日曜美術館が「画家が二十歳の頃」というような特集でおもしろかった。大竹伸朗や会田誠が登場。二十歳の頃思い悩み自分の作風を必死で見つけ出す。ある画家は自信満々でパリに渡るが有名な画家に「アカデミズム!誰かの真似に過ぎない!」と絵を酷評され落ち込む。それでもその画家の元へ通い自分のスタイルを見つけ出す。ある画家は大失恋の後山野を二ヶ月間さ迷いその後画風が変わる。誰かに似ていること、誰かの絵に似ていること、それはそんなに忌み嫌われる事であろうか。例えばロックやポップミュージック。ビートルズに似ているとかローリングストーンズに似ているとか言ったらむしろ褒め言葉に聞こえる。日本でもミスチルみたいとかビーズみたいというと事務所やレコード会社からすれば「前例」として「売れやすさ」や「売りやすさ」ということになるかもしれない。聴く方としても「聞きやすさ」や「わかりやすさ」や「とっつきやすさ」や「耳馴染みがいい」という事になるかもしれない。芸能人ではどうか。モデルやアイドルや俳優に顔が似ていた場合。日常世界ではモテるだろう。芸能界でも「その路線」ということで人気が出やすいかもしれない。しかしライバル的存在ということで圧力がかかったりあまりにもそっくりでも何かと不都合だったりするのだろうか。昔どこかで日本では芸能人の誰々みたいと言われると喜ぶけど海外では自分のオリジナリティを大切にするので嫌がられると読んだ事がある。「誰かみたいになりたい」「誰かみたいな作品を作りたい」。それは自然な感情で否定すべき事でもないだろう。そこからそこへ向かって歩き出す。しかし何処かで壁にぶつかる。「自分の絵」「自分の作品」「自分のオリジナリティ」。それを見つけ出す、掴み取るのは大変な作業なのかもしれない。「自分のやりたい事」「自分の描きたい絵」が結果的に何処かの巨匠や潮流や時流と一致してしまう事もあるだろう。「顧客のニーズ」や「流行を読む」と言って見事にヒットを生む事もあるかもしれない。「アカデミズム!自分の絵を描け!」と罵倒されたその絵も作者にとっては純粋に描きたい絵だったのかもしれず、その絵が好みじゃなかったから酷評したのかもしれない。しかし確かに「ただ上手い絵」とか「先生や誰かに褒められようとしている絵」は「自分がない」のかもしれない。それは売れる売れないとは別の話だが。しかし「自分の作風を掴む」というのは大きな充足感を作家にもたらすだろう。
若い頃よりも感じるようになったのではないか。昔は「山の緑」などといっても興味が無かった気がする。花を見て美しいとか思ったが。しかしこの数年花を見たり野菜を見たり雲を見たりして非常に感動している。野菜などもとても可愛らしいものである。野菜の絵を描いたりするのもこんな気持ちが原点にあるのかもしれない。先日早朝南西の空にまるでアニメかなにかのように冗談のように大きくて太い綺麗な虹を見た。部屋のカーペットに寝転んで録画番組の編集をしていた所、ふと窓の外を見た瞳に、木々と軒の間に太い虹の根本部分が見えたのである。慌てて先日超ゲリラ豪雨の最中に近所のケーズデンキで6900円ぐらいで弟が購入したデジカメを持って弟のサンダルを履いて表へ出た。蚊に短パンの足をかなり刺されながら写真を撮った。なかなかじっくり眺める事も出来ずに何枚も撮った。しかし肉眼で見るのと違いデジカメではぼやけてしまうようだ。ピントの問題だろうか。しかし虹は鮮烈だった。先月ぐらいにはすごい雲を見た。あれは入道雲か。夕焼けの加減なのか異様な様々な色になった化け物のような雲。山脈のような火山の爆発の煙のような爆弾の煙のような。ごつごつした岩のような雲の山が幾つもそびえたっていた。魔王の宮殿のような様相。不気味な恐ろしい雲のオブジェ。しかし20分後ぐらいには夕闇の中不吉な色合いは灰色の中に溶けてしまっていたのだ。黄土色やピンク色や白や黒のあの雲の山。グロテスク極まりないあの雲。しかしそれは紛れも無い感動の体験だったのである。あんな雲に再び会いたいものである。出会うといえばUFOを一度見た事がある。家の畑で2006年の11月か12月ぐらいか。4つぐらいの光がくるくると絡まるように回りながらその塊が移動していた。立ち位置を変えようと一瞬目を離したら消えていた。まあ、そんな事もありました。話は変わり「世界コスプレサミット」があった。今日もあるみたい。昨日は大須でのパレードが生中継されていた。愛知県知事がデスラー総統のコスプレをしていた。オランダ代表の女性が非常に美人だった。日本人でラムと弁天に扮していた娘たちもとても可愛かった。外国人女性がアニメやゲームのコスプレをするのって…いいねえ!!!!!!
『グラン・トリノ』を観た。イーストウッドの。何年か前に『ミリオンダラー・ベイビー』を観たけど。どちらも凄い。人生の苦みがズバリと描かれているところが似ているのかな。家族の断絶みたいなのとか。ゆえに真の友情とか絆が引き立つ感じなのかな。こまごまとしたエヒソードが無駄なく効果的に積み上げられ物語を引き立てる。こういうことってあるよな、とかそうだよなとかいちいち納得させられる。私の作る作品がどこか現実逃避的で空想的なものの連鎖ともいえるような特徴を持つのと違いこういうのをリアリズムというのかな。しかし重厚な、とか仰々しい、とか計算された、といった印象は受けない。何か冷徹な客観的な研ぎ澄まされた現実を見詰める眼差しだ。北野武の映画を思わせるものがあるかもしれない。例えば私の作品には「人生の苦み」は出てこない。夢や理想や快楽を徹底的に突き詰めた純度の高い麻薬のような作品を目指しているのかもしれない。だから自分の嫌いなものは登場しないのである。しかし現実は違う。いかんともしがたい、ままならない、どうしようもない事にみちあふれている。それに寄り添いきっちりと描きその上で感動的な美しい物語に仕上げている。トラウマや人生の苦みや社会の矛盾など。私の作品には出てこない。私の作品にはストーリーが無いのである。むしろストーリーを最大最悪の敵と見做し反対方向へどれだけ跳べるかを競っているような代物なのである。それはそれでいいだろう。「普通の映画」という観念では理解されにくいかもしれないが、絵画や美術や音楽や文学の辿った歴史などから考えるとそういうのもありだとはおもう。しかし21世紀の現在何が「最先端」なのかは知らないが。しかしそれは好みの問題かもしれない。自分が最高だと思うものを追求して行くしかない。別にストーリーのあるものすべてが嫌いなわけでもない。論理や理性も大切だと思う。そして「無意味」や「不条理」への到達にも「思考」を使用している。しかし到達したその場所は「非思考」的である。この「理性」と「非理性」、「合理」と「非合理」は私の中でも大きな問題であり続けている。それは哲学史的にはデカルトとパスカルとか、ニーチェではアポロンとディオニュソスとか、フロイトなら意識と無意識とかになるのであろうか。アンフォルメルを見出だした美術批評家タピエは我々が受け継ぐべき遺産はニーチェとダダだけだと言ったという。そこからポロックやバロウズに至る線。