食べる食べられるというものがある。弱肉強食というやつだ。例えば自然界で毛虫が何かに食べられるとする。毛虫は「当然」嫌がり抵抗するだろう。そこに「悲劇」を見出だし、一種の「理想世界」として、「毛虫が自発的に食べられる事を望む世界」を想像してみる。毛虫たちが我先にと捕食者の口の中へと喜び勇んで飛び込んでいくイメージだ。すると毛虫は一日で絶滅し、餌を失った捕食者も数日で絶滅するだろう。すると「いろとりどりの生命の世界」のような世界が消滅してしまうのだ。椎名林檎の歌詞で「太陽、酸素、水、星、それで十分だったはずでしょ」というようなものがあったと思うが。繰り広げられる生命の世界が美しい価値あるものかどうかは置いておいて、毛虫など「食われる側」は必死で嫌がり逃げ抵抗し戦うことでその世界は保たれているのである。それは地上から悲劇がなくならない。悲しみがなくならない。不幸がなくならない。痛みがなくならない。という事態と関係があるのであろうか。例えば『キン肉マン』における「悪魔将軍」は、痛みを感じない身体を持つという。作品中ではそれが「強さの秘密」といった感じで描かれていたと思うが実際に「痛みを感じない」というのは恐ろしいことらしい。怪我や体の不調に気づかないからだ。つまり体から危険信号が出ないということ。これだと知らないうちにいつの間にか足の指がなくなっていたり、知らぬ間に大量に出血していたり熱湯を飲み続けたり指が折れても殴り続けたりということになってしまう。痛みや苦しみが警告として意味を持ち、生命体の保持に役立っているのだ。また、夢や欲望が無際限に叶い続ける世界はどうだろう。勿論Aさんの夢が叶うことはBさんの夢が破れることだったりする。宇多田ヒカルの歌詞で「誰かの願いが叶う頃、誰かが泣いている」というようなのがあったと思うが。しかしそれが一種のバーチャルリアリティ的なものか何かで万人の夢が矛盾なくすべて叶う世界、が構築されていると仮定してみよう。すると人間の精神や肉体には何が起こるのだろうか。例えば食事なら何をどれだけ食べても太らないとか病気にならないと世界が設計されていて良い。何億年でも生きれるし歳もとらずすべての恋は瞬時に叶い贔屓のチームは一敗もせず、一敗どころか三振もせずヒットを打ち続け、いや、ホームランを打ち続け、しかもそれは自分自身で…という世界。つまり「挫折」が一掃された世界。「負け」が無い。「勝ち」だけがある世界
教育テレビで仏陀の番組がやっていた。『100分で名著』というシリーズで二回目らしい。ニーチェの時は観ていた。前回は『恨み』がテーマだったらしい。恨みや憎しみは本人を幸せにしないという話だったらしい。今回は『執着』だった。執着とは「蜘蛛が自分の作った糸の上しか歩けないようなもので執着を捨てれば自由になれる」と例えられていた。執着。こだわり。欲望。貪欲。「自分の息子」「自分の財産」それを自分の所有物だと思い、思い通りにしようとする所に執着が生まれ、思い通りにならないと苦しくなると。恋愛でもそうだろう。所有物だと思い自由にしようとする所に苦しみが生まれる。もともと自分とは別の存在だと思えば「期待」「執着」もなく楽になるのかもしれない。自分の体や命もそうかもしれない。自分の所有物だと思うから病気になったりすると苦しんだり絶望したりするが、自分の所有物でなく、どこからか預かった物、授かった物と考えればどうなろうが受け入れられるかもしれない。しかし痛みは痛みであり喉が渇けば水が欲しいし「生きたい」という欲望は強烈だ。「死にたい」という欲望もあるだろうが。番組では『執着』と『意思』が分けられていた。執着を捨てると言ってもすべての意欲を捨てさり無になるわけではない。それがあると苦しくなる「執着」を捨てるのだと。しかしどんな夢や希望、意欲や意思にも絶望や失望の側面があるのではないか。負けて悔しくない勝負、破れて悲しくない夢は果たして本当の勝負や夢と言えるのだろうか。大きな夢には大きな絶望がいつもついて廻る気がする。しかし「期待の基準」を状況に合わせて自己防衛的に変化させるというのはあるかもしれない。今日はねトびスペシャルで峯岸みなみが「負ける勝負に疲れた」と言っていたが、「優勝しなくちゃ意味が無い」とか「金メダルでなきゃ意味が無い」という期待の基準と「参加する事に意味がある」とか「生きてるだけでまるもうけ」とか「ナンバーワンよりオンリーワン」という期待の基準の、価値の基準の切り替え。どちらが正しいわけでもない。生きるために自分に都合が良いように使い分ければいいのかもしれない。しかしどれだけ負けを繰り返しても絶望を積み重ねても諦められないものがあったりする。それを愚かな執着とも言えるし、譲れない夢とも言える。どれだけ破れても、破れれば破れるほどに粘りを増すような「夢」。それが『執着』なのか『意思』なのかよくわからない。
「誰にも似ていない」「何にも似ていない」と言っても「伝承の線」が切れているだけで一万年前にはそんな人は沢山いたかもしれない。「オリジナリティ」や「自分らしさ」とは何であろうか。「自分にしか出来ない」「自分以外いない」。確かにそれは「希少価値」だろう。しかし「自分らしく咲いた花」が、「普通の花」であったり、「何処かで見た花」に似ていたりという事はあるだろう。すると「自分らしさ」のために「自分らしさ」を歪めるという奇妙な事態にもなりかねない。「自分らしさ」「オリジナリティ」「個性」「希少価値」を追求し主張する人々の群れ。そんなことにもなりかねない。「自然に咲いた花」、「その人らしい花」、例えそれが珍しくなくどこにでもあるありふれた目立たない普通の花でもそれが素晴らしいのかもしれない。しかしそれが「自分」なのかそれとも「流されている自分」なのか、という見極めは難しいのかもしれない。自分と直に触れ合う事、本当の自分を見出だす事「自分探し」。自分の欲望探し。「自分の本当にやりたい事」「自分の本当に好きなもの」それを見つけるのはとても難しいのかもしれない。長い自分との対話、自問自答が必要なのかもしれない。自分の魂に問い続ける。自分の魂を見詰め続ける、孤独な時間。そこに生まれてくる何か。鼓動。波動。波長。それが自分と全宇宙を貫きひとつのリズムを奏で始める。もはや誰かに似ているとか何かに似ているとか自分らしいとか関係なくなる。そんな境地、事態。「自分らしさの檻の中でもがいてるなら僕だってそう、誰だってそうなんだ」というミスチルの歌詞があったが。人は何かになりたがる。誰かみたいになりたがる。人は自分を探す。本当の自分を追い求める。何者でもない自分を許せない。何者かでありたいと願わずにいられない。しかし何者でもない人がいるだろうか。君も私もすでに「何者か」なのであり、それはそのままで素晴らしいことなのではないか?