『アバター』が公開されたのは去年でしたかね。ずいぶん話題になりましたね。やっとレンタルで観ました。始めDVDをカウンターに持って行き借りたのですがブルーレイディスクで出ているのに気付き換えました。作品は充分楽しめましたアクションや人間ドラマも。しかし人間と自然の関係とか人間の欲望と自然の開発とか自然の破壊とかについて考えさせられた。先住民への侵略や強奪や支配など。地球の自然は壊滅し、惑星パンドラへと開発の手を伸ばしたのである。それはヨーロッパと新大陸でも日本と中国でもいくらでも読み変えは可能だ。アメリカとイスラム世界もそうかもしれない。こんな強烈な自国批判とも言える映画が作れるところがアメリカの凄さだとも思う。しかしこの映画も強力な商品として地球を駆け巡りアメリカが儲かるわけだが。資本主義批判が資本主義商品として流通してしまうという。世にも奇妙な物語状態である。この奇っ怪な鏡の部屋を脱出するにはどうしたらいいのか。今ラジオのNHK第二でマルクス番組がやっているので聴きながら考えたいものである。
去年亡くなった清水アリカさんが翻訳した、『トルネイド・アレイ』を読んだ。ウィリアムズ・バロウズの短篇集であり、最初の三作品を読んだ。1992年に発行された本である。弟が近所のブックオフで買ったものらしい。バロウズはずっと関心はあったがほとんど読んでいない。10年くらい前に笹塚の近くの図書館で読んだ「ゴキブリホイホイ」はおもしろかったが。作品はあまり読まず、「カットアップ」などの方法などに興味があった。いつか読みたいと思っていたけど。『裸のランチ』とか始めの所は読んだけど。でもなかなか「カットアップ」っぽい所が出てこない。「カットアップ」などバロウズの事は椹木野衣さんの『シミュレーショニズム』とかで知ったのか。椹木さんの本はとても好きでほとんど持っているが。『トルネイド・アレイ』も「カットアップ」っぽい所は出てこない感じだ。今の所。しかし非常におもしろい。そして中原昌也への影響を濃厚に感じた。中原さんの小説は非常に好きでほとんど読んでいる。あらゆる場所に花束が…以外は。ロブ=グリエの「ニューヨーク革命計画」の冒頭数行を読んだ時も中原さんの小説に似たものを感じた。多分中原さんはロブ=グリエやバロウズの影響をかなり受けているのだろう。ベケットとかもだろうか。影響というか、後継者か。同じ道の先を行くというか。しかし私自身も『トルネイド・アレイ』を発見した事は大変に嬉しい事である。楽しみに読んで行きたいものである。「直接性」について。清水アリカさんがあとがきで「バロウズの小説に描写は無い。風景についての描写は存在しない。小説それ自体が風景であり、風景それ自体が小説なのである。」と書いている。これはベケットがジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』について語ったことを連想させる。「ここにおいては形式はすなわち内容であり、内容は形式である…ジョイスの作品はなにものかについて書かれたものではない。そのなにものかそれ自体なのだ」。風景それ自体、対象それ自体、とはどのような事なのであろうか。例えば「ウサギ」と「ウサギの絵」、「ウサギ」と「ウサギのイメージ」、があると、「ウサギそれ自体」と「ウサギのイメージ」の違い。それはウサギと「自分」の間に何らかの媒介物、距離、があるかどうか。その媒介物が「思考」だったり「知性」だったりするのか。それら「媒介」なしで「対象」に触れる事。触れている事。「直接性」。「それがそれ自体としてそこにある小説」。
『シャッターアイランド』を観ました。先日観た『インセプション』同様夢の話と言えなくもない。途中まで確固たる現実だと確信していた世界が「妄想の世界」へと変容し別の現実の世界が反転するように出現する。『ビューティフルマインド』や『ファイトクラブ』もこういう話だった。『世にも奇妙な物語』でもジュディ・オング主演の回でこのような話があった。「よくある話」だからつまらなかったという訳ではなく、なかなかおもしろかった。『インセプション』では『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』を連想したが、『シャッターアイランド』ではうる星やつらのTVシリーズの「そして誰もいなくなったっちゃ」を連想した。これはアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』のパロディーだ。最後「島の灯台」で「真実を知った」あたるが「廃人」になる…。ただ最後の最後であたるは「日常」に唐突に軽やかに回帰するのである。「精神の迷宮」の中で「廃人」になる主人公。うる星やつらの場合突然爆発的に平凡に回帰するのだ。それはあたるの「欲望」が契機になっていたと思うが。トラウマと精神分析の閉域を突破するあたるの多方向的な欲望の爆発。そこでは「すべての美女」が等しく欲望の対象になる。「ラム」は中心ならざる中心、不断に電撃的切断を強要する「リセットボタン」的中心なのである。その非建築的な砂漠的中心としての「ラム」。徹底的に電撃的な「非在の存在」としての「ラム」。その「嫉妬の電気ショック」で「正気」に戻るあたるは「あらためてトライ」「性懲りもなくトライ」し続けるのである。その「正気」は「安定した狂気」の別名であり、精神治療の電気ショックと反対のベクトルに働くのだ。いや、しかし精神治療の電気ショックによる精神の安定化が「正常」への回帰であるといえるであろうか。その静かな風景は「安定した狂気」のそれ、「リセットされ純粋化した狂気」のそれかもしれない。『シャッターアイランド』の監督はマーチン・スコセッシである。スコセッシ流の「映像美」がところどころに挿入される。例えばラストシーンの「光の差す緑の庭」それは徹底的に現実的、日常的でありながら奇妙な幻想性を帯びている。それは『救命士』で夜の花火をバックにベランダから救出される男のシーンにも感じたものだ。徹底的な日常、徹底的な現実が同時に奇妙な幻想性、非日常性を帯びて観る者に迫る。その現実の瞬間は余りにも充実した生の実感のことなのである。