教育テレビで仏陀の番組がやっていた。『100分で名著』というシリーズで二回目らしい。ニーチェの時は観ていた。前回は『恨み』がテーマだったらしい。恨みや憎しみは本人を幸せにしないという話だったらしい。今回は『執着』だった。執着とは「蜘蛛が自分の作った糸の上しか歩けないようなもので執着を捨てれば自由になれる」と例えられていた。執着。こだわり。欲望。貪欲。「自分の息子」「自分の財産」それを自分の所有物だと思い、思い通りにしようとする所に執着が生まれ、思い通りにならないと苦しくなると。恋愛でもそうだろう。所有物だと思い自由にしようとする所に苦しみが生まれる。もともと自分とは別の存在だと思えば「期待」「執着」もなく楽になるのかもしれない。自分の体や命もそうかもしれない。自分の所有物だと思うから病気になったりすると苦しんだり絶望したりするが、自分の所有物でなく、どこからか預かった物、授かった物と考えればどうなろうが受け入れられるかもしれない。しかし痛みは痛みであり喉が渇けば水が欲しいし「生きたい」という欲望は強烈だ。「死にたい」という欲望もあるだろうが。番組では『執着』と『意思』が分けられていた。執着を捨てると言ってもすべての意欲を捨てさり無になるわけではない。それがあると苦しくなる「執着」を捨てるのだと。しかしどんな夢や希望、意欲や意思にも絶望や失望の側面があるのではないか。負けて悔しくない勝負、破れて悲しくない夢は果たして本当の勝負や夢と言えるのだろうか。大きな夢には大きな絶望がいつもついて廻る気がする。しかし「期待の基準」を状況に合わせて自己防衛的に変化させるというのはあるかもしれない。今日はねトびスペシャルで峯岸みなみが「負ける勝負に疲れた」と言っていたが、「優勝しなくちゃ意味が無い」とか「金メダルでなきゃ意味が無い」という期待の基準と「参加する事に意味がある」とか「生きてるだけでまるもうけ」とか「ナンバーワンよりオンリーワン」という期待の基準の、価値の基準の切り替え。どちらが正しいわけでもない。生きるために自分に都合が良いように使い分ければいいのかもしれない。しかしどれだけ負けを繰り返しても絶望を積み重ねても諦められないものがあったりする。それを愚かな執着とも言えるし、譲れない夢とも言える。どれだけ破れても、破れれば破れるほどに粘りを増すような「夢」。それが『執着』なのか『意思』なのかよくわからない。