Pet Sematary(2019 アメリカ)
監督:ケヴィン・コルシュ、デニス・ウィドマイヤー
脚本:ジェフ・ブーラー
原案:マット・グリーンバーグ
原作:スティーブン・キング『ペット・セマタリー』
製作:ロレンツォ・ディ・ボナヴェンチュラ、スティーヴン・シュナイダー、マーク・ヴァーラディアン
製作総指揮:マーク・モラン
撮影:ローリー・ローズ
編集:セーラ・ブロシャー
音楽:クリストファー・ヤング
出演:ジェイソン・クラーク、エイミー・サイメッツ、ジョン・リスゴー
①原作「ペット・セマタリー」について
本項はネタバレありで書いてます。ということは1989年版の前作映画、スティーヴン・キングの原作小説に関してもネタバレしています。ご了承ください。
また、基本的に酷評です。そういうの読みたくない方はスルー願います。
スティーヴン・キングが1983年に発表した小説「ペット・セマタリー」の2度目の映画化。
1989年の映画「ペット・セメタリー」のリメイクということになります。
小説と映画でタイトルが微妙に違ってますが、原題はどちらも”Pet Sematary”。ペット墓地を意味する”Pet Cemetery”のスペルミスです。劇中に登場するペット墓地の、子供が書いた看板の綴り間違いを、そのまま活かしたタイトルになってます。小説と映画の邦題の違いは、スペルミスのニュアンスを汲み取るかどうかの違い…ですかね。
小説は「あまりに怖いので発表が見合わされていた」という触れ込みになっていました。
これはホラー的に怖い…というより、内容の悲しさ、痛ましさから、発表をためらっていたというのが正しいようです。キングは「妻がこの本を発表するのを嫌がっていた」と述べています。
幼い子供の突然の死。そして、愛していることでかえって、家族が破滅に向かってしまう。そんな悲痛なストーリー。
物語のモチーフは短編ホラー小説の古典「猿の手」。
3つの願いを叶えてくれる魔法のアイテム「猿の手」をめぐる物語です。
猿の手を入手した夫婦は、大金が手に入ることを願います。その翌日、夫婦の一人息子が工場の事故で死んでしまい、夫婦は賠償金を受け取ります。
嘆き悲しむ夫婦は息子が生き返ることを願います。やがて引きずるような不気味な足音が近づいてきて、ドアを激しくノックします。
恐怖のあまり、夫婦は最後の願いを使って、息子が死んだままでいることを望みます。ノックは消え、夫婦は二人きり取り残されます…。
最悪の結果になるとわかっていても、選択せずにいられなくなってしまう、人間の性。
単純なゾンビホラーではなく、そういう人間心理がテーマなんですよね。キングの作品の中でも、文学的なテーマ性の際立つ作品と言えると思います。
それでいて、一方では「墓場から帰ってくる死者の恐怖」という古典的なホラーの側面もある。文学的なテーマ性と、ベタなホラー要素の融合という点で、非常にキングらしい作品ということができるんですよね。
②前作「ペット・セメタリー」について
医師のルイス・グリードは、妻のレイチェル、娘のエリーと幼い息子のゲージ、それに猫のチャーチと共に、メイン州の田舎町ラドロウに引っ越してきます。家の前にはトラックが猛スピードで走る道路があり、ある日猫のチャーチが轢かれて死んでしまいます。エリーを悲しませたくないルイスを、隣家の老人ジャドは森の奥に連れていきます。ペット墓地のさらに奥の禁断の土地に埋められたチャーチは、翌日生き返って帰ってきました。しかし、チャーチはすっかり凶暴な猫に変わっていました…。
前半は、原作や前作に忠実に進みます。
これ、結構意外でした。原作や前作にない動物の仮面の子供たちのビジュアルが前に出ていたので、もっと違う物語に変えてあるのかと思ってた。
最近のホラー映画リメイクブームでも、オリジナルとは異なる映画になってるのが多かったし。「サスペリア」とか、「ハロウィン」とか、「チャイルド・プレイ」とか。
本作はその中では意外と珍しい、オリジナル通りの純粋なリメイク。前半は…ですけど。
そんな展開を観ながら思ったのは、「ペット・セメタリー」に関しては、これはアリなアプローチかもしれない…ということ。
というのは、1989年の前作は原作に忠実で、まあまあ悪くない作品ではあるんだけど、やっぱりB級感が漂っていて。
80年代ホラーらしく、やや軽いんですよね。パスコーの幽霊の描写とか、コメディ色も否めない。
語り草になった、エンディングのラモーンズの能天気さも含めて。
それはそれで…ではあるんだけど、原作の持っていた文学性は希薄なんですよね、やっぱり。
原作に忠実に、現代の技術やセンスで映像化し直すことで、原作のホラーと文学性を両立した、傑作になり得るんじゃないかと思ったのです。前半は…ですけど。
③後半はエリー中心にアレンジ
「誕生日パーティー」のシーンから、映画は原作/前作を離れていきます。
原作/前作では、トラックに轢かれて死ぬのは末っ子のゲージ。
よちよち歩く、幼い子供が死んでしまう…という強烈なトラウマ展開だからこそ、原作は「もっとも怖い」などと言われたんですよね。ルイスが「思い詰めて一線を超えてしまう」のも、非常に説得力のあるものになっている。
今作では、トラックに轢かれるのはエリー。エリーだってもちろん衝撃ではあるけれど、よちよち歩きの幼い子が…というショックとはやっぱり違うところがあって。だからどうしても、トラウマ度はややスケールダウンしています。
今作の改変のポイントはエリー。前半も、エリーに焦点が当たっています。
「インディアンの埋葬地」に埋められて、帰ってくるのもエリー。この変更で、本作の恐怖の質は大きく違ったものになってます。
幼い、まだ自我も覚束ない無邪気なゲージが、凶悪になって襲いかかってくる…というのが前作の要点でした。
今作で帰ってくるのはエリーなので、より自我のある存在になっています。
ただ本能のままに人を襲うのではなく、目的を持って、計略の上に人を襲う。
殺した相手を埋葬地に引きずって行って、自分の仲間を増やしていく。エスカレートした展開が用意されています。
「幼児に襲われる恐怖」は前作でやってるので、別のアプローチを狙ったのでしょう。
あと、ゲージの年齢の子役に前作のような演技をさせるのは、今時のコンプライアンス的にマズいのかもしれません。(80年代版はコレよく撮ったな…って感じなんですよね)
エリーを埋めに行く「森」の描写とか、魅力的なところはありました。異次元の世界に踏み込んでしまったような異様な異世界感、歩き回る"ウェンディゴ"の気配。
この辺りは前作よりスケールアップしていて、キングの小説にある超常現象的な奥行き、さらに見えない世界のある感じが再現されていたと思います。
(劇中ではほとんど説明されないですが、"ウェンディゴ"はアメリカ北部のインディアンに伝わる伝承の精霊。また「ウェンディゴ症候群」というものもあって、それはウェンディゴに取り憑かれたと思い込み、人肉を食べたくなるんだそうです。今回の映画は「インディアン」というワードも微妙に避けられていましたね。それもコンプライアンスかな…?)
帰ってきたエリーのムードも、よかったと思うんですけどね。
どう見ても死体の気持ち悪さがあって、髪の毛がボロボロ抜けたり。生理的な不快感が否めないにも関わらず、やっぱり娘として見ることをやめられないルイス。
悲痛な感じも、よく描かれていたと思うのですが。
エリーを使った展開が、どうにも上手くなかったですね。バタバタしたぎこちなさばかり、感じてしまいました。
④ドタバタ展開のぎこちなさ
原作や前作の魅力は、後半の展開の「容赦のなさ」。
そこが、弱くなっちゃってるんですよね。展開が引き延ばされ、ドタバタ騒ぎがダラダラ続いてしまいます。
原作や前作では、ルイスがゲージを埋めて帰ってきて、疲れ果てて眠ってしまう。その間にゲージが帰ってきて、ジャドの殺害も、レイチェルの殺害も、全部済んじゃうんですね。
ルイスが気づいた時には、最悪の事態は何もかも終わってしまっていて、どんなに悔やんでももう取り返しがつかない。
一度起こってしまった事態は取り消しが効かないし、取り消そうとするとかえって最悪なことになってしまう。「猿の手」と共通する、その厳しさが魅力なんだけれど。
今作では、ルイスが目覚めてからエリーが帰ってくるので、その辺りの「後の祭り感」は失われています。
エリーが帰ってきてからの展開が引き伸ばされて、いろいろとホラー的シーンが作ってあるのはいいんだけど、なんか無理を感じてしまう展開が多い。
エリーが家を出て、ジャドの家まで行って、ジャドを殺して、また帰ってくる…という展開というのも、ルイスが眠っていて気づかないという前提あっての展開じゃないですか。そこはなんか、「たまたま見てなかった」みたいなことで雑に処理してある。
どうせアレンジするなら、もうちょっと自然に見えるように工夫できないかなあ…という気分にさせられてしまいます。
エリーがレイチェルを埋葬地まで引きずっていく…というのもね。ルイスが結構大変な思いして行ってたのを見てるから、いやそれ無理だろ、って思っちゃう。
そのあと、そのパターンが繰り返されるんだけど。「よみがえりの所要時間」は都合よく短縮されてるよね。
あと、なんかショックシーンに気持ち良さを感じないんだよなあ…。
コンプライアンス的などうこうを感じる割には、ゲージの見ている前で、エリーがレイチェルをナイフでザクザク刺して殺しちゃう。なんかすごい悪趣味な展開をわざわざ選ぶんだなあ…とか。
ジャドのシーンも、前作のシーンをあえて意識した「ベッドの下」とか、メタ的なお遊びがいきなり入ったりして。
どうもね。気が散っていく。展開に集中していかないんですよね。
⑤オリジナル脚本をもっと頑張れ!
最終的に思ったのは…
原作があるところは、よくできている。見応えがあるように感じる、ということ。
それはまあ、そもそもの物語がしっかりしているから。
その一方で、原作から離れていくと、とたんにグダグダになっていく、ということ。
原作をベースにしながら、そこでやってないことをやろう!とするんだけど、そこの作り込みがこなれていない。洗練されていない、バタバタした印象になっていくんですね。
これ、「ドクター・スリープ」でも同じ感想だったなあ…と思って。
原作に忠実だった前半は、とても面白く、完成度高く感じた。
でも、原作にないキューブリック要素をぶっ込んで、オリジナル展開にした後半は、コントみたいなドタバタになってしまっていました。
だから、感想を書くとどうしても、原作に忠実なのが最高! オリジナル展開はダメ!みたいな論調になってしまいがちなんだけど。
でも、そういうわけではなくて。ただただ、オリジナルの脚本を作るのがヘタクソすぎやしないか?って言いたいだけなんですよね。
原作を離れてオリジナルの展開にして、傑作になってる映画はいっぱいあります。同じキング原作でも、「シャイニング」とか、「イット」2部作とか。
80年代ホラーのリメイクという視点でも、前述した「サスペリア」「ハロウィン」「チャイルド・プレイ」いずれも、前作から離れて独自の面白さを達成しています。別に、オリジナル展開が悪いわけじゃない。
たぶんダメなのは、お話のベースはオリジナルの物語に乗っかっておきながら、最後だけちょっといじくって別の展開にしてやろうというような。安易な改変をしている場合なのではないかな。(「ドクター・スリープ」も本作も、まさにそのパターンでした)
結果どうなるかというと、原作通りのところではずっと一貫して通っていた映画の芯が、オリジナルになった途端に消えてしまうのです。観ていて、すごくがっかり感じてしまいます。
ラスト、ラモーンズの「ペット・セメタリー」なんですよね! カバーだけど。
うーん、結局のところは内輪受け。もうちょっと向上心というか、野心があってもいいと思うんだけどなあ…。