生きていることそのもので、思春期の発達過程で来るべくして来るものなのですが(自己肯定感は、他人の存在が気になりはじまる3年生くらいから、少しずつ低下するらしい)

 

それに対しての周りのアプローチが、本人の人間性の肯定ではなく、「世間に合わせること」(例えば、学校に真っ当に行く、勉強をする、しかるべき学歴や職を得る)だったりして

 

本人の気力・能力的にそれが叶わない、もしくは難しく感じる場合、本人は逃げ場がなくなり、自分を守るために、避難する必要があります。

 

「私はここなら安全だ」

 

と感じる場所へ。

 

その居場所のひとつがゲームというわけです。それが一時的かつ、日常生活に支障をきたさないのならセーフで、問題視はされませんが、それが支障をきたしたら、「ゲーム依存」という結果になります。セーフゾーンとそれは完全に地続きで、程度の問題です。

 

 

私の体験を話すと、小学校のときに「ドラゴンクエスト」にドはまりし、学校や塾の時間以外は(いやその時間も)、寝ても冷めても、ほぼすべてドラクエや、マンガ、小説、その他サブカルの何かで頭をいっぱいにしていました。

 

私は中学受験をしていて、4年生から塾通いをしていましたが、これがかなりキツくて、今でもあまり肯定できる体験ではありません。30年も経っているから、もういいと消化しているところもあるけど、端的に言って、辛かった。受験に受からなければ、罵倒されて殺されるな、みたいなプレッシャーがありましたから。

 

ブス・デブ(自認の中の話で、実際はたぶんせいぜい普通)な自分も嫌だったし、女子になりきれない自分も嫌だったし、逃げたいことがたくさんあった私にとって、綺麗な恋や正義、ファンタジーの虚構の世界は、とても優しかったのです。


リアル世界は、冷たくて過酷で、わたしが安心して過ごせる場所ではありませんでした。親のせいとは言いません。わたしは元々、変にまじめで責任感があり、また心が繊細で、人が傷つかないことにたくさん傷つく子供でした。

 

16歳になったらきっと異世界に行けるのだと信じられたことは、10代前半の私にとっては、生きる希望で、夢の世界に居場所を定めていることで、過酷な世界に出かけて行くことができました。

 

 

……とまあ、こういった体験があるので、ゲーム依存の若者の姿は、どこか他人とは思えず、もう1人の自分みたいだなあと感じるのです。



番組に紹介された事例の中で、小学5,6年生の子が、プロゲーマーになるのだと言って、不登校の上に1日17時間ゲームをやり続けて、坐骨神経痛か何かになった! みたいなエピソードがありました。(オチを坐骨神経痛にもっていってるあたりがすでに恣意的)


そこに出てきた祖母のひとことは「学校に行ってくれればいいんだけど」。


「学校に行けない理由があるから」彼がそこにいるのかもしれない、という論点は語られません。




eスポーツの登場のせいで、「将来のキャリアのため」という大義名分が出来、ゲームを止めづらくなった、みたいな論調さえあったように思いますが、ゲームがスケープゴートに過ぎないことは、火を見るより明らかだと、わたしには映りました。


不登校は、普通を逸脱してはいるかもしれませんが、本人にとっては、学校にいるより安心安全な場所にいる、ということです。


そこには甘えも当然あるでしょう。でも、本人にとっては生きるか死ぬかのサバイバルなんだと想像してもらえれば、と思います。


逃げた先を「病気」として治療したり規制したりすることより、なぜ「逃げなければいけなかったのか」を、子供たちの立場から、考えてみて欲しいのです。



お話し会のタイトルが示すとおり、ゲームというものは、いろんな側面があります。よくないこともあるでしょう。


でも、そのメディアが無かった頃しか知らない人が、ゲームの正体を知らない人が、既に過ぎた時代の常識でこれらを論じたり、よくわからず規制したりするのは、本質的ではないと思います。


詳しくは次回に分けますが、香川県のゲーム規制条例の話は、これの典型的な例で、日本の性教育の現状の残念さと同じ匂いがします。


時代が凄いスピードで変わっているのに、それを受け入れない保守集団が主に世の中の枠組を作っているのは、とても憂うべきことです。


わたしは今年40歳。ゲーム文化の黎明期に生まれ、ゲームに育てられ、ゲームによって生を守られたと感じている身として、その無実を晴らしたいし、また、うまい付き合い方の提案もしていきたいと思っています。


このシリーズ、ぼちぼち続けていきます。