火口のふたり(2019 日本)

監督/脚本:荒井晴彦

原作:白石一文

製作:田辺隆史、行実良

製作総指揮:岡本東郎、森重晃

撮影:川上皓市

編集:洲崎千恵子

音楽:下田逸郎

出演:柄本佑、瀧内公美

 

①二人だけの世界

本作はR-18なので、レビューの中でもそういう話題に触れています。ご注意よろしくお願いします。

 

賢治(柄本佑)はいとこの直子(瀧内公美)の結婚式に出るため、故郷である秋田に帰ります。賢治と直子は以前、東京で恋人関係にありました。自衛官である結婚相手が戻ってくる10日後までの間、賢治と直子は激しく体を求め合います…。

 

2019年、迷ったけど観なかった映画の1本です。キネ旬の日本映画1位に選出されていました。

好きなところもあり、嫌いなところもあり。

強く引きつける力を持った映画ではある…と思います。最初から最後まで、画面に集中させられました。

 

主演の二人は素晴らしいですね。本当に二人だけしか出てない映画。

二人以外のキャストは声だけか、エキストラのみ。

映画全体が二人の世界になっていて、非常にプライベートな空間のようになっている。

それが、ずーっとセックスばっかりしている映画の内容をまだしも自然に見せているし、同時にどこか世界から隔絶されたような、二人だけの世界に隔離されたような、現実社会との距離感を感じさせています。

 

二人はダメ人間で、倫理的にかなりアウトな人たちだと思うのですが、それでも不快感を感じさせない。むしろ感情移入させるのは、二人の役者の人としての魅力がモノを言ってるのだろうなと思います。

特に瀧内公美という人の、クールなたたずまい。

その魅力は、本作を相当な部分、救っているのではないかと感じます。

 

②そればっかりの意味

あまり好きではなかった部分。それは、なんでそんなにセックスばっかり見せるんだ…というところですね。

いや、物語の中で、主人公の二人がどうしようもなくだらしなくて、セックスしかやることがない。そのことの「悲劇性」は伝わるし、物語上の意味はわかるんだけど。

ただ映画として、これほどまでにそればっかり「見せる」ことに、僕は面白みを感じなかった…ってことです。

この映画に関してそれを言うのは、的外れなのかもしれないけど。

 

でも、なんて言うのかな…。

セックスって、そんなに見て面白いモンではないじゃないですか。

誰がやることも、まあそんなに変わらないし。それほど目新しい発見があるわけでもない。

本作では繰り返し繰り返し、いろんなセックスが描かれる。変化をつけようとして、廊下でやったり、道でやったり、バスの中でやったりするわけですが、そういうのってAVがシチュエーションを変えていくのと変わらないわけで。

興奮することが目的のポルノならそりゃまた別の見方をするんだけど。

 

僕は本作を、基本的には面白く観たんだけど、でもどこが面白かったかといえば、それはセックスシーンじゃないんですよ。

二人でレバニラ食ってるシーンとか。ポンジュースでハンバーグ食ってるシーンとか。

買い物に行って、家電量販店に並ぶとか。

お祭りを見に行って行列を横切るとか。

風力発電の風車の前で、二人で語り合ってるシーンとか。

そんなシーンの方がよっぽど個性的だし、伝わってくるものがある。面白いと感じました。

そういったシーンの印象に比べて、セックスになるたびに、凡庸だなあ…と感じてしまいます。

早くセックスシーン終わって、二人の会話が始まればいいのに…と何回も思いました。二人の演技がいいだけに。

 

性的に興奮する…というのを意識から除外して見たときに感じるのは、なんか身もふたもない格好で欲望に流されている滑稽さ、浅はかさ。

それはわかるんだけど、それなら1シーンでいい気がする。

ただ人が欲望に溺れてあられもない姿をそればかり見せるのが芸術なら、いちばん高尚な映画はAVだということになる。

 

何というか…役者に「体当たり演技」をさせて、「赤裸々」な姿を画面にそのまま映せば、そりゃまあ確かに凄みのある絵面になるし、いかにも意味ありげに見えたりもするんだろうけど、それってなんか作り手がラクしてないか?と思っちゃうんですよね。

「赤裸々」っていうなら、今はそれこそなんぼでも赤裸々なものがネットに溢れているわけで。

そういうものをあえてそのまま映さずに、工夫して何事かを感じさせるのが映画なのではなかろうか?

…なんてことを、思ったのです。

 

③想像力に欠けた小さな世界

画面の中に二人しかいない。二人以外の世界が一切描写されないことで、映画の中の世界はどんどん小さく、閉じていきます。

震災に感じる「引け目」や、自分自身の病気。親の老いや死。離婚や、仕事をする生活の破綻。

そんな何やかやはすべて、二人のいる世界を小さく閉じていく方向にばかり、働いていく。

気がつけば二人だけが、透明な膜のようなもので世界と隔絶されていて、小さな世界に閉じ込められて、その中でやることと言えばセックスくらいしかない。

そんな、どこにも行けない絶望感

 

…ってまあ、二人の自業自得感も強いんですけどね。

気持ちは、わかる。

わかるけど、全面的に肯定できない気分も、ある。

こんなふうに「ダメになっていくこと」が人はあって、それはある面で仕方のないことなんだと思うけど、でもそんなふうにどこにも行けないことを肯定していてもやっぱりどこにも行けないわけで、どうしようもないなと、思う。

 

閉じた世界だから見ていられるけど、こんな人が実際にそばにいて、過酷な現場に派遣されて頑張っている結婚相手を裏切っていると知ったら、さぞ腹が立つだろうな…と思ったり。

 

東日本大震災があって、とんでもない恐ろしい光景を見せられて。

原発事故があって、その後も毎年のように大きな災害があって、地に足をつけるはずの大地が、どんどん不安定になっているような不安。

引け目を感じながらも何もできず、不安に立ち向かうこともできず、ただ自分の世界を閉じてしまう…。

劇中では富士山が噴火するけど、現実世界ではコロナがやって来ましたからね。

終わっていく世界なら、体の言い分を聞いて、今を楽しく生きた方がいい。そんな考えになってしまうのも、肌感覚としては確かにわかる。

 

わかるけど、好きではない。

こいつら、コロナの自粛要請なんかには絶対従わないだろうな…なんてことも思ったりする。

劇中人物にも作り手にも、何かが欠けてる気がする。なんだろう。想像力?

 

二人はプータローのはずなんだけど、お金に困ってる描写はまったくなかったりしますね。

毎日ブラブラして、釣りしたりして気楽に暮らしてる。旅行に行ったり、豪華なごはんを食べたりもする。

二人がこんなセックスばっかりしてられるのも、収入の問題が一切描かれていないから。

彼らのように現実に押し流されてしまう弱さを持った人たちこそが、今の現実世界では経済的な困窮にも置かれるはずで、それどころじゃないはずなんですけどね。

映画の二人はまるで高等遊民のようです。

 

そういうところも、想像力の欠如を感じる。

噴火で被災する人々や、故郷を追われるたくさんの人々。とてつもなく過酷な現場に出動していくことが決まっている自衛隊員の気持ちにも、まるで想像力は働いていないような気がする。

もし想像力があったなら、そこできっと立たなくなるんじゃないかという気がする。

 

だから、二人がそもそも閉塞感の中に閉じ込められて、どこにも行けなくなっているのも、二人の想像力の欠如が最大の問題なんじゃないかという気がします。

セックス以外に二人でやることを、何も思い描けない。想像できないということだから。

 

自分しか見えなくて、世界が閉じていく。それはままあることだと思うから、それを描くのは意味のあることだと思うのです。そういう意味で、気持ちはわかる。

でも、閉じたままでいることを、無自覚に肯定するだけなのは、好きじゃない。

それは実のところ、意図的な選択ではなくて、単なる想像力の欠如だと思うから。

 

うん。わかるけど、好きじゃない。そんな映画でした。

 

 

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