先祖は我を生み土地は我を養う | 格言とその意味

格言とその意味

廣池千九郎先生の格言とその意味をUPしていきます。


 そもそも日本の皇室におかせられては、伊勢の内宮《ないくう》・外宮《げくう》の御制度あり、日本の社会的祭祀《さいし》には氏神《うじがみ》と産土神 《うぶすながみ》との制度あり、中国にては宗廟《そうびょう》と社稷《しゃしょく》との区別ありて〈第十三章上参照〉、その内宮・氏神及び宗廟は肉体的伝 統に対する報恩的制度であることはもちろん、外宮・産土神及び社稷もまたみな肉体的伝統であるのです。
すなわち我《われ》を生むものは父母にして、その源 に遡《さかのぼ》れば祖先であるのです。
故に日本の古典には祖先をみな単に「親《おや》」と称し、もしくはこれを「遠《とお》つ御親《みおや》」と称して あります。
かくて、わが肉体、この地上に生まれ出《い》でて後にこれを養うものはすなわち物質であって、物質は土地(すなわち神〈本体〉の肉体の一部分) から出《い》でたところの産物であります。
故に外宮・産土神及び社稷はその土地を掌《つかさど》るという理由よりして、内宮・氏神及び宗廟と同じく肉体的 伝統の主体であるのです。この意味よりして、準伝統はやはり肉体伝統に摂合《せつごう・おさめあわす》すべき性質のものでありますから、極めて尊敬すべき 性質を有しております。
されば、最高道徳にては常に深く三伝統をはじめ準伝統に対してこれを尊敬するのみならず、具体的にその各主体に安心をしていただく ようの精神と行為とを表現し、その霊魂のこの世を去り給《たま》える御方々に対しては毎年特に祭祀《さいし》を営みてその霊を慰め奉るのであります。
私は 若年のころより広く好んで東西各国の歴史を読みましたが、いずれの国にても古代においては神〈本体〉・聖人・祖先もしくは社稷のごとき伝統を祭る習慣あり しも、その後いずれも種々の事故によりて、その習慣は衰頽《すいたい》もしくは廃棄せられておるのであります。
しかるにひとり日本のみは終始渝《かわ》る ことなく、原始時代に発見されたるところの人類の生存・発達・安心及び幸福享受の原理の実現たる伝統及び準伝統に対する祭祀が行われておるのであります。
ことに日本近世の聖帝孝明《こうめい》天皇・明治天皇のごとき最も神祇《じんぎ》崇敬の御志厚くあらせられし結果、皇祖皇宗《こうそこうそう》の宏謨《こ うぼ》ふたたび国民の頭脳に再生し、もって明治の聖治を開き、ついに今日に及んでおるのであります。毎年元旦《がんたん》、宮中における天皇陛下の御行事 は、神宮を拝することがその始まりであって、一年間の万機御親裁《ばんきごしんさい》の始まりは神宮のことを聞《き》こし召《め》さるることであるとのこ とは、第一巻第十三章上第九項に述べしところであるが、更にこのことは人間幸福享受の上においては重大な原理であります。
よって左に孝明・明治二聖帝の御 事跡と御製《ぎょせい》とを記し奉り、更にこれに関する先輩穂積《ほづみ》先生の遺説を付記いたしておきます。

               広池千九郎WEBSITE格言の間より