来る(2018 日本)

監督:中島哲也

脚本:中島哲也、岩井秀人、門間宣裕

原作:澤村伊智「ぼぎわんが、来る」

製作:川村元気、西野智也、兼平真樹、佐藤満

撮影:岡村良憲

編集:小池義幸

出演:岡田准一、黒木華、小松菜奈、青木崇高、柴田理恵、太賀、志田愛珠、松たか子、妻夫木聡

 

①お化けに興味はない映画

惜しいな!と思いました。

面白いところも、多々あったんですけどね。好きなところもいっぱいある映画ではありました。

でも、大きなところで、どうにも不満なところがあって。

全体としては、モヤっとしたところの残る。そんな映画でした。

 

原作は日本ホラー小説大賞を受賞した小説「ぼぎわんが、来る」

基本的には、原作に忠実です。

本作は3部構成になっています。次々と視点を切り替えることで、同じ事実の見え方が変わっていく仕掛けです。

1部はイクメンパパ、秀樹(妻夫木聡)の視点から。

2部は彼の妻、香奈(黒木華)の視点から。

3部はオカルト系フリーライター、野崎(岡田准一)の視点から。

特に1部と2部は、原作にかなり忠実に進みます。

原作に忠実だから、正直言って忙しくはあります。かなりのハイテンポで進んでいくので、小気味良くもあり、目まぐるしくもあり。

 

3部に入ると、映画はおもむろにグググイーっと原作から離れていきます。

この脱線も、映画オリジナルの要素として面白くもあるんだけど。

でもここで、この映画の大きな欠落が如実に見えてくるんですね。原作にあって映画にないものが、すごくはっきり見えてくる。

 

映画を観終わって強く思ったのは、中島哲也監督、お化けに興味はないんだな…ということでした。

この映画、お化けの存在感がスゲー薄いです。

お化けが”来る“映画であるはずなんだけどね。

1部でも2部でも、原作に忠実に進みつつ実はお化けの存在感は薄かったんだけど、3部でそれがあからさまになります。

ほぼ、「お化けはそっちのけ」になっちゃいます。

 

原作でも、お化けは人間の心の闇につけ込んで、やって来ることになっています。

イクメンパパと見られる自分大好き人間である父親の心の闇。育児ノイローゼで疲れ果てた母親の心の闇。

映画ではそれに加えて、そんな両親に育てられた子供、知紗の心の闇も描いていきます。だから、そのテーマに関しては、映画は原作よりも深く踏み込んでいると言えます。

 

ただ、原作では「心の闇」はあくまでもお化けがやって来るための装置であり、興味の主軸はお化けそのものにあるのに対して、映画ではそれが逆転しています。

つまり、映画でもお化けは一応やって来るんだけど、興味の主軸はそこにない。映画の焦点は、あくまでも人間の心の闇の部分に絞られているんですね。

 

だからこの映画では、ぼぎわんは来ない。

お化けを呼び込むために大掛かりな儀式を行っておきながら、クライマックスはお化けとの対決ではなく、千紗を守るか見捨てるかのやり取りになっています。

そのやり取りが終わっていよいよお化けがやって来る…というところで画面が切り替わり、その先は見せてもらえません。

 

あ、だからわざわざタイトルが変えてあるんですね。「ぼぎわんが、来る」が「来る」になってたのは、そういう意味があったのか。

原作と映画の最大の違いは、既にタイトルが語っていたわけです。

小説にあって映画にないもの、それは”ぼぎわん“です、という形でね。

 

②見応えある、「育児ホラー」部分

イケてるイクメンパパとして、育児ブログで情報を発信し、愛する妻と子を守ると言い続ける秀樹

おとなしい性格で、常に秀樹を立てる妻、香奈

二人の娘、オムライスを愛する天真爛漫な2歳の少女、知紗

3人の家庭は互いへの愛情に包まれ、いつも笑顔に満ちた幸せな家庭でありました。

…かのように、傍目には見えていました。でも、実態は違っていた。

 

ブログでの見え方とはうらはらに、秀樹は自分ではオムツも替えない。娘が泣いていても気にもかけずに、ブログを更新することに夢中

香奈は育児に追われるうちに、そんな秀樹を憎むようになっていき、また娘にもイライラをぶつけるようになっていって、家庭内はすさんだ状態になっていきます。

 

そんな夫婦の心のスキマ、積もりに積もったマイナスの感情が、悪いものを呼び込んでしまう…というのが、この物語の根幹となっています。

そこは原作といっしょ。

 

映画では、秀樹と香奈それぞれのキャラクターが、より強調して描き込まれています。

つまりは、二人ともよりイヤな人間に描かれている。

人間の暗部を強調して戯画化する、中島哲也監督の得意分野でしょうか。

 

秀樹の田舎で法事の夜、香奈が疲れ切っている時に、自分だけ盛り上がった秀樹が空気を読まずにプロポーズ。

結婚式の披露宴で語られる、秀樹と香奈の馴れ初め。秀樹が、香奈の親の借金を肩代わりしてやったらしいということ。

二次会のパーティーでの、旧友たちの秀樹への冷ややかな視線

自宅でのパーティー。お腹の大きな香奈に料理をさせて、嬉しそうに育児を語る秀樹。そこに居合わせる同僚の女性が、秀樹と浮気をしているらしいこと。

この辺、すべて映画で付け加えられた要素です。

 

自称イクメンパパへのシニカルな視線。なかなかドキッとさせられます。

この辺り、少子化の一方でやたらとイクメンがもてはやされ、子育てに関して発言したがる男が増えている現代への痛烈な揶揄になっています。

映画でも、多いですよね。「未来のミライ」とか。

作り手世代の男たちも、なんだか育児に関して持論をぶちたくて仕方がない。そんな様子を、笑いのめしてる。

 

一方の香奈も、大きく肉付けされています。

原作ではただの善良な被害者ですが、映画では育児疲れのあまり津田准教授(青木崇高)浮気し、娘にイライラをぶつけ、ついには育児放棄してしまう人物になっています。

秀樹に対する態度も、原作では愛憎半ばしつつも、彼が命がけで家族を守ろうとしたことは認めているのですが、映画ではそれもない。ひたすらドス黒い憎しみに染まっています。

 

そして、そんな二人に育てられた娘、知紗もまた、暗い感情を育ててしまっている。これが、この映画で足された最大のオリジナル要素であり、映画での主要テーマとして収束していく部分ですね。

原作では、ここは完全に抜け落ちている部分です。こんなしょうがない両親に育てられたら、子供にも何らかの影響があるのが当たり前であって。それを、しっかりとすくい上げている。

香奈の母親を娘を虐待するダメ親にして、香奈のトラウマにしているのも映画オリジナルの要素。それによって、虐待が生む負の感情を「お化けよりも怖いもの」として描き出していくのが、映画の大きなテーマであるのだと思います。

 

そして、怪物を育ててしまう実の両親に対して、配置されているのが野崎真琴(小松菜奈)ですね。

原作では、野崎と真琴は二人とも子供の持てない体質であるとされています。それに対して映画では、かつて恋人に子供を堕胎させたという過去が、野崎の大きなトラウマとして用意されています。

子供を愛しているけれど自分の子供は持てない真琴と、子供を憎み邪魔者だと考えてきた野崎。そんな二人が、他人の子である千紗を命がけで救おうとする…ということが、映画のクライマックスになっているんですね。

千紗の「オムライスの歌」が映画の終わりにやってくるのも、だからテーマ的には必然だと言えて。

 

独特の、「育児ホラー」としてのこの物語のテーマ。そこは原作以上に強調され、より見応えのあるものになっていると思います。

実際、その側面ではとても面白かった。批評性も高く、毒も効いている。好きなところもいっぱいある…というのはそこのところで、面白い「育児ホラー」だったと思うのです。

…でも、映画には上映時間の限界というものがあるわけで。

そこを膨らましたということは、原作のもう一つの大事な要素は抜け落ちて行かざるを得ない。

その結果消えてしまったのが…タイトルからも消えてしまったわけですが…ぼぎわんという怪物である、ということになっているわけです。

 

③”ぼぎわん”に関するシーンから優先的に省略

上映時間内に収める制約から、映画では原作のいろいろなシーンが省略されているわけですが、そのほとんどは怪物”ぼぎわん”に関わるシーンになっています。

 

映画でも秀樹のおじいさんとおばあさんが出てくるシーンがありましたが、原作では彼らはもっと重要な形で”ぼぎわん”と関わっています。

少年の秀樹が留守番していて、玄関に何か異形のものが訪ねてくるシーン。これは原作では、秀樹の祖父を「呼びに」来ているんですね。

同様に、秀樹の祖母も「呼ばれて」いる。

”ぼぎわん”がやってきて、秀樹の家族を山に連れていこうとするのは、祖父の代から繋がっている。代々つたわっていく、呪いなんですね。原作では「そもそもどうして彼らがぼぎわんを迎え入れてしまったか」も描かれていて、始まりも明確なものになっています。

その要素が映画では消えている。その結果、どうして秀樹が”ぼぎわん”に狙われるのか、肝心な部分が曖昧なままになっています。

妖怪ってのは理不尽なものだから曖昧でもいいのだ…という取り方もあるかもしれないですが。テンポが極めて早いこともあって、説得力が低いのは否めないですね。

 

また、原作では訪ねてくる”ぼぎわん”は「髪の長い女」という「とりあえずの姿」をとって現れます。

そこもなくなっちゃってますね。だから、会社に来て高梨をヒドい目にあわせるときも、いったい高梨が何を見たのか、何と会話したのか、まるでイメージできないものになってしまっています。

この「イメージできない」というのが、大きいと思うんですよね。”ぼぎわん”は決まった形のない怪物だから、曖昧に描くことはある種の正解であるとは思うんだけど、でもまったくイメージを描けないと、観ているものはいったい何が起こったのか、何が何だかサッパリわからない…ということになってしまいます。

直接描かないにしろ、「不気味な長髪の女が訪ねてきて何となく対応して、普通の来客だと思っていたら実は怪物だった…」というイメージを思い描くから怖いのであって。

イメージが描けないと、怖さも感じることができないんですよ。

 

霊能者・逢坂(柴田理恵)がラーメン屋で腕を食いちぎられる…というシーンも同様です。

これは原作では喫茶店で、彼らは窓際の席に座っていて、秀樹と野崎が電話で呼び出され、店の公衆電話に出て席を空けている間に、窓の外にいた”ぼぎわん”によって逢坂は腕を食いちぎられた…という描写になっています。

何が起こったかが、イメージできるんですね。

ありえない怪奇現象だけれども、ホラー的な出来事として、きちんと理屈が通ってる。窓の向こうに近づいた怪物が、皆の意識を電話に向けている隙に、ガラス越しに人の腕を食いちぎる…という怪奇現象を、誰しも思い描くことができます。

映画では、混雑しているラーメン屋で、店のど真ん中の席についたまま携帯電話に出て、話している同じ席でいつの間にか逢坂が腕を食いちぎられている。何が起こったか、サッパリわからない

というか、作り手も「何が起きたのか」を別段深く考えないまま、そのシーンを描いてしまっているように見えます。

だから、ああお化けに興味がないんだなあ…と思うんですよね。

 

真琴の姉、強力な霊能者の琴子(松たか子)が登場して以降も、原作では”ぼぎわん”の正体を民俗学的に探っていくシーンがあるんだけど、映画ではきれいに省略されています。

昔の貧しい農村での子殺しの実態とか、悲しい行為を妖怪のせいにする「人と妖怪の持ちつ持たれつの関係」とか、面白いところではあるんだけど、尺に限りのある映画で省略されるのは、しょうがないとは思います。

ぼぎわんの名前の由来とかも、映画では触れられもしないですね。その辺は原作のお楽しみ…ということでいいとは、思うんですが。

 

ただやっぱり、全体に”ぼぎわん”に関する肉付けがとにかく足りないので、超自然的な怪物が確かに存在する…というリアリティは、非常に薄いものになってしまっています。

本来なら、そこを頑張らないといけないはずなんですよね、ホラー映画は。現実には存在しない怪物が、本当にいるかのように思わせてこそ、物語の中の恐怖がリアルに感じられるわけだから。

でも、そこをスパッと「興味ないから!」で切り捨ててしまってる。だから、ちょっとホラー映画としてはどうだろう?と感じるものになってしまっています。

④いよいよ盛り上がってきた!かと思えば…

クライマックスの対決に向けて、琴子が警視庁のえらい人に協力を要請し、マンションの住民を避難させて、大掛かりな儀式の舞台を組み、全国から呼び寄せた霊能者を総動員して、ぼぎわんとの対決に臨んでいく。

ここは、面白かったです。「シン・ゴジラ」みたいで。

原作ではただマンションの一室で人知れず琴子と野崎が除霊に臨むだけなんでね。映画的な盛り上がりになっていたと思います。

 

神主や坊主や巫女さんやイタコのみなさんが一斉にかかって、やってくる強力な化け物と対決する。何かが実際にやってくると、舞台は崩れ、人々は一人ずつ血を吐いて倒されていく…

盛り上がるシーンです。映画的クライマックスとして正解だったと思います。だからね。だからこそ!

最強の霊能者・琴子と、最強の怪物・ぼぎわんの真っ向対決を、原作と同じようにしっかりと描いて見せて欲しかったと思うんですよね。

ここまで盛り上げておいて、それがないなんて。

 

3部でしゅーっと原作から離れていくことで、「主題はそこじゃない」というのは確かに明示されてはいた、とは思います。

野崎がマンションに入ってみるとそこで秀樹の霊がブログを更新している。逢坂がそれを鎮める。…というシーンは完全に映画オリジナルです。こういう形の「ぼぎわんが化けているのではない霊。ただの幽霊」というのは原作の文脈にはないものなので、唐突ですね。

琴子が「千紗はブログに逃げ込んでいる」と言うのは、ぼぎわんにさらわれた原作とは違って、千紗は自ら秀樹がブログを更新する異世界に逃げ込んだ…というようなことなんでしょうか。だから、秀樹が成仏しちゃうと千紗はこの世界に戻ってきて、琴子に縛られて床に転がることになったのかな?

…よくわかりませんが。

 

この辺の映画オリジナルの展開、原作で示されてる文脈とは関係ないものになっているので、正直どういうことなんだかよくわからないです。

映画オリジナルの展開を作るのは別に構わないんだけど、それまで語ってきた「作品内ルール」に則ってやってもらわないと。いきなり「普通の幽霊も、ブログの世界に逃げ込むのもアリ。何でもアリ」にされちゃうと、話を追いきれない。

 

この改変は、「ぼぎわんを呼び込んでいたのは実は千紗だった。いちばん怖いのは子供の負の感情だった!」というようなテーマに持っていくために必要だったんだろうけれど、それを強引に入れ込むことで、ここまで紡いできた物語の流れがどっか行っちゃうんですよね。

お化けを呼んだのは津田だったって話はどこへ行くの?とか。

何より、千紗をどうするかで琴子と野崎&真琴がもめている間、ぼぎわんはすっかり忘れられ、そっちのけにされている、という。

いや、せっかく盛り上げたんだからさ。いちばん盛り上がるところを素直に描こうよ。

⑤ホラー映画を作るなら、ホラー映画を作ってほしい

いろいろ書いてますが、僕は別に、映画は原作に忠実でなくちゃならない!と言いたいわけではないです。

原作者が激怒したけど、映画としては傑作になった「シャイニング」のような例もあることですし。「ジョーズ」とかもそうですね。

 

ただ、思うのは…変えるなら、中途半端でなくきちんと変えればいいのに、ということなんですよね。

原作の中の「人の怖さ」の部分に興味を持って、そこを膨らませる映画にするのはアリだと思うのです。どうせ、原作そのままは映画の尺には入りきらないのだから。

でもそれならば、怪物の方の設定も原作とは変えて、映画のテーマに合った設定にしっかりと作り変える作業をすればいいのに…と思うのです。

どうせタイトルから変えてあるわけで、いっそのこと”ぼぎわん”が出てこなくてもいいわけで。

子育て世代の家族が抱える心の闇に巣食う怪物…というオリジナルの設定で、映画の中で納得いく形に作り込めばいい。

 

でも、なんか…そこはサボってある。原作そのまんまなんですよね。

例えば、秀樹の少年時代の回想で、ぼぎわんが玄関にやってくるシーン。原作での「怪物はおじいちゃんを呼びにきた」要素は切られているんだけど、なぜかおじいちゃんが寝ていて、意味ありげに映し出されるのは原作のままになっています。

であれば、映画の中でのこのシーンの意味はいったい何なんだろう…と思ってしまうのですが、別段何もない。特に何も、わからない。

いろんなシーンが、この調子なんですね。表面上は原作通りなんだけど、意味的な部分は切り捨てられているので、意味のわからない、物語の中での位置付けがよくわからないシーンになってしまってる。

なんでそうなるの?と問うてみると、「いやあ、怪物の細かい設定とかには興味ないんだよね。それより俺が描きたいのは、人間の心の闇であって…」なんてことを言い出す。

すべてにおいて、そんな感じ。

 

パンフレットに中島哲也監督のインタビューが載ってました。

「原作の小説を映画にしたいと思った理由は、登場人物が面白かったことに尽きます。この人たちを実写にしたらどうなるんだろう?と興味が湧きました。作品を選ぶときに、これまでと別のジャンルを撮りたいという気持ちはなくて、だから今回はホラー映画を作ったんだという感覚は、正直自分にはあんまりないんですよね。ただただ描きたいのはキャラクター、『人間』の面白さなんです。」

 

ホラー映画を作れよ!と思いました。

本当、この原作の中に人間の面白さを見出すのはもっともだと思うし、映画づくりのアプローチとしてまったく間違ってるわけでもないとは思うんだけど、一応、ホラー小説大賞をとったホラー小説を選んでいて、ホラー映画として売り出しているわけでさ。

人間の面白さに向き合うのと同じくらいの熱意で、ホラー要素にも向き合ってほしいものだと思いましたね。

子育てブログに向ける熱意と同じくらい、オムツ交換にも向き合ってほしい…みたいなね。