これって随分前にお伝えした記憶があるんですが、アーカイブスを引っ張り出しても記事が見つかりませんでした。よって、お復習いの意味合いで再うPします。

 

今更声高に言うのもなんなんですが、私は大の石野真子ファン。今年ファン歴44年を迎えました・・・と言っても、他の真子ファンからすれば私は赤子同様。凄い人は凄い。私の勝手な持論ですが、どのジャンルにしても「我こそが一番」と思っていても、上には上が必ずいます。

 

今は音楽活動よりも俳優活動の方が忙しい真子さんですが、よくファン仲間から「「○○」ってドラマ観た?」とか、「今度、「△△」って映画に出るみたいだよ」とか、聞かれたり情報提供されたりして、FCの公式HPでもドラマや映画の出演情報が配信されます。でもね、これを話すと皆、一様に「ウソでしょうっ!?」って言われるんですが、心の内は「こいつ、ホンモノのファンじゃ無いな」って思われているかもしれません。でも、ホントの話。

それが何かというと・・・。

 

「私こと、茂羽寝五八三は真子さん出演のドラマや映画を観ません」

 

特に平成以降はほぼほぼ観たことがありません。かつて何気に話題になった、「花男」もですし、最近だと大河ドラマ「光る君へ」も観てません。

最近だと、3年前の「孤独のグルメスペシャル」を観たくらい( “聖地巡礼” もした)。あとはさらに遡って「デカレンジャー」かな。

 

勿論、昭和の頃の “真子ドラ” は観ました。「熱愛一家LOVE」や東芝日曜劇場「およめちゃん」、さらには大河ドラマ「いのち」は観ましたが、後に渡辺徹氏と結婚するシーンがあって、「何で渡辺徹なんだよっ!!」って憤慨に憤慨した記憶があります。映画だと「九月の空」かな。12~13年前にリバイバル上映して、並行して行われたトークショーに真子さん本人も駆けつけましたが、芥川賞受賞作品の映画化ながら、鼻たれ小僧の頃も大人になった今も理解不能の内容でしたね。

このように、芸能活動復帰後は俳優活動がメインになり、結果的にドラマや映画でしか真子さんが見られなかったことから、必然的に観ていましたけど、何故か覚えていないんですが、ある時を境にパタッと観なくなったんですね。

私が「観ない」と自身に言い聞かせた位ですから、ある意味、予想を超えるショッキングなシーンだったんでしょうね、きっと。

「もしかしたら」の範疇ですが、例えば、人を殺めるシーンだとか、例えば、人を虐待するシーンだとか、例えば、濃厚なラブシーン、ベッドシーンといった濡れ場のシーンだとか、そんなところでしょうね。

 

真子さんに限らず、私はどうも、感情移入してしまうタイプらしく、上手く言葉に表現出来ませんが、「石野真子演じるA子」ではなくて、「石野真子は石野真子」的に観てしまいます。だから、「石野真子演じるA子が人を殺した」のではなくて、「殺したのは石野真子だ」と思い込むタイプ。最近は誰それのお母さん役が多い真子さんですけど、それだって本心はあまり好ましくありません。

実際に真子さん以外でそういうシーンが原因で敵視する俳優さんは数多いました。「赤い激突」の前田吟氏や、「スチュワーデス物語」の片平なぎさ氏などが代表例。今は普通、いや、やや好きに戻りましたけど、当時は子供心に「こいつ、根性悪いな・・」って思ったものです。ある意味、俳優さんの演技が群を抜いていた裏返しになるわけなんですが、それが元で真子さんを嫌いになりたくないから、敢えてドラマや映画を観ないようにしています。それが例え、ベビーフェイスの役でも。

 

真子さん本人もライヴか何かでMCとして語っていたことがありましたが、「石野真子が2時間ドラマに出ると必ず犯人だと判ってしまう」って言われたくらい、真子さんがドラマに出るとその当時は犯人役が多かったんですね。それを観ていたらきっと「オレ、ファン止めた」ってなったでしょうね。

 

それともう一つ。

真子さんがドラマや映画に出演する際は主役を引き立てる脇役に回ることが多く、主演作品は平成以降、激減しています。最近だと去年、生前葬を巡る家族の物語を描いた舞台が最後の主演作品になるのかな? 八推しの川島海荷氏が共演だったので観に行こうかなってマジで思いましたけどね。

でも、音楽活動になると、真子さんが主役ですし、スポットライトも真子さんを照らしています。

その思いが良いのか悪いのかは第三者の判断に委ねることになりますが、あくまで個人的な意見を言わせていただければ、真子さんは歌ってこそアイデンティティが光り輝くというもの。私は今後もその路線でいきますので、他の真子ファンの方々は是非とも、ドラマも映画も舞台も観て下さい。

 

画像は1961年12月10日に撮られたもの。まさに「歴史的」な1枚になります。

今はジリ貧で新車の導入すらままらない伊豆急行ですが、開業当初は「第二の黒船」と言われたほど、伊豆半島東側の革命でした。

 

伊豆半島最初の鉄道は、1898年に開業した豆相鉄道、今の伊豆箱根鉄道駿豆線で、その後1938年に現在のJR伊東線が開通していますが、国鉄(当時は鉄道省)としても伊東から先の延伸を考えていたはず。しかし、伊東から海岸線を伝って下田までは断崖絶壁が続き、戦時色も濃くなりつつあったので光明が見出せないまま時間だけが過ぎました。一方、駿豆線も延伸したい気持ちはあったのでしょうが、そのまま真っ直ぐ南下すれば天城峠が立ちはだかり、様々な部分で難工事が予想されたことから、現在に至るまで修善寺止まりとなっています。因みに下田には1918年から1936年まで馬車鉄道(南豆馬車鉄道)がありました。

 

このような背景から、「伊豆に鉄道を」というのが沿線住民の悲願であり、終戦後の混乱が落ち着き、伊豆半島に点在する温泉街にも活気が少しずつ戻ってきたことから、伊東以南の鉄道建設が各方面から叫ばれるようになります。

そんな中、1956年に当時の東京急行電鉄が子会社「伊東下田電鉄」を立ち上げ、伊東-下田間の鉄道建設免許を申請します。国鉄は事実上、伊東以南の鉄道建設に関しては撤退していたので、このまま認可が下りて工事着工が出来るだろうと高を括りました。そこにもう1社、鉄道建設に名乗りを上げた企業が現れました。豆相鉄道→駿豆鉄道を経た伊豆箱根鉄道でした。伊豆箱根鉄道は西武系列で、東急(五島)と西武(堤)は「箱根山戦争」と銘打たれた箱根を巡る壮絶な主導権争いを展開した、当時は犬猿の間柄。正式の「箱根山戦争」は小田急と西武の争いでしたが、かつての大東急時代からの仲で東急が小田急のバックに付いたことから、小田急そっちのけで東急と西武の争い的な図式になりました。また、長野県軽井沢でもこの両者は “仁義なき戦い” を繰り広げており、今回の伊豆半島を巡る一連の争いも泥沼化していくことになります。

 

西武と東急という曰く付きの企業が建設免許を申請したことに危惧したか、第三者を交えて両社の主張を聞く公聴会を実施。ただ、西武側の計画が東急側より具体性に欠ける部分が散見され、また沿線自治体の支持も得られなかったことから、1959年2月に運輸省は東急側に条件付きで免許を交付することを決定しました。

その条件とは・・・

 

① 国鉄が買収を申し出たら速やかに応じること。

② 建設に関しては国鉄と同規格にすること。

③ 国鉄からの列車乗り入れに応じること。

 

です。全部国鉄絡みなんですが、元々は国鉄が建設しようとしていた路線なので、東急はこれに対して素直に応じることにしました。

建設が決定すると、まず最初に用地買収からスタートします。まぁ、これは当たり前の事業なんですが、沿線住民は一部で反対があったものの、それを除けば割とあっさり用地買収に応じ、思いの外、早い段階でルートは決まりましたが、当初は白浜経由にする予定でした。ところが、ここでも西武側の嫌がらせがありました。経由予定地(今の下田プリンスホテルがある場所)に西武が土地を抑えてしまい、やむなく河津から内陸へ進むルートに変更する事態に。伊豆急最長の谷津トンネルはこのような理由で掘られた経緯がありますが、下田温泉の代表である蓮台寺を経由する産物が生まれています。

その蓮台寺で鍬入れ式、南伊東で起工式を実施したのが1960年1月でした。

 

東伊豆の海岸線を通るため、工事は難航を極めました。断崖絶壁を切り崩して地盤を整備する必要がありました。伊豆急線全線の半数がトンネルになっているのもそのためです。また、そのトンネルを掘れば掘ったで、伊豆のアイデンティティである温泉に異常が発生しました。地中に温泉脈や水源となる水脈があるので、これを分断して工事を進めたところ、「温泉が出なくなったじゃ」「温泉を冷ます水が出ねぇずら」といった苦情が相次ぎました。また、掘削途中で温泉脈に当たると温泉水と泥が吹き出し、落盤事故で死亡者が出るケースもありました。それでも2年という制約の中で、問題を克服して開業に漕ぎ着けたのは工事関係者の弛まぬ努力の賜物ですよね。

全線の軌道敷設、架線が張られたのが1961年10月、車両基地は伊豆高原駅に隣接して設置されました。

 

各地で路盤が完成して線路が敷かれ始める中、必要な車両の製造も急ピッチで進められていました。今までの鉄道車両には無い、鮮やかなハワイアンブルーの100系電車は系列会社の東急車輌製造(現、総合車両製作所横浜事業所)で製造されていました。ただ、ロールアウトしてもまだ伊豆急線は完成していないので、東急東横線内で試運転を実施していました。伊豆にやって来たのは開業間近の1961年10月末で、当時伊東駅構内にあった国鉄の車両基地(田町電車区伊東支区)に暫定的に留置、国鉄側との取り扱いに関する打ち合わせや整備を実施しました。

 

そして1961年12月9日、南伊東駅で竣工式、伊東駅で発車式を実施し、祝賀電車を走らせました。

沿線にはほぼほぼ全住民(?)が小旗を振って開通を祝いましたが、それだけ伊豆急の開通に大きな期待を寄せていたことが解ろうもの。この開通式にはあの石原裕次郎氏も駆けつけました。

正式な営業開始は翌12月10日。開業と同時に国鉄との相互直通運転を実施し、伊豆急車両が熱海まで(5往復)、国鉄車両が伊豆急下田まで乗り入れるようになります。なお、伊東下田電気鉄道は1961年2月に「伊豆急行株式会社」と商号が変更されています。「鉄道」あるいは「電鉄」といった名が付されない鉄道会社は当初、珍しい存在でした。

伊豆急が用意した車両は22両ですが、それだけでは利用ニーズに応えられなかったことから、しばらくの間、東急から応援車両を駆り出して急場を凌ぎました。旧い3600形から当時最新だった7000形がその要員だったのですが、それから数十年経ってまさか東急の8000系が主力になろうとは、この時は思いもしなかったでしょう。

 

その8000系に混じって伊豆急で稼働し始めたのが3000系。JR209系を譲り受けたもので、房総半島で運用されていた頃に改造されたトイレとセミクロスシートを活用しています。現在の伊豆急オリジナルの車両は「リゾート21」こと、2100系のみが辛うじて生き長らえていますが、塩害が仇になってどの車両も長命ではありませんでした。東急車輌が製造したということで、100系や1000系、2100系をステンレス車体にしようとは思わなかったんでしょうか? 2100系は車体の構造上、ステンレスにするのは難しいかもしれないけど、100系や1000系は可能だったと思います。

 

伊豆急の全盛は1970年代、そして「リゾート21」が走り始めた1980年代後半だけ。リゾートの多様性でその頃には戻れませんが、伊豆急はそれでも走り続けます。そしてあれだけ血生臭い戦いを繰り広げていた西武と東急は、本家の鉄道部門で相互直通運転を実施するなど、関係が柔和しちゃいました。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

RM LIBRARY34「伊豆急100形」 (ネコ・パブリッシング社 刊)

キャンブックス「伊豆急50年のあゆみ」 (JTBパブリッシング社 刊)

日本鉄道旅行地図帳第4号「関東2」 (新潮社 刊)

ウィキペディア(伊豆箱根鉄道、同駿豆線、伊豆急行、伊豆急行3000系、箱根山戦争、伊豆戦争など)

7月23日(火曜日) 晴れ

 

今日も厳しい暑さが続きます。

やっぱりお昼時が一番堪えますね。

 

さて先日、声優の増山江威子氏の訃報をお伝えしましたが、またまた昭和の名声優が冥界に旅立ってしまいました。

小原乃梨子氏、享年88。

我々の世代はやはり、「ドラえもん」ののび太でしょうね。そして「ヤッターマン」のドロンジョ(代表で)、「ど根性ガエル」のひろしの母親が3トップかな。「アルプスの少女ハイジ」のペーターや「未来少年コナン」のコナンは印象がない。

 

アニメ、原作問わず、「のび太的人生」って良いなと思ったことがありましたが、何か、時間が経つにつれて「のび太的人生」が鬱陶しくなりました。大人になった証しかなと思いましたけど、やっぱりのび太のような人生は最終的に自爆するような気がします。

 

そのアニメ「ドラえもん」、我々のドストライクは1979年から放映されたテレビ朝日版の第一期。それ以前に日本テレビで最初にアニメ化されましたが、それは「知る人ぞ知る」。その第一期の主立ったキャラクターで存命なのはドラえもんの大山のぶ代氏と源静香の野村道子氏の2人だけになったと記していますが、野比玉子(のび太のママ)の千々松幸子氏、そしてドラミの横沢啓子(現、よこざわけい子)氏はお元気です。っていうか、大変な失言なんですが、大山のぶ代氏って存命だったんだ・・・。闘病中というのは聞いていましたが、ジャイアンのたてかべ和也氏とスネ夫の肝付兼太氏、初代野比のび助(のび太のパパ)の加藤正之氏、セワシの太田淑子氏は既に冥界に旅立っています。

小原乃梨子氏は日テレ版で野比玉子を演じています。

 

「タイムボカンシリーズ」は、「ゼンダマン」くらいまでは観てました。

ドロンジョなどの声を聞く限り、妖艶さでは増山江威子氏に負けないなって思うんですが、そもそも「タイムボカンシリーズ」がドタバタギャグアニメなので、同じ妖艶でも「興奮」と「笑い」で両雄は良い意味で並び立ちません。

 

「ど根性ガエル」はひろしの母親を小原氏が務めてたんですね。

因みに主人公の一人(一匹)であるピョン吉は千々松幸子氏が声を担当していますので、テレ朝版「ドラえもん」が始まる前から “親子共演” が実現していたわけです。「ど根性ガエル」でひろしを演じた野沢雅子氏は日テレ版「ドラえもん」のドラえもんを演じています。

 

 

慎んで小原乃梨子氏のご冥福をお祈り致します・・・

 

 

 

今回の国鉄伝説アーカイブスは、今から8年前にうPしたNo.382をお届けします。

おおさか東線と関西本線(大和路線)で辛うじて生き長らえている201系。いつそのXデーが来るか気が気でないんですが、遠い東京だと、おいそれと「乗りに行こう」というのが出来ないもどかしさがあります。

 

そんな201系ですが、登場当時は「省エネ電車」ということで大々的にプレゼンした電車でもありました。201系は国鉄電車で初めてサイリスタ・チョッパ制御を実用化した車両として後世に語り継がれていますが、当時、サイリスタ・チョッパ制御の機器類が高価過ぎて、とてもじゃないけど103系の後継車両になり得ないと判断されまして、取り敢えず老朽化した101系を取り替える目的で、中央線快速と同緩行線に集中的に投入しました。京阪神緩行線にも投入されましたけど、これは「京阪神緩行線に201系を投入→同線の103系を捻出して関西本線等で活躍していた101系を取り替える」意味合いがありました。そういう意味では201系と101系は切っても切れない関係にあるわけですが、本格的な103系の後継車両は昭和60年の205系登場まで待たなければなりません。また、201系そのものも試作車で様々な試験を実施して、量産へのGOサインが出るまで2年かかりました。それまでは10両1本の貴重な存在でした。

 

それではどうぞ。

 

 

 

 

7月21日(日曜日) 晴れ

 

「暑い・・」

その言葉しか出ない今日この頃、皆さんはどのように暑さを凌いでいますか?

 

さて・・。

私が通勤でレジャーで毎日のように利用する西葛西駅周辺は何故か関西系のチェーン店が多く点在しています。勿論、関西の本流店が西葛西に支店を出したのではなく、家系ラーメンじゃ無いけど「似非」的店舗になるのは解っています。でも、なかなか関西に行けないので、こういう場所でお茶を濁すしかないので、その時だけは「関西に行ったつもり」で堪能しています。

 

「大阪王将」「串カツ田中」、そして「ぼてじゅう(ぼてじゅう食堂)」とある中で、最近西葛西に出店してちょっとだけ話題になった店があります。

 

 

「長田本庄軒」という神戸系の店になるのかな?

調べてみたら、神戸には2店舗しかなく、あとは岐阜、姫路、大阪(泉南市)、そして西葛西。以前は立川に出店していたようですが、立川は撤退し、西葛西で東京再上陸を果たしました。

そうそう、この店の親玉は讃岐うどんの「丸亀製麺」も手がけており、西葛西にもあります。

 

基本は焼きそば専門店のようで、そこに神戸名物の「ぼっかけ」を混ぜるのがこの店の特徴みたいですね。普通の吞み屋かと思ったらさにあらず、でした。

元々、ここには街中華の店があったんですが、いつの間にか閉店して、そこを活用してオープンしたんですが、先月訪れたら見事に行列が出来ていたので諦めました。

今回は手探りで入りました。

 

 

 

まずはこれも神戸名物になるであろう、土手焼き。

いわゆる「おつまみ」系がめっぽう少ないので、この土手焼きが唯一の「おつまみ」系になるのかな?

私は痛風持ちなので、ホルモン系は出来れば避けなければいけないのですが、やはり神戸を堪能する気分に浸るには食うしかないでしょう。

 

 

これは何だっけ・・・?

オム何とかです。

 

 

〆はモダン焼き(全部のせ)。

チーズは余計だったなぁ~。

一瞬、大阪のお好み焼きと焼きそばをミックスしたモダン焼きを連想したのですが、神戸のモダン焼きと大阪のモダン焼きとでは、見てくれが全然違いますね。

 

う~ん、表向きは美味かったけど、今後は行くことはないかな?

 

所有事業者:北陸鉄道(石川)

仕様・用途:都市間高速路線仕様(関越高速バスに充当)

登録番号:石川22 き ・・90

社番:18-077号車

配置:西部営業所

初年度登録:1988年

シャシー製造:日産ディーゼル工業

搭載機関:日産ディーゼルRE10型

車体架装:富士重工業伊勢崎

車体型式:富士重15型HD-Ⅱ

車両型式:P-DA67UE

車名:日産ディーゼルスペースウィング

撮影日:1989年10月1日(日曜日)

撮影場所:池袋・サンシャインシティ

 

 

これ、まだ温存していたんだ・・・。

ふそうと日野の組織率が高い北陸鉄道のバスにおいて、日産ディーゼルは意外な車種選択ですが、これは当時のバス事業者における “力関係” をまざまざと見せつけるものでした。

 

1980年代後半から昼行・夜行問わず新規路線の開業ラッシュで沸きに沸いた高速路線バス業界。北陸鉄道でも高速路線バスの参画に前向きで、1987年に名古屋鉄道(当時)との共同運行で名古屋-金沢間で運行を開始したのが最初とされています。その翌年に念願の東京進出を果たしますが、共同運行会社の西武バスに思わぬ条件を突きつけられます。大したことがないといえば大したことではないのですが、突きつけた条件とは「導入する車両を我々(西武)と同仕様にすべし」というもの。

 

関越高速バスは1985年に新潟線が開業していますが、プロデュースした西武バスは共同運行会社である新潟交通と越後交通にやはり「同じ車両で統一する」という条件を課し、日産ディーゼルのスペースウィングを導入させました。越後交通は知らんけど、新潟交通はどちらかというといすゞやふそうを中心としていた車種選択だったので、日デの導入には戸惑いを感じたと聞いたことがあります。後に富山地方鉄道(富山線)や頸城自動車(上越線)も西武の意向に従う形でスペースウィングを導入しました。北陸鉄道もご多分に漏れずスペースウィングを導入するのですが、名古屋便もスペースウィングだったので、特に違和感を感じることはありませんでした。

 

金沢便は後にJRバス関東も参画しますが、西武はJRに対しても同様の条件を突きつけます。しかし、JRバス関東は3軸車の導入については了承するものの、スペースウィングは導入せず、当時の東京営業所(→東京支店)の伝統に従ってエアロクィーン・Wを導入しました。国鉄バスの東京自動車営業所時代からふそうで統一していたため、そこは曲げられなかったようです。でも、昼行の中距離便では日産ディーゼルが導入されていたんですけどね。

いずれにしても、この当時の西武は、本筋の鉄道事業はともかく、バスとライオンズはめっぽう強かったです。

 

画像の18-077号車はそんな東京便開業時に採用したもので、最終的に3軸のスペースウィングは18台(1987年式7台、1988年式8台、1989年式3台)が導入されました。主に名古屋便、東京便、横浜便で使用されましたが、全部が全部なのかどうかは知らんけど、基本的には4列シートの昼夜兼用になります。ある媒体ではサブエンジン仕様と記されていましたが、DA67って直結冷房じゃなかったか?(その後の調査でサブエンジン冷房は特別仕様で、標準はエンジン直結式であることが判明。側面のルーバーの有無で判別可能)

関越高速バス金沢線は2001年に「金沢エクスプレス」という愛称を得るのですが、2007年6月に廃止されています。

 

今は訪れないので、どうなっているかは知らんけど、サンシャインシティの下はバス発着場があって、観光バスの待機場になっていました。関越高速バスはそこからではなくて、サンシャインシティの外にあるバス停が発着場でした。

 

 

【参考文献・引用】

バスラマインターナショナルCD-ROM復刻版No.17

BUSRAMA SPECIALNo.11「UDマークのバス達」

(いずれもぽると出版社 刊)

ウィキペディア(北陸鉄道、西武バス、金沢エクスプレスなど)

 

 

7月20日(土曜日) 晴れのち曇り

 

やっと休みです。

月曜日が祝日とあって、今週は4連勤だったんですが、後期高齢者の保険証配達などが重なってかなりキツかった1週間でした。

 

昨日の続き。

例のオリンピック代表選手の不祥事で、元バカ都知事の他にも様々な方面で擁護する向きのコメントが羅列していました。

あのね、昨日も申しましたけど、普通の19歳でも飲酒・喫煙は禁止されていますよね。当事者は未成年ですよね。しかも日の丸を背負っているんですよね。それを擁護するとは、あらゆる意味で世も末だわな。

そういう擁護発言を目にすると、未成年の飲酒・喫煙を肯定するとも捉えかねないので、結局は「バカな大人が・・・」ってことになるんですよ。

 

先週の火曜日、仕事を終えて西葛西駅の近くで夕飯を済ませ、時計を見ると8時半になろうとしていまして、面倒臭いからシータクで帰っちゃえとばかりに、駅からシータクを使いました。途中、コンビニに寄るため、その旨を伝えましたが、西葛西駅からそのコンビニまでは概ね800~1,000円かかります。で、「タクシードライバーも生活がかかっているから、1mでも余計に走らないと・・」という声が聞こえてきそうなんですが、敢えて “セコい” タクシードライバーになると、料金メーターが900円を指すと、急激にスピードダウンするんですね。そのコンビニの前に信号があるんだけど、青から黄色に変わった瞬間に、この時ばかりは「模範運転士」気取りで止まるし(黄色信号は基本的に「止まれ」ですからね)、コンビニの前でスローダウンするし、それで1,000円にするんです。

タクシードライバーの気持ちも解らなくはないですが、こん時も降りる際、思わず「セコッ!」って言っちゃいました。

逆にそういうのを気にせずに800~900円で乗せてくれるドライバーを私は「優良ドライバー」と認定します。

 

大相撲名古屋場所。

横綱、強いですね。今日も “くせ者” 宇良関を相手に多少苦戦したものの、落ち着いて退けて、休場明けとは思えないほどの快進撃。でも、調子の良い時の横綱はめっぽう強いですよ。だから横綱になれるんですよね。

その一方で相変わらずの大関陣の不甲斐なさ。下位力士相手にコロンコロン負けるようじゃ、横綱どころか大関の地位もヤバいのでは?

その中でやはり貴景勝関が心配ですね。首のケガは完治するのに長期戦になりますけど、そうなれば大関の地位どころか、もっと番付を下げてしまう。貴景勝関もピチピチの若さという齢でなくなっているので、勝ち越しはかなり厳しいものになると思います。

もっと心配なのが朝乃山関。膝のケガか何とか回復傾向にあると思ったら、もう片方の膝を取組中にやっちゃっいました。

また長期離脱が避けられない情勢になっちゃったようです。私も靱帯断裂は経験しているので、あの痛みはよく解るつもりです(今も古傷が痛みます)。

「長期離脱だと幕下転落は避けられない」と面白おかしく書き立てるマスコミを私は「非人道的」と形容しています。

 

今朝、某動画サイトを観ていたら、ホンモノかどうかは知らんけど、松田聖子氏が我らが “神” のデビュー曲である「狼なんか怖くない」を歌っている映像を見つけました。

何でも、デビュー前の聖子氏がデモテープとして吹き込んだものだそうなんですが、だから「ホンモノなの?」という疑惑が浮上します。確かに声を聞けば「あっ、松田聖子だ」となるんですけど、そのデモテープをレコード会社とかに売り込んだんですかねぇ~? 聖子氏のデビューのきっかけを知らないもんで・・・。

 

台風3号が発生したとニュースで報じていました。

先島諸島に近づいているとのことですが、梅雨明けしたということは、台風襲来の季節でもあります。

気をつけなきゃ・・・。

JRの事業用車両が俄に脚光を浴びています。

特にJR東日本では世代交代が急速に進み、機関車が牽引するバラスト輸送列車はE197系(GV-E197+GV-E196)という気動車を新たに製造して置き換えたり、甲種輸送や配給回送で使用していた機関車をE493系という牽引車で置き換えたりしていますが、どれも201系に似た顔つきをしています。また、ロングレール輸送ではJR東海キヤ97のOEM供給車(?)であるキヤE195を導入して、それまでの「ロンチキ」を置き換えました。バラスト輸送もロングレール輸送も国鉄時代の車両を使っていたので、また一つ、国鉄の名残が消えたことになります。

 

JRの事業用車もまた、奇天烈な顔貌をしていますけど、国鉄の事業用車両に比べればまだ洗練されている方だと思います。

荷物車(郵便、郵便荷物合造車含む)、検測車(広義)、救援車、教習車、牽引車etc・・様々あった事業用車両の中で、「これぞ奇天烈」と言える車両が配給車です。私鉄には「電動貨車」というカテゴリーがありますが、国鉄の配給車は電動貨車と捉えて差し支えないと思います。

今のJRでも「配給」という列車は存在しますが、国鉄時代の配給とは意味合いが少々異なっており、広く知られて撮り鉄の格好のターゲットになっているのが機関車が新製した車両を配備先へ送り込んだり、逆に老朽等で廃車した車両を工場へ送り込む列車を配給列車と呼ぶのが最近では一般的です。「それは甲種輸送じゃないの?」と思われるかも知れませんが、私も「甲種輸送と配給輸送ってどう違うんだろう?」って思ったクチです。雑駁すぎるくらい雑駁に言ってしまえば、自社内なら配給、他社の車両や他社線を介するなら甲種輸送で良いのかな?

 

さてそんな配給列車ですが、本来の意味合いは工場から車両基地へ部品や資材等を運ぶ列車を指し、車両が大きく抉られているのが特徴。屋根の付いた有蓋部分には雨に濡れては困るもの、屋根がない無蓋部分には雨に濡れても大丈夫なものや有蓋部分に入りきらない大きなものを積載します。つまり貨車の有蓋車と無蓋車と同じ使い方になります。現在ではそういった資材輸送はトラックに委ねられており、JR西日本に最後まで残っていた配給電車(クモル145+クル144)は令和3年に廃車されて、国鉄/JRの配給車両は消滅しています。因みに配給車両は電車と客車に存在し、気動車にはありませんでした。電車と違って客車の配給車には無蓋部分が無く、配給列車を仕立てる場合は貨車の無蓋車がその代役を務めることになります。

 

配給電車の代表系列はクモル23とクモル24、そしてクル29。

クモル23は両運転台、クモル24とクル29は片運転台となります。

種車の関係からそのバリエーションは豊富で、1両とて同じ顔を持つ車両が無いという説があります。

大多数が東京と大阪にいましたが、1両だけ中京圏に配備されていた配給電車がありました。

 

 

それが画像のクモル23050。

荷物電車のクモニ13027を昭和36年に改造した車両で、そのクモニ13027は木製のモハ10153を昭和28年に改造しています。

クモル23の大多数が正面3枚窓を採用しているのに対してクモル23050はHゴム支持の2枚窓を採用しているのが大きな特徴。しかも深く傾斜した正面窓なので、少数派だった当時のゲテモノ好きには堪らない車両だったとか。

クモル23は両運転台と先程お伝えしましたが、後位側は運転台のみというスタイルが一般的。でもこの050と010は後位側にも有蓋部分を持つ異色の車両になります。そういう意味ではクモル23の中では異端児でした。

 

昭和50年代に入って、旧型国電を改造した配給電車は新車のクモル145+クル144に置き換わる形で次々に廃車に追い込まれますが、050は他の配給電車が淘汰されているのを尻目に生き残り、気がつけば最後の旧型国電改造の配給電車になりました。

主な運用先は飯田線で、当時の豊橋機関区に配置されていました。そこと浜松工場とを用がある時に往復して資材運搬に使用されていた他、牽引車代用で使用されることも。廃車は昭和60年2月です。

 

画像は浜松工場の至近にある西浜松貨物駅で昭和59年に行われた撮影会での撮影と思われます。

次位には救援車(クモエ22?)、牽引車(クモヤ90?)が連なっています。そしてその隣には113系・・・じゃなくて、いわゆる「アコモ改造車」の62系。

 

ゲテモノでも妙な温かみがあるのも国鉄事業用車両の魅力なのかもしれません。その頃は当代きっての花形車両に気を取られていて全然気づかなかったけど。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアルNo.950 (電気車研究会社 刊)

復刻版旧型国電&国鉄客車ガイド (交通新聞社 刊)

ウィキペディア(配給列車、配給車、西浜松駅など)

 

 

 

7月19日(金曜日) 晴れ

 

関東地方は昨日、梅雨が明けたそうです。もっとも、梅雨に入ったことすら知らなかったですけどね。

 

巷では、パリオリンピックに沸き立っていますが、ここに来て、代表選手の不祥事が相次いでいますよね。

サッカーの日本代表選手は性犯罪でパクられたかと思ったら、今度は体操選手の飲酒・喫煙問題が浮上し、オリンピックの日本代表を辞退するところまでいっちゃいました。

体操選手はまだ未成年ということで、様々な意見がある中でその処遇は当然のことだと思いますが、ある元東京都知事はその重大な案件を「たかが」「些細なこと」で片付けようとしています。

 

普通の、その辺にいる人間なら未成年で飲酒・喫煙をしても「若気の至り」「たかが」「些細なこと」で片付けられるかもしれませんが、問題を引き起こした人は仮にもオリンピックの日本代表選手です。否が応でも世間の注目を集めます。

っていうか、若気の至りであろうと何であろうと、「飲酒・喫煙は20歳になってから」という法律があるでしょう。都知事になったおっさんがその事を知らない・・わけないですよね。オリンピックじゃないけど、過去にも未成年が飲酒・喫煙で問題視されたケースは数多あります。今回だけ「些細なこと」で済ますのか?

こんなバカな大人がいるから、世の中「なあなあ」で片付けられてしまうし、ダメなことを「ダメ」と言えない社会になってしまっている。まぁ、都知事時代もバカ丸出しでしたけどね。

 

さらに掘り返せば、「大人の基準」って何なの? に辿り着きますよね。

国が定めたことだけど、「飲酒・喫煙は20歳になってから」、でも「選挙権は18歳から」という訳の分からない論理が今回の事態を招いたといっても過言ではないんですよね。これも「バカな大人が・・」の論理に繋がります。

 

敢えて問題を引き起こした体操選手に言いたい。

「付き合う仲間を選びなさい」

って。

古臭い論理だけど、悪い奴と付き合えば性根も悪くなりますよ。そういうもんです。

日本テレビの「24時間テレビ」で恒例になっているチャリティーマラソン。

弊愚ブログでは事ある度に「止めなよ」って警鐘を鳴らしてきたつもりだけど、性懲りも無く今年もやるようで、何を考えているのか・・・?

毎年「24時間テレビ」は8月末にやっているようだけど、今の日本の気象状況を考えた時、8月末はまだクソ暑いし湿気もハンパない。その劣悪な状況の中で “視聴率稼ぎ” の為に走らせるなんて、常軌を逸しているとしか思えない。

3年前の東京オリンピックの時もマラソンの開催場所をわざわざ東京と無縁の札幌に変えているのに、それだけ東京やその周辺で走るのは危険と判断したからでしょう。

そんなの観ても誰も感動はしないし、むしろ、日本テレビの非人道的な番組構成を非難すべきと思うんだけど、そこは誰も何も言わないんだね。